表紙


表紙絵に添えて

竹 中 英太郎 

 自由な天地にするというのなら、沖縄だって、九州だって、いまのみっともない日本の支配下にあるより、よっぽどましだと思う。
 などというと、諺を逆に、負うた子に教えられ深みに入る――という傾向ととられるかも知れないが、その方なら、実はオヤジの私こそ、レッキとした戦前派。
 自分の眼の玉の黒い中には、是が非でもこんなイヤな世の中だけは作り変えねば…………などと思って以来もう50年に近い。親の因果が子に報いて、セガレの労が同じような道を歩いているようだが、それももう齢40才を超えている。この分だと、この妄執、3代続くのでなければ、とても陽の目を見ることはなさそうである。
 まだまだ苦労も修業も足りないセガレめが、大阪の釜ガ崎での夢を、東京の山谷での夢を、こんどは沖縄によせて、目下、うき身をやつしているらしいが、こんどはどうなることやら……と心配しながらも、その執念深い根性だけは天晴れ…などとも思うのだから、私ももはや老齢。
 そのセガレの要請で、40年近くもとらなかった絵筆を、このところ時折りとらされる破目になっているが、その度に、なんとも恥かしい気持である。まして、こんどの表紙絵は、いわゆる商業主義的出版とは全く無縁のもの。構想にも絵筆にも、全く動かず困ってしまった。まさに、辛じての責ふさぎ。
 だから、なろうことなら、1日も早く、新しい沖縄を志す情熱と夢と、意欲あふれる青年の若い手で、この古めかしいデザインがとって代られることを、心から期待する。
                       

(1972年6月)

表紙絵に添えて原本画像


独立十訓

1 独立なくして人立たず
 何故なら独立尊厳なきものは人間でなく、動物だから。
邪蛮(ジャパン)復帰は他力本願・劣等感・無知・無能・怠惰・奴隷根性、厚顔無恥等を斉らす邪蛮教育罪業の帰結。真の人間改造のためにも吾々は独立を必要とする。道理国家琉球共和国万才!

2 独立なくして権利なし
 何故なら一切の権利は国が付与し、保障する。但し、真に保障できるのは、琉球人民の発意による琉球共和国だけだ!

3 独立なくして平和なし
 何故なら和戦の大権は国に属するから。この362年に及ぶ外国武力支配、殺りくの苦しい体験から真に恒久平和をうち建てんと欲せば、完全主権国家たる琉球共和国の創建あるのみ。

4 独立なくして繁栄なし
 何故なら経済の大権(財政・金融通貨・通信・運輸・教育・資源等の管理権)は国に属するから。
尖閣一兆ドル油田、西表四兆ドル銅山を思え!
重税インフレ強奪国家(邪蛮国)に見切りをつけ、無税・安定・恵与国家即ち琉球共和国をうち建てよう! 僅かばかりの為替差損補償に甘んずることなかれ!

5 独立なくして実質平等なし
 何故なら差別そのものが国家権力の作用だから。
いや逆に独立できないから差別と軽蔑を受けるのだ!「琉球人を甘やかせるな」とか「国でもないのに主席とか………」「里子に出した子供が帰ってくるのにアイスクリームをたくさんやれば腹をこわす」とかさんざんに侮蔑されているのをなんと心得るか? ジャパニーは、琉球人は本来別個の民族であったことをちゃんと知っている。歴史は争えない。屋良ボンクラ、ペテンを先頭に自ら「日本人」と称しても、アチラはそう見ていない。アワレ忠犬沖縄県(ウチナーイングワー)!「琉球処分」とか泣きごとを言うなかれ! 独立できないから処分をうけるのだ!

6 独立なくして自由なし
 自由すなわち、必然をしり、これを応用して、オノレの政策を完全に決定できるのは、主権国なかんずく、道理国家だけ。武力より道理へ! 軍事野蛮国家より平和道理国家へ!

7 独立なくして友好互恵なし
 何故なら、わが琉球民族利益に即応すべく、外国と友好互恵を楽しむためにも、吾々は外交権を必要とする。この外交権も、主権国の地位より生ずる。
 世界の大勢は、被抑圧民族が独立する方向に進んでいる。吾々は孤立しているのではない。世界には、アジア、アフリカ、ラテインアメリカ諸国等、かって吾々と同一境遇にあった国々が大勢だ。「民族自決の原則」と「主権平等の原則」は、わが民族の伝統に全く適合する。真の民族主義は真の国際主義に通ず。

8 独立なくして科学なし
 何故なら、わが琉球民族利益に奉仕する科学、例えば地下資源、殊に海洋に眠る巨大な石油資源の開発等、巨額の資金と研究開発体制を必要とする。今日の教育制度では到底無理。政府予算の過半は教育予算が占めるが、その教育が無気力、琉球民族否定、ジャパン優等、琉球劣等の恐るべき動物教育を行っている。まるでアヘンだ。この100年に及ぶアヘン症状から人間を、科学を解放するためにも、吾々は独立を必要とする。

9 独立なくして文化なし
 何故なら、文化とは前各項の集積総合だから。世界一の生活水準、世界一の文化を創造できる物的基礎と民族伝統(道理)は既に与えられている。ただ、足りないのは人間の自覚だけだ!
自覚せよわが民族の文化遺産と資源の偉大さを!!

10 独立なければ何もない
 何故なら、以上見たように、人間としても、民族としても、独立なければ人も民族も立たない。
要するに何もないのだ!!

独立十訓原本画像
独立十訓・続き原本画像


琉球独立党綱領

I.道理の支配する社会と国家、琉球共和国をうち建てよう!!
 系1.米日帝共同支配を廃絶し、完全独立主権国家をつくろう!
 系2.武力より道理へ!
 系3.民族自決こそわが憲法!
 系4.一切の権力を琉球人民の手へ!

II.恒久平和友好互恵をかちとろう!!
 系1.永久中立保障を世界各国より勝ちとろう!
 系2.国連に加盟し、平和と安全をかちとろう!
 系3.独立なくして平和なし!
 系4.独立なくして友好互恵なし!
 系5.アジア、アフリカ、ラテインアメリカ諸国と連帯しよう!
 系6.人民の手による国防を勝ちとろう!

III.税金等収奪のない国を作ろう!!!
 系1.経済自立なくして独立なし!
 系2.収奪国家より恵与国家へ!
 系3.西表4兆ドル銅山、尖閣1兆ドル油田等一切の重要資源を社会化しよう!
 系4.即時、通貨の発行管理を実行しよう!
 系5.外為、貿易の管理を実行しよう!
 系6.関税政策を強化し、生産力を発展させよう!
 系7.消費者物価安定、為替安定資金を創設しよう!
 系8.一切の重要物資の生産供給体制の一元化と合理化、価格規制を実行しよう!
 系9.戦争損害300億ドル、戦後の損害の完全補償を実行しよう!
 系10.経済の計画化、財政金融の一元化、能率化を実行しよう!
 系11.円使用はジャパンの支配に屈服するだけだ!
 系12.受託者階級の監視強化と官僚主義の打破!
 系13.公正な経済秩序と公正な配分!


琉球独立党綱領原本画像


琉球独立の歌

一、発(タ)て!発て!発て!
  迷妄(マユイ)をかなぐり捨てて
  発て!発て!発て!
  仰ぎ見よ
  祖先(ウヤフヮーフジ)のあの栄光(ヒカリ)

二、発て!発て!発て!
  マヒせし心洗い張り
  発て!発て!発て!
  直視(ミツメミ)
  わが民族の実相(マシガタ)

三、発て!発て!発て!
  世界の人と交りて
  発て!発て!発て!
  いざ興さん
  わが琉球の黄金国(クガニシマ)


LOOCHOO共和国々旗(別名、三星天洋旗)の紹介

 バック(背景)の青色(sky blue)と紺色(naby blue)はわがLOOCHOOの美しい空と海、則ち大自然を象徴し、もって吾々のウヤファーフジ(祖先)がかって、「船をもって、万国の橋となし、異産至宝千方せつに集めた」大海洋民族としての気宇壮大を示す。

 三つの星はわがLOOCHOO民族の理念を象徴する。先ず、右端の白い星は、わがLOOCHOO民族の偉大なる理念則ち、「道理」を示す。道理の道は、moral則ち道徳であり、理はREASON則ち、理性であり、この「道理」は、わがLOOCHOOが世界に誇ることのできる偉大なる文化遺産であって、今日でも、どんな田舎の人でも、「道理」という語は、日常語として使用され、かつうけ継いでいる。
 その源は、多分15世紀の中頃則ち、尚真王の時代にさかのぼる。則ち、往時の指導者は、内乱の胴乱の世にもかかわらず、敢て、武力を否定し、道理をもって、国家と社会の指導理念と定め、これを最も徹底した形で具現した。この偉大なる道理こそ、今日の国連を支配している、原理則ち、「武力より道理へ」でなければならない。
 私は、この道理こそ、わが民族が創造した文化価値と認めたい。LOOCHOO民族の理念は、今や、世界普遍性をもつ理念でもある点に、尚更わがLOOCHOO民族の優秀性を協調したい。これを立証する何よりよい証拠は道理が、邪蛮の侵略にもかかわらず、今日、なお、「生きた言語」として、脈々と吾々の血肉となっていることだ。
 この理念は、決して輸入品ではなくて、わが民族が統治し、かん養したわが民族精神=LOOCHOO魂のエっセンスであることをいくら強調してもしすぎることはない。この意味から、他の二理念に対して最高の地位をもつ理念であることを理解して欲しい。また、このことを示すため、他の2星よりもひとまわり大きく、しかも、他の2星とも、すべて、白いフチドリをもっていることは、この最高理念「道理」に裏づけられたものであることを示している。
 赤い星はLOOCHOO民族の独立尊厳至高=主権(Independence Dignity=Soverignty)及び民族の栄光のために、梯梧のような真紅の情熱を捧げることを示す。同時に、当面の中心課題は何はともあれ、独立主権国家の建設であるので、これを中心に位置せしめた。これなくしては、道理の賜杯も、平和と繁栄も達成できないからだ。そうだ!道理にうちづけられた情熱=実践理性こそ、すべてLOOCHOO人に課された責務であり、かつ栄誉だ!ちょうど太陽のように、燃えさかるあの情熱を、トコトンまで燃焼させよう!偉大なるLOOCHOO共和国をうち建てるまで!いや、永遠に!
 黄星は、平和と繁栄をあらわす。動物的経済膨張を望むものでは毛頭ない。あくまでも、道理に裏づけられた平和と繁栄だ!世界有数の銅、石油資源と、世界第一級の「道理」国家−−わがLOOCHOOは、物心両面において、世界第一級の国家を創建すべき礎は、既に与えられている。三星天洋旗は、正しく汝の道しるべだ!オノレの価値にめざめよ!
三星天洋旗は、永遠に、わがLOOCHOO民族を導くであろう。

LOOCHOO共和国々旗の紹介原本画像
LOOCHOO共和国々旗の紹介・続き原本画像



目    次



 被抑圧民族としての自覚を   知行一致の哲理と実践を
       野 底 土 南 (琉球独立党中央委員長)………………1

 さらなるウチナーンチュへ向って!
       大 城 正 男 (評論家)………………………………24

 琉 球 怨 歌
       大 島   渚 (映画監督)……………………………43

 幻 の 共 和 国
       普久原 恒 男 (作曲家)………………………………45

 私の中の琉球
       武 智 鉄 二 (劇作家)………………………………46

 『赤軍PFLP.世界戦争宣言』の上映に際して
       共産主義者同盟赤軍派東京都委員会………………………47

 世界革命戦争への集結を!
       足 立 正 生 (映画監督)……………………………50

 琉球独立党と水滸伝
       太 田   竜 (世界革命浪人)………………………51

 5.15について
       前 原 朝 賢 (評論家)………………………………58

 沖縄/ニッポンではない
       竹 中   労 (ルポライター)………………………62

 琉 球 共 和 国
       国 頭 太 福 (機関誌編集委員会)…………………82

 琉球独立党より「アイヌ同胞」へのメッセージ…………………………85

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野底土南 1/23

 被抑圧民族としての自覚を
   −知行一致の哲理と実践を−

琉球独立党中央委員会  
野 底 土 南 



 本稿は、沖縄タイムス企画の「日本国民になることの意味」に応じて執筆したものであるが、結局、ボツにされた。予期したことではあるが、こんな売国新聞という媒体でも利用できればと思って骨身を惜しまず草稿したわけだ。だが、腐敗したマスコミ、世論をねつ造する常習犯のマスコミが愛用する、大城立裕、大田昌秀、新川明、川満信一等々のインチキ三もん文士どもが、どんなに、おしゃべりをくりかえそうと、内外の情勢、――ことに経済の破たん――琉日間の政治経済上の矛盾は一層尖鋭化をきわめる。その事実が、彼らのオシャベリ――有害で無思想、いや、売国イデオロギーをとことんまであばいてくれる。
 第II章中の文化とは何かは、主として、これら売国イデオローグに向けたものである。「類は類をもって集まる」とは至言である。売国マスコミと売国イデオローグ、三もん文士、インチキ歴史屋、買弁政治屋、等々。
 最近、大田昌秀という売国教員=三もん文士に「沖縄タイムス賞」が与えられたようだが、この賞とは売国賞である。屋良朝苗も、これを与えられたから、ますます、この買弁の類は今や花ザカリである。
 買弁といえば、保守の専売と思っていたら、最近では「革新」買弁がロコツに現われた。
 殊に、東京在の沖青同の「沖縄解放への道」――沖縄人民の権力を樹立せよ――の雑文に接して、その感を強くする。いちいち、とりあげるに値しないほど粗雑で、しかも、哲理も何もない代物だが、売国、買弁のしるしを探し出すのに恰好の雑文である。その例を引用しておく。いわく、
(1)……キチンと分類できるものとしての「沖縄民族」なるものは存在しない。吾々は、ハッキリと「沖縄人」として存在している。………
 ここでは、民族と人種の混同があり、琉球の民族問題――被抑圧民族の解放の歴史的課題をワザと回避しようとする。事実、こうもいっている。日米帝の間にあって、

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野底土南 2/23

一国閉鎖的な沖縄単一国家としては、沖縄解放の権力はたてられない。それ故、「沖縄独立」というスローガンは思想的にも実践的にも意味をなさないと。独立を恐れる精神病にさいなまれているこのアワレな買弁ども。沖縄人民権力を樹立せよと大言壮語しながら実は、独立が恐いのである。結局のところ、日帝による琉球併合を認めるのである。
(2)尖閣列島―琉中共有論
 ここで、ハッキリと、その買弁性がウキボリにされる。尖閣列島が琉球の領土であることは明らかである。今日の国際法の示すところでは、ある地域がいずれの国に属すべきかを決定する基準は、その地域に対する「実効支配」の有無にある。少なくとも1896年来1970年までの74年間、琉球政府が排他的にその行政権を及ぼし、このことにつき、他のいかなる国も、その支配に対して異議をはさまなかった事実が、琉球領土であると主張できる根拠だ。この国際法の原則を離れて、領土権の帰属を論ずるのは馬鹿げている。何故なら領土権紛争をめぐる解決規範は国際法が与えているから。
 尖閣列島の帰属論議がやかましくなった背景は何か。――いわずとしれた石油資源である。中国領有論から琉中共有論、日本領有論、いずれも買弁=奴隷の言辞にすぎない。
 わが貧しい琉球民族、これまで天与の資源に恵まれず、貧困のゆえに外国の支配に呻吟し、更にその支配によって窮乏を強いられてきたわが民族。今日では、その民族魂さえ、皇民化教育によって失いつつあるわが悲しい琉球民族の更生に、自覚に、必ずや、寄与する多くの天然資源。わが貧困を根本的に解消する資源の存在。これをわが民族の更生に活用しなければならないと発奮しない者は、およそ、人間ではないのである。沖縄人を解放すると壮語するが、このように、主張できないとすれば、それは、沖縄人をカタって実はオノレ個人の私益を外国と謀っているものと断じてよい。
 1946年このかた、わが琉球及び邪蛮においては、保守の対米買弁によって、今日の不幸を招いたが、今後は、さらに、「革新」買弁が、わが琉球を更に不幸のドン底につき落とす。人民の自決=独立を恐れる病は保守「革新」をとわず、あらゆる階層を毒しているのだ。まこと憂れうべきは、この琉球民族精神病である。この病原菌は、学校、マスコミ、犬庁、市町村、政党、企業、労組等のあらゆる組織のリーダーによって毎日培養されて社会にタレ流している。
 この汚れはてたドブ――沖の波間に漂う腐れはてた縄ぎれを、真に高貴な紫紺

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野底土南 3/23

宝玉の琉球=三星天洋の輝く大海洋に変革するため、この論考は必ず貢献するものと信ずる。
 濁れば濁るほどに、吾々の光は、ますます輝きを増し、人民の心を焼きつくす。
 情勢は刻々と迫まる。売国買弁者どもが犯した過ちを見ぬく日が近づく。それにしても曇った眼と心では、この過ちを知覚できない。琉球民族精神病を徹底的にエグリ出し、くりかえし教宣することなしには知覚できない。
 1972年6月25日の犬知事、犬会議員選挙で、「革新」が大勝した。中央直結の自民党が敗北したことは、琉球人民が健全であることを示す。但し、「革新」が大勝したのは、彼らが、真に自主独立の内容を有しているからではなく、表見上の反中央言辞に人民が騙されたからである。
 それにしても、これほど、人民に経済の破たん、生活破壊を強いた屋良買弁に票があつまるとは、あきれたものだ。経済基盤の薄弱なわが琉球では、権力の座にある者が、圧倒的に強い。彼らは、公金を毎年「団交」の名においてブンどり、選挙資金として与え、または積立て、一切の行政を選挙工作に従属させてきたその罪業が「革新」大勝の真因である。ただ、自民党はたまたまその最高司令官の選挙をめぐって、資金の需要がとてつもなく大きく(1票2,000万円×250=50億円)そのため、沖縄犬連に資金の供給が乏しく大敗した。要するに選挙資金においても、「革新」は自民を凌いでいたとみるべきだ。かくみてくると、通貨による選挙、利権をめぐる政争、財政を奪いとる政争、保守「革新」という猿芝居は、実は、同じ穴のムジナ(主として、上級公務員と下級公務員の対峙)によって、演ぜられているにすぎない。選挙のたびに、その腐敗の度は高まる。そして東京司令部への隷属の度合いも強まる。その極限は戦争である。すでに、琉球経済の破たんは明らかとなった。邪蛮経済もゆきづまってきた。世界の資本主義体制がゆきづまった。イギリスのポンドがあやしくなった。金の価格が61ドルを超えた。(ドル通貨が低落したことの反映)通貨危機は依然くすぶり続けている。円に交換させられて通貨問題は、終止符をうったように、問題意識がうすれてきている。井の中の蛙よろしく「豊かな沖縄犬」、とか、「新生沖縄犬」の建設とか東京政府の口車に乗って恥ぢない「革新」が、琉球人民を再び戦争の犠牲に供しないという保障はない。何故なら、琉球民族の歴史―被抑圧民族としてのオノレの歴史的課題をさけて、日帝に身売りして、日帝支配に加担しているから。

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野底土南 4/23

I  琉 球 民 族 エ レ ジ ー

 この設問ほど吾々の祖国−−文字どおりウヤファーフジの国琉球に生をうけ、琉球民族としての誇りをもつ者にとって屈辱に満ちたものはない。
 「返還協定」の内容が、わが民族の悲願である軍事基地の撤去を無視したからというだけではなく、より根源的な次の諸点から屈辱を感じるのである。
 1.民族自決権−−憲法秩序の前提となる。憲法より上位の権利を米日両政府立法機関は無視したこと(国連憲章第1条)
 2.タキナムンヌチャー愚劣な政治屋どもはこの崇高なる権利に自覚することなく、主張することなく、しかも、後述するとおり任期を引き延ばして住民代表の虚構をもって、わが民族を日本に売り渡したこと。
 3.わが琉球と日本のそれぞれの歴史、文化を対比した場合、日本は侵略、殺りく、掠奪、戦争の連続であるのに対し、わが琉球はそれとはまったく反対の、もっとも人道にかなった平和と友好の歴史をもつこと。すなわち、わが琉球は道義の国であるのに対し、日本は犯罪の国である。それだから、日本を邪蛮とあてるのである。わが琉球の栄光の歴史、文化の特長を私は道理に求める。そして、この道理の魂こそ、今日の国連憲章の精神だと解している。道理の魂は、民族の同権と自決権の尊重−−主権平等、友好互恵の原則の前提をなす。−−を基礎として国際平和を希求するのである。
 4.タキナムンヌチャーは、オノレの民族の栄光の歴史、その文化価値、−−人類普遍の理念を求めて実践した過程で培われた精神を忘れて、イカサマ、マッカーサー憲法をば美化し、わが民族を幻想と虚偽の祖国へひきずりこんだ。
 人は法制というレッテルにとらわれて、実体−−栄光の歴史をもつ琉球民族の実体−−琉球共和国々民を自覚しようとはしないかもしれない。
 しかし、外部権力によって塗りつけられたメッキの化けの皮は、無意識のうちに、いつもはげているのに気がつかない。
 だが、目下の歴史の過ちに際会して、過去を省み、現在及び未来を語ることは決して無意味ではない。いや、幻想と虚偽の祖国邪蛮へ権力授受がなされた屈辱の日、72.5.15から恐慌が始まり、人心は動揺し、生活破綻にうちひしがれたこの惨状から出発しているこの意味は極めて重大かつ、暗示的である。幻想は、はかなくうち破られたのだ!
 無知、無能、他力本願、劣等感、怯懦、厚顔無恥のカタマリだった旧琉球政府、

