与党の「公共事業見直し」はマヤカシ

地方自治体に財政権限を移譲し住民自治を

                                          [堀込 純一]

はじめに

依然として姑息な政治がつづいている。八月二十八日、自公保の与党が決定した「公共事業見直し」なるものである。さる総選挙で、無駄な公共事業はやめるべきだという野党の主張に人民がこたえ、自民党の都市部の議員がバタバタと落選し、何らかの対応をせざるを得ない事態に自民党は追い込まれた。とくに自民党の都市部議員の危機感は相当なものである。だが、自民党執行部などが出した対策は、その場しのぎの、マヤカシの「公共事業見直し」でしかなく、まったく有権者をみくびったものでしかない。従来の政治手法の域をでない、一時的な糊塗策だからである。

 

<変わらぬ利益誘導型の政治>

与党三党が合意した中止勧告の公共事業は、合計二三三件で、そのうち今回公表されたものは、図にある二四事業である。与党による原則中止の基準は、以下の四つである。 事業採択後、五年以上経過しても未着工のもの、 完成予定年度から、二十年以上経過しても未完成のもの、 政府の事業再評価などによって休止しているもの、 実施計画調査に着手後、十年以上経過しても事業費が未計上のもの─である。

 この二三三件の事業には、これまで五千六八三億円を投資しているが、すべてを中止すると、今後使わないで済む事業規模(残事業費)は、約二兆八千億円にのぼると、与党はいっている。(臨時国会での野党の追及が歴然としているので、建設省は九月一日、同省関係の未発表事業九二件を公表した)

このようなオタメゴカシの発表にもかかわらず、これらの事業の実際は、そもそも環境にそぐわないとか、年月経過のなかで現実性をもたないとか、地元の反対運動とかのさまざまな理由で行き詰まっているものばかりである。比喩的にいうならば、デパートの在庫一掃セールの対象でしかないというのが、正直なところである。

したがって、自民党は、中止によって浮いた金を新たに他の事業に振り向けようというのが、偽らざるところである。このことは、当初、財政法の第四条(歳出財源の制限)を改悪し、公共事業の対象範囲を実質上無制限に拡大しようという策動があったことでも明らかである(今回は第四条改悪は見送られた)。

また、全国的に注目されている中海干拓中止について、地元の了解を得るために、他の振興策を「約束」して、納得させるというやり方にも、従来の政治手法が変っていないことが、かいまみえる。もう一つ注目されている吉野川可動堰についても、今回の基準では対象からはずれているが、「白紙」からの再検討などというのでは、新たな仕切り直しであり、地元の住民運動団体は、「いつまで活動を続ければ国に思いが伝わるのか」と失望している。依然として自民党などは、公共事業に大規模な金をつぎこみ、それを官僚と結託して中央政府が取り仕切り、利益誘導型政治を続けようとしているのである。

 

<財政危機を放置する与党政治>

今回の「公共事業見直し」のイニシャチブをとった亀井静香・自民党政調会長は、この間のバラマキ政治の張本人の一人であることは、天下周知のことである。このような人物が音頭をとる「公共事業の見直し」なるものが、公共事業の抜本的改革になるはずがない。そのことは、各省で行き詰まった事業をただ集約したにすぎないことですでにあきらかである。そこにはこれまでの財政政策、ひいては自民党の利益誘導型政治の根本的反省などはひとかけらもみえず、そのことは「公共事業見直し」なるもののマヤカシと深くむすびついている。

今回のマヤカシの背景には、その基礎に自民党執行部の財政危機に対する鈍感さがある。 自民党指導部などは、バラマキ政治を正当化する理屈として、まず何よりも景気を回復する必要があり、景気が回復すれば、財政再建を軌道にのせられるといっている。そして、その見本としてアメリカの財政再建をあげている。

 しかしアメリカの景気回復は、情報通信産業を中心とする新たな発展がある(そのしわ寄せは、労働者の大量失業、再就職先での賃金低下)としてもそれだけでなく、基軸通貨国の特権による世界の金を引き寄せとバブル経済の演出が背景にあり、さらに軍事費の削減(冷戦時代の途方もない規模が重荷になった)も、財政再建の糸口となっているのである。これらの条件は大量失業をのぞけば、日本にはない条件である。

