【台湾の歴史】


 台湾は、長らく外から来た勢力に支配されてきた。しかし、台湾人はだまってはいなかった。日本の支配が解けて代わりに中国国民党がやってきた時、台湾人は血を流して戦った。
 知識人は台湾独立、国民党政府の民主化を唱え、世論の勢いは国民党政府の台湾人登用を増やし、悪名高い戒厳令を解除させた。
 そして、台湾人初の総統である李登輝が誕生してからの台湾は、劇的に民主化が進み、世界に散らばっていた台湾人を呼び戻し、経済大国としての成功も収めた。
 中国との複雑な関係で、国際的な孤立感はあるものの、李登輝総統の柔軟外交によって、1997年においては世界の31カ国と正式な外交関係を持ち、正式な外交関係を持たない66カ国に95の代表機関を置くまでに至っている。


台湾の歴史

時代

 年 

出 来 事

未開拓
時代
8世紀
初頭
中国大陸の漢民族が台湾の偵察征略を試みた。
1360年 中国大陸の元王朝は澎湖島に巡検司を設置⇒福建省同安県に隷属させた。
1593年 日本の豊臣秀吉が使者を台湾に派遣し、台湾を支配しようと試みた。
台湾の
発見
16世紀 大航海時代に、日本に向かう途中でポルトガル人によって台湾が発見された。
ポルトガル人は美しい島国の台湾を、イラ・フォルモサ(Ilha Formosa)、麗しの島」と呼んだ。
外国人
による
開拓時代
1622年 オランダは澎湖島を占拠した。
1624年 オランダは南部台湾を占拠した。
オランダはジャワから日本等への中継地点として利用した。
また、オランダは台湾でサトウキビの栽培を始めた。
1626年 スペインは台湾の基隆、淡水を占拠した。
スペインはフィリピンから日本等への中継地点として利用した。
1642年 スペインはオランダの攻撃によって台湾から退却した。
鄭成功
による
台湾独立
1662年 清朝との戦いに負けた明朝の鄭成功(ていせいこう)は台湾へ逃げた。そして、オランダを追い出した。
鄭成功は台湾を明朝の国とし、清朝への戦いの拠点とした。
1683年 鄭成功の死亡後、台湾の明朝は清朝によって滅ぼされた。
清朝の
支配
1684年 台湾は清朝の福建省に隷属された。
清朝は現在の台南市に台湾府を置いた。
これ以降、清朝は200年の間、台湾を支配したが、清朝自身は台湾を積極的に開拓しようとしなかった。
しかし、大陸の福建省や広東省からの移民が激増し、彼らは台湾の南部から北部へと土地を開拓した。
日本の
支配
1894年 朝鮮での内乱をきっかけに、日清戦争が勃発した。
1895年 日清戦争は日本の勝利で終結し、下関条約が結ばれ、清国が台湾を日本に割譲した。
日本は当初、台湾を武力によって支配していた。
しかし、その後は台湾の産業インフラの整備、日本式の教育施設の導入、産業の工業化等に力を入れた。
1899年 台湾銀行が開業された。
1900年 台湾製糖が創立された。
1908年 台湾縦貫鉄道が開通した。
1911年 中国の四川省で辛亥革命が勃発した。
1912年 「中国革命の父」といわれる孫文は、中国の南京で臨時大統領となり、中華民国(THE REPUBLIC OF CHINA)の成立を宣言した。
中華民国は、政治腐敗した清朝に代わり、三民主義(中国人の主権の回復、人民主権による共和国の樹立、民衆の生活の安定)を目指した。
台湾では、1912年を中華民国元年と称し、一般的には民国元年と記している。
1923年 皇太子(後の昭和天皇)が台湾を視察された。
1943年 6年制義務教育が実施された。
1944年 徴兵制が実施された。
1945年 第二次世界大戦が終了した。
日本は戦争に負け、ポツダム宣言を受諾し、台湾及び付属諸島の所有権を放棄した。
国民党政府は、日本に代わり台湾の実権を握った。
国民党の
支配
1947年 2・28事件が勃発した。
2月28日、国民党政府は台湾の独立運動を押さえるために、11万人もの台湾人を虐殺した。
1949年 中国共産党との内戦によって中国大陸を追われた国民党は、蒋介石総統とともに、台湾に亡命した。
中国では、中国共産党の中華人民共和国が成立し、毛沢東が主席に就任した。
国民党は、鄭成功の時のように、台湾を反共産党の拠点とした。
この時に台湾に逃れた人々を外省人、それ以前から台湾に住んでいた人々を内省人という。