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野底土南 5/23

旧立法院−−その一部は邪蛮政府の下僕となり、あるいは沖縄犬庁に、他は沖縄犬議会に蟠踞してこの一大破局に直面しても、あつかましくも、なお、人民の上に君臨して、ハカない延命もしくは動物的生存を続けようとする。そしてその言い草は、おきまりの「他政党または東京政府のせい」だ。ここには、オノレの責任など、みじんもないとするかのように。
 このことは、すでに予見されたことだし、私が68年の主席選挙でも訴えたし、昨年10月には「どうすれば通貨不安は解消できるか」というパンフレット(1972年現在、今でも各書店で販売している)で具体策を示してある。また昨年6月の参院選挙でも訴えたことはテレビ視聴者や立会演説会に出席された方は記憶しておられるはずだ。
 これほど、人民多数の生活と経済を破綻させた元凶(手前ばかりはヌクヌクと360円の読換を得ていた)が、その失政を省みず、なおも、自称「犬知事」「部長」「犬議員」として居座りを続けているこのザマーー
 あるテレビのインタビューで、さる婦人が、顔をひきつらせて、「暴動でも起こしたい」と憤激したあのやるかたない怒り……
 この悪漢どもにとっては、住民の福祉など始めからどうでもよいのだ! コイツラの一番の感心事は、現在の地位だけだ!
 だから何年も前から選挙のことにウツツをぬかしていたのだ。
 思い出せ! 一昨年末からコイツラが71年10月に終了する任期の延長のため、どんなに卑劣なことをしたかを!
 偉大なる琉球独立党は昨年6月、立法院と行政府を訪ね、「返還協定案」が住民の意志にそうものであるか否かを確めるため、早期に退陣して、主席立法院議員選挙を行ない、これを通じて、「返還協定案」に対する事実上の住民投票を為すべしと要請したのであるが、コイツラは、こともあろうに、主権者たる住民にはかることなく、米日両政府に衰訴して、任期の延長をたくらんだ。その大義名分は「復帰準備」=売国準備ともっともらしい口実だった。
 返還協定粉砕を叫ぶ革新三派及びこれに追随する「革新」の人々が、何故にそれを貫徹できなかったか?、答はいまや明らかだ。
 事実は、オノレが琉球処分=売国の加担者でないことを人民に印象づけるためのタンなる茶番劇に過ぎなかったのだ! 彼らがその気なら、屋良を退陣させ、選挙に訴えるか、さもなければ彼を強制して超法規の住民投票(返還協定案に対する有権者の賛否(○×式)の投票)を公選法に準じて実行させることもできた。わが党は正式に、後者の実現のため、各党、労組、学校等にも要請した。

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野底土南 6/23

 誰かいう、今日の政党は犯罪団体なりと。人民を売り渡し、経済を破綻させ、生活を破壊してもなお、人民の上に君臨して恥じないタキナムンヌチャー! そしてこの暴挙に対して、いんにん自重して、憤怒を行動にあらわさない人民大衆! だが、そのエネルギーはうつうつと圧力を増してやがて爆発するだろう。憶えば、1879年の処分は大局において迷血政府の一方的処分即ち併合だったが、1972年の処分は人民の意志を省りみず、沖縄犬民と自称する親ヤマトウ買弁グループの策略と加担によって実行された。
 この歴史的事実は永遠に消え失せないだろう。そして、公正な史家は、こう付け加えるだろう。
 「革新」と称する公務員が主動して、みすぼらしい邪蛮政府の下僕という地位とひきかえに、現ナマを求めて、わが琉球民族を売り渡した、と。
 だからこそ、声なき大衆は直感的に5.15の犯罪式典にソッポを向き、これまで、復帰のチョウチンモチしたハレンチなおしゃべり屋どもには筆をそろえて、この処分を型どおりなじった。だが真因はつかんでいない。
 おまけに、心なき雨までが、ひときわごう音をたてて泣き続けた。声なき大衆の1人は、人民のうらみに同情して泣き出したと形容した。
 この悲嘆にとぎれた暗黒のなかで、行政府ビルを見て、次のように詠んだ。

   アワレ! 忠犬沖縄犬!
 魂なき虫ケラどもが蟠踞っていたドンガラ、その名を琉球政府−−またの名をジー・アール・アイという。
 滅ぶべくして亡びた琉球政府−−ジー・アール・アイ、だが全く亡びたわけではない。
 黒幕が看板をとりかえさせ、高級妾に支配を委ねただけのこと。
 ……………………歴史は教える、人民の発意なき政府は、人民を売り渡すものなるを!
 1879年まではまだ魂が残っていた。
 だが、1972年にはほとんど消えていた。
 恥ずべきメカケという地位とひきかえに現ナマを求めてわが民族を売り渡した。
 そして恥しらずにも「犬」と名乗り出た。
 名は体をあらわす。高級妾の番犬として。そのくせ、あつかましくも、人民に向って「反戦自治」を説く。
 しかも、このいまわしいドンガラに蟠踞して。

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野底土南 7/23

省みよ!
朝秀−−朝保−−朝病に貫かれる売国の系譜を。
あゝ、病める現代琉球人民大衆!
汝は恥ずべきメカケを指導者とあがめ、363年間も追随してきた。
汝の言葉はこの事理をあらわす。
「アメリカ世」から「ヤマトウ世」へと。
だが、祖先は、とっくに予言していた。
「唐ぬ世」から「ヤマトウ世」「ヤマトウ世」から「アメリカ世」「アメリカ世」から「ニーマぬ世」と。
このニーマぬ世こそ琉球の世のはずだった。
歴史のテンポは、タキナムンヌチャーによって狂わされた。
だが、歴史の流れを、いつまでもおし止めることはできない。

II  原 因 論

 然らば、何故にかかる結末を招いたか?
 原因を説明の便宜上、意識面と政治経済面に分ける。意識と経済(上部構造と下部構造といってもよい。)との関係、相応関係と対立止揚関係は行論の中で展開される。
 また、原因の主たるものを列挙したが、スペースの制約を考慮し、特に、必要と考えるものには、実証を必要とする統計資料をも掲げておいた。この種の文化欄にはなじまないかもしれない。だが、社会科学、特に政治経済に対する批判を志す者は、自己の主張をうらづける証拠を検証して初めて、その主張の当否が判定される。だから、世の文人たちに原稿を書く前に、十分なデータの検証をすすめる。

  IIー(1)意識面

1.1609年以来の外国武力支配と両属政治(1879年までは支那帝国と殺魔、1945年以降は飴利漢帝国と邪蛮帝国)によって訓致されたところの精神病、他力本願、怯懦、退廃、奴隷根性、劣等感、迎合、自己喪失、諦観、自暴自棄、裏切り、買弁(外部権力と結託してオノレ個人の利益を謀るため民族利益を売り渡すこと)、二枚舌、たいこもち、無恥厚顔、無知無能など。

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野底土南 8/23

 これらの諸悪のカタマリが、独立尊厳、勇気、進取、誠実、創造、清廉、有知有能の気風を恐れる病理である。
2.羽地朝秀の「日琉同祖論」から屋良犬知事の「日本母親琉球乳のみ児論」に至る系譜
3.1879年から1945年までの皇民化=奴隷化教育による精神病の高進
4.1946年から現在までの邪蛮化教育による幻想加速化
5.「革新」による階級論の歪曲(利己的経済ものとり主義)と被抑圧民族解放視点の欠如。
6.インチキ歴史屋、三もん文士、教員どもによる琉球民族歴史の歪曲と復帰便乗。
7.邪蛮による思想文化支配と琉球人の迎合。−−政治経済支配を招く因果−−
8.邪蛮国家=東京政府に対する幻想−−県は東京政府の植民地なり−−
  今日の東京政府は徳川幕府(軍事独裁政権の意)の延長であって、1868年薩長土肥の下級士族どもの主動によるクーデターによって政権を奪取し、これに近代化の化粧を加えたものにすぎない。人民が主動してうち建てたものではないから、国民主権の憲法をもっているにもかかわらず、依然として、官僚独善独裁の政府である。何故にそうか?第1は、財政、金融、貿易、産業、教育、文化、科学の管理権と警察、軍隊、裁判の物理的力を併せ有しているからだ。ことに、財政、金融の極端な集中は正に人民の生殺与奪の権をもつ。第2に、この極端な集中によって、人民は飼い馴らされているばかりでなく、何千年にわたる武力支配によって骨の随までしみこんでいる官尊民卑の悪風が習性となっている。
 この背景に、各県すなわち地方の人民は、オノレの生地の文化を卑しみ、ネコもシャクシもすべて東京へ集中する。そこには東京優等地方劣等のコンプレックスがあらゆる分野を支配する。邪蛮復帰も。このコンプレックスに由来する。東京政府は、人民の文化を支配しているばかりでなく、次の統計が示すように、実に、財政金融の機構を通じて人民の富、すなわち金融資産である預貯金をも支配している。
 要するに、東京政府は巨大な銀行であり、経済の最高司令部である。経済と分化の支配権を奪われたものは被支配者であって主権者ではないことはもちろんである。ところが、相当の財政専門家でもこの事実を知らない者が多い。地方は東京政府の援助でうるおっていると単純に思っているのである。だから復帰有利論が横行するのであった。乞食同然、援助ばかりが政治の要諦であるかのように振舞ってきたタキナムンヌチャーにとって、この統計が示すところは、一大ショックに違いない。しかし、迫りくる経済破綻と資金欠乏によって初めて醒めるにちがいない。

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1967年度地方対東京資金収支バランス 単位:億円
 流 出 1*流入 2*差額 1*−2*(注4)
地  方人口(万人)銀行預金(注1)郵便貯金国 税(注2)合 計地方交付税等(注3) 
北 海 道5331,636 2,1941,5045,3341,3373,997
長   野200686 1,0452972,0284631,565
徳   島82568 424831,075258817
長   崎163564 6791581,4013931,008
鹿 児 島179285 7971541,236521715
 
東   京1,109(17,604)6,230819

(注1)銀行預金流出額とは普通銀行、信託銀行、長期信用銀行(全国銀行)の各県別預金残高より当該県内に対する貸付残高を差し引いた額をいう。
当該残高はそれぞれの銀行の本店(東京)に吸い上げられる。その結果、東京は1兆7604億円の資金を吸い上げている。
資料の都合で、全国銀行だけを用いたが、そのほか東京へ吸い上げられる主なものは、
1.簡易年金保険、2.社会保険、3.専売収入(タバコ、アルコール、塩等)、4.農漁協同信用組合の預金、5.生命、損害保険などがある。
(注2)国税庁年鑑による。但し関税は含まない。−−−は資料が得られなかったもの。
(注3)地方交付税、分担金、負担金、国庫支出金の名目で地方へ流出したものの合計。
(注4)このような資料制約のもとですら、東京政府地方の収支残高は軒並マイナスである。もし、一切の収支を集計したらその差はもっとヒラクだろう。

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 この財政金融のメカニズムによる資金の収支は復帰後どうなるか試算したのが次の表である。

琉球収支バランス 単位:百万ドル
流  入流  出
交付税、負担金として100国税80
国家公務員と国家独占企業体 社会保険特別会計年収21
から受ける給料等の見積50郵便貯金13
政府金融機関より(当初)50電々公社収入16
 郵便事業収入12
 民間預金の流出100
 タバコ収入20
資金純流出額122建設予算等のうち日本へ逆流
するものの推定30%
60
  合  計322  合  計322

 民間の商業ベースによる資金の収支は度外視して、いわば、制度上の資金収支を1971年度の予算書を基に試算した。その結果、1億ドルを超える資金の吸い上げが予想される。これまで、一切の税金、料金、タバコ収入は、まがりなりにも琉球内で資金として働いていたが、今後は主として東京政府の収入として、時々刻々流出する。この資金の流出は、如何なる政治力をもってしても、ひきとめることはできない。前表にみたとおり、各県は軒並に赤字を示しているところから、早晩、おなじ経路を辿るであろう。まして、ドルショック、復帰恐慌により経済の破綻は一層その度を増すから先行はまことに暗い。財政金融の自主権なくして如何なる経済の自立がありえようか。また、その反映である文化上の独立もありえようか。日本の各地方の人々は、自分の地位が東京政府の植民地であると意識する者は殆どないかもしれない。意識がないのは、長い間中央権力に飼い馴らされた結果であって、日本に民主主義が育つ基盤がないことの証明にもなる。また、地方の過疎、都市の過密、公害の真犯人は誰かをもこの表は示している。富と権力の極端な集中、しかも、その巨大なる富の管理が、わがままで独善的な

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 官僚と一部グループによって事実独占されていること。また、この、矛盾を正当に認識していない邪蛮の学者文人政治屋ども。
 このような国を祖国と幻想し、追随するタキナムンヌチャー。あゝナンタル無知か!
9.現代に対する時代認識の欠如と琉球民族の世界における地位の認識の欠如。更に琉球民族文化=民族精神=道理の世界史的意義の無自覚(前掲P5拙著参照のこと)
10.国家、民族、階級、文化、自治、独立等の概念の混乱と思想営為の怠慢。
  −−概念の目的性と相対性
  −−琉球民族更正のための哲学の必要性
 スペースの制約のため充分説明できないので、最初の二つについてはやや詳細に、残余については簡略にした。
ア 国家とは何か
 この言葉は迷血政府が西欧から近代制度を輸入したとき、英語のステーツ、ドイツ語のスタット、フランス語のエターの訳語として今日に及んでいる。オックスフォード英語辞書は「ステーツとは組織された政治権力集団であって、その人民、連邦諸国の承認を受けた政府をもつ」とする。このことからもわかるように、本来の意味は政治権力集団であることをしっかり理解することが大事だ。通常、組織された政治権力集団のことを権力または政権ともいう。権力グループは厖大な官僚軍隊からなる政治をもっている。この権力グループは一定の領土、人民を支配するからステーツはその領土、人民を総合した意味(総体概念)にも使われる。つまり国と同義につかわれる。このように理解するのが普通である。ところが、「国家」という訳語からは、その本来の意味を現わさないばかりか、国と家という全く別個の概念−−支配と被支配という相対立するものを混同せしめる有害な造語であるから注意する必要がある。何故にそうなったか。察するに、その魂胆は当時、天皇中心主義−−権力、道徳一切の上位に天皇制を構築するためであった。まるで、天皇は国民を一家とした場合の家長に当るという過った概念を植えつけるために、ワザワザ国家としたのであった。
 事実、戦前の教育は人民を天皇の赤子として動物のような批判力のない具民に馴致した。皇民化教育とはこのことだ。戦後の「日本国民教育」も本質的にかわらない。屋良犬知事の日本母親論はその名残りにちがいない。また彼が好んで「昭和」年号を用いるのもそのあらわれとみてよい。

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 この誤った「国家」観が人民をたやすく戦争に駆りたてさせ、「天皇陛下バンザイ」と自分の尊い命を落とさせるのだ。!
 この訳語は全く誤りであるばかりか危険である。
 正しく表現すれば、本来の意味の場合は権力集団、政府を含む場合は中央政府、またはたんに国といえばよい。総体概念としても同様、こんなところにもジャパンの学問がどんなに低級であるかよくわかるというもの。
 ところで、この本来の意味での国すなわち佐藤政権は、はたして、全国民の利益を守るだろうか。サトウ君は、しばしば国益という言葉を乱発するが国益とは一体誰の利益のことだろうか。
 権力または政権というものは、これを擁立したグループの利益を守るために生れたのだ。逆にいえば擁立グループは自分の利益を守るために巨費を投じて擁立したのであって、全国民の利益を守ることは当初から予定されていない。
 このように政権というものは成立の当初から差別するために生れるのである。
 わが琉球における屋良政権だって例外ではない。屋良政権を擁立したのは沖縄教職員組合を中核とする主として下級公務員グループであった。屋良政権は成立する当初からこれら公務員グループの利益を守るために生まれたのである。ありていにいえば復帰によって教員や他の下級公務員の賃金が、日本並に引きあげられるだろうと当初考えていたから、すなわち、彼らの経済的利益をはかるために屋良政権を誕生させたのだ。事実が示すとおり、「住民福祉優先」をエサに、公務員の賃金ひきあげに最優先の順位をおき、後述するとおり、政府財政を破綻させ、インフレをまきちらし、経済を破局におとし入れたことは誰の目にも明らかである。
イ 民族とは何か
 国家と同じく、民族も英語、フランス語、ドイツ語のネーション、ナシオン、ナチオンに由来する。民族という訳語は、血族、家族と並んで血の匂いが強い。
 しかし、今日、ネーションというとき、こういう血の問題ではなく、正しく被抑圧者たる人民が団結して、支配者から主権の地位を回復する運動に参加するとき、これら人民は民族と呼ばれる。訳語としては人民としてもよい。個々的に見れば、いろいろの人種もあるが、それは本質的なことではない。これが、現代における民族の本当の意味である。
 これを学問的には次のように表わす。
 「民族とは生物概念ではなくて、政治概念である」と。

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 日本を祖国と呼んだり、古くは日琉同祖論、現代では「日本母親琉球乳のみ児論」となり、復帰運動の「理論」的支柱となったが、全く誤った非科学的奴隷の言辞にすぎない。
 さらに、ふえんすれば、日本の各県は東京政府の植民地であることはすでにふれたが、例えば北海道や九州の人民が東京政府の支配に抗して自から主権の地位を求めるとき、北海道民族、九州民族が成立する。このことからもわかるように、人種、言語、習慣、伝統の共通性は必ずしも一国を結果するものではない。
 要するに、一定地域の人民が団結して自分自身の国をうち建てようとするとき、その人民総体が一民族となるのである。
 わが琉球は日本の各県と本質的に異る。吾々の歴史が示すとおり、邪蛮の武力侵略併合による強制的皇民化によって、今日の「塗りつけられた日本人」意識がでっちあげられたのであって、しょせん架空のものにすぎない。それを示すよい証拠は、琉球人民は日本全体をヤマトウ、ヤマトンチュと区別する言葉であり、意識である。言語は正直なもので、民族の魂の発露である。民族語を忘れれば当然民族魂を失うようになる。民族語を「方言」と呼んで蔑視し、「方言罰礼」をもって、もの心つかない青少年の魂をむしばみ、地名や人名まですべてヤマト風に改めて恥じない邪蛮化教育が真人間をつくるはずがない。
 このように歪められ、つくられた人間がさらに歪められた人間を、拡大再生産する。30代から40代の自称「歴史屋」「文学者」の意識にハッキリ現われている。例えば、1879年の琉球処分を「上からの被民主的統一である」としてあくまで目先の復帰運動に便乗して恥ぢない。この歴史屋どもは用心深く、1880年(1879年の翌年)日清間に妥結した琉球分割併合交渉−−歴史屋どもはさりげなく分島問題とよぶ−−をかくす。その交渉は米国のグラント将軍を仲介者として日光で2〜3回明治天皇も出席して行なわれた。紆餘曲折の末、宮古以西は清帝国が、沖縄島以北は邪蛮帝国がそれぞれ併呑することに落ちついた。この事実を見ても1879年の処分は、あくまで、領土的野心に基づくものであったことは否めない。げんに井上清教授は、明治政府は琉球の独立を援助すべきだったと述べている。
 また、独立を時代逆行と独断するヤカラは、世界史の流れや琉球民族の歴史をしらないことを自白するものだ、この人たちをつくりあげた邪蛮化教育が実は、そうさせているのだが、本人は、それに気がつかない。

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ウ 階級とは何か
 英語のクラスの訳語であって、本来、経済的地位の区別である。資本家階級と労働者階級上流階級と下流階級の如きである。
 現代の財政と金融のメカニズムは人民大衆の資金−−税金、料金、預金を政府と金融機関に集中せしめ、世界貨幣である金は権力が独占管理し、代って無価値同然の紙片を強制適用させる。信用制度のおもむくところ、人民大衆の蓄積=預貯金の価値は自由自在に収奪されるに任せて抗するスベもない。
 税金、料金、預金の社会経済的性格は近似する。前二者は直接支払われるから収奪を直接感じるが、後者は表面上いささか利子がつくため、安心する。ところが、収奪者は巧妙に、信用の拡大または財政支出をとおして、苦痛を感じさせない方法で価値を奪うから人民大衆は眠ったままである。実はこの収奪の方がはるかに大きいのだが、そのカラクリがなかなか、わからない。価値意識のマヒ症状は、国の権力による強制の所産だが、そのマヒ症状に乗じて虚構の資本(価値の収奪)を人為的に大量生産できる。本来の預け主である人民大衆にとっては、自分の資金でありながら、自分のものでない状況が支配する。事実、通貨は一片の口座に化体して抽象的預金債権に転化する。かくして、古典的資本家(資本主即経営者)は政治的にも経済的にも無力化しており、代って人民大衆の資金を管理する階級が政治的にも経済的にも強者となり社会の支配者となる。この階級が政府、金融機関、市町村、独占企業体に属する役職員であることはいうまでもない。
 試みに、1969年度の琉球国民所得6億3,700万ドルに対して、同年度の政府一般会計予算及び特別会計運用資産総額の合計約2億7,500万ドル、それに、金融機関(外銀を除く)預金総額5億ドルを加えた合計7億7,500万ドルを比較せよ! 百万人の人民が一ヵ年間に稼いだ所得合計の実に1.2倍の巨大資金(その殆んどは人民の蓄積から成る)を、せいぜいたかだか、僅か20〜30人の人間が無秩序に管理しているのだ。
 さらに、企業の資本構成比をみれば、今日の企業の資本主が実質的に誰であるか判然する。琉球政府がまとめた主要企業(金融機関を除く)86社の68年6月末日現在の資本総計は1億5,000万ドルで、そのうち自己資本構成比はわずか29%にすぎなかった。残余71%のうち80%は銀行からの借入であった。銀行資金の源泉は人民大衆の預金であるから、右86社の資本の56%(71×80%)の事実上の資本主は人民大衆である。