しかも、たとえ景気が回復したとしても高度成長期はおろか、四〜五%の経済成長さえ至難の業である。そしてまた、景気が回復したとしても、自動的に財政赤字が減少するというものでもない。今年一月、大蔵省が発表した「中期的な財政事情」によると、この間と同じ景気対策優先の予算でいくと、一般歳出の伸びをゼロに押さえても、二〇〇五年度まで毎年約三〇兆円の国債が必要となり(これは経済成長率一・七%で計算)、この結果、二〇〇五年度末の国債残高は約四九一兆円となるそうである。だが、経済成長率を三・五%で計算すると、国債残高は約四九六兆円と、わずかだが逆に増えてしまう(橋本内閣が退陣するわずか前の九八年三月時点で、国債残高は二五〇兆円台半ばだった)。それの主要な理由は、超低金利が変化し、膨大な額の国債の利子が高くなるからである。景気さえ良くなれば、あたかも自動的に財政赤字が減少するなどという単純なものでないのが、今日の累積赤字の水準なのである。

かつて、二度三度にわたる財政再建を自民党政府は試みたとされるが、いずれも失敗した。バブル期には国債発行額は、年間一〇兆円以下におさえられ財政再建が進みはじめたかの幻想を与えたが、バブルがはじけるや一般歳出の抑制の陰で財政投融資、地方債務が急激に膨張させられ、年間国債発行額も九三〜九四年度・一六兆円台、九五〜九六年度・二一〜二二兆円台に跳ね上がった。橋本内閣時の財政再建も、消費税値上げに代表されるような人民への犠牲の押し付けから急激な個人消費の低下などで、景気の再度の低落となり、これに代わる小渕内閣のなんでもありのバラマキ政治で、国債発行はついに年間三〇数兆円にまで至ったのである。いまや国と地方をあわせた政府債務残高は、六四五兆円に(二〇〇〇年度末)のぼることは確実であり、これはGDPの一四〇%に至るものである。 前述したように、九〇年代前半、 中央政府の歳出抑制のかげで地方自治体は、中央に代わって単独事業を増大させられ、八七〜九二年にかけて毎年一〇%台増の公共事業をおこない、周知のように今や多くの自治体が財政赤字に苦しんでいる。今日、マイナス予算は、この間連続しているのが地方の現状である。公共事業も今年一〜三月期の地方の公共事業はマイナス七・五%で、三期連続の減少である。多くの自治体は、中央からの公共事業押し付けを逃れたいというのが、本音である。

にもかかわらず、従来からの利益誘導型の政治、バラマキ政治に固執するのが、政府・与党の姿なのである。来年度予算の公共事業規模も今年度と変わらず、景気刺激型というものである。しかも亀井は、厚顔にも概算要求が出揃った翌日に、早くも補正予算構想(一〇兆円規模)を打ち上げている。本予算の執行状況に応じて、補正予算は検討されるべき本来の姿からするならば、亀井の行動は人民をコケにしたものである。

 

<上からの統治でなく自治政府を>

今回の「公共事業見直し」の基準では、吉野川可動堰や熊本県の川辺川ダムなどは、見直し対象に上がってもいない(川辺川ダムの場合は、計画策定から三十年以上もたっているのに、付帯工事がすすんでいるとして対象からはずすご都合主義)。現実に住民が、無駄な公共事業として反対運動を展開しているのを無視して、見直し対象にもしない。このような公共事業は、果たして公共の名に値するのか。憲法にかかげられた主権在民原則は、本当に実践されているのであろうか。これこそ、まさに国民主権(現実には建前に過ぎない)さえも踏みにじって、公共事業を推進する自民党の反人民的な政治体質が赤裸々にあらわれたものである。

自民党の利益誘導型の政治は、経済成長至上主義を前提に、公共性とか正義とかでなく、利己的利害に訴えた経済主義的政治なのだが、本質的には人民の自己統治に敵対する、一部の支配階級の利益にそった支配層の上からの統治である。だからこそ、戦後も生き残ったかつての(戦前の天皇主権のもとでつくられた)官治システム(本来的に自治に敵対した)と、自民党政治は癒着できたのである。世にいう政官財の鉄のアングルによる日本社会の支配である。

