<9・3論評>

    戦争国家への演習拡大策す

 九月三日、防災に名を借りた自衛隊の治安出動演習が、首都のど真中で展開された。その規模は、自衛隊員七千百人、車両千九百台、航空機百二〇機、艦船二十二隻。地上に装甲車が進出し、上空に対戦車攻撃用ヘリと兵員を満載した輸送ヘリとが編隊飛行をするという様相であった。
 ある都庁職員が報道関係者に「本当はわれわれが中心の訓練なんだけど、自衛隊が仕切っているみたいだ」と愚痴を漏らしていたそうだが、それは、都の職員も勘違いさせられていたということでしかない。事実は、自衛隊の治安出動演習の為に、都知事の石原が場所を提供したということなのである。実際東京都としての防災訓練は、例年通り九月一日に、「七都道府県市防災訓練」として実施され、終わっているのだ。現場での都の職員の役割は、場所の提供者としてのそれでしかなく、石原も視察と突出発言で悦に入っていただけである。実際に治安出動演習の指揮は、防衛庁の中央指揮所で行われた。首相以下関係閣僚が、ここに移動している。
 自衛隊のこの治安出動演習の強行は、昨年の周辺事態法、国旗・国家法、組対法の制定にみられる米帝指揮下の共同作戦体制構築という脈絡の中にある。石原は、実際の演習の指揮者ではないが、政治的にその実現をお膳立てしてきた。今回の演習中にも、自衛隊を前に、突出してその政治的意味を明らかにし、国家主義の復権を喧伝して回った。曰く、「国家を守る大事な機能を自覚し演習に励んでいただきたい」「想定されるかもしれない外国からの侵犯に対しても、まず自らの力で自分を守ると言う気概を持たなければ誰も本気で手を貸してくれない」と。まさにそこには、民衆の視点などかけらも無い。在日・滞日の「外国人」を敵視する立場が鮮明である。三宅島の人々も眼中になく、「防災」という名目さえ完全に消えているのである。
 このように今回の治安出動演習は、石原の思いつきで実施された訳ではなく、国家的に計画され、戦争の出来る国家への政治的転回の脈絡の中で実施された。政府にとって、これは今回限りのものではなく、突破口なのである。石原は既に、この治安出動演習を「最初は小学生レベルから始めて毎年積み上げていく」と、拡大方針を明らかにしている。そして、この演習中に石原が、他の大都市での同様の演習を提案し、森首相が「全国に広げたい」と応答して見せている。政府の側からの政治的攻勢が強まるだろう。
 とはいえ、戦略的に見るならば、政府の側は決して強い立場にある訳ではない。
 第一に、朝鮮半島の南北首脳会談を契機に東アジアにおける冷戦構造が終焉しようとしている中では、治安出動演習をその不可欠の環とする日米共同の戦争準備は、その侵略的・抑圧的性格を浮き立たせ、国際的・国内的に孤立する。
 第二に、治安出動演習は、まさに民衆弾圧演習であるから、防災に名を借りようとその敵対的性格が露出してこざるを得ない。「防災」の欺瞞性も露呈する。
 第三に、在日・滞日「外国人」との共生は、動かしがたい現実となっている。民衆の間では、不信と対立と伴いつつ、積極的にか消極的にかは別にして、現実を受け入れていく過程は不可避に進行する。支配階級の側も、いまや国際反革命同盟体制下の資本の多国籍展開で生活していることから、「外国人」に対する差別・抑圧構造を確保しつつ、世界市場の分断をもたらすような民族排外主義の突出は抑制しなければならなくなっている。
 第四は、阪神・淡路大震災を契機に、国家中心の防災・救援の問題性と民衆自身による防災・救援の威力が自覚されてきている。
 われわれは、こうした戦略的有利性を能動的に活かし、在日・滞日「外国人」に対する不信の煽動をテコに拡大されていこうとしている自衛隊の治安出動演習と対決していかねばならない。今回のたたかいで、その第一歩が画されたと言ってよいだろう。