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 ここに新しい社会観、人民のものを預かる受託者階級と、そうせざるを得ない多数者である委託者階級との矛盾対立を意識する根拠がある。殊に今回のドル価格低落に、みられる価値収奪がどんなに巨額(2億ドル以上)であったか、また、このことの起るべきは、おそくとも68年3月には予見されたにもかかわらず、しかも、私が68年11月の主席選挙で訴えたにもかかわらず、琉球政府はもとより、金融機関の諸君までが、無為無策であったことは、これからさき、人民大衆の資金の受託者としての資質を疑うにじゅうぶんである。
 しかも、この収奪が抑圧者であるアメリカ政府の政策によって行なわれたこと、この収奪は、わが琉球のすべての階級にひとしく及んだことを見ても、自称労働者階級とする者は外部矛盾が内部矛盾よりも一層過酷であることを自覚しなければなるまい。併合後は、米日連合による抑圧と収奪がさらに拍車をかける。
エ 文化とは何か
 三もん文士やインチキ歴史屋どもは、やたらに文化を乱発するが、実は文化の真の意味を理解していない。「沖縄の問題は政治の問題ではなく文化の問題だ」とか「政治的独立はなくても文化的独立は望ましい」とか、ホザクとき、政治とは何か、政治と文化との関係について全き無知であることを告白しているのだが、当人は、その厚顔無恥と無知無能のゆえに平然としている。
 文化とは人類普遍の理念を求めて、これを実践する過程、または、その過程で培われた魂といってよい。
 分説すると、人類普遍の理念とは、世界史的観点に立って自分のよってたつ基盤−−すなわち、被抑圧民族である琉球民族の立場から民族の主権回復の大道こそ、人類普遍の理念でなければならない。何故なら被抑圧者としての琉球民族の地位は人類普遍の理念−−人民の同権と自決権に反するから。
 たんに理念をしゃべるだけでは実践したことにはならない。被抑圧者の地位から主権の地位に転化するためには、抑圧者から、その権力を奪いとらなければならない。これが政治の意味である。独立なくして文化なしである。
 文化上の地位の決定権は主権の地位から派生するのであって、決してその逆ではない。文化それ自体が主権の地位を離れて存在するものと夢想するのは歴史や国の本質に関する無知からくるものである。
 数年前までは、殊勝にも「琉球処分」や「醜い日本人」を告発した人たちが、最近の情勢の急迫につれて、恥ずべき「宿命論」や「文化論」を唱えるこんたんは

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何処にあろうか。
 いわずとしれた、内なる敵、買弁権力と邪蛮権力への併合であることはいうまでない。
オ 自治とは何か
 英語のセルフ・ガーバニングの直訳であるが、欧米、殊に国際法上は独立と同義とされる。ところが、邪蛮でいう自治とは外部権力に隷属する下僕という位置を意味する。字面からみると、「自ら治める」と、いかにも、きこえはいいが、内実は下僕だ。すでに分析したように、県は政治的にも、経済的にも文化的にも邪蛮政府の植民地すなわち下僕にすぎない。地方自治とは地方下僕と同義である。
 憶えば、一昨年来、琉大インチキ教員どもが「特別自治州」を唱えたり、ナマハンカな新聞が「反国家」や「拒絶の論理」とかいう邪蛮輸入品をうけ売りしたが、オノレの買弁性をおおいかくすためのマヤカシにすぎなかった。
 これらに共通する点は独立をいみ嫌い、おそれる精神病である。邪蛮化教育の罪業だ!
カ 独立とは何か
 完全なる主権国家琉球共和国をうち建てることである。琉球人民が琉球共和国政府をとおして自己の政治、経済、文化の地位を自由に決定することである。
 この主権という地位をぬきにして、いかなる経済、いかなる文化がありえようか。
 国の本質と機能に関する深い理解と世界史の進展に対する洞察なくしては、政治、経済、文化について語る資格がないのである。
概念の目的性と相対性
 以上の説明からわかるように、ある言辞がもつ概念が、わが琉球民族のもつ歴史的使命とのかかわりで、明確な目的性をもたない場合、その概念は極めて有害無益となる。
 外部権力の権威に劣等感をもつわが琉球のインチキ知識人は、無批判に外国の輸入品のうけ売りを業とする。「歴史の創造」とか「土着の思想」とか、空虚な言辞を並びたてるが、実際は、借りものだから、内容がない。
 ある者のごときは、「うらみ、つらみ」「なきごと」、最近では「あきらめ」「ぜつぼう」「とうひ」を書きたてることが、さも、文化のように考えこんで恥ぢない。
 要は、自分の頭と足で、真剣に思索し、実践し、批判し、知行一致の気風を

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養うことにつきる。

  II−(2)政治経済面
(1)琉球政府、各市町村財政破綻
 スペースの制約により琉球政府の71年対70年度一般会計予算の歳入歳出の比較分析だけを掲げる。

比較歳入歳出分析表 単位:US$1,000
 19711970増 減伸率%
租税99,976 49.485,145 49.714,831 13.2 
 罰金官業収入等3,345 1.74,596 2.7(1,251)(27.2)
 経営収入小計103,321 51.189,741 52.413,580 15.1 
借入17,500 8.613,472 7.84,028 30.0 
 自己財源計120,821 59.7103,213 60.217,608 17.1 
外国依存81,498 40.368,116 39.813,382 19.6 
 合   計202,319 100.0171,329 100.030,990 17.1 
 人 件 費74,979 37.161,354 35.813,625 22.2 
 対象人員[120,821] [24,849] [188] 
 運 営 費9,259 4.69,036 5.3223 2.5 
 事 業 費117,832 58.2100,589 58.717,243 17.1 
 予 備 費250 0.1350 0.2(100) 

 人件費の伸び率22.2%が租税伸率13.2%の倍近く急伸していることが、世の指弾をうけたところ。政府与党の機関紙の観を呈した某新聞ですら、この予算案を「公務員ベースアップ、事業費ゼロ」と痛烈に非難した。一人平均月収でみると、70年の206ドルから一挙に250ドルへ、年にして、一人当り528

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ドルの増収にあたる。ちなみに、69年度の琉球勤労世帯の平均月収104ドルと比較しても、その高さがいかに高いかおよそ見当がつく。
 しかも、増税の内容をみると、石油税(ガソリンの値上率2.25%)煙草消費税増税6%)等と物価をおし上げる物品税のひき上げによって増収を計っているのである。
 この大幅賃上げ斗争は、既得の水準が復帰後邪蛮政府または犬庁に引きつがれるのを見越して、いわば、既成事実を作る思惑が働いていた。
 年中行事と化した斗争によって、例えば別紙教員の月給比較表が示すように「本土並み」を上回る水準に達していた。殊に、全逓のごときは、平均して30ドルも「本土並み」より高いと報ぜられている。
 他方、事業費の伸びは表面上17%となっているが、執行の都合で、前年度から繰り延べられているのが相当あるので、それを除外すると、7%になる。
 72年度の予算も大同小異であるから、屋良政権は公金をぶんどるために登場したと評しても、決して酷ではない。あれほど、住民に公約した物価安定策など、むざんにも裏切る施策が実はこの予算である。
 さる70年8月の予算騒動は、まだ、人の記憶に生々しくのこっているところである。
 もし、ほんとに自ら協約した数々の公約、なかでも人民大衆の福祉に直結する物価安定策を実行する誠意があるなら、人件費の増額分1,362万ドルのうち少なくとも500万ドルは物価安定基金として、たとえば流通機構の整備、生鮮食料品の貯蔵施設、生産調整のための諸施策が実行できたはずである。72年度でも同じ。
 しかし、屋良政権を支える沖縄教、官公労の諸君に期待するのは無理だ。何故なら、彼等の習性が極めて利己的であり、住民に対する誠実さ、思いやりが、 みぢんもないからだ。
 しょせん、役人であって、収奪者である本性に変りはしない。
 憶えば、戦後民主政治とは、多数なる人民の税金、料金、預貯金を管理する少数の受託者が、これを身勝手に喰いつぶす競争であったといえよう。この斗争に関する限り、保守、革新は、表面上の対立にもかかわらず、親密な同盟者である。
 何故なら、上級公務員は概ね保守のリーダーであり、上厚下薄の分前に、手をぬらさずにあずかるからだ。この上厚下薄の実体はの実体は次の琉球高官の月収比較表が示す。
 保守、革新は実は同じ穴のムジナであることは、今や、誰の目にも明らかである。

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 小中学校教員月給比較(Ryukyu対Japan) 1971年3月10日現在
 校長クラス教頭、教諭クラス助教諭クラス
国 別RJR−JRJR−JRJR−J
最 低115
$193.70
100
$168.60
(\60,700)
$24.90 109
$96.80
100
$88.60
(\31,900)
$8.20 98.7
$77.90
100
$78.90
(\28.400)
△$1.00
中 位12)103
$257.20
100
$249.20
(\89,700)
$8.00 17)106
$208.00
100
$191.70
(\69,000)
$16.30 12)114
$147.00
100
$128.60
(\46,300)
$18.40
最 高23)105
$346.80
100
$330.50
(\119,000)
$16.30 34)121
$311.60
100
$256.70
(\102,400)
$54.90 23)105
$187.80
100
$179.40
(\64,600)
$8.40

 RJR−J
期末手当支給率(年)475
100
470
100
5
昇給期間の相違(月)6,9,12,1512概して中位
以下はR、有利

(注)中位、最高左右側の数字)は勤続年数を示す。
   R……Ryukyu側  J……Japan側  R−J=差額
   J欄(\××)……(Japan)その上の数字は$1.00=\360のレートによって換算した。
資料 R、教育職関係給料表(三)とJ、教育職俸給表(三)
       立法154号       人事院勧告1970.8.14

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琉球高官の新旧平均月収比較表(注1)
地      位
1971年度 1*

1970年度 2*
昇給額
1*−2*=3
昇給率%
3*÷2*
ジャパン
1970
電々公社総裁(注2)$986.58$843.33$143.2517.0知事平均
$830
主席、立法員議長、高裁主席判事$921.25$830.00$ 91.2511.0議長平均
$603
琉 大 学 長
土地住宅公社総裁、下水道公社総裁、
大衆金融公庫総裁
$879.38$788.50$ 90.8811.5 
副主席、復帰準備(委)琉球代理
立法院副議長、高裁判事
$781.67$691.67$ 90.0013.0副知事平均
$636
観光開発事業団理事長
立法院議員
$683.96$594.83$ 89.1315.0県議員平均
$476
政府の各局長、会計検査員、金融検査官
人事委員、立法員事務局長、高裁事務局長
地方庁長
$670.00$581.00$ 89.0015.3 
復帰準備委員会事務局長
琉大事務局長
$580.67$532.58$ 48.099.0 
琉政東京事務所長、郵政庁長
警察本部長
$534.88$489.70$ 45.189.2 


(注1)平均月収=年俸+期末手当/12 但し6ヵ月に遡及する修正分は含まない。
(注2)国家独占企業である電々公社はお手盛りで、琉球第一の高級を食む。従業員は推して知るべし。主席よりも高い点に注目せよ!

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野底土南 21/23

 このぶんどった公金が、通貨(ジン)による選挙の源泉であり、更に次のぶんどり合戦の基金として働く。この際限のない悪循環のなかに、心ある若者は絶望し、いらだち、人民大衆はますます政治に対して、無関心または懐疑的となる。
 新しい社会観−−委託者階級である人民大衆による受託者階級のコントロールが、体制の如何をとわず要請されるゆえんである。
 100年以上昔の尚コウ(サンズイに景頁)王の嘆きをかみしめるがよい。もっと自戒の言葉としたい。

   上下(カミシム)や詰(チ)まて    KAMI SHIMU YA CHIMATI
   中(ナカ)や蔵建(クラタ)てィてィ  NAKA YA KURA TATITI
   奪いとぅる浮世(ウチユ)       UBAI-TURU UCHIYU
   治め(ウサミ)ぐりしゃ        USAMI-GURISYA

 但し、上下は、主権者たる人民と、置き換えると、封建時代も、「主権住民」の現代も、税制秩序は全くかわっていないと断じてよい。
 屋良政権に経済政策としてみるべきものがなかったのも決して偶然ではなかった。
 琉球政府は滅びるべくして亡びたのだ!
(2)邪蛮政府の援助と干渉の増大
 売国層をとおしての支配、公務員の迎合
(3)邪蛮資本による侵略
 (ア)経済支配から政治支配へ
 (イ)さらに、思想文化の支配へ
 (ウ)その可逆的相乗的支配従属のルツボへ
(4)政党、企業、労組等一切の組織の東京司令部への系列化=支配従属分裂無力化
(5)ドルの地位低下とニクソン・ドクリリン       =通貨による支配従属
 世界の憲兵たる米帝は、世界戦略−−殊にアジアの支配を自力で維持することができず、邪蛮に肩代りと分担を迫った。返還協定の背景である。佐藤は「失地回復」の「偉業」をなしとげたと宣伝することによって政権の座を維持せんとした。だが、米日間の経済矛盾は、必然的に政治外交、軍事の矛盾へと発展する。米中接近はそのあらわれである。

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野底土南 22/23

III  結 び

 琉日間の経済矛盾は、一層先鋭化する。既に起きている破局はそのあらわれであり、小手先のビホウ策ではとうていおさまらない。
 米日双方によるインフレ収奪政策は、すでに財政の自主権を放棄したわが民族を、ろこつに収奪する。現在の物価高騰は、一時的な現象とみてはならない。邪蛮のインフレと高関税政策が然らしめているのである。そして、そのインフレ政策は、日本経済の矛盾−−生産過剰と輸出市場の狭溢化−−のため、人為的に景気を浮揚する必要上、今後も続けるからだ。財政、ことに関税の自主権を放棄したこと、換言すれば、邪蛮政府の植民地となったことが問題の解決を一層困難にしているのである。民族の悲劇はまたもや、買弁売国層によってもたらされた。
 しかし、人民は、いつまでもだまされ、泣き寝入りすることはないだろう。
 何故なら偉大なる琉球独立党が、敢然と人民の側にたち、進むべき方向を明確にしているし、情勢は偉大なる教師として、人民を否応なしに導くから。琉球人民よ、ふるい立て!

野底土南と嘉手苅林昌

風狂の歌人(うたびと)嘉手苅林昌氏と語る党首野底土南 普久原音楽事務所にて

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野底土南 23/23
総合貸借対照表要約

1968.6.30単位:百万$
当座資産19.4買入債務9.1 
棚卸資産19.3短期借入35.5 
その他資産 9.0その他 15.7 
流動資産合計47.7流動負債合計60.3 
固定資産等101.1長期借等 45.2 
 負債合計 105.571
 自己資本 43.329
総資産 148.8資本源泉 148.8100

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大城正男 1/19

 さらなるウチナーンチュ
        へ向って!

評 論 家    
大 城 正 男 



 この文章は、沖縄で生れ、沖縄で育ち、そしてさらなるウチナーンチュたらんと欲しているウチナーンチュによって綴られていることを、まずはじめに断っておきたい。
 本来なら「さらなるウチナーンチュへ向って」と銘打ったことでもあるし、ウチナーンチュが何たるかの説明らしきものから、はじめに書き出すのが常道なんだろうけれども、それがヤマトウグチで書かれる限り、いくら言葉を労しても到底ウチナーンチュの理解には達し得ないだろうと思うので、2・3のエピソードを引用しつつ、かつ「モトシンカカランヌー」、「それは島」、「生きる」のドキュメンタリーを伏線にからませつつ、そこから発展させて行きたい。(モトシンカカランヌーについては、去った1月、那覇、コザ、名護での上映があった故、観ている方も多いと思う。)
 僕らがウチナーンチュに徹するということは、単純に言ってしまえば目標をはっきり日帝権力にしぼるということであり、差別され抑圧された人民が中央権力に対して、言語、文化をも含め、完全に開き直ることを意味し、そしてウチナーンチュに対してヤマトゥンチュと僕らが呼ぶことは、韓国で「倭奴」(イエノム)と呼び、アイヌが「和人」(シヤモ)と呼ぶ、その日帝せん滅の為の包囲戦略ライン上の一角を占めていることを意味し、それは太田竜氏(情況71年10月号)が言うように、琉球は日帝を滅ぼす為の最北端でこそあれ、絶対に日帝の最南端であってはならないことを意味する。
 さらに、僕らがウチナーンチュに徹するということは、ヤマトウと徹底的に決別することにより自我を確立し、中央権力に対する開き直りから、他の幾多の「辺境の独立」を促すという意味を持ち、それはすべての運動ないし闘いの基本であり、原点であり、そして普遍的である。(僕らが沖縄に住んでいるからウチナーンチュに徹するというだけの狭いナショナルな意味でのそれでなく、それは地理を越えて連帯するであろう諸々の同志達の総称であり、それをウチナーンチュと僕が勝手に呼んでいる。地理を越えることは後で少々ふれる。)

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大城正男 2/19

 しからば何故に!
 それを説明する前に、一つの謎々遊びをしよう。
 来る5月15日に決ってしまった「沖縄返還」が問題だ。それはいろいろな屈折を経て、風雪に耐え(間違い、沖縄では雪は降りません。)随分ボロボロになり、それ相当なサビもつき、いくらかさまになり、世をあげて評論家と称する者達の飯のタネにもなって、一端の理論大系にも支えられるような高次の問題とはなったが、実際にはどうだったのか。沖縄においては、時期尚早とか、内部における若干のニュアンスの違いはあっても、すべての前提であり、神聖にて不可侵なりの観を呈しているこのデッチあげられた神話の裏を見透す為には、この際、よけいなものは一切取り払い、インテリ好みの妙にへ理屈をこね廻すような真似はよしにして、出来る限りにおいて単純、簡潔にしてストレートに進んで行こう。
 さて、では「沖縄返還」運動の最初は何であったのか、島ぐるみの土地闘争であり、対日平和条約なるものの調印によって、第二次大戦遂行の責任追求の緩和に対する見返りとして(なんせ、この時のA級戦犯が後には首相を任されている程だ。)日帝により一方的に売り渡された沖縄ではあったが、米軍に対するこの運動の発生は自然ではあった。ところがこの素朴にして正当なるレジスタンス運動が、祖国復帰運動に変えられたのは何故か、いやさ、変えたのは誰か、屋良朝苗を筆頭とする旧軍国日本の教育に毒された沖縄師範学校卒のタヌキどもである。教育とは恐ろしいもので、彼らの体内の奥深くに旧軍国日本は、梅毒菌の如く深く静かに潜伏し、やがて、開花するまでしんぼう強く待ち続けた訳で、これら運動の一貫した「反米」は、日帝にとってはまことに好都合であった。沖縄玉砕の尻ぬぐいもせず、まんまとその鉾先を米軍に向けさせた訳だから、本来なら、沖縄玉砕で蒙った戦争損害賠償を日帝本国に対して請求するべきを、あの屋良どもカイライ連中がくしくも、おお祖国、おお祖国なんぞと馬鹿みたいに叫びおってからに、これは旧軍国日本の教育に毒されたロボットどもを使っての日帝の裏面工作に他ならない。
 疑う者は試みに屋良主席に「韓国」ないしは「教職員会」と言わせてみるといい、間違いなく「クワンコク」「キョウショクインクワイ」と発音するだろう。僕はそのことに1ドル賭けてもよい。
 ついでに、最近のジャガイモをふかしたような屋良の顔が苦悩する顔の代表みたいに言われているが、あれば僕に言わせると一種のエクスタシーに達した顔で、

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大城正男 3/19

己れの成し得た役割に満足し、それに対する矛盾と混乱の渦に酔いしれているだけのことであり、彼はマゾヒストに違いないのだ。巷には、「あれは持病である顔面神経痛の高じた結果だ。」というのと、「復帰運動をすすめていく中でどうしてもああいう顔を、というよりポーズをとらざるを得ない情況があり、それを続けている内、元に戻れなくなった。」という2つの説があるが、どちらも信用出来ない。
 別に屋良をあげずとも、かんおけに片足つっ込んだ年令の沖縄の教師エトセトラでもかまわない。彼らが一様に「クワン」「クワイ」と発音し、そして祖国復帰運動の母体たる教職員会の中枢である事実を指摘すれば事足りる。
 戦前の師範学校なるものを考えてもみよ。
 一方で異民族だと差別し、一方で「お国の為だ。」「皇民として……………。」と沖縄人民を鼓舞し、多くの学生達を死地へ出向かせたのは誰だったのか。「クワン」「クワイ」と発音することは、まぎれもなく旧軍国日本の教育にしがらみになっているということであり、日帝のカイライであることの証しなのだ。
 こういう日帝の手先たるヤカラが、祖国復帰運動なるものを引きずって促進して来た訳だから、今回の沖縄返還協定の中味が、こうなるとは、あらかじめ計算し尽くされていたことなのだ。それを予感させた前兆として、屋良がはじめて立った主席選において「即時復帰」「時期尚早」と全く復帰前提レベルでの住民の意思表示以外ないかの如き印象を与えられ、その中で二者択一的に投票を迫られたことがそもそも間違いだった。そういう風潮をあおる意味で屋良の出馬は、実に効果的であったし、彼らカイライにとっては得意満面であっただろう。どんな演出家も、これには及ぶまい。
 そして見よ!今まさに鼻は落ちないけれども、時期到来と見事に花は咲いた。
 祖国復帰、日本テーコク帰属はまさに72年をもって完了した訳だ。72年で完了したということの意味はちいっとばかり重要だ。ついでだから蛇足だとは思うが、今少し続けよう。
 72年沖縄返還というものは、我国を含め、多くのウチナーンチュをまき込む程、巨大であったのだが、その実まやかしであって、真の我々の闘いとは別な次元に位置しており、眼前に沖縄をすえながら、結局は日帝の対アジア政策の一環だったのであり、そのことは日帝の対アジア政策におけ、明確に一つの段階である第四次琉球処分が完了したことを意味する。対アジア政策とは、昔日旧軍国日本が夢を馳せ、一度は途中まで到達したかに見えた「大東亜共栄圏」の完全なる再現であることは疑うべくもない。
 従って、我々の運動とは関係ない。いや関係ないと言い切ってしまえば語弊が

