羽仁進さんと吃音者宣言
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二
羽仁進さんは、私たち吃音者にとって、特別な 存在だ。現在も吃り続け、それを隠すことはない。 むしろ吃ることばこそ、人間のことばだといいた げに、誇らしげに吃っておられる。
吃音者の生の姿をさらけ出すだけでなく、言友 会の活動をよく理解し、ご自分が出演した番組や、 著作などを通して、私たちの主張を正しく伝えて 下さっている。
私たちへの誤解が未だに少なくない中で、直接 接する機会のあまりない、羽仁さんが何故こうま で、私たちを的確に理解して下さるのか。
羽仁さんの生きる婆勢と、言友会の<吃音者宣 言>の底に流れる考えが、共通するからだと思う。
それを二つのことばに絞って紹介しよう。
一つは、『悩み方には、まともな悩み方と、奇 妙な悩み方がある』とのことばだ。
「苦悩は、人間にとって、業績である」との、 フランクルのことばを紹介し、次のように言う。
『失敗や、いやな思い出は、それだけでは、人 間の心の財産にはならない。しかし、それを、しっ かりと悩み抜き、考え抜いた結果は、すでに、そ の人を豊かにしている』
悩み方にまともなものと、そうでないものがあ るという指摘は、私にとって新鮮だった。 どもり に悩んでいた頃の自分を当てはめたとき、随分ま ともでない悩み方をしてきたものだと思う。 した いこと、しなけれはならないことも、少しでも困 難を感しると、どもりを口実に逃げた。何かにぶ つかって、失敗したり、挫折して、悩むなら、そ の悩みは後で生きる。しかし、逃げて実際の行動 をしないのだから、大きく傷つくことはないが、 逃げたこと、出来なかったを悔やんだ。この自分 の意に反した行為に対して悩むのは、羽仁さんの 言う、奇妙な悩み方になるのだろう。こんな悩み は業績にはならない。どもりに悩み、どもりにと らわれている吃音者の多くが、私と同じような悩 み方をしていることを知り、く吃音者宣言>のキ ーワードとしての《逃げの人生》を、次のような 表現で入れた。
『どもりさえ治ればすべてが解決するという自 分自身への甘えから私たちは人生の出発(たびだ ち)を遅らせてきた』
どもりで辛い体験をしてきた人に、少しきびし いことかもしれないが、「私たちがどもりについ て悩んできた悩み方は、まっとうな悩み方だった のだろうか?」と問いかけたのだった。
あと一つは、『放任主義』でよく知られている 『どもりの子はどもりと呼べ』だ。これはそのま まに<吃音者宣言>に結びつく。
吃るこどもに吃ることを意識させてはいけない。 だから、家庭では、一切どもりを話題にしてはい けない。長い間これが金科玉条のように信じられ、 今でも根強く残っている。どもりを隠し、話題に しないで、こどもがどもりを受け入れることなど ありはしない。私自身、どもりということばに嫌 悪し、“いもり”“やもり”にまでびくついてい た頃に、どもりの受容など思いもよらなかった。 民間吃音矯正所で、初めてどもりということばを 口にし、他者がどもりと言っているのを耳にした。
自らの問題を見つめ、受け入れるには、自らの ことはで、その問題を口にすることが第一歩だ。 吃音受容を吃音問題にとって、最も重要なテーマ だと考える私たちは、「どもりをオープンに話題 にしよう」と提起し続けてきたく。それが、私たち が提唱する《吃音児の早期自覚教育のすすめ》た。 羽仁さんの『どもりの子はどもりと呼べ』は、 私たちの《早期自覚教育のすすめ》そのものだと も言える。
このように、羽仁さんの生き方、ことばが、形 は違っても、<吃音者宣言>に生きているのだ。
月刊情報紙 『Stuttering Now』 1995.1.20 No.6より