今年四月からは、地方分権方が施行されたが、そこには中央政府の地方政府支配のためのさまざまな仕掛けが新たにつくられ、依然として地方自治は完備されたものではない。そして何よりも、この地方分権法は地方の財政自主権が極めて弱く、この点では従来と変わりなく、財政的手法で地方政府を操縦できる体制である。このため赤字をかかえる地方自治体は、中央政府の要求があれば、その公共事業のすべてをことわることができない。不急不要なものでもいくつかは、受け入れざるを得ないのである。のちの仕返し(いじめ)が怖いからである。

だがこんな体制をいつまでも続けている訳にはいかない。すでに述べたように、財政は途方もない累積赤字となり、いまや危険水域に入っている。そのうえに、世界でも類例のないスピードと規模での超高齢化社会は現に進行しており、また、グローバリズムの下で資本間競争は激烈となり、大量失業は構造化しているのである。自民党支配のために、従来からの利益誘導型の政治、無駄な公共事業に税金をつぎこむ破産した政治にうつつを抜かしている事態ではない。

今日問われている政治の質的転換は、無駄な公共事業に代表される自民党などの利益誘導型政治をやめさせるだけでなく、政官財の鉄のアングルによる支配を解体するために、人民による自己統治のシステムを作り上げることである。自治といえば、多くの人が地方自治をすぐ思い浮かべるが、これはかつての明治政府が仕掛けたワナであり、自治は地方だけに限定せず、中央も自治を原則とする体制が是非とも必要なのである。

 

<保守基盤の解体・変革を>

民主党は、さきの総選挙で無駄な公共事業の廃止を掲げて、議席を伸ばし得意げである。しかし果たして、無駄な公共事業の廃止(これ自身は正しい)だけで、自民党などの保守基盤を解体・変革できるのであろうか。自民党以上に新自由主義の強い民主党の政治には、多くの年よりとか、障害者とか、失業者とか弱い立場の人びとは、危険性を肌で感じている。新自由主義は、国際的な資本間競争に勝ち抜くことを目標とした、強者の論理が優先されているからである。

政治の質的転換のためには、無駄な公共事業の廃止とともに、自治政府の確立、住民自治の実現が不可欠である。そのために一つのとっかかりとして、地方自治、住民自治の前進を切り開く地方政府の財政自主権の確立の問題がある。無駄な公共事業を廃止するだけでなく、あわせて財政権限を地方政府に移譲し、その地域の財政支出の優先度を住民自身が決定しうる体制をつくる必要がある。

 農村部を中心とする保守基盤をささえてきた人びとは、長いあいだ地方の政治すら自分たちの手で運営する自由を奪われてきた。したがって、政治といえば中央官僚に頭をさげ、地元出身の保守政治家にお願いするというスタイルに依存しきってきた。政治の質的転換のためには、この構造こそが変革されなければならないのである。

政治の質的転換にかかわる問題を、都市と農村の対立拡大にねじ曲げてはならない。今日の中央─地方の関係(とくに財政権限)を今のままにして、公共事業の削減一辺倒だけならば、保守基盤を支えてきた人びとの多くは、かえってますます自民党など保守的政治家にしがみつくだけである。

たしかに地方自治、住民自治の確立をさまたげるものは、さきほど述べたような制度の問題だけではない。利益誘導型政治に下から呼応し、これを下から支えてきた人びとの意識、秩序観の問題がある。端的にいえば、“長いものには巻かれろ”“お上には逆らえない”であり、また牢固とした上下秩序の強さである。日本語には何とたくさんの敬語や謙譲語があるのだろうか。諸個人の対等・平等、是非の理、そして自立の精神を再生する活動は、粘り強く展開されなければならないであろう。

政治の質的転換のためには、先進的労働者、市民などによる粘り強い働きかけ、個別の矛盾をめぐる闘いをとおし、自治政府と住民自治の確立は、不可欠である。 (完)