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大城正男 4/19

ある。少し言葉を変えよう。
 72年で完了ということは、日帝の側の琉球処分という一つの段階が完遂されたということであり、我々の運動はそれに関係なく進んでおり、72年に終る訳でもなく、停滞する訳でもなく、また72年からはじまる訳でもなく、以前から闘いは継続しており、これからも続いて行くであろうということであり、72年返還は我々の闘いに何らかの契機になるにすぎないだろうということである。
 蛇足につけ加える程度のものから本題をもつき抜けて霧中拡散してしまうことは、僕の最も得意とするマル秘技なのでそのまま続けることにする。
 それ故にアメリカ軍の撤兵による在沖黒人兵の帰国(身近にして、連帯し得る同胞の撤兵)、武器、弾薬の収奪の難しさ、そういう今までの諸々の有利な情況がなくなってしまうことで、早急に、もうこれで運動自体が停滞するんじゃないか、もう何を言ってみたって復帰は決まってしまったんだからという結論の出し方は困る。
 反対陣営の72年返還でこちらの闘いの明暗まで分けてしまうような考え方は困る。むしろ逆なのだ。これまでのまやかしの運動が我々の前から姿を消すことによって、改めて我々は真相、すなわち、復帰の実体を見続けていられるのだから。確かに、敵さんは数歩駒を進め、情況は我々にとっていくらか不利にはなる。しかし、決して安易に、白痴的オプチニズムに言うのではないが、ウチナーンチュは沖縄から居なくなりゃしない。アメ公が去り、ヤマトゥンチュが入っては来るが、ウチナーンチュはどこへも行きはしないのだ。ウチナーンチュはウチナーンチュとしてそのまま沖縄に居続ける。これは重要だ。そのことが信じられる故に、他の諸々のことも信ずることが出来る。
 ウチナーンチュが居る限り、闘いは続いて行くだろうと、打倒すべき敵が、今20数年ぶりに眼前に、再び姿を現わしたことにより、我々の闘いがより激烈に、より強固になって行くだろうと。
 ウチナーンチュとは、そのまま日帝に敵対することの意味を持ち、その志を放棄した者は、もはや在沖縄に関係なく、ウチナーンチュとは呼べない。逆に言えば、その志を有する者はたとえ在日本本国でもウチナーンチュと呼ぶことが出来る訳で、地理を越えることはそういうことをいう。
 これも信じられない奴は、ニヒリズムの殿堂入りをするがよい。オ・サ・ラ・バだ。
 思い起しても見よ、1970年12月20日にコザ反乱を。
 その時、どこに組織に指導された者が居た!どこに卓上の革命理論に支えられた

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大城正男 5/19

前衛と称する者が居た!彼らは誰に教えられるのでもなく、自ら、米軍から与えられたジョニ黒、ホワイトホースをぶち割り、それで米軍の車を焼くという毛理論を実践したのだ。誰に命ぜられることなく、自らの意志で石を投げ、ガソリンを運び、車を引き出し、ひっくり返し、火をつけたのだ。そして黄ナンバーのみを運び出したこと、それは狂乱の中にあって実に秩序然としている。数百の活動家を送り込み、数十の理論を寄せ集めたところで、車一つひっくり返せず、ましてやゲートさえ破れなかった各セクトの諸君は彼らにこそ、学ぶべきなのだ。日本本国でつちかわれて来た理論など沖縄では通用しないのだ。ウチナーンチュはそんなものをあてにしないのだ。立場は完全に逆転し、そしてそれこそが最も望ましくて正しい形なのだ。
 謙虚に耳を傾けよ。
 12月20日は諸君にこれまでの押しきせ的なカクメイ理論の放棄を要求している。思想はまさにこの時点において、辺境から中央に向って確実に逆流し始めている。
 前衛を称する者達!よく肝に銘じておくがよい。前衛とは天草四郎ではない。いわば、武器の運び屋だ。
 ついでのついでに断っておくならば、12月20日のそれは「ハンラン」なのであって「ボウドウ」ではない。あの時点から1年数ヶ月を経過した今日でも、まだまだ把握するのに定かならずの観があるので、この際断定してしまおう。12月20日は「反乱」だ。あの革命の闘士達(ボーイ、ホステス、バーテン、娼婦、一杯きげんのアシバー達、タクシーの運転手、商店のおっちゃん、アンマー、高校生、唯の通りがかりの人、etc)を暴徒と呼ぶのは権力の言葉だ。あの反乱は、沖縄の闘いにおかえるこれからの蜂起を予感させる。さっきの話と前後するが、72年をうんぬんするよりも、むしろ70年12月20日を総括せよ。これが我々の闘いにおける一つの突出した部分なのだ。そして今度はそれが黄ナンバーでなく、自衛隊のユニホームに目標が変るだろう。

 随分、廻り道をして来たが、さて元に戻ろう。あれ、何の話だったっけ。そうだ、謎々遊びの話だったな。
 屋良を中心とする復帰協の幹部が、旧軍国日本の教育のしがらみであったとすると、ここに旧軍国に本−−沖縄師範−−教職員会−−土地闘争から祖国復帰運動−−復帰協−−72年完了(日本テーコク帰属)と一つのはっきりしたラインが引かれ、小学生でも判る位の一目瞭然たる見事な図式が成立する。正面にアメ公を立てて

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大城正男 6/19

おきながら、裏で確実な計算の下に20数年間演出して来た訳だ。復帰協なんぞは己れがカイライであることも自覚出来ない忠実なるロボットであったのだが。
 ナッ! ナッ! この謎々は面白いだろう。
 よけいな形容や七面倒臭い理屈を取り除けば、実際単純すぎる程のこれまでの復帰運動の骨組みが透視出来る。我々はもっと早くに謎々遊びをすべきだった。但し、これは謎解きとしては面白いが、これが単なるパズルに終らないから問題はことさら深刻である。
 僕を含め、我々はこの単純な謎々も知らずに「復帰」「返還」「奪還」とめまぐるしく変って行く運動に振り廻されてはいなかったか。結局、中味は名称がどう変わろうと「復帰=日本テーコク帰属」でしかなかったのじゃないか。僕らもある時期まではそれに加担というか、むしろ割りと熱心に運動していたことは自己批判せねばならない。
 遅い、速いはすべてにファッション化した世の評論家どもの先陣争いに任しておいて、我々は気付いた時点から行動を起すべきだ。志を同じくする者よ、ウチナーンチュよ、改めて、一切の日本テーコク隷属路線と訣別し、新たに日帝に向けて再編せよ。
 5月15日以降もそう叫び続けて行くこと、運動、闘いを独立に向けて継続させて行くこと、それが最も大切なことだ。
×
 先程、師範卒の言葉について述べたが、言語という問題に関連して、今少し琉球と日本との関係を考えてみよう。
 羽地朝秀(向象賢)が「ひそかに思えばこの国の人、初めて日本より渡りたる儀、疑い御座なく候。」なんぞと日琉同祖論を唱えて琉球の国史たる「中山世鑑」を著し、続いて蔡温のオヤジ志多伯親方(蔡鐸)が「中山世譜」を著し、そしてかの悪名高き(強調するようで変だけど、間違いのないように、悪名です。)ヤマトウベッタリの蔡温によって「中山世譜」が改訂され、以後日本の古語と琉球語を比較対照した「琉球語彙」を編集した宜湾朝保や沖縄学の父と呼ばれる伊波普猷あたりまで受けつがれ、今ではそれが琉球史の通説となってしまったものだから「本当に琉球と日本は別個な民族体なのだろうか、日本の万葉時代の古語と琉球の古い言葉とは確かに類似性がみられるし………やっぱり琉球と日本は同じ民族で同じ祖先を持つのではなかろうか。」等と宜う御仁が余りに多いんでその辺からちょっとつっ込んでみよう。

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大城正男 7/19

 その前に「民族」とは、辞典から引っ張り出して来たような人種がどうの、言語がどうの、宗教、慣習がどうのというような概念ではなく、「民族」とは、現在同一地域にて、利害と志とを同じくする者達の共同体という認識だけは最低持たねばならない。さもなくばまたまたアダムとイブの世界にまで戻らなくちゃならない。こんな狭い地球にこれ程まで多くの人間が、これだけ長く住んでいて、人種だの、宗教だの、言語だの、そんな「純潔」は到底守り得よう筈がないのだ。その意味からすれば、歴史をひっくり返し、文献引きずり出してどれがどうのこうの言ってみてもはじまらないのだが。ともかくも今は進めることにしよう。
 さて、日本の万葉時代の古語と琉球の古い言葉とに類似性がみられるというが、そんなことはあたり前なのだ。
 文献からみると、753年、鑑真漂着が最初になっているが、文献にあらわれていないものを含めると、それの数十、数百倍の事実があったろうと思われるし、漂着の場合もあり、正式な通商の場合もあり、これまで長い間、幾多の出入りがあった中で、言語にしろ、文化一般にしろ、むしろ類似性がないというのが全くおかしいのであって、類似性があるというのは当然すぎる程当然なのだ。それを御大層に類似性がどうのこうの。ナンセンス!ナンセンス!
 簡単な例を引こう。
 よく使われている言葉で、家を建てる時に使う2×4の角材、これを大工達の間では「トゥーバイフォウ」と言う。戦後、米軍から来た言葉で完全なる英語なのだが、現在でもこれが一般的に使われている。たかだか20数年でも言語というものはこれ程までに定着するのだ。
 ついでだからもうちょっと例を引こう。
 馬鹿、間抜け、頓馬とかいう場合に使う「ノーテンファイラー」、これはどこの言葉だと思う?中国語だとさ。
 そして今は立派な水上店鋪が建ち(尤もその為に独特の風情はなくなったが)水さえみえなくなったが、かっての臭くて、汚ならしい、ちょっとした雨でもすぐにあふれ出る、あのなつかしいガーブ川でさえその言葉の由来は、山と山との間の谷間のことをパナル語、スティエン語では「ガプ」、クルメ語では「ガブ」、ワ語では「カプ」と呼ぶことから来ているらしい。すべて南方語だというが。
 もし、言語の類似性でもって、民族体がどうのこうのとなると琉球はアメちゃんとも中共とも南方諸国もすべて同じ民族だということになってしまう。これもやっぱりアダムとイブだな。

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大城正男 8/19

 琉球史からみる日琉同祖論もまた然り。
 羽地朝秀から伊波普猷に至るまで、琉球史の編纂に携わって来た者は、すべてヤマトウベッタリの、いわば売国的心情の者ばかり、国史として一番古い「中山世鑑」にしても殺魔(サツマ)に侵略されてから40年後に出来たものだ。だいたい「日琉同祖論」を唱えた本人が国史を著し、それに追従する者達のみが同様に国史の編纂に携わっているのだから、そういう歴史観、ないしは結論の出し方当然といえば当然といえる。
 とはいえ、そんなことを「祖国復帰」の根拠にされちゃたまらない。実に実に好意的に解釈して、1609年以降の国内不穏な空気の中にあって、たとえ日琉同祖論が精神安定剤の意味でしかなかったにしても、それが国史として残されるとなると、やはりその責は免れ得ない。
 そろそろクライマックスにさしかかって来た。
 今、日本語を使っている地域で最も難解な読み方をするのはどこだと思う。北海道と沖縄である。試みに読んでみるといい。「苫小牧」、「後志」、「長万部」、「美唄」、「染退」読めたかな。これが北海道で並べた順からすると「トマコマイ」、「シリベシ」、「オシャマンベ」、「ビバイ」、「シベチャリ」と発音する。それじゃ沖縄のはどうだろう。「喜屋武」、「勢理客」、「東風平」、「南風原」、「北谷」これは「チャン」、「ジッチャク」、「クチンラ」、「ヘーバル」、「チャタン」と読む。「国頭」、「読谷」にしても今では「クニガミ」、「ヨミタン」と呼ぶのに慣されてしまったがもともとは、「クンジャン」、「ユンタンザ」なのだ。いくら日本語とはいえ、土地の者でなければ、そうそう読めるものではない。しかし北海道と沖縄には、それが余りに多すぎる。
 これはどういうことを意味するのか。
 何故、これ程までに馬鹿らしいあて字が使われているのか。
 結論を出してしまおう。
 それは日本という範疇においては(もちろん征服された地域を含む)、北海道と沖縄が最も辺境であり、全く別な言語を持っていたからである。沖縄に限っていえば「ぐすく」を即「城」のあて字をもって来るような単純発想をみても判る通り(沖縄の「ぐすく」は御拝所から発生しており、蔵の意味もあり、正確に「ぐすく」が「城」の意味を持つのは、首里城と中城位でしかない。故にストレートに「城」と結び付かない。)それは日本語を使う野蛮人に侵略され、中央から派遣された青白いヒヨッコどもが、己れの教養とやらを振り廻し、勝手にあて字した結果による。

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大城正男 9/19

従って、読みにくければ読みにくい程、それだけ辺境だということになり、いや言葉を変えれば、それだけ全く別個な民族体として成立して来たということになり、それを無理に同化せしめようとした結果が最も難解なあて字ということになる。北海道のアイヌがそうであったし沖縄もまたそうであった。
 このことを理解せよ。
 言語撤廃の歴史、これは長くなるから略するが、沖縄にも義務教育制度がしかれた当初、国語というものは即方言から標準語への翻訳であり、余談だが、朝礼の時に「右向け右」を、偶々雨上がりの日だということもあり、「ミジ向けミジ」に聞き間違えてしまい、左側の水たまりを向いたら先生にぶっとばされたという笑い話もある位である。そして昭和20年代前半までに生まれた者なら憶えているであろう「罰礼」エトセトラ、僕らはこういうふうに教育され自分達の言葉を失いかけている。
 言語の撤廃、これは通貨の切り換えとともに植民地政策のイ、ロ、ハであり、もちろん同一民族の場合は植民地といわないから、全く異民族としての扱いである。
 さらにさらに決定的なことは、こちらが「僕らは日本人だ。」といくら思い叫ぼうとも、向こうはそうは思っていないということ、これじゃどうしようもあるまい。「ジキジン」の蔑称が形こそ変われ、まだ生きている。
 話はとんでもなく飛躍するが、同胞民族と思ってないが故に、渡嘉敷島集団自決を頂点とする沖縄玉砕を含め、他の諸々のことがいとも簡単に出来たのであり、これまでの350年間の差別の歴史がある。
 以上の点について議論の飛躍、ないしは論理性の欠落をなじる者があれば異論を唱えるがよい。論理が論理性を持つより以前に感性に支配されていることを、支離滅裂なるつぎ足しの言句でもって論証しよう。
 いやまてよ、論証するのはやめた。僕は論理を捨てたんだ。一切の表現手段を持たない人民の前にこざかしい論理など通用しない。
×
 やっとはじめに書いた三つのドキュメンタリー「モトシンカカランヌー」、「それは島」、「生きる」にふれるチャンスがやって来た。これらドキュメンタリーの持つテーマを媒介としながら問題を深化させよう。但し、映画批評ではないのでこのドキュメンタリーが現在的な問題を含んでいても、ウチナーンチュたるのテーマに関係なければ省略するし、こちらで勝手にテーマを拾い上げて行きたいと思う。
 まず「生きる」から。
 簡単に結論から言ってしまうと、前半は嫌味でくだらなく、胃が重く感じられる。

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大城正男 10/19

加害者の眼でストレートに、しかもそういうものを隠蔽ないしごまかしの作業(意味なく対象をもち上げたり、尊敬語で結んだりなど。)のもとに撮られていく、ここしばらくのドキュメンタリーの風潮を全く無視し(これを風潮と呼ぶには語弊もあると思われるが、他の言葉を知らない故、そのまま続ける。)こうも露骨に、オレタチが見たいんだ、オレタチが撮るんだという感覚でカメラが廻されたドキュメンタリーも珍しい。ナニ!そんなもんだよみんな、アッ、そうかね。ところが、一つのテーマを追っていた前半が全然面白くなくて、テーマを追い続けられなくなりヤケッパチになったのか、それとも休養の積りか、開き直った感じで撮った後半は少々面白く、前半のイラダチを解消するに十分である。もちろんこれは観る主体によって随分異なった解釈の出て来るシーンだと思うが、僕は結構楽しめた。
 オイラ、何はともあれカチャーシーが出て来るとうれしくてウキウキして来るから不思議だ。こういうものは理屈抜きで楽しめて、後半のみでなくはじめから「オールカチャーシーのシーン」だけでもよかったし、それに付け加えること、あと二本分の長時間でも僕は見続けていられたであろうと思われる。論理一切を超越し、そこにカチャーシーの世界を創りあげること、それも一つに意味あることと思われる。
 もう少し正確に言おう。
 見続けていられるのではなく自分も踊りたいのだ。その踊りの群の中に、その狂乱の渦の中に、飛び込み叫びたいのだ。そしてカチャーシーの世界を創り出すこと、すなわち秩序の混乱を、狂気の渦を、流動する民衆の怨念の噴出の環を創りたいのだ。それこそが、我々の最もめざす処のものではないか。
 但し、僕が勝手にカチャーシーにそれだけの意味を持たせているだけの話であるが、「生きる」の製作者の「カチャーシーのとらえ方」、そして「ウチナーンチュ(渡嘉敷島の人々)の生活は唄と踊りと祈りだ。」という認識には、いくらか内実の欠落した部分がある。
 カチャーシーに関しては僕自身、まだまだ暗中模索の状態故、竹中労氏が祈りにふれて、いくらか評論を試み、それを今回1冊の本にまとめたのでそれを参照してもらいたい。カチャーシーがどういうものか、だいたい判ってもらえると思う。
 「生きる」の製作者は「それでも人々は生きている。」という言葉でこのドキュメンタリーを結ぶ。ティーチィンで「映画は、ハッピーエンドで終らなければならないという確信を強くしております。」と補足しつつ。
 先程の「ウチナーンチュの生活は唄と踊りと祈りだ。」から「それでも人間は生きている。」に至るこの認識は、本人の自覚、無自覚を別にして危険だ。このような

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大城正男 11/19

認識は外野の凡フライの様なもので、風でも吹くとライトへ流される恐れも十二分に含んでいる。「それでも生きている。」ということは、確かに製作者達にとっては、一つの感動ではあろうけれども、それはあくまで第三者の眼から見た感動であり、常に対象と一定程度の距離を保ってのそれであり、たぶん当事者達とは永久に共有し得ない感動である。
 「それでも生きている。」という言葉は、今までその対象の側から発せられたことはなく、常に対象と一線を画して、カメラなり筆なり近代的表現手段を持った中央権力の側からの言葉である。
 つまるところ「生きる」の製作者には、内実の欠落もさることながら、根底的に己れとドキュメンタリーと対決しようとする姿勢、いわば解体に向っての相互葛藤が見られない。
 ともあれ、くどいようだが、後半のボインがしぼんじゃってナインになった、しわくしゃ婆さん達のカチャーシーは圧巻であった。僕は、沖縄の歴史は女の歴史だとも思っているので、あの女だけの踊りには圧倒された。マルチチャンネル方式にもまして、ダーイハクリョクなのだ。
 次、「それは島」行こう。
 こrは「生きる」と同様、同日四谷公会堂にて観た。映画が終った後、ティーチィンがあり、会場からの質疑もあり、製作者の答弁もあったのでそれにからませよう。
 製作者の意見じゃないが、ティーチィンで、東宝「沖縄決戦」と比して、「センレツ(?)なるイメージが湧かない、従ってすでに現実に負けてしまっている。」と言った馬鹿が居たが、阿呆かこいつは、ゲンジュツと腕相撲でもやったかね、手前勝手に沖縄をイメージ化してしまいやがって、インテリと称するキッカイなヤカラの悪い癖だが、沖縄はどのようにイメージ化されようとも、あるいはされまいと、そんなことには関係なく沖縄のままで存在する。
 爆弾の音が聞こえないから、血が大量に流れ出る所が見えないから、片手、片足がもげて飛ばないから、あるいは島民が、口に泡を飛ばして、己れの体験をしゃべらないから、今でも島民が恐怖に顔を引きつらして暮していないから、当時を回想するに十分なる残骸が出て来ないから「センレツなるイメージが湧かない。」とでも言うのかね、阿呆ぬかせ、島が風化し、島民が黙して語らないからこそ、なおむごいのだ。トクトクとして語れる残酷さなんてものの比じゃない。
 こいつは「ケマダの戦い」を観ていないに違いない。ポンテコルボがサラリと撮った

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大城正男 12/19

あの焦土のイメージ、僕に言わせれば、サラリと撮り流した感じ故になお強烈に印象に残ったし、そしてそのイメージが風化した島とダブルのだ。
 こんなヤカラには、谷川健一氏の(沖縄の証言(上))この言葉を持ち出して来ればこと足りる。ちょっと長いが引用しよう。
 「苦しみが大きすぎる時、人は告白する衝動を失い、それにふれることを極度に嫌悪する。沖縄の民衆が過ごした戦後は、まさにそのようなものであった。極限情況まで追いつめられた庶民にとって、その苦難はあまりに大きすぎたので、それを語ることを欲しなかった。しかし、それは沖縄の庶民の心底にまるで鋼のように重く、冷たく沈んでいたのだ。そしてやっと戦後20何年目かに、彼らの寡黙な心情は、戦後体験を語ろうとするまでに余裕をもってきた。とすれば、沖縄の戦後はこの沖縄の民衆のかかえてきた沈黙の岩盤にささえられていたといっても、けっして過言ではない。これこそ、戦後の沖縄の思想の原点であることを私は確認した。沖縄の戦後は、この無告の民の沈黙から出発し、沈黙の岩盤にささえられてこんにちまでやってきたのだ。沖縄の戦後社会をいろどるさまざまな現象や事件の鍵はここにある。」
 カッコいい言葉ではないか、その指摘は半分以上正しい。但し、「そしてやっと戦後20何年目かに、彼らの寡黙な心情は、戦争体験を語ろうとするまでに余裕をもってきた。」という部分はいけない。せっかくカッコいい文章で続いていながら、その後に「余裕云々」が出て来ると、ウチナーンチュは思わず考えざるを得ないのだ。判っているようでやっぱり判ってないなと思うのだ。
 またまたはずれる気もするが、その部分を取りあげてみよう。もちろんこれは、谷川健一氏一人の批判でもなく、別にあげ足取りが趣味だからという訳でもなく、唯、その一行に重大な意味が含まれていると思われる故、あえて、少々の強引さを承知で進んで行きたいと思うだけである。
 谷川氏の指摘は割りと肉迫してはいるが、やはりヤマトゥンチュとしての限界みたいなものは免れ得ない感じがする。間違いとは言わないにしても、ヤマトゥンチュであるところの谷川氏のどうにもならない体質とでもいうべきものであり、「余裕云々」の言葉はしょせんヤマトゥンチュの発想でしかない。「余裕」とはヤマトゥンチュにとっての余裕だろう。沖縄では、今だに20数年の緊張状態が続いており、それこそが絶対に絶やしてはならないものだ。
 言おう。
 ウチナーンチュが、戦争体験を語るというのは、茶飲みつつよもやま話に花咲かす、

