時代 |
年 |
出 来 事 |
| 未開拓 時代 |
8世紀 初頭 |
中国大陸の漢民族が台湾の偵察征略を試みた。 |
| 1360年 | 中国大陸の元王朝は澎湖島に巡検司を設置⇒福建省同安県に隷属させた。 | |
| 1593年 | 日本の豊臣秀吉が使者を台湾に派遣し、台湾を支配しようと試みた。 | |
| 台湾の 発見 |
16世紀 | 大航海時代に、日本に向かう途中でポルトガル人によって台湾が発見された。 ポルトガル人は美しい島国の台湾を、イラ・フォルモサ(Ilha Formosa)、麗しの島」と呼んだ。 |
| 外国人 による 開拓時代 |
1622年 | オランダは澎湖島を占拠した。 |
| 1624年 | オランダは南部台湾を占拠した。 オランダはジャワから日本等への中継地点として利用した。 また、オランダは台湾でサトウキビの栽培を始めた。 |
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| 1626年 | スペインは台湾の基隆、淡水を占拠した。 スペインはフィリピンから日本等への中継地点として利用した。 |
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| 1642年 | スペインはオランダの攻撃によって台湾から退却した。 | |
| 鄭成功 による 台湾独立 |
1662年 | 清朝との戦いに負けた明朝の鄭成功(ていせいこう)は台湾へ逃げた。そして、オランダを追い出した。 鄭成功は台湾を明朝の国とし、清朝への戦いの拠点とした。 |
| 1683年 | 鄭成功の死亡後、台湾の明朝は清朝によって滅ぼされた。 | |
| 清朝の 支配 |
1684年 | 台湾は清朝の福建省に隷属された。 清朝は現在の台南市に台湾府を置いた。 これ以降、清朝は200年の間、台湾を支配したが、清朝自身は台湾を積極的に開拓しようとしなかった。 しかし、大陸の福建省や広東省からの移民が激増し、彼らは台湾の南部から北部へと土地を開拓した。 |
| 日本の 支配 |
1894年 | 朝鮮での内乱をきっかけに、日清戦争が勃発した。 |
| 1895年 | 日清戦争は日本の勝利で終結し、下関条約が結ばれ、清国が台湾を日本に割譲した。 日本は当初、台湾を武力によって支配していた。 しかし、その後は台湾の産業インフラの整備、日本式の教育施設の導入、産業の工業化等に力を入れた。 |
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| 1899年 | 台湾銀行が開業された。 | |
| 1900年 | 台湾製糖が創立された。 | |
| 1908年 | 台湾縦貫鉄道が開通した。 | |
| 1911年 | 中国の四川省で辛亥革命が勃発した。 | |
| 1912年 | 「中国革命の父」といわれる孫文は、中国の南京で臨時大統領となり、中華民国(THE REPUBLIC OF CHINA)の成立を宣言した。 中華民国は、政治腐敗した清朝に代わり、三民主義(中国人の主権の回復、人民主権による共和国の樹立、民衆の生活の安定)を目指した。 台湾では、1912年を中華民国元年と称し、一般的には民国元年と記している。 |
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| 1923年 | 皇太子(後の昭和天皇)が台湾を視察された。 | |
| 1943年 | 6年制義務教育が実施された。 | |
| 1944年 | 徴兵制が実施された。 | |
| 1945年 | 第二次世界大戦が終了した。 日本は戦争に負け、ポツダム宣言を受諾し、台湾及び付属諸島の所有権を放棄した。 国民党政府は、日本に代わり台湾の実権を握った。 |
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| 国民党の 支配 |
1947年 | 2・28事件が勃発した。 2月28日、国民党政府は台湾の独立運動を押さえるために、11万人もの台湾人を虐殺した。 |
| 1949年 | 中国共産党との内戦によって中国大陸を追われた国民党は、蒋介石総統とともに、台湾に亡命した。 中国では、中国共産党の中華人民共和国が成立し、毛沢東が主席に就任した。 国民党は、鄭成功の時のように、台湾を反共産党の拠点とした。 この時に台湾に逃れた人々を外省人、それ以前から台湾に住んでいた人々を内省人という。 台湾全土に戒厳令(戦争時や国の事変に際し、平時の法を停止して、行政権・司法権の行使を軍司令官に委ねる事)が実施された。 |
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| 1953年 | 台湾の第1期経済建設計画が始まった。 | |
| 1958年 | 国民党は金門島と馬祖島を占拠し、中国軍と砲撃戦を交えた。 | |
| 1960年 | 台湾横断公路(台湾島東西横断道路)が開通した。 | |
| 1966年 | 高雄を国内特別経済区域に指定した。 | |
| 1967年 | 台北市が行政院の直轄市になった。 | |
| 1970年 | 台中・楠梓を国内特別経済区域に指定した。 | |
| 国際的 孤立化 |
