日本吃音臨床研究会 代表 伊藤伸二
「そんなに孤独で苦しんだ伊藤さんをその頃支えていたものは何だったんですか?」吃音ショートコースの対談の質疑の時間に、参加者から質問を受けたことがある。瞬間的に「母親に愛されていたからかなあ」と答えたが、これは違うとすぐ思った。対談が終わった後で、「さきほどの質問にもう一度答えたい。その時の支えは、どもりのままで死んでたまるかという思いだったのでははないか」と答え直した。それほどに吃音を治したかったのだとその時改めて思った。
「吃音を治したい」の思いは、吃音に深く悩んだ経験のある人なら、切ないほどに分かるだろう。小学5年生の頃だったか、吃音矯正所の「どもりは必ず治る」との雑誌の宣伝が、みじめで苦しかった頃の私の支えだった。いつか、東京に行ってこの矯正所へ行けばどもりは治ると思っていた。中学1年の夏、『どもりは20日間で必ず全治する』という本を手にしたとき、これで治ると思った。しかし、その本の通りに、一所懸命取り組んだが、私の吃音は全く変化がなかった。しかし、最後の砦として、東京の吃音矯正所があった。東京の大学へ、というよりも、その吃音矯正所のある東京へ来たという方が当たっているだろう。
大学1年の夏休み、憧れの矯正所の前に立ちながら私は一歩を踏み出せない。「僕はこんな所に来る人間じゃない」「ここに入ると、どもりを認めることになる」様々な思いが頭を巡り、1時間ほど、その矯正所の前をぐるぐる回っていた。
一歩踏み入れたその吃音矯正所は私にとっては天国だった。これまで誰にも話せなかったどもりについて、初めて話せ、みんなは私も同じだよとよく聞いてくれた。これは何物にも代え難い喜びだった。あれほど孤独で、話さなかった私が、こんなにおしゃべりだとは知らなかった。寄宿舎に入った私は、眠るのが惜しいかのように、話し、人の話に耳を傾けた。午前中は呼吸・発声練習、人前でのスピーチや輪になっての話し合い、昼からは西郷さんの銅像の前での演説や山手線の車中での演説、片っ端から人に道を尋ねる街頭練習。仲間と一緒にするから何をしてもおもしろかった。
今から40年ほど前の吃音矯正所は、今のセルフヘルプグループのような趣があった。わいわいがやがやの楽しい語らいは、「どもりは必ず治る」と宣伝しながら治せないその吃音矯正所を非難したり、抗議したりする気が起こらないほどに、楽しいものだった。矯正所に行って良かったかと問われたら、私は文句なく良かったと言う。しかし、それはどもりが軽くなったり治ったからではない。同じように悩んできた人と出会えたからだ。1965年、その矯正所で知り合った人たちと私は、吃る人のセルフヘルプグループをつくることになる。
ことばの教室もなく、言語聴覚士もいなくて、セルフヘルプグループもない、相談機関が全くなかったころの民間矯正所にはそれなりの存在意義があった。その意義とは、他の物価と比べて不当に高いものではなかったので、あまり費用をかけずに、「どもりが治らない」ことを実感できること。吃る人と出会えること。この2点は吃音の問題の取り組みにとって実に大きなことなのだ。吃音は原因が未だに解明されず、有効な治療法も確立されていないにもかかわらず、インターネット上では相変わらず、「どもりは治る・治せる」が幅をきかせている。吃音に関する書籍も、専門書以外は、「どもりは必ず治る」がほとんどだ。お金を出しさえすれば、どんなものでも、出版する出版社があり、本に書かれているからと信用する人はいる。出版費用など、10人もその吃音矯正所の治療にくれば元がとれてしまう。
民間吃音矯正所は、その歴史的役割を終え、退場しなければならない時期にきているのだが、吃音を治したい人がなくならない限り、生き続けるのだろうか。全ての病気に民間療法があるように。
私たちが言いたかった、言わなければならなかったことをルポライターの近藤雄生さんが「吃音矯正所にすがる人々」で書いて下さった。
やはり当事者の私たちも主張しなければと思う。