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大城正男 13/19

ないしは涙するというたぐいのものではなく、ウチナーンチュが語るというのは、棍棒を振り廻すことであるし、狂うことであるし、踊ること(カチャーシ)なのだ。差別され、虐げられ、圧殺された人民の叫びとは、権力の秩序然とし、筋道の通った論理性のある言葉で、演技過剰ぎみに、やたら形容詞をくっつけてしゃべることではない。
 同書(下)「追憶の苦しみ」の中で「最初の喜屋武の座談会で予定していたのに「私に戦争の話をさせると、狂人になって、あなたがたに乱暴を働くおそれがあります。」といって出席をことわった婦人があった。」とあり、そして、それを思い浮かべると、腹立たしくなって理性を失い、だれにともなく手あたりしだいに目の前の物を投げつけずにはいられない気持になるということであろう。」と当然のことを、阿呆らしくもさして説明に足るとは思えないもどかしい言葉で結んである。しかし、まさにそういうことなのだ。手あたりしだい物を投げつけるということが、語るということなのだ。ウチナーンチュにとっては。怨念の噴出なくして、語るなんてのは欺瞞であり、誰に語ることなのか。
 ヤマトゥンチュとウチナーンチュは共に沖縄戦場で戦いはしたが、同じ戦争体験を持つものではない。「軍の命令だ」という奇妙な、勝手に作られた大義名分でもって先祖代々の亀甲墓、すなわち自然防空ごうから追い出した日本兵達と、追い出された婦人、子供、老人達とが、同じ体験を持つ訳がない。ましてや、1億玉砕を叫びながら、結局、米軍の上陸以前に降伏した日本本国で生活していた人と、1坪あたり20発の艦砲が打ち込まれた沖縄で生活していた人が、同じに語るなんて出来る訳がない。ウチナーンチュは米軍の艦砲射撃の中を逃げまどい、見つかった防空ごうからは友軍だと思っていた日本兵に追い出され、わずかな食料は収奪され、泣き叫ぶ子供は絞め殺され、軍の作戦だからと集団自決を強いられ、右も左もただただ敵でしかなく、全く孤立したままの体験を持つ。それを、誰に語るというのか、かって自分を殺そうとし、仲間を殺した相手にしゃべるというのか、それも相手の言葉で。
 その意味で「沖縄の民衆がその重い口をやっと開いて沈黙を破りはじめたこんにちこそ、沖縄の本土なみ戦後が始まるといえる。」と谷川氏がいうこの情況こそ、まず疑ってかからねばならない。
 どのように沈黙が破られているのか。インタビュー形式で座談会を持ち、そして仲良くテーブルを囲み、ヤマトウグチにてしゃべらせるというのか、乱暴いけませぬ、

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大城正男 14/19

暴力反対、反戦平和、まことしやかな言葉のオブラートに包まれ、己れの存在さえ否定され、自らの言葉でしゃべるこおも禁じられ、奪い取られ、飼いならされ、それにさえ気のつかぬ連中を集めて、何が「証言」だ。むしろ、こういうふうにしてヤマトウグチで語らせることにより、狂気を押さえ、先程の座談会に欠席した人達のような(同書には「あった」という表現が使われているが、むしろ「あった」というより、それが大部分であっただろう。)真にまだ語られていない部分、真に語らなければならない部分を歪曲化し、そして隠蔽してしまうこと、その罪の方が大きい。その情況をこそ憂え、その情況こそが、谷川氏の思惑とは反対に最も恐いのだ。
 「沖縄の本土なみ戦後が始まる」ということは、沖縄戦すべても帳消しにしてしまおうということであり、改めて日帝への編入をはかろうとすることに他ならない。
 我々は沈黙をさらに守り、本土並み戦後ではなく、沖縄戦そのものの戦後を、その緊張状態をさらに持続させて行かねばならない。沈黙を破る時は、我々自らの言葉でなければならない。
×
 皇太子結婚の時の写真が額縁に収められ、床の間に飾られているのにカメラを向けながら「それは島」の製作者達は言う。「ああいうことがあったこの島で、20数年経った今日でも、まだ天皇制を許容する情況がある。不思議だ。そしてそのことがこのドキュメンタリーを撮ることのモチーフとなっている。」と。確かに市民社会のぬるま湯で生きて来たヤマトゥンチュにとっては不思議であろうけれども、それが1本のドキュメンタリーを撮ることのモチーフとなるには、いささか内実に乏しいのではないか。
 僕なら、そんな疑問など一言で答えてしまえるからだ。曰く「それは虐げられた者達の上昇志向性だ。」と。「差別され、切り捨てられ、底辺に生きる者達の性だ。」と。
 「島はいま、集団自決を遠くすぎさったものとして語ろうとしない。」という字幕を出しつつ、かって渡嘉敷村が徴兵検査の時、文部省から大日本帝国第1位の折り紙をつけられ模範村となったことを、島民が今でも口に出して自慢するのをさらに不思議がる。日本本国でされ、今時皇太子の写真を額縁に入れて飾っている家は少ないだろうし、沖縄本島においてさえ、それはなかったのに、まして、天皇の名において集団自決を強いられたこの場所で、とてもいいたげに。
 全く反対なのだ。
 沖縄においても、そこが最も差別され、虐待された、一番先鋭なる場所故にこそ、

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大城正男 15/19

かっての徴兵検査において模範村になったことを今でも自慢するようになる。
 このパラドックスを理解せよ。
 このパラドックスが理解出来ない者達、あるいは単純にそこをのみ取りあげて、天皇制の許容から軍国主義復活のきざしと、ストレートに結び付けて考える者達、君達もまた、かって彼らを差別し集団自決に追い込んだ、赤松を隊長とするあのヤマトゥンチュ達と何ら変わらぬことを知れ。
 理論の飛躍だと、極論だと言うか。
 いいや、底辺に生きる民衆の上昇志向性、このパラドックスが理解出来ないということは、とりもなおさず、己れの生きている市民社会の地点からしか彼らを見てないということであり、これでは理解出来ないのも当然であり、彼らを理解出来る地点にまで下降しようとしないそういう無自覚さが、彼らをこれまで切り捨てて来た。そして今はやりの天皇制がどうのこうのという問題に発展(?)せしめ、軍国主義復活がどうのという論議に終始したことにより、それの真意たる差別の問題をすり変え、隠蔽してしまうこと、これもまた差別なのだ。
 当然のことながら、この上昇志向性、言葉を労さずとも、かって日本に徴用された朝鮮人達、部落の人間、アイヌ、彼らならただちに理解するだろう。彼らも同じく差別された人民だから。
 市民社会から切り捨てられた人間が市民社会へ復帰願望するのは当然であり、その差別が強ければ強い程、この上昇志向性も強くなる。在日朝鮮人が、部落の人間が出身を隠したのはそれであるし、沖縄も同じく、日本人としてみられるには、普通でいう日本人より、より日本人的でなければならない。それ故に、かって大宅壮一が沖縄人を称して「動物的忠誠心」と言ったように、より以上の日本人にならなければならなかったし、犬にもならなければならなかった。それが差別された人民の悲しいまでのさがなのだ。
 戦時中、日本の強い兵隊さんが「おかあさん」と叫んで死んで行ったのに対し、根も葉もないスパイ容疑で日本兵に処刑された沖縄人は「海ゆかば」を唄いながら死んで行き、そして捕虜になるよりはお国の名誉の為に自決した方がいいと教えてくれた日本兵は降伏し、教えられた沖縄の婦人、老人達は一つの手榴弾を4、5人で囲み、死ねない者はカマでのどを突いた。まさにまさに、より日本人的ではないか。
 かって模範村だったことを自慢するのも、皇太子の写真を額縁に入れて飾っておくのもこれと同じなのだ。ただいたずらに、それを天皇制、軍国主義復活加担にまで

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大城正男 16/19

拡大解釈して、どうのこうのと言ってるヒダリの諸君は、今一度自己批判し、謙虚にこのパラドックスの意味を読み取るべきだ。
 そして、論理の帰結として辺境、底辺に生きる人間の、中央ないしは上に向っての開き直りを説く時、安易にこの上昇志向性を決めつけ断定することをさし控えよ。
 確かにおのおのの開き直りから、改めて権力へ受け手の攻撃がプログラムされる訳だけれども、この上昇志向性のみでもっての色分けは危険だし、またまた民意を離れた学生さん達と同じように理論のみの先走りに陥りかねない。
 底辺に生きる民衆は、復帰願望の可能性がわずかでも残されている場合には、たとえそれが一分に満たないものであっても、それを一筋の光明としてすがりつく。すがりついて蹴とばされ、さらに頼っては裏切られ、それが完全になくなってしまった時、はじめて「テヤンデー」と開き直る。ここに来てはじめて自分を差別した者、あるいは権力に敵対する己れを自覚する。
 このテーマに関する限り「モトシンカカランヌー」も同じものを含んでいる故、この際一緒に論ずる。
 「モトシンカカランヌー」で彼女達の一人は言う「結婚なんて考えない。」と。ところが実際には、何度も夢見たことであろうし、はじめからその気でいた訳でもない。人並みに結婚したいと思うのが人情であり、そういう情況故にこそ、切実に望んだに違いないのだ。人並みの生活をしていないが故に、人並みの生活をしている人間には判らない程、そのささやかな人並みのことを渇望するのだ。それが人並みから切り捨てられた者の人並みへの復帰願望、いわば上昇志向性であり、それが極度に追いつめられ、絶たれた時「人並みの生活など考えない。」と開き直り、アウトローに徹しようとするのだ。切り捨てられた民衆にはすべてが共通する。在韓被爆者然り、在韓日本人棄民然り、在日朝鮮人、部落民、山谷、釜ヶ崎住民、エトセトラ然りである。
 開き直る、言葉で言うと簡単だが、実はきびしく、つらくそして淋しいのだ。なまじというより、市民社会でのいく分かの情報が交差している地点に生きる者にとっては、上昇志向性を捨て去りアウトローに徹するということはたまらないのだ。「売春婦がなぜ悪い」と開き直る時のあの荘厳なる決意の裏に隠された涙を見ろ。
 この涙に気付かない者、あるいは、論理でもって切り捨ててしまう者、そういうヤカラとも僕は共闘を願い下げる。
 この涙に気付くこと、切り捨てられた人民の心情を察すること、こういうことを理解するのが、人間(ヒト)の情という。浪花節と笑う奴は笑え、人間の情けも知らない奴

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大城正男 17/19

に何が出来る。僕らは革命を志向するのだけれども、決して革命マシーンではない。
 革命もまた人の成せる業である。人間の情けを理解する者とのみ、僕らは連帯するであろう。それを理解する者、この指とまれ、ちょっと私情が入りすぎたかな。
 同じく、底辺に切り捨てられた民衆はただちにこの涙を、感性にて理解するだろう。
 ウーマンリブの姐ちゃん達と違い、彼女達は普段から「あたしは売春婦だ」などといいわしない。それを言うには言うだけの要素がなければならない。従ってそれを言わしめる情況にまで追いつめた、あるいは問いつめたN・D・Uは僕個人の感情としては嫌いなんだけれども、それが為「モトシンカカランヌー」はドキュメンタリーとして、成功しており、「それは島」に比べ、一点突破している。
 それ故に、「なんで人を売春、売春って言うねえヒャー(このヒャーという言葉は、シナリオにはなかった言葉だが、映画を観た感じではこのヒャーを付け加えておいた方が、すんなり全体の意味がよくのみ込めるので、実際に使われたかどうかは別にして、気ままに付け加えておいた。)、シャラップヒャー。」と彼女をして言わしめることになるし、続いて「ヌーガ、ワッサミ」ということになる。
 ここで気をつけておかねばならないもう一つの問題が残っている。
 沖縄が日本から差別されたとはいえ、差別は一通りでない。差別には二重三重の構造があり、沖縄人が日本人に差別されたことと、「モトシンカカランヌー」の彼女達が差別されていることとはまた違う。
 沖縄人として我々は差別されたが、その差別された沖縄人の市民社会に属する者達にも彼女達は差別された。中には混血の彼女も居て、差別はさらに輪をかける。
 いい悪いは別にして、「祖国復帰運動」は、沖縄においては一種の行事であり、島民こぞってのお祭りであった。4・28のデモや、海上集会などといい27度線上で交歓するさまは、形骸化はしていたが、とにかくあれだけの人間が関心を寄せるお祭りであった。新聞、ラジオのニュースでそれに類するニュースのもれた日がなく、その島民こぞってのお祭り、つまり日本テーコク帰属運動であったにしても、とにかく日本本国に対する沖縄人という設定のもと、沖縄総体としての運動であったにもかかわらず、それからも彼女達は切り捨てられた。そして、復帰問題になり、やっと彼女達に関する議題が出たかと思ったら、形式だけの売防法通過である。
 これはさらに彼女達を下降せしめる以外の何ものでもない。
 米軍撤兵後の基地労働者の問題、工業誘致の問題、口先だけのやりとりにあけくれ、

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大城正男 18/19

何ら結論の出せない現在、まして元手とてなく、職とてなく、山原から、離島から必然的にそこへ移行した彼女達にとって、沖縄のこの情況の考慮もなく、日本テーコクの形式のみの押しつけ売防法が、何を意味するか、こんなことは判り切った話ではないか。カタブツというよりむしろカタワな、教えられたイ、ロ、ハ以外のニは知らぬという能なし屋良に何が保証出来る。
 差別は、また内なる差別を助長し、底辺は限りない。そして彼女達も、また限りなく下降せしめられる、内なる差別によって。
 当然のことながら、沖縄解放という時、彼女達の解放がまず含まれていなければならない。彼女達こそが、真に解放されなければならないものであり、真に革命を渇望している者だからである。最も差別されている者こそ、真先に権力を告発する権利を有する。その意味で、彼女達を切り捨て、あるいは踏み台にしている右も左も含めた一切の運動は、まやかしだということを改めて宣言しておく。
 すべては差別が根源である。いかに形をよそおうとも、そこに差別が存在する限り、それは解体、壊滅せしめねばならぬ体制、組織である。人間を人間として扱わない情況を許容する体制があれば、いかに名称を変え、いかなる主義主張があろうとも、それはやはり打倒されるべき体制である。大義名分なる組織という名のもと、差別そのものが内部に促進され、既成左翼にそれがどうしようもなく蔓延し、新左翼と称する連中にもその萌芽が芽生えている現在、これら運動すべてにも差別される側からの告発を叩きつけていくだろうことを、ここに約束する。
 主義主張の為に闘うのでなく、倫理の為でなく、社会正義の為でなく、まして名誉と栄光の為でなく(ここは盗作)、むしろあくなき憎悪の為に闘う。殴った者に対し、2度蹴っ飛ばさんが為、ナイフで切りつけた奴には大砲で報復せんが為に闘う。差別された人民はそのことをよく自覚している。内に打倒すべき敵への憎悪を秘めておくことが、不可欠な要素である。
 闘いとは、運動とは、そこから出発せねばならない。底辺から起き、上に目標を定める。そういう闘いを進めていく中で、己れもまた自己を変革する。憎悪の炎を燃やせ。憎悪こそが我々を闘いに駆り立て、それを持続させうる支柱となる。
 差別するものに対しては、その根源を絶たねばならず、それとの闘いであるが、その間のイラダチを解消さえたいと思うのなら、直接それを身近な対象にぶつけるとよい。例えば、自衛隊が駐屯し、那覇、コザの町をそのユニホーム姿で歩かれるのがたまらないと思ったら、自分の感情に逆らわず、ごくごく素直な気持で路地裏へ引っ張り込んでぶん殴ってもよい。帽子がゆがみ、服が汚れ、顔をはらして

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大城正男 19/19

ビッコを引き、あきらかに今やられて来たなと判っている奴でも、他のウチナーンチュが見たら、やはり遠慮せずに同じくやってやろう。これはあくまでイラダチを解消する為にレクリエーションである。かって日本本国にて「沖縄人断り」の貼り紙 があったように、今度はこっちで「自衛隊お断り」の貼り紙を出すのも一つの方法である。食堂、飲み屋、映画館、ボーリング場、そしてバス、タクシーとありとあらゆる所に出してみよう。さもなくば、自衛隊員のみすべてに2倍料金ということにしたらどうだろう。こんなちっちゃな島、どこにも逃げられるものじゃない。自衛隊がアメ公に代って侵駐して来たのではなく、100万のウチナーンチュの中に、わずかな自衛隊を引きずり込んだのだと思い、身を入れて一生懸命、徹底的にいびってやろう。彼らがそこにいたたまれなくなる位に。
 そろそろ最後に近づいて来たな。
 差別と闘う時、彼女達が「売春婦で何が悪い。」と開き直ったことから、僕らが学ぶべきことは、「ウチナーンチュで何が悪い。」とヤマトゥンチュに対してケツまくることだ。僕自身は、とっくにケツまくり恥もなくインキン菌をさらけ出している。それを貫徹すれば必然的に、県である沖縄ではなく、琉球の独立ということになる。独立というと、全く異った視点から、経済的自立がどうのこうのと、あきもせず同じ論議のみがくり返されるが、そのことに関しては、先に出版されたパンフ「どうすれば通貨不安は解消できるか」に野底土南氏が完璧なまでに答えているので、それを参照されたし。
 要はウチナーンチュとしての自覚であり、心意気である。殺魔(サツマ)以来の征服者としてのヤマトゥンチュに対する、自然かつ正当なる憎悪である。それの必然的帰結として琉球の独立がある。
 志を共にする同志よ、ウチナーンチュよ。
 ウチナーンチュがウチナーンチュたる為に琉球の独立を!
 我国がさらなるウチナーンチュたらんとする為に、
 めざせ、第2、第3のコザ反乱を、恒久的コザ反乱を!
 踊れ、狂え、カチャーシーを!
 はばたけ、はばたけ、
 さらなるウチナーンチュへ向って!

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大島渚 1/2

 琉 球 怨 歌 −−−−−−−−−−−−−−−−−

映画監督    
大 島  渚 



 私は1969年の暮れにはじめて沖縄に行った。行こうと誘い、そのための便宜をはかってくれたのは竹中労であった。
 私は田村盂、佐々木守と一緒に船で沖縄に着き、そこで竹中労とおちあった。
 私は漠然たる作品のイメージを抱いていないわけではなかったが、沖縄について一日もたたないうちに、私たち日本人が沖縄について語ることの困難さを、骨身にしみて知ることができた。私にとっては、そのことは正に不可能の一語に尽きた。ましてや、作品などというものは!
 思い切りのよい私は、だから、何とはない見聞の日々をだらだらと過した。それは主としてコザにおいてであった。私たちの泊っていたホテル・キョート。そのピンクの壁と分厚かったニューヨークカットステーキを私は今も忘れない。そこで私は、朝からバーボンのオンザロックを飲んでいたのだ。そのホテルキョートの真ん前で、いわゆるコザ暴動が起きたのは、それからまるまる1年あとだった。私はいつも世の動きより早すぎる!
 そんなわけだから、私は沖縄に帰って2年、何一つ沖縄について発言していない。たったひとつ、泡盛についての単文を筆した以外は。あとはただ、深夜新宿の泡盛屋で、時にはぶつぶつと、時には狂騒して、沖縄、日本ではない、沖縄、断じて日本ではないと、言うのみであった。
 川口秀子さんから、沖縄を主題に舞踊の台本を書いてくれと言われた時、だから私は、舞踊の台本など書いたことないどころかほとんど見たこともないという以外に、断わる理由がはっきりあったのである。にもかかわらず私は引き受けてしまった。これは不思議なことである。
 思うに、私があれほど不可能であると思っていた沖縄を主題にした作品を、しかも私のまったく未知な舞踊という世界で書く決心をしたのは、それが逆に舞踊だったからであろう。
 実は、沖縄へ渡った時、私がひそかに抱いた作品のイメージは、沖縄人と黒人による暴動のミュージカルだったのであった。

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大島渚 2/2

 『琉球怨歌』において、沖縄人たちは一言も喋らず、ただ踊るのみである。琉歌は歌われるが私たちは十全には理解できないだろう。私たちはただ解説者と圧政者奈良原の日本語を通じてしか事態を知ることはできない。これはしかたないことなのである。これが、日本人で日本で沖縄を主題に語る時の、唯一の正しい構図であると私は考えているのである。
 私は、沖縄へ行く前から大体においてこういう考え方をしていたのだが、それを最終的に確認しえたのは、やはり沖縄での見聞尾と、そこで何人かのすぐれた人びとの出合いによるものである。その意味において、私はこの作品を、我が狂騒のメフィストフェレス竹中労と、彼がその時一緒にレコード『沖縄春歌集・海のチンボーラー』をつくった沖縄の芸術家たち、作曲家普久原恒男、放送ディレクター上原直彦、歌い手嘉手苅林昌、山里勇吉、画架与那朝大、詩人備瀬勝、国吉真幸等の人びとに、心からなる感謝をこめて捧げるとともに、厳正なる批判をあおぐものである。

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普久原恒男 1/1

 幻 の 共 和 国

作曲家     
普久原 恒男 



琉球が独立するなんて夢みたいだなあ!
しかし、早くから沖縄にアメリカー達たくさんいるが何かなあ!
敵があまにも、こつにもすくんでいるから、危いといって護りに来たかなあ!
あはあ!
軍でアメリカー達は良い手間とっているから儲かりに来た筈!
しかしこんど日本復帰したら日本人達が沢山来るよ!
何しに来るかなあ!
あはあ!
沖縄人扱いに来る筈!
今遊んでいる沖縄の人達を儲からそうと思って、会社つくる筈!
日本人がつくった会社で働いたら皆儲け飛ばして貯金するあたりにまでなる筈!
しかし日本に行っている友達たちの話だが、日本の会社は、ものは半分腹たべさ
せて仕事は糞ひるかなあー!といったよ。
沖縄人は体があんまりでないから、仕事が強かったら永もちしない筈!
そうなったら、厄介なってくるな!
しかし、この風情は、ぼくらがは何とも言われないから、上々の人らが立派いく
ように思ったり考えたりする筈!
上々の人が考えてくれなかったらどうするかなあ!……みんな
あはあ!
後悔する筈!
そして誰かが言う筈!
「独立すべきだ!」と
しかし琉球が独立するなんて夢みたいだなあ!