1971年 | 対立する大陸の中華人民共和国に国連代表権が与えられたため、中華民国としての台湾は国連から脱退した。 |
| 1973年 | 日本との国交を断交をした。 | |
| 1975年 | 蒋介石総統が死去した。 | |
| 1976年 | 毛沢東党主席が死去した。 商用での海外渡航が自由化された。 |
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| 1979年 | 米中国交が樹立した。同時に、アメリカは台湾との国交を断交した。 海外観光旅行が自由化された。 |
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| 1980年 | 「新竹科学工業園区」が開始された。 台湾はIMF、世界銀行から脱退した。 |
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| 民主化 の波 |
1985年 | アメリカのレーガン米大統領が台湾の民主化を勧告した。 |
| 1986年 | 民主進歩党(民進党)が野党として結成された。 民進党は戒厳令の廃止を唱えた。 |
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| 1987年 | 戒厳令が解除された。 変動相場制でない台湾ドルは大幅に切り上げられ、台湾輸出製品の競争力が一時弱まった。 |
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| 1988年 | 蒋介石の息子である蒋経国(しょうけいこく)総統が死去した。 続く国民党主席には、李登輝(りとうき)氏が選ばれた。台湾史上、初めての台湾人総統である。 「報禁」⇒報道の自由が解除された。 |
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| 1990年 | 李登輝総統は再選された。 タイ・フィリピン・インドネシア・マレーシアからの労働者受け入れを始めた。 |
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| 1991年 | 台湾のインターネット接続が始まった。 | |
| 1993年 | 日本語放送が全面解禁になった。 | |
| 国家と しての 活動 |
1994年 | 李登輝総統は東南アジアを非公式に訪問した。 |
| 1995年 | 李登輝総統はアメリカを訪問した。 | |
| ゆれ動 く台湾 |
1996年 | 2月、中国は台湾に向けての軍事演習によるミサイル攻撃を行った。(3月の民選的な総統直接選挙を牽制するため) 3月、李登輝は台湾初の民選総統として総統に再就任した。 この間の中台関係の緊張が影響し、台湾経済は一時後退した。 |
| 1997年 | 7月、香港が中国に返還された後、中国の江沢民国家主席は、一国二制度による中台(中国・台湾)統一を望むと演説した。 それに対し、台湾側は対中投資の監視を強化し、牽制した。 |
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| 1998年 | 6月、クリントン大統領は、上海で中国側提示の、アメリカ政府の対台湾政策に対する「三つのノー」(1.台湾独立への不支持 2.『一つの中国・一つの台湾』もしくは『 二つの中国』への不支持 3.台湾による国家名義での国際組織加盟への不支持)を基本的に容認した。 11月、李登輝は台北市の市長選挙の馬英九(大陸出身、与党国民党)の応援演説で、 「数百年前だろうが、数十年前だろうが、台湾に渡ってきた人はみんな新台湾人だ。台湾人はもうすでに過去の悲しみと別れを告げた。これからはみんな21世紀に向かって、この土地で生きるものとして力を合わせて頑張ろう。」 等と述べ、新台湾人論を論じ、反響を得た。 |
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| 1999年 | 6月、李登輝は、著書『台湾の主張』(PHP研究所)で、
「台湾の民主はすでに制度が確立され、台湾の民主主義はポスト李においても継続して実践されるだろう。」
「新台湾人が選ぶ指導者は新台湾人を基礎とし、新時代を切り拓く人でなければならない。」等と述べ、台湾の現代史と今後の台湾の進路を論じ、国内外から注目を浴びた。 7月、李登輝はドイツのマスコミとのインタビューにおいて、中国との両岸関係を「特殊な国と国との関係」と述べ、中台関係に緊張が走り、国際的に大きな波紋を呼んだ。 9月21日未明、台湾中部大地震(M7.7規模の直下型大地震)が発生した。死者2399人、負傷者1万人の大惨事となった。 |
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| 2000年 | 3月18日、李登輝の後の、台湾の指導者を選ぶ総統選挙の投開票が行われ、台湾生まれで台湾育ちの本省人である、民進党の陳水扁(49)が、初当選を果たした。 中国政府は、陳氏を台湾独立派ととらえ、独立は許さない姿勢を表明した。 |
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