台湾全土に戒厳令(戦争時や国の事変に際し、平時の法を停止して、行政権・司法権の行使を軍司令官に委ねる事)が実施された。
1953年 台湾の第1期経済建設計画が始まった。
1958年 国民党は金門島と馬祖島を占拠し、中国軍と砲撃戦を交えた。
1960年 台湾横断公路(台湾島東西横断道路)が開通した。
1966年 高雄を国内特別経済区域に指定した。
1967年 台北市が行政院の直轄市になった。
1970年 台中・楠梓を国内特別経済区域に指定した。
国際的
孤立化
1971年 対立する大陸の中華人民共和国に国連代表権が与えられたため、中華民国としての台湾は国連から脱退した。
1973年 日本との国交を断交をした。
1975年 蒋介石総統が死去した。
1976年 毛沢東党主席が死去した。
商用での海外渡航が自由化された。
1979年 米中国交が樹立した。同時に、アメリカは台湾との国交を断交した。
海外観光旅行が自由化された。
1980年 「新竹科学工業園区」が開始された。
台湾はIMF、世界銀行から脱退した。
民主化
の波
1985年 アメリカのレーガン米大統領が台湾の民主化を勧告した。
1986年 民主進歩党(民進党)が野党として結成された。
民進党は戒厳令の廃止を唱えた。
1987年 戒厳令が解除された。
変動相場制でない台湾ドルは大幅に切り上げられ、台湾輸出製品の競争力が一時弱まった。
1988年 蒋介石の息子である蒋経国(しょうけいこく)総統が死去した。
続く国民党主席には、李登輝(りとうき)氏が選ばれた。台湾史上、初めての台湾人総統である。
「報禁」⇒報道の自由が解除された。
1990年 李登輝総統は再選された。
タイ・フィリピン・インドネシア・マレーシアからの労働者受け入れを始めた。
1991年 台湾のインターネット接続が始まった。
1993年 日本語放送が全面解禁になった。
国家と
しての
活動
1994年 李登輝総統は東南アジアを非公式に訪問した。
1995年 李登輝総統はアメリカを訪問した。
ゆれ動
く台湾
1996年 2月、中国は台湾に向けての軍事演習によるミサイル攻撃を行った。(3月の民選的な総統直接選挙を牽制するため)
3月、李登輝は台湾初の民選総統として総統に再就任した。
この間の中台関係の緊張が影響し、台湾経済は一時後退した。
1997年 7月、香港が中国に返還された後、中国の江沢民国家主席は、一国二制度による中台(中国・台湾)統一を望むと演説した。
それに対し、台湾側は対中投資の監視を強化し、牽制した。
1998年 6月、クリントン大統領は、上海で中国側提示の、アメリカ政府の対台湾政策に対する「三つのノー」(1.台湾独立への不支持 2.『一つの中国・一つの台湾』もしくは『 二つの中国』への不支持 3.台湾による国家名義での国際組織加盟への不支持)を基本的に容認した。
11月、李登輝は台北市の市長選挙の馬英九(大陸出身、与党国民党)の応援演説で、 「数百年前だろうが、数十年前だろうが、台湾に渡ってきた人はみんな新台湾人だ。台湾人はもうすでに過去の悲しみと別れを告げた。これからはみんな21世紀に向かって、この土地で生きるものとして力を合わせて頑張ろう。」 等と述べ、新台湾人論を論じ、反響を得た。
1999年 6月、李登輝は、著書『台湾の主張』(PHP研究所)で、 「台湾の民主はすでに制度が確立され、台湾の民主主義はポスト李においても継続して実践されるだろう。」 「新台湾人が選ぶ指導者は新台湾人を基礎とし、新時代を切り拓く人でなければならない。」等と述べ、台湾の現代史と今後の台湾の進路を論じ、国内外から注目を浴びた。
7月、李登輝はドイツのマスコミとのインタビューにおいて、中国との両岸関係を「特殊な国と国との関係」と述べ、中台関係に緊張が走り、国際的に大きな波紋を呼んだ。
9月21日未明、台湾中部大地震(M7.7規模の直下型大地震)が発生した。死者2399人、負傷者1万人の大惨事となった。
2000年 3月18日、李登輝の後の、台湾の指導者を選ぶ総統選挙の投開票が行われ、台湾生まれで台湾育ちの本省人である、民進党の陳水扁(49)が、初当選を果たした。
中国政府は、陳氏を台湾独立派ととらえ、独立は許さない姿勢を表明した。
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