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武智鉄二 1/1

 私の中の琉球 −−−−−−−−−−−−−−−−

劇作家    
武智 鉄二 



 われわれにとって、琉球人はあきらかに異民族である。
 これは私の専門事項であるが、琉球舞踊の身体行動の原理は、明白に漁労民族のもので、農耕的な日本人の身ぶりと、まったくちがい。
 その音楽もポリネシア系のもので、日本人のうたごえとは、基本的な成り立ちからして、ちがっている。
 身体行動がちがって、うたごえがちがうということは、民族学の根本原理に照らしてはっきりと異なる民族であることを、さし示している。
 ことばが似ているといって、フランス語とスペイン語ほどもちがう両国語が、同じなどとは、義理にも言えまい。
 琉球はあきらかに日本に侵略された植民地であったし、その植民地収奪を具現したのが、沖縄県知事奈良原繁の施政であった。
 この植民地的収奪を、理論武装で合理化しようとした柳田国男民俗学を、私はもっとも憎む。彼はシュヴァイツァーのヒューマニズム理念に匹敵するほどの欺瞞をなしとげた。
 本来異民族である琉球が、どうして日本へ復帰できようか。
 謝花昇は彼の日本化の過程において、当然の報いとして狂ったのであり、さいごまで純粋に琉球人であったその妻の清子に、私は琉球の悲劇の全負荷を看て取りたい。
 その意味で、『琉球怨歌』は、現代の狂女物である。狂わぬ人こそ、狂っている。
 どうして、琉球人は、本土復帰などと、ばかげた想念にとらわれるのか。
 琉球は独立して、琉球人民共和国となるべきであった。
 琉球人が異邦人であればこそ、等しく他民族を尊敬するように、私は琉球人を尊敬する。
 このささやかな尊敬の念を、現代の琉球処分を許すことで、琉球人自ら投げ捨てようとするのであるか。

(『琉球怨歌』演出に際して』)

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『赤軍−PFLP・世界戦争宣言』
           の上映に際して

共産主義者同盟赤軍派  
東京都委員会 



 親愛なる琉球(沖縄)の同志・友人たちへ
 『赤軍−PFLP世界戦争宣言』の上映隊の同志達よりあなた方琉球独立党のことを聞きました。
 われわれは、恥ずかしいことながら、あなた方の党のことについてくわしく知っておりません。
 というのも、われわれはごぞんじのとおり、日本帝国主義・軍国主義と米帝国主義を打倒する革命運動のごく小さな勢力でしかなく、何よりも、東京、関西を中心にしてあと一部の地方にわれわれのメンバーがいるくらいで革命運動にとって重要な位置を占めている琉球(沖縄)にも、又、日本にも、又、アジアにも、又、全世界のさまざまなところには、必ずわれわれと同じように革命を願って、戦っている広範な同志、友人たちがいることを認識すれば、必ずこの地上から悪の根である帝国主義を消滅することができると固く確信しています。
 人民の力は無限の力です。
 われわれは、たとえどのような地においてもどのような戦いの形態をとろうとも人民大衆の立場にたち人民大衆の利益を守るという観点、原則がしっかりと守られているならば、あらゆるところと連帯し団結を深めていかなければならないと痛切に感じています。
 このような考えにたってわれわれはあなた方の党について、あなた方の活動、生活の地である琉球(沖縄)のことについてより具体的に知りたいと願っています。なぜなら、日本反動権力を打倒するためには、あなた方の地の革命運動と深く結合しなければならないし、何よりも相互の立場、理論、実践をよく理解しなければ真の連帯も団結も獲得されないと考えているからです。
 お互いに知ることが必要なのであり、そのためにも、今回の映画の上映を1つの機会にしてお互いの交流をおこなっていくことは大切であると考えています。
 われわれ共産主義者同盟赤軍派東京都委員会と、同関西地方委員会は、今年(1972年)2月の連合赤軍の敗北のあと、形成されたものです。

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ここ2〜3年間の武装斗争の追求が、連合赤軍の銃撃戦と同志殺し事件によって、根本的に総括されねばならなかったわけであり、そうした総括論争をおしすすめ、組織再建にのりださねばならなかったわけです。
 われわれは、ここ2〜3年間において、健党、建軍、革命戦争の方向をうちだし、何よりも武装することからはじめなければならないとし、武装斗争を開始してきました。しかし連合赤軍の破産は、武装斗争・建軍運動にも誤ったものと正しいものがあることを14名の同志の犠牲の上に問題提起しました。
 武装斗争は革命運動の1つの形態であり、しかも重要な形態です。
 しかし、武装斗争をおこなおうとする主体がプロレタリア革命運動の重要な原則を逸脱するなら、つまり堅持しないなら、その主体のおこなう武装斗争は必ず誤ったものとなります。
 重要な原則とは、第一に、革命の主人公であり、原動力であるのは広範な人民大衆であるということ、したがって、労働者、農民、都市、小ブル階級と深く結合しようとしないものは、必ず敗北せざるをえないということであり、人民大衆の政治的立場にたち、人民大衆の利益に奉仕しなければならないということです。
 第二は、ブルジョア国家権力をうちたおし、プロレタリアート人民の権力機構を樹立しようとするならば、必ず、人民大衆の暴力、すなわち武装した力に依拠しなければならないことです。
 こうした諸原則の土台は、マルクス・レーニン主義の理論的基礎であり、プロレタリアートの世界観です。
 われわれは、小ブル主義思想と同居しているためわれわれ自身の中の小ブル主義の残りかすを一掃することが必要であり、今後整風運動を、積極的におしすすめ、人民に学び人民の立場にたってより強力な革命運動をおしすすめねばならないと考えています。
 われわれは、ここ2〜3年間において、地下の赤軍と階級敵の手先、政治警察の戦いが唯一の前線であるかのように考える傾向がありましたが、しかし、いまや次のようにのべることができます。
 抑圧されており、矛盾が集中されているところの人民大衆の戦いがおこなわれているところこそ、大きな戦略的な前線であり、われわれはそうした戦略的な前線で先頭になってたたかわなければならないと。

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 そして地下の軍は、そうした革命の戦略的前線の中にあって、密接に結び付かなくてはならず、これを無視するような戦斗組織は、たとえ一時的に勇敢に戦ったとしても、勝利を手にすることはできず、必ず、守勢にまわらざるをえないということです。
 われわれは、いま、革命的な党建設運動の第一歩をふみださんとしていますが、真に革命的な党がかちとられるのは人民大衆の戦略的前線においてであるでしょう。
 われわれの先進部分は、すでにそうした前線の中に入っており、地道な戦いを進展しようとしており、残る部分もそうした方向で着実に前進しております。総じて、われわれは戦術的撤退をおこない、戦略的に大きく前進せんとしているのです。
 あなた方の素直な批判、意見をよせられれば、たいへん光栄であると思います。
  固い握手!

東京にて  

  1972年6月15日

共産主義者同盟赤軍派     
東 京 委 員 会     


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足立正生 1/1

 世界革命戦線への結集を!

映画監督     
足 立 正 生 



   ☆『赤軍−P.F.L.P・世界戦争宣言』琉球上映貫徹を!
   ☆世界革命戦線の更なる戦士的連帯を!
   ☆琉球の日本帝国主義国“沖縄県”への“復帰”粉砕!
   ☆P.F.L.Pとの熱き戦士的連帯万歳!

 “燃える琉球弧”に結集された諸君! 我々「赤−P」第2期全国上映隊は、世界革命戦線の創出体現をめざし、その第1上映隊運動を、昨71年9月東京上映以来、関西・中国・九州で貫徹し、更なる“長征”を第2期全国上映で東海、関東地区で展開しつつ、今日の琉球上映を勝ちとろうとしている。その間、統一赤軍中央軍の軍事路線が破たんを顕在化させた“粛清事件”および、それをよく武装闘争のカチキズムとして、切り開いた新たなる地平“浅間銃撃戦”を経つつ、さらには世界革命戦線の現実化としての“テルアビブ空港銃撃戦”へと展開される世界革命の潮流を主体的に担おうとして来た。そして今!

 ☆ 琉球革命へ向けて米・日帝国主義と闘う“連合のかまいたち”と第2期全国上映隊の連隊による革命戦線の創出万歳!

 “燃える琉球弧”に結集された、全ての同志諸君! 我々は今、この熱き思いの全てを琉球革命に向けた武装闘争の現実へ戦略戦術化する用意がある!世界帝国主義、とりわけ、米・日帝と近代シオニズムを筆頭とした“テルアビブ空港銃撃戦”をワイ小化する全ての反革命分子との闘いを日本革命の最前線であるこの琉球の地で断固斗い抜くつもりである!

 ☆ 武装闘争による琉球革命の進撃をさらに!!
 ☆ 不可視の琉球弧を全土に張りめぐらそう!!!

 1972年6月18日、連合かまいたち+第2期全国上映隊

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太田竜 1/7

 琉球独立党と水滸伝

ゲバリスタ   
太 田  竜 



     (一)
 一人の世界革命浪人(ゲバリスタ)から、親愛なる琉球共和国同胞へ、
 「共和国」は、5・15を契機として開始される日本帝国軍隊の侵略行動に反対し、日本軍の指揮官・将校団を攻撃の目標とする。
 これは必然の成り行きだ。  さて、日本帝国は琉球遠征軍の隊長に、琉球出身の桑江一佐を任命した。
 同胞諸君。
 「共和国」は、攻撃の第一目標を桑江一佐とすべきか。それとも、琉球出身ではない、桑江一佐に次ぐ高級将校とすべきか。
 このテーマは、緊急且つ核心に触れるものであり、1972年の後半に、この問題に対する解答が与えられるものと私は信ずる。
 同胞諸君。
 新川明というインテリペテン師が沖縄タイムス社の幹部記者をやっている。
 このインチキエリートインテリ氏は、「反国家の凶区」(現代表論社、1971年11月刊)という論文集で、「反復帰の情念」を呼号しつつ、琉球独立党に対する(反米帝の方向がない、などという)けがらわしい中傷をまきちらしている。
 新川というペテン師の正体は、彼が、その思想的土台を、大沢正道という今日の日本の代表的文明的アナーキズム(周知の通りこの潮流は、日本帝国主義の今日の主要な対革命安全弁の1つである)評論家(というのもおとなげないが)の国家論に求めている(同上書305〜6頁)のところに、バクロされている。
 つまり、新川某は、琉球人民の独立の志の展開を、「反復帰」という防波堤のところで封じ込めるために、日本帝国主義の第一線の番犬としてのエサを、沖縄タイムス社によってあてがわれているのである。
 このような人物こそ、琉球人民にとって味方のような顔をしたもっとも危険な敵である。
 反復帰、というところまでは利用できる。

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太田竜 2/7

 しかし、「独立」はダメだ。
 これは日本帝国首脳のマヌーバーの極限であり、そのあやつり人形が新川である。
 琉球共和国が、反米であろうと親米であろうと、共和国に関係ない連中が口出しすることは大きなお世話だ。
 まず第一に、独立すべきか否か。
 これが原点だ。
 琉球国は独立すると決断するしかるのちに、反米か親米か、反日か親日か、反中国か、親中国か、琉球王国か、琉球共和国か、琉球人民共和国か、琉球ソビエト共和国か。これらの問題についてすでに決断した同志たちの間で討議することができる。
 新川というエリートペテン師よ。
 お前は、日本(邪蛮)復帰がどうのこうのと、役にも立たぬ愚痴をたらたらとインテリ仲間うちでしゃべっているだけのことなんだろう。
 そうであるかぎり、こういうインチキ野郎には、琉球共和国の性格、方向、政策について、一言だって口出しをさせない。

     (二)
 琉球共和国の同胞は、『水滸伝』を必ず学ぶべきである。
 私は『週間読書人』3月13日号(「革命・情報・認識(よみかきのしかた)」24回)で、「水滸伝」の6つの次元についてのテーゼを提出した。
 ここにさらに補足しておかねばならぬ。
 カール・マルクスという1人の俗物西欧市民(このマルクス規定の証明については私の論文集『辺境最深部に向って退却せよ』(三一書房刊)を参照のこと。)の革命の世界とはつまり、「水滸伝」以前の次元に位置しているということを。
 「水滸伝」の第1の世界は帝国の内外に、山賊、水賊、海賊が横行しているところから始まる。これが革命について語り得る最初の兆候である。
 マルクスの革命論は、この世界の手前のところにしか到達していないのである。要するに、マルクスの道は西欧市民社会の磁場の内にとり込まれている。

     (三)
 他ならぬアメリカ合衆国の大都市は、右のごとき局面に一歩足をふみ込んでいる。このテーゼについて、いまさら証明を必要とするとも思えぬ。

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太田竜 3/7

 私が1968年に編訳した『アメリカの黒い蜂起』(三一書房)をふまえるなら、アメリカ合衆国の今日のこのような局面は、まことに道理である。

     (四)
 英国におけるアイルランドの位置。
 いうまでもなく、それとほぼ同じ位置を琉球独立運動は、日本帝国に対して占めようとしている。
 すでに反米反日の基調のもとに琉球独立党(野底土南委員長)が登場している。5、15日の日本帝国による琉球再併合は、琉球独立運動の飛躍的発展の跳躍台となるであろう。

     (五)
 私は、『日本の将来』72年冬期号の論文「東南アジア、一切の文明的偏見を捨てよ」(私はそれを1971年11月から12月はじめにかけて書いた)のなかで、オーストラリア原住民の来べき斗いについて(何らの情報も持たぬままに)、予断した。次の5年以内に、彼らが復権の斗いを開始するであろうと。
 1972年3月9日付朝日新聞から引用しよう。
 <オーストラリアの原住民に、中国政府からの招待状が届いたというので、いまこの国の保守政界をびっくり仰天させている。
 このニュースは首都キャンベラの国会議事堂の前庭でテント生活を続け、すわり込んでいる若い原住民たちから明らかにされた。この"原住民大使館"[ここから判断すると、オーストラリア原住民同胞たちはおのれを、独立した共和国と見なしているらしい。まことに正しいことだ。]のスポークスマンを名乗る男によると、中国政府は20人の原住民活動家を公式に招待し、32日間、ただで中国大陸旅行をさせてくれるという。
 原住民のすわり込みは、先月、彼らの国有地使用要求をオーストラリア政府が拒否したために始められた抗議行動だが、この中国からのとつぜんの招待で、キャンベラの政界を大きくゆるがす事件となりつつある。
 “約200年前、初めてオーストラリアに上陸した英人探検家、クックはオーストラリアはすべて英王室の土地と宣言したが、「われわれはそのずっと前からこの土地の正当な所有者だった」というのが原住民の主張だ”

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太田竜 4/7

     (六)
 この情報は、アイヌ独立を志す同胞たちに、しっかりと伝えられねばならぬ。
 アイヌ独立運動の志士(私にとって未知ではあるが、必ず、ごく近い将来、天は私をこの未知の友人と引き合わせるであろうと信ずる)をオースオラリアに送り、その手で、オーストラリア原住民と固く握手してもらわねばならぬ。
 琉球独立党は、そこに、盟約すべき同志を発見すべきである。このことを、私は未知の友人、野底土南琉球独立党中央委員長にむかって語りたい。

     (七)
 世界ソビエト社会主義共和国の「同胞」と「人民」の関係。(このテーマについて、「黒の手帳」5月号の私の小論を参照のこと。)この問題を、いまこそ、真正面から提出すべきである。なぜなら、それに解答を与えること無しに、人は、決してこの「共和国」の軍隊、世界赤軍の建設に着手することはできないからである。
 私は、昨年6月、「21世紀への大長征」(「映画批評」71年6月号)を独立のパンフレットとして発行したとき、そのあとがきで、「世界ソビエト社会主義共和国」の「同胞」、「人民」、ゲバリスタ、「友人」、「敵」について、基本的な規定を与えておいた。

 「共和国」の「同胞」と「人民」の関係は、前衛党と大衆の関係、ゲリラと人民の大海の関係などに、決してたとえることはできない。およそ、それは、文明的革命理論のいかなる範疇の枠にも入り切らないのである。
 オーストラリア原住民30万の同胞。あなたたちは、文句なしに、「世界ソビエト社会主義共和国」の自然発生的な同胞である。
 アメリカ合衆国60万のインディアン原住民同胞。あなたたちも、同じくわが「共和国」の同胞である。
 わが同胞たちを、「死にたえつつある文明の敗残者」と見なすすべての人間。これがわが「共和国」の敵である。
 「共和国」に忠誠をつくすことをみずからの発意において誓約するもの。これが「共和国人民」である。
 味方のような顔つきをしているが、実は敵である者たち。
 その1つの見本を、私は、石田郁夫に見出す。

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太田竜 5/7

 彼は、「現代の眼」72年4月号の論文の中で、沖縄青年同盟を支援する運動に参加する決意について語っている。ところで彼は谷川雁という日本帝国主義とっておきのイデオローグが1960年にグァム島生き残り兵士について書いた文書を批判しつつ、次のようにどうということのない通俗な「文明的共産主義」のドグマを述べる。
 <辺境に共和国を幻視するという癖は、おおむね労働と生産に対する楽観に由来するし、トータルな日本の止揚を原基形態に求めるというこころみ、すべてこの肝心なところで失敗するように条件づけられている。
 ……日本国から離脱して自給自足で生存する共和国を、辺境に夢想するよりは、この国家を転覆させる作業に打ちこんだ方が、はるかに人間的だという自明の理を確認すること………>
 琉球共和国の志士は、石田郁夫というヤマトゥンチュ、琉球人民の味方のような顔をしながら、実はもっとも凶悪なヤマトの番犬であうことを、ただちに見抜いてしまうであろう。
 つまり、石田とその同類にとっては、琉球人民の「友」日本国の斗争は、石田に戦犯天皇糾弾の重要性を自覚させるための材料でしかないのである。更には、日本の革命を促進する契機にすぎないのである。
 要するに、石田郁夫にとっては、琉球人民は、日本に対して独立し、共和国をつくるという風な夢想をしてはならないのである。琉球人民は、あくまでも日本国の沖縄県民として日本の革命のためにつくさなければならぬのである。

     (九)
 わが「共和国」の人民であることを志願した者にとって、まずなすべきことは何か。
 全世界各地の「共和国」同胞の間に、「共和国」に固有のコミュニケーションのネットワークをつくり出すことである
 このコミュニーケーションの2つの主要な柱。それが
<芸術>と
<教育>
である。

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太田竜 6/7

     (十)
 義軍と革命軍の関係について、私は次のように規定する。
 「革命、情報、認識(よみかきのしかた)」24回(「週間読書人」3月13日号)では、この両者の間に区別をしなかった。これは不十分である。
 義軍は、支配階級のつくった文明を継承し、その国境をも継承する
 従って、辺境の反乱が発展して来ると、この義軍は、必然的に分解し始めるのである。つまりこの軍隊は、辺境の蕃族の反乱に味方するものと、敵対するものと、この二者に分れるのである。
 革命軍は、辺境の反乱軍と、帝国の本国における義軍が共通の目標で統合するときに、初めて成立する。

     (十一)
 アイヌ独立を支持することのできる(従ってまた、宮古島の呪術信仰を土台として包摂する)琉球共和国は、世界ソビエト社会主義共和国の萌芽を内包していると私は確信する。

     (十二)
 スターリンの神秘性。
 それは、スターリンがソ連一国を越えて、全世界の被搾取者階級の指導者として生きているという幻想に支えられていた。
 いま、この神秘性はあぶくのように消え失せた。
 毛沢東の神秘性。
 これもまた、毛が中華の国の国境を越えて全世界のプロレタリアートの利益を代表しているという幻想に支えられている。
 毛もこの神秘性もまた、次の2〜3年のうちに、「中華」の国境の外で、あとかたもなく消滅すると私は断言する。毛というこのペテン師が、何ということもない凡俗な中華民族主義者にすぎぬという実証が、地上35億の大衆の一人一人に対してなされるのである。
 中華の国の軍隊が世界革命戦争の主力軍であるというような錯覚を前提にして戦略を立てる人は、みずからを破局に追いつめることに必ず成る。
 花園紀男(かっての赤軍派政治局員、獄中)は、日共革命左派(毛沢東思想を土台とする)の「反米愛国民族民主革命の路線」をほぼ全面的に受け入れるという趣旨

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太田竜 7/7

の手紙(1971年5月28日付)を書いている。彼はこの原則にもとづき、「愛国者の結集」の任務を提出している。
 このような路線は、代々木日本共産党のそれと全く同一の方向へ(日本帝国の自立の促進、強化)を、よりラジカルに武力をもって進もうというものに他ならない。
 琉球独立の志士は、決してこれを受け入れることはできず、韓国の抗日民族戦線の友人諸君もまたこれと敵対的と成る他ない。

     (十三)
 ベトナム人民軍機関紙クアンドイ・ニャンザン紙は、3月8日、ニクソン米大統領批判の形で米中共同声明を攻撃した。ベトナム民主共和国の政府と党は、米帝との和解工作にのり出した「中華」人民共和国の毛沢東ペテン師集団に対するきびしい斗争を強化している。
 もちろん、西園寺公一のごとき、或いは萓沼正久のごとき、金でやとわれた「中華」人民共和国の番犬は、何のためらいもなく、ベトナム民主共和国の攻撃に対して、北京官僚を弁護し、防衛する準備ができている。
 反米愛国、日本民族独立民主革命の武装斗争の兵士に、ではなくて、世界赤軍の兵士に成ることを決意した人々にとっては、ベトナム民主共和国政府と「中華」人民共和国政府のこの対立において、ベトナム側に支持を与えるべきことは、自明のところであろう。

     (十四)
 琉球に行きたまえ
 琉球独立!のためにこそ、あなたのいのちを賭けたまえ
 この戦場でこそ、日本帝国に対する革命戦争開始の機が、いまのところ、相対的にもっとも熟しているのである。

1972年4月19日 

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前原朝賢 1/4

 5・15について

評論家     
前 原 朝 賢



 歴史に、くぎりがあるとすれば、それはすべて支配の構造の変化がもたらすものである。5月15日もそういう範疇でいうところのくぎりであるが、そのくぎりめ、5月15日とは簡単に表現するならば、世界帝国主義内の権力のバランスが、此処琉球において米帝から日帝へ移ったことを意味し、それ以外のないものでもない。
 ここで誤解のないようにつけくわえるならば、米帝も日帝も世界帝国主義の一部分としてあり、そういう意味では帝国主義に歯向うものにたいしては、協力一致して対処するものの、だからといってそれぞれの利害関係をわすれるようなことはない。それぞれ自己の勢力圏をのばそうと必死である。
 奄美諸島をとりかえし、小笠原諸島を手に入れ今又、沖縄県の実現をみた日本帝国主義は昔日の大東亜共栄圏をエコノミックアニマルというオブラートにつつみ、じりじりと自己の勢力をのばしつつある。
 それ故
 「日本国民」になることの意味とはすなわち我が、琉球が日本帝国主義の支配にくみこまれてそれの利益追求の為、有無をいわさず隷属させられることに他ならず、問題はすべてここから始まらねばならない。
 ところが、
 我が琉球には、地に足がつかず問題を観念の世界に遊飛させ迷路の闇にほうむりさろうとする人々が居る。
 このての人々は、施政権という名前の権力が我が、琉球人民の頭をとおりこしアメリカ合衆国から日本国へ委譲された5月15日を境に、その委譲になんらかの形で応援をしながらも、今その罪の大きさに愕然と色をうしない且つ、自己の罪を隠蔽しようと実に妙なことをいい始めている。
 今回はそのひとりである大城立裕氏にスポットをあてて論理をすすめていくことにしようと思う。
 さて
 私は、沖縄問題という造語について、それが何時頃できたのか、つまびらかにしないが、

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前原朝賢 2/4

5月15日へ至る期間この造語は幾多の人々によってあらゆる位相から侃侃諤諤と論じられてきたこと知っている。
 大城立裕氏は、『話の特集』(1972年4月号)<いい気な話>において、(いわゆる沖縄問題について、もう何も言いたくないと思ったときに、ようやく難しい、いちばん難しい段階にさしかかっているとは、皮肉というよりなにか罰をうけているような気さえしている)とのべている。
 罰をうけている。
 さもあらん、
 大城立裕氏は日本帝国主義から"文学界"という装置を通して送られてきた"芥川賞"なる勲章をその胸にかざして以来、沖縄問題なる分野(そういう分野があるとすれば)において、とみに我が、琉球の民衆を愚弄してきたしそれは更に持続するであろう。そういう事実を彼自身、胸の内に秘めているからこそ、罰を云々という本音が知らず知らずのうちにでてくるのである。
 氏は、100年前の琉球処分は、あれで当時の内外情勢上やむをえなかった(沖縄タイムス)と吐露して日帝の走狗ぶりを発揮し、あまつさえ民族統一なる言葉をはっする。氏は日本と琉球を同民族ととらえ端的には本土同胞云々というが、けして日本と琉球は同民族ではない。
 ところが氏は非常にアクロバットがすきだとみえて、前掲『話の特集』で、(何も言いたくないのは、これだけ言ってもまだ分からないのか、やはり所詮は「異族」であるのか、という挫折感であり、もう分ってもらえなくてもいいや、というほどの気持である。)といい異族なる言葉で日本と琉球をわかつ。この矛盾をつくのはひとまずおいて、氏のように日本と琉球を単に異族という言葉でわかち、問題をとらえることは近視眼的に民族という言葉の概念それ一面からとらえることになり、それはおのずから日本帝国主義の買弁となっている部分を隠蔽する役目をはたす、事の真実は民族の違いのみにおいてあるのではなく、帝国主義と植民地という支配構造の関係の中にみいださねばならない。そういうことを総論としてのち、民族という各論が展開されねばならず、それを抜きにした形而上学的遊びは、原稿用紙の換金作業以外のなにものでもない。
 また2度目の「民族統一」をいましようとしてるが、これも当てになるものではない。(沖縄タイムス)というが、氏にひとつ警告しておく。
 民族統一ではなく、日本による琉球の占領なのであり、アフター・ケアがどうのこうのという次元でウロチョロするのは筋違いなのだ。

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前原朝賢 3/4

 さてさて
 こりずに『話の特集』から引用すれば、(こちらがひらきなおれば、むこうも−−というのは本土一般のことだが−−ひらきなおるだろう、ということである。復帰したいというから復帰さしてやったのに、まだそんなにごねるなら、俺たちは知らんから勝手にしろ、といいたげな顔が、そこらにたくさんある。そのことを、いちばん難しい時期といっている。)と氏は苦悩にみちたポーズでのべるが、まず私は後にも先にも復帰したいといったことはないという事実はもとより、日本帝国主義が、俺たちは知らん、勝手にしろという捨て台詞で恫喝するなら、我々琉球の民衆はたちどころに、上等だ!と受けて答えるだろう。
 それこそ我々の願うところであり、その時我々は“琉球独立”あるのみと、たからかに叫ぶであろう。
 ところで
 氏は女々しくも、泣きべそ面で尚も続ける。(たとえば、強姦されて女房にならざるをえなかった女の気持を、あなたはご存じか。私も知らないが、たぶんこの「沖縄のこころ」みたいなものではないか。征服して自分のものにしながら、たえず軽蔑し、差別してみせた薩摩、それをひきついだヤマト一般、それに文化的に同化していった沖縄は、もはや離縁しようたってできないのだ。いまごろからそれなら独立しろといえた義理か。それができるくらいなら沖縄問題などありはしない)
 ここに氏の宿命論がみごとに開花する。どうしてこうも卑屈にならなければならないのだ。
 文化的に同化したのではない。同化させられたのだ。この視点を故意に欠落させることによって、日本に反逆し抹殺された我が琉球の志士たちを永久にほうむりさろうとする。
 たしかに
 強姦されて女房にならざるをえなかった女の気持と沖縄のこころを結びつけるところは、さすが形而上学派で、お見事というより他はないが、私ならもうすこしましな表現をする。
 すなわち、強姦という過程における所有こそ、琉球を征服したところの、いやあらゆる階級支配の原基形態としての植民地主義に通ずる回路であろう。
 氏は女々しさを更に発揮して、離縁しようたってできないのだと、人々の同情心をあおるが、そんなことは犬でさえもやらないことなのだ。
 独立しろといえた義理か、だって。

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前原朝賢 4/4

 義理もヘチマもない。
 断固として独立を叫べばよいのだ。誰に遠慮することがあろう。
<いい気な話>の最後は泣きべそかきの氏が、それこそひらきなおって、沖縄問題は政治問題でも経済問題でもなく文化問題だ、と形而上学の世界へとんずらするところで幕になる。
 氏はキリスト教のミニ版を、ローカル沖縄宗教を、つくりだし、ひたすらブンカブンカといのれ!さすれば植民地も気楽なものであると民衆をたぶらかす。
 こういうてあいにこそいうべきなのだ!
 我々は文学の実験台でないと、
 大城立裕よ!
<いい気な話>とは夫子自身のおしゃべりではないのか。
 ところで、金田一京助監修の明解国語辞典によれば、文化とは自然を材料として人類の理想を実現して行く精神の活動とあるが、氏は日本文化に加えるべき何物(沖縄タイムス)かをつくりだそうと懸命であるらしい。
 いったい帝国主義の補完をすることがどうして人類の理想とつながるのか、おしえて欲しいものである。
 氏は実にあわれな男である。
 歯に衣を着せ、文化問題に逃げ込むことは、よってたつところの基盤が公務員ということでわからぬでもないが、今に“独立”が主流派ともなれば、この男は恥も外聞もなく、何処からともなく我々のところへ入り込まぬとも限らない。
 すべての穴はふさいでおけ。

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竹中労 1/20

 沖縄/ニッポンではない

ルポライター   
竹 中  労 



       断    章
 1969年10〜11月、12月、翌70年6月、72年1〜2月、4月と、都合5度にわたって琉球弧をよぎり、私は1つの結論を得た、沖縄ニッポンではない。
 彼らはウチナーンチュ(沖縄人)、我らはヤマトゥンチュ(日本人)である。その認識に立てば、これまで沖縄について語られてきた復帰、奪還、解放等々のなべての論理、まやかしであることが自明となる。
        ×
 沖縄人、独特の風貌を有する。
 ……浅黒い肌、濃い眉、つぶらな目、とりわけ女の髪、ゆたかで粗く剛い。海ぬさし草や、あん(ちゅ)らさ(なび)く、あかね色に熟れた美童(みやらび)の体臭、潮の香りがする。
        ×
 琉球弧の海は美しい−−、名護浦の薔薇の残照、昼顔とアザミの花咲き蝶翔ぶ宮古島の与那覇前浜、風の八重山白帆の怒涛、西表の野蛮なまでに透明な海の青。島々に沿って、黒潮は北上する、太古、人々は南方から漂着した、アマミキヨ(海の人)と称する種族、久高島に定住する、やがて彼らは沖縄本島の知念に渡り、国をつくった。
        ×
 "創世"の伝説、本島北部、本部運天港の入口に、古宇利という小さな島がある。この世のはじめ、少年と少女がそこに天降った。素裸の子供らに天は(むーちー)を降らせ、彼らは日々餓えることがなかった。
 ある日、少女は想った。もし餅が天から降ってこない時がきたらどうしよう。少女は少年と語らって、餅を食べ残したくわえた。するとその翌々日から、天はパッタリと餅を降らせるのをやめてしまった。
 とうとうまえされとうとうまえ
 大もちやともちおたべめしょうれ
 とうとうまえ
 うまぐる拾うておしゃげやべら

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竹中労 2/20

 (お月様、もうしもうしお月様、でっかい餅を、大きな餅を下さいませ、赤ニシ拾うてさしあげましょう)
        ×
 子供らは天を仰いで月に祈った、だがその甲斐はなく、それからというもの二人して、昼も夜も海に出て貝を拾い、山に行って木の実を摘んで、生きていかねばならなかった。そしてまたある日、彼らは浜辺で人魚(じゅごん)が交合するのを見、真似てつるんだ。そのときから羞恥心を知った二人は、蒲葵(くば)の葉で前を匿すようになった。
 琉球の人々、みな彼らの子孫である。
        ×
 むかし琉球、汎アジア貿易の中継点として栄え、1個の海洋独立国家であった。国王、尚泰久(治世1954〜60)、巨鐘を鋳て首里城正殿に架け、銘していわく−−
 琉球国ハ南海ノ勝地ニシテ
 三韓ノ秀ヲアツメ
 大明ヲ以テ輔車トナシ
 日域ヲ以テ唇歯トナス
 此ノ二ノ中間ニアリテ
 湧出スルノ蓬来島ナリ
 舟輯ヲ以テ万国ノ津梁トナシ
 異産至宝十方刹ニ充満セリ
        ×
 まはへ、すづなりぎや
 まはへ、さらめけば
 たう、なばん
 かまへっで、みおやせ
 おゑちへ、すづなりぎや
 おゑちへ、さらめけば
            (おもろ・13の巻)
 [訳]
 真南風さらさらと吹きそめて
 鈴鳴りの船や
 唐、南蛮よりの物産を運びきたれ

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竹中労 3/20

 わが琉球に………
 まはえ、追風さらさらと
 鳴り鳴りて吹きそめて
         ×
 明国に対する入貢、琉球171回、安南89回、爪哇37回、三韓30回−−日本は僅かに19回にすぎない(『明史』による)。15世紀における日中貿易、琉球によって中継された、「……活発な琉球商人の仲つぎ、自由都市である博多・堺への来航、日本商人の琉球への渡航によって」(日本の歴史、中央公論社版第10巻)
 文正元年(1466)、琉球船の畿内への渡航が減ると、室町幕府は貨物点検に関する規定をゆるめて来航をうながす策を講じた。すなわち、琉球貿易が堺商人と幕府の両者に利益をもたらしていたことを物語る。
         ×
 尚泰久の寵臣、金丸は権謀術策の人、離島伊平屋の百姓の倅だったが、早魃の年に水を盗んで追放され、1441年−−27歳のとき、当時越来王子であった泰久を頼って、その家人となる。20年間仕えて、貿易財務長官にとり立てられ、泰久没後も首里宮廷に重きをなした。
−−口碑によれば、金丸の父親は日本から漂着した浪人であったという。
         ×
 さて、首里から那覇泊港への街道に、安里大親(あさとうふや)なる怪人物が屋敷を構えて、「花ノ(あした)、月ノ(ゆうべ)に酒席ヲ設ケテ知己ヲ迎エ」(球陽)ていた−−
 この人物の正体、琉球の"正史"にはつまびらかでない。一説によれば、尚泰久に謀殺された豪族護佐丸の実兄であるといい、また一説では、博多、堺との交易を宰領する政商でもあったともいう。伊波普猷著『琉球史上における武術と魔術の考察』には、安里大親は神がかりの予言をよくしたとあるから、妖僧ラスプーチン、あるいは穏田の行者のごとき呪術者だったのかも知れない。
         ×
 金丸、那覇ヲ往来ス
 安里、タマタマ門外ニ公ヲ見テ
 スナワチヒザマズキテ曰ク
 ワレ公ノ相ソ見ルニ
 天日ノ表、竜鳳ノ姿アリ

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竹中労 4/20

 他日、必ズ億兆ノ上ニ座セント
             (球陽、巻の三)
 金丸、安里の出会い、とうぜん後世の御用史家のでっち上げ、いずれにもせよ、2人が共謀して王権簒奪のクーデターをたくらんだことには、まぎれもない。
        ×
 21歳の若さで王となった、泰久第三子尚徳は、「資質敏捷、オカ人ニ過ギ、知謀ヲ自ラ用イテ」(中山世譜)、鬼界ガ島征伐をはじめ、武断政策を次々と打ち出した。老臣金丸を遠ざけ、安里大親の泊港の“利権”を取上げ、旧体制を打破していった。
 琉球王朝代々の諸王の中で、私はこの青年尚徳王を最も愛する。−−彼はまた、恋多き若者でもあった、久高島の祈女(のろ)クニチャサを愛して、首里に帰ることを忘れている間に、金丸、安里のクーデターはおこり、尚徳王は辺境に憤死した、行年29。
        ×
 “革命党”は王城に乱入して、(尚徳の)王妃、世子、王族を虐殺、ただちに世の主をえらぶ選挙の大会が開かれた。この時、金丸と親交を結んでいた安里大親神がかりして、「ものくゆすど我お主」と謡い出し、衆みなオーサレーと和して、金丸を王に選挙したのである。(伊波普猷)
        ×
 食喫(もぬくい)ゆすど吾お主(わーうしゅ)……、食べさせて下さる方が支配者であるという意味、「生活を楽にして下さる人を、国王に推戴しようというのである。いってみれば、“人民の為の人民の政治”をする者を選ぼうというわけで、現在の民主主義の精神といささかも違っていない」(山里永吉、沖縄歴史物語)
 そうだろうか? 琉球史家は、このまるで絵に書いたような陰謀劇を、老獪な政治家と呪術師のクーデターを“革命”といい、“反軍国主義”の義挙であったとする。
        ×
 琉球の“黄金時代”は、第二尚氏(金丸は即位して尚円と称した)によって招来されたという。俗説採るべからず、海洋独立国家、琉球滅亡の悪しき種、このとき蒔かれたのである。『球陽』巻の三を見よ、尚円即位後、明国は再三にわたって琉球進貢(ちんくん)使の汚職を摘発、貿易に制限を加えている。
 尚円即位元年、琉球貢使程鵬、福健ニ至リイ委官指揮ノ劉玉ト私通、貨賄セリ。
 2年、長史蔡環ヲ遣ワシテ、尚徳王ノ薨(*死去)ヲ朝(明朝)ニ訃告、兼ネテ(尚円の)襲爵ヲ請ウ、トキ、蔡環ヲ窃カニ錦衣ヲ製ス、刑部(監察官)コレヲ鞠スニ、賜ヲ

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竹中労 5/20

先朝ニ受クト称ス。ソノ事ナシ、内庫ニ没収ス。
 三年、礼部(入貢官)奏シテ言ウ、琉球ハ毎年入貢スル故ニ、奸幣ヲ生ズ。二年一貢ヲ命ゼラレンコトヲ乞ウ−−
        ×
 尚真王(1477〜1526)、−−歴代第一の名君といわれる。寺院を建立し墓陵を築き、道路を整え橋梁を架け、庭園、泉水、花壇を造成して、壮麗丈美の首里王府を都市計画した。さらにまた、紡繊維、染色、工芸を育成発展させ、音楽、舞踊を文教政策として奨励した。「尚真王時代の文化をわれわれは琉球の歴史の中で、最高の、そしてもっとも撩乱たるものであったと考える」(沖縄歴史物語)
 敬愛する老学究、浅学ぶらいのジャーナリストに、琉球史の眼を開いてくれた独立論者山里永吉氏に、異議を申立てるのはまことに忍び難いが敢えていおう、私はそのようには考えない。むしろその逆ではないか、「ものくゆすど我お主」を“民主主義”にこじつけたり、尚真王治世50年の“繁栄”をユートピアと観ずる思想では、平和憲法、経済大国ヤマトへの復帰を拒否することはできない。琉球独立、−−真善美の理想郷のまぼろしを過去にしか見ぬものは、しょせんロトの妻である。
 「エホバ、硫黄と火を天よりソドムとゴモラに雨(ふら)しめ、その邑(まち)の居民及び地に生るところの物を尽く滅したまえり、ロトの妻は後を回顧(かえりみ)たれば塩の柱となりぬ」
        ×
 史上最低の国王であったと、尚真王を規定するべきなのだ。この馬鹿王は、ポルトガル進出でアジア貿易の主導権を奪われていく、きびしい情勢をかえりみず、豪勢な家を建てたり、池を掘ったりすることに凝り、華美な織物や陶器を愛で、美女の膝を枕にチクトンテンと歌舞に明け暮れて、(おや)が貯えた財産を蕩尽してしまった。
 単なる遊び好きの阿呆なら、まだ摘すべきところがあるが、この王は父(尚円)の血をひいて、きわめて狡猾でもあった。各地方に割拠していた豪族を首里王府に集め、居宅を与え、位階と勲等を与え、連夜の宴を張り、酒と女と歌と踊りで骨ぬきにして、「吾々は永久に戦争をしない」と誓約させた。かくて一切の武器を国庫に納めさせ、反乱の憂いを絶ったのである。……
        ×
 名君とうたわれる尚真王の治世、けっして人民のユートピアではなかったことを明応9年(1500)八重山におこった遠弥計赤蜂(おやけあかはち)の乱は実証する。
 −−琉球弧最南端の波照間島、太田竜風にいえば辺境最深部から、アカハチのひきいる反乱軍は、彼ら農民の信仰であるイリキヤ・アマリ(火食神)祭りの復活と、

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竹中労 6/20

重税撤廃の要求を掲げて攻め上り、石垣島に立て籠って首里王府からの独立を宣言した。3,000の官軍これを伐ち、アカハチたちは死狂いに闘って全滅したという。
 尚真王、まやかしの“戦争放棄”、この乱の後に属する。
        ×
 尚真即位30年、ようやく明国は1年1貢を許す、46年またしても2年1貢に逆戻り、このころのポルトガルは西洋・印度の物貨を中国の沿海にもたらし、日本また堺・博多の豪商は大船を仕立てて直接対明、対南貿易を開拓、さらに倭冦の跳梁を相俟って、琉球貿易は衰退の一途をたどった。しかるにボケナス王は、日本から坊主(日秀上人)を招いて妖怪の調伏をさせたり、エビス大黒を祭ったり、晩年はヤマトかぶれに老い呆けていたのである。
 後年の薩摩侵攻の原因、尚真がつくったといえる。何が名君であるものか!時代は末期に退廃の徒花を咲かせる、もっとも撩乱と錯覚させるその治世は、琉球人から進取の気象を奪い去り、海洋独立国としての主体を腐蝕、喪失させた半世紀であった。
 琉球史をこのように見ることから、我々は出立しなくてはならない。ユートピアとは、人々をしてその分に処らしめ(すなわち処分である)、制度と秩序に疑いなく隷従して、「ものくゆすど我を主」−−ただ満腹すればよしとする、愚者の楽園か? そうではあるまい、伝説の古宇利島に天降った少年少女、月から降ってくる餅を労せずに喰らっていたときではなく、餓えを知ったときからユートピアへの旅は始まったのだ。まぼろしの琉球共和国への遥かな道は、人々が餓えを武器として波濤を越え、小さな丸木舟で汎アジアに津梁(橋)を架けた、太古の苦闘に理会することからひらけるのである。
 おお、踏まれて光り輝くものよ
 眠っているようで目覚めているものよ
 死んでいるようで生きているものよ
 神に祭られてはいないが
 おれたちの魂の奥城(おくつき)に
 不滅の神殿を建立させるものよ
        (伊波南哲、オヤケ・アカハチ)
        ×
 沖縄日本ではない、すくなくとも第一尚氏時代まで、琉球はヤマトの政治圏にも、経済圏にも、文化圏にも属さぬ、一個の海洋独立国家だった。ニッポンへの隷属は、

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竹中労 7/20

薩摩の武力侵略からはじまる。

竹中労と嘉手苅林昌

  ユミヌ・チョンダラーの独白
 俺はユミヌ・チョンダラーである、琉球の独立を、まぼろしの人民共和国をゆめみる、夢の京太郎、ウチナーグチ(沖縄ことば)でいえば、ユミヌ・チョンダラーよ。
 京太郎とすなわち人形舞わし、叉の名を傀儡子(くぐつ)、大江匡房『傀儡子記』によれば"男は狩猟を事とし、時には木偶を舞わすほかに、弄剣弄玉の手品の類を演じ、女は脂粉を装って、倡歌(えろうた)・演楽以て媚を売ることをなりわいとする、人籍に登録されざる“流浪の民”である。声聞師、散所、河原者と呼ばれる賤隷・非人のいちまき、摂津西宮の戌神社の支配下に置かれ、京の都の辻々から全国の津々浦々を、肩から人形の箱を提げて流れ歩いた。
 サテ、くすむ人は見られぬ
 ゆめのゆめのゆめの世を うつつ顔して
 なにしょうぞ くすんで
 一期は夢よただ狂え
 世間(よのなか)は霰(あいれ)よのう笹の葉の上の
 さらさらさっ と 降るよのう
 ……堺の港に琉球国から波布(はぶ)の皮を張った三絃(さんしん)という楽器が伝来したのは、永禄の年間(1558〜69)だった。豪商高三(たかさふ)の嫡男隆達、その音色に魅せられて小歌をつくり、諸国を漂泊してうたいひろめる。なに、商都堺の由緒ある家の息子が、よくも思い切ったものだって? いや、武野紹鴎、今井宗久、千利休、自由都市、堺の実力者はことごとくチョンダラーと同じ階層の出身、隆達のうたぐるい、いうならば古巣に帰ったのである。三絃はやがて三味線と変じ、われら傀儡子と琵琶法師との合作で、“人形浄るり”に完成していく。
 それはさておき−−、琉球人、山内盛彬(せいひん)の『沖縄の人形芝居』の記述では、慶長

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竹中労 8/20

14年(1609)に薩摩島津藩が琉球に侵攻する直前、俺たち傀儡子30名が間謀(スパイ)として潜入したという。殊さらキョータロー(京太郎)と名乗って目的を悟られぬようにゆるまい(1)遊芸にかこつけて琉球各地を行脚し地理を調べた、(2)王族や武将の邸内に演芸者として出入りし動静を探った、(3)那覇泊港の南岸に住みつき薩摩交易船を暮夜ひそかにたずね、三重城(みえぐすく)(城の入口を扼する)の防禦の固さを報告して、侵略のさいは北方運天港をえらぶべきだと指示した、(4)運天港から首里までの道案内をした、(5)戦後も居残り隠密の役割を果した、ウンヌン。
−−話としては面白いが、そいつは冤罪(ぬれぎぬ)というものだ。京太郎という名前は、室町時代からちゃんとあるんで、ようするに京太郎を主人公とする筋立ての人形芝居を演るから、チョンダラーなのである。え、そんな具合に言っちまったんじゃ、実もフタもないと? 独り言だ、うっちゃといてくれ。だいたい“人籍に登録せられざる”俺たちにとって、まともな歴史なんざあるものか! 琉球まで流れていったのは、つまり“流れる”ことが俺たちの常態だったというだけのことよ、始めっから国も家もないのさ、「都会人よりすでに飽かれて、次第に遠く地方へ落ち延びなければならなくなった。人形を持って遠く琉球に流れ着いた者、今も首里郊外の行脚(あんにゃー)村(安仁屋)在に、チョンダラーと呼ばれ残存しておる」(昭和11年3月、福岡県学務部発行“民間演芸”第三)
 これが正解だな、「ともあれ、江戸の初期あるいはその以前において、傀儡子が琉球にまで渡り、これらの芸を売っていたことのみ知ればよいのである」(同)
 チョンダラー人形まわしの一段…、時はいつなんめり、慶長14年如月の26日、樺山権右衛門久高を総大将として、薩軍3,000余りを100の兵船に分け、南蛮渡来の種子ガ島730挺を載せ、琉球王国攻めに討出てけり。春は弥生の3月4日奄美大島の蛮将笠利(かさり)の大親真牛(うふやもうし)を降し、徳之島より沖永良部へと当るを幸いブッ放しブチ殺し、鉄砲玉のその勢い、目ざましかりける次第なり。デンデデン、デンデン。
 3月25日、運天港外に至る。副将水軍総指揮平田太郎左衛門増宗、1隊を今帰仁に掲げ北山城を襲う。城兵、種子ガ島の乱射に恐慌、一戦も交えずに敗亡。
 ぼーぬしゃちから びぬんじてィ
 わがばなや いりぶがちねらん
 ……棒の先から火花が出て、俺の鼻をブチぬきやがった!
 踰えて4月1日、薩軍本隊は山林・人家に火を放って焼き払いつつ、ひた走りに首里に向う。3日、既にして王城を囲む。5日、王尚寧は城外に出て和を請う。
 「首里城中では、すべての人々が息を殺して事のなりゆきを気づかっていた、

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竹中労 9/20

その日から300年間……、かれらの子孫が薩摩のために半奴隷の境遇に追いこまれることを、知っていたか、知らずにいたのか?戦争どころか抵抗らしい抵抗一つせずに、無条件降伏してしまうとは何たることであろうか」(沖縄歴史物語)
 異議ありとチョンダラー申す。そいつは当然というべきである。首里城中にいたのは王侯貴族第二尚氏の安逸に腐れ果てた劣紳ども、肝ッ玉最初からツブレとる、どうして闘うことなどできよう。まちがえては困る、“半奴隷の境遇に追いこまれる”のは琉球の人民である、貴族の子孫ではない。伊波普猷『古琉球』をはじめ、王朝史としてかかれたなべての歴史物語を俺は否定する。
 俺はユミヌ・チョンダラー、……化けても出られぬ奈落の旅人、道化衣裳に身を包み、面垂(みんたりー)で顔をかくした夢の木偶舞わし、オエラガタにあてこすって申そうなら、首里城明け渡し金持ちケンカせず、悲憤慷慨するほどのこたァないんだ。そもそも慶長の役=薩琉戦争の勝敗は火器の優劣で決まった、ポーヌシャチカラビヌンイジティ、原爆をくらった第2次大戦のニッポン低国とご同様、無条件降伏ギブアップ。
 敗戦の弁解までそっくり、「無辜の民章をこれ以上殺傷することは忍び難い…」
 そらぞらしいことを! とチョンダラー怒りを燃やして言う、『島津家征琉筆記』によれば薩軍の戦死者58名、対して琉球軍531名、内官軍(王府正規兵)8名とある。この統計には、非戦闘民間人の使者は算えられていない、あくまでも闘って斃れた者のみである。王府の正規兵ではない戦死者とは、いったい何者か? それは各部落の義勇兵である。近代武器である種子ガ島銃に山刀、鍬、豆打棒をふるって立ちむかった、無名無告の戦士たちである。この真に勇敢であった人々を想え!「このような沖縄には志士は生まれない」(伊波普猷)等と、どうしていえよう?
 首里王府の中でただ一人、那覇の久米城で徹底抗戦して、ついに捕らえられた謝名親方(じゃなおえかた)に殉じて、西・東・泉崎・若狭の4町義勇隊は全滅している。人民は闘った、自己の安全とひき換えに薩摩に国をわたしたもの、鉄砲玉くゆすど我お主の腰ヌケは、誰あろう琉球の支配者どもであった。
 もともとこの戦争は、豊臣秀吉挑戦征伐に兵糧を差出せと命じられた琉球国が、大明に気がねしてこれを拒んだことからはじまる。島津藩としては、何とか口実を設けて琉球を侵略するべいと虎視タンタン、機会を狙っていたんだから好機を見逃すわけがない。それ突けやれ突け、当リーイと攻め寄せてきたんだわサ。するてェと、官軍僅か8名の戦死でオープン・ザ・ゲイト、大久保清に犯された女の子たちだって、まちっとジタバタしたにちがいない。手前からホイさっさと下穿きを脱いで、ホーぬ口ふらち(オメコぱっくり)ときたもんだ。コミック・ストリップ、

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竹中労 10/20

人形振り一巻の終りとござーい。
 5月14日、国王尚寧以下100余名、薩摩に"謝罪のため"拉致される。しかし、「敗戦琉球国の王尚以下重臣に対して、島津藩はいささかも捕虜としてのあつかいをしませんでした」(川平朝申、琉球王朝史)
 「……6月26日、尚寧王は鹿児島にまねかれ、島津義久、義弘、家久の三公に対面、これまでの罪を謝して御馬代白銀千枚等々の宝物を献じました」「島津三公は、尚寧王一行を厚く迎え、罪を責めず、むしろ度々饗宴をもよおして旅情を慰めるなど、戦勝国とも思われぬほど温情のあふれるものがありました。江戸に上っても徳川幕府の歓待を受けて、思いの外の好意に一同感泣したのであります。」
 待ってたエイ、柳の枝に猫がいる、だからネコヤナギ、それでいいのだ……、(およそ一国の植民地化は、その社会内部にコンプラドール(買弁層)をつくり出すことなしには達成できない)。慶長16年8月9日、島津家久は江戸から帰った尚寧一行に、近々検地完了次第、帰国を差許すと内示した。「一同手の舞い足の踏むところを知らず」ウハウハよろこんで、「いかな御仕置に屹度違背致さぬ事」を誓約したと思いねェ。
 9月10日、家久は尚寧王に知行目録1通を授け、悪鬼納(おきなわ)諸島を89,086石として5,000石を王家の歳入、余は高官で配分せよ、但し、一石につき粗米9升2合の上納を課すと通達した。また奄美大島、喜界、徳之島、沖永良部、与論の諸島を薩藩直轄とし、琉球王国から奪った。
 さらに、芭蕉布3,000端、上布6,000端、下布10,000端、はじめ唐芋1,300斤、棕梠縄100房、牛皮300枚等々の毎年貢納を決め、尚寧以下子々孫々まで厳守する旨の盟約書を差出してようやく放免。一人、謝名親方のみ最後まで連判を拒んで斬首される。
 ジャナヤサバカランド
 サバカリーシャ イッターヤマトウ
 サツマヤンド
 ……謝名を裁くことはできない、侵略者であるお前たち、大和薩摩こそ裁かれねばならないのだ。
 9月19日、尚寧王帰国の途につく、さてそれからというものは−−

 稼(か)しゅてんしゅてしゅてィん
 誰(た)が為どなゆか
 大和衣裳(やまといちよん)着(ぎ)り奴(や)ぬ 為どなゆる

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竹中労 11/20

 1.薩州の指示以外に明国への注文を停止(ちょうじ)のこと。
 1.商取引きはすべて薩藩免許のこと。
 1.琉球からの他国への船を出さぬこと。
 ……海洋国家の根幹である貿易権は薩摩の管理するところとなり、“半独立国”の名目だけを与えられ、対明貿易の利潤のすべてを吸い上げられる仕組みと相成る。
 だが、くりかえしていう、植民地隷属の歴史は誰の上に300年の苦惨をもたらしたのか?
 元禄11年(1698)、薩摩は砂糖増産政策を奄美・琉球諸島に布告して、いわゆる“黒糖地獄”のどん底に島人を突き落した。米をつくるなキビだけつくれ、黒糖一斤に玄米2合6勺を与える、とりわけ直属領地である奄美諸島における収奪、言語に絶するものがあった。
 凶年はソテツの実を喰らい、ソテツの実を喰い尽すと、山に分け入り阿檀の実を探し、イチュビ(野苺)を採り、それも食い尽して阿檀の木に首を吊って人々は死んでいった。野苺の季節になると、山野に幽鬼さまよって怨歌をうたった。
 イチュビ山登(ぬふ)てィ イテュビ持呉(むちく)いよ
 アダン山登てィ アダン持呉いよ
 …………………………………………
 我達(さした)、生首の木枝(くんち)が掛けてィら
                  (柳田国男・海南小記より)
 薩摩藩士よりも、“地役人”の方がむしろ残忍であった、と口碑は伝える。「ハーマヤ(山猫)がやってきた、こんどはどこの家の鶏が捕えられることやら」という意味の諺が奄美に残っている。ハーマヤとはすなわちトラ(薩摩)の威を借るネコ、ここにも柳の枝に猫がいた……。
 “黒糖地獄”はくりかえして、幕末にまで及んだのである。一つのエピソードを記して置こう、慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いに勝利した西郷吉之助のもとに、軍資金.0,000両が届けられた。持参した大阪薩摩藩邸留守居役の木場伝内から、さらに140,000両の黒糖売掛金があるという報告を受け、西郷は「幕府との戦さはこいで勝ちもした」と膝を叩いてよろこんだ。(南日本新聞社・鹿児島100年)
 −−維新の勝利、このかげに奄美・琉球の島ちゃび(離島苦)、生き地獄の労働があったってわけ。チョンダラー流れ旅、ずいぶん巫山戴た話を見聞きしてきたけれど、“黒糖地獄”の楽屋裏ほど醜怪無惨なからくりてェものはございませなんダ、よろしいか、耳の穴を掻っぽじって、まあ聞いてやっておくんなさいまし。
 元和9年(1623年)、儀間真常という農学者、荻(甘蔗)の茎から黒糖を製造する実験に成功、サトウキビの栽培を琉球全島に普及奨励したのが事のはじまり。20年後、製糖は琉球第一の産業となり、輸出も一位を占めたのでございます。

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竹中労 12/20

海を奪われ、貿易で国を維持することができなくなった琉球に、再び自立の曙光を済ませたもの、それは甘蔗という換金作物でした。このように、人々は餓えを武器として、ユートピアに近づこうとするのでございます。
 「沖縄は経済的に独立不能の宿命を持つ」などと、タワゴトをおっしゃいますな。
 もし、この琉球に王というものや、政府というものがありませなんだら、人々はとうの昔に、桃源郷を創っていたにちがいないのでございます。製糖の発展で、ようやく豊かな暮しこの島におとずれようとしていたとき、首里王府はとつじょ糖業国家管理=専売制を布告した、表むきの理由は“官民一致による産業振興”だが、内実はお粗末チャリン、正保3年(1646)、当間親雲(ぺーちん)上重陳てェお人、真相を誌したメモを残している。このペーチンなるものは、第2次世界大戦後の“親米かいらい政府”で主席をつとめた当間重剛のご先祖、……話はできすぎちょる。
 さて、ユミヌ・チョンダラー人形まわしの二段目は砂糖欝金(うこん)仕上げ世始めのからくり、慶長の役に敗れてより琉球国窺之、薩摩から銀子9,000両ナリを借款して、6カ年の期限で返済する約束でおじゃった、ポロンポロン。ところがこれが返せない、そこで王府の高位高官、鳩首協議の結果あみ出しましたるからくり、“専売制”すなわち農民にキビ栽培を義務づけて、それを低廉に買上げて薩摩藩に貢納すれば、たちどころに借金返済オツリがくるという仕掛け。尚農王治世(1621−1640)すでに生産870,000斤、そのうち720,000斤を貢納、下って尚貞王(即位1669)の時代には3,330,000斤と大増産の拍車をかけ、そのほとんどを薩摩に運び金に換え、琉球史家のいう“第二期黄金時代”の歓楽に酔い痴れて候、スチャラカチャカポコ浮かばれないのはいつでも下々、汗水(あしみじ)流して牛馬(うしうま)の扱(あち)け、「生活程度の低い農民は王府が買上げてくれる価格で満足していた」(沖縄黒糖文化史・源武雄)
 尚貞は明君だっただと……、おふざけじゃないよ、サン・ジュストのいうごとく(人は罪なくして王たり得ない)、百姓粒々辛苦の上にあぐらをかき、御茶屋御殿なんてものを拵えちょって馬鹿旦那、「豊葦原(日本)の池の坊よりつたえし立花投入の数々、心の花の匂いをうつしていとめずらか、或は利休居士の流れを汲みし茶の湯、礼式正しくして尤もおごそかなり、或は囲碁、象棋、勝劣のくらべ、糸竹音楽の妙、その外さまざまなる芸能叡覧ましまして終日の御佳興、たぐいもまれにぞ聞こえける」
 いい気なもんじゃァございませんか、砂糖を売って遊興三昧、甘い生活とはこのこった、いうならば首里王府総体、琉球人民に対するハーマヤと化し、薩摩の“黒糖地獄”政策を呼び込んだのである。チョンダラーつらつら思うに、琉球史家の決定的錯誤はみずからの内なる買弁、第二尚氏歴代の王を大和薩摩の“共犯者”として

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竹中労 13/20

告発し得ぬ、階級的視点の欠落にある。
 尚貞王なんてもな、人間的にも実にダメな男で、奸婦真加戸樽金(まかとたるかね)のケツに敷かれっ放しであった。先妻の葬式のときに涙を流して、お妾の樽金に、満座の中でシラガーハジェーネン!(白髪頭のはれんち爺ィ)と煙管で頭をぶたれたり、単に色ボケておったのだ。こういうラチもない助平王を、後世史家なるものは、文芸復興の英主と天まで持ちゃげてしまうんだから、正史というものは講談より始末が悪い。
 −−琉球弧に真人民の理想郷を樹立するためには、まず一切の既成の史観を“総括”しなくてはならない。
 チョンダラー先刻よりうだうだと、琉球の昔話し、木偶舞わしの芸能者風情が半可通のそしりも恐れずと、どなたもこなたもお思いだろうが、ヤツガレそんじょそこらの学者と称する先生方より前後(あとさき)見えマス、柳田国男、折口信夫、ついでに谷川健一、糞でも召上りませ、説き来り説き去るチョンダラー史観のひとくさり、一見ハナ唄まじりのごとくなれども、琉球1000年の時空を踏まえ万巻の書物を渉猟した歴史哲学の背骨、ズンと筋を通しているのでおじゃりまするぞ。
 隣(とない)ぬ耳切(みみち)り 跛引(ぐぬち)ち猫(まやー)が
 目剥(みは)ぎ首白(くびしるー)ウエンチュ(鼠)に
 顎玉(あらかじ)喰われてィ 呼(あ)びらじ叫(う)らばじ
 飛(とう)ぬがじ 思(うみ)入りや!
            (京太郎・うふんじゃり節)
 うふ・んじゃりと読んでいただく、つまり武者(ンジャ)の親玉(ウフ)、りは接尾の強調である。勇猛なるンジャ猫、窮鼠に噛まれてびっくり仰天、ハテこんなはずではなかったがというおかし味、京太郎の演目の中で最も庶民の喝采を拍したのが、ドラネコ(ハーマヤ)合戦の一幕、百姓が首里王府の収奪に満足していたと? 笑わかしちゃいけませんやね。

 我らは飢え、渇き、……また裸となれり
 また打たれ、定まれる住家なく
 今に至るまで世の塵芥のごとく
 萬(よろず)の物の垢のごとく為られたり
        ×
 日の栄光と月の栄光とあり
 されど、此の星は栄光を彼と異にす

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竹中労 14/20

 朽つるものにて蒔かれ
 朽ちぬものによみがえりし
 卑しきmのにて蒔かれ
 栄光あるものによみがえりするなり……

 ユミヌ・チョンダラー人形まわし三段目の外題、切支丹伴天連はギレンの疑獄−−元和8年(1622)、石垣島の津沖に南蛮船海難漂着、当時の頭役、本宮良親雲上(もとみやらペーちん)これを救助して食糧と水を贈る。
 ……本宮良は代々貿易を業として、薩摩に停止されるまで諸国に船を出しておりましたから、もとより南蛮に隔意はございません。たまたま同乗していた宣教師(ぱあどれ)と、親しく往来する間に、キリスト教に深く帰依することとなったのでございます。ある日、門中の墓の境内に村人を集め、本宮良はおのれが信仰に入ったことを告げ知らせ、今日よりは天なる国に属する我らは兄弟であるといい、屋敷、田畑、漁網、船楫、ことごとく部落の共有とすると宣言いたしました。
 百姓たちは驚き、かつ喜び、一人のこらず信者となり、またひそかに他村の知己友人を礼拝・集会に誘い、キリスト教は早い勢いで石垣全島に波及したのでおじゃります。とりわけて、純情一途の若者たちはおのれの村の地主・頭役に本宮良親雲上のように私財を解放することを迫り、あちらこちらに不穏の動きが高まって参りました。島長筆頭の石垣親雲上、大いにあわてて首里に急便を送り、一揆謀反の惧れありと報告、王府はただちに柏氏小禄親雲上(かしわしうるくペーちん)を検察使として派遣、真相の調査もクソもあらばこそ、いきなり本宮良をひっくくり、一統を片端から逮捕してしまいました。そのさい、石垣一の美女とうたわれた本宮良の妹を、やはり頭役の一人である大浜親雲上が強姦してくびり殺すという、無残な事件がおこっています。
 首里に護送された本宮良一統は、5年間も牢ぬぶちこまれたまま、裁判もひらかれず寛永7年(1630)に至って、「焚刑」の一方的な判決が下り、石垣島に送り帰されて新川村で十字架にかけられました。さらに、その家族・子弟数百人が、波照間、与那国へ遠島流刑に処されたのでございます。これが琉球における、キリスト教の伝道のはじまりであり、殉教のはじまりでおじゃりました。
 チョンダラー伝え聞くところによれば、首里王府としては本宮良親雲上の謀反を立証することができぬばかりか、逆に妹殺しの一件が暴露するなど処置に窮して、“邪教”信仰という理由をこじつけたのだと申します。長崎島原の乱がおこったのは、それから7年後の寛永14年(1637)10月、切支丹法度が薩摩から正式

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竹中労 15/20

に琉球にもたらされたのはその前年のことでありました……。
 すなわち、首里王府は大和薩摩の"切支丹弾圧"を先取りして、本宮良の一統を犠牲(いけにえ)の羊としたのでございます。寛永14年には、読谷(よみたん)村に上陸した南蛮人を捕え、薩摩に護送してこれを殺しています。「こうして琉球が日本の禁令である異国人を捕えて、はるばる送り届けたというので、薩州はこれを非常に歓待しました」(琉球王朝史)
 ほんらい、人頭税その他の苛酷をきわめた収奪と、ハーマヤ的な地役人の横暴に対するプロテストであった石垣天主教事件は、首里王府によって、大和薩摩の意を迎える切支丹伴天連の謀反劇にすり換えられ、歴史の闇に葬られてしまいました。
 ……八重山にいまも残る、赤また黒またの秘密結社の遺制と、石垣天主教事件をチョンダラー関連づけて愚考しますが、それはこの秋に三一書房から上梓する『琉球幼視行』で詳述することとして、眼を奄美群島に移してみると、中でも圧倒的に過酷な“黒糖地獄”徳之島では、100年以上に渡って執拗な抵抗がくりかえされている。
 元文元年(1736)、伊仙・検福の村民たちは沖縄島へ逃散することを決め、全村の老若男女がくり舟で出航、沖永良部にたどり着いたところを地役人に捕えられる、首謀者3名遠島、他は10歳の少年に至るまで足かせ首かせの刑に処せられる。
 文化13年(1816)5月、母間(ははま)の村民630人名、不当な税金に対する不払いに立上り、集会して役人の非を鳴らす。藩吏、指導者の喜玖山を、談合に応ずると偽っておびき出し、捕縛して水牢にぶちこむ。6月9日、激昂した村民、竹槍、カマ、ナタ、魚突き等を手に手に役所を襲撃、喜玖山を救い出して気勢を挙げ、15人の代表をえらんで藩に直訴をこころみたが、不遜の所為であると逆に入牢、"情状酌量"のうえ死罪だけは免がれ、遠島に処される。藩吏、地役人にはおとがめなし。
 元治元年(1864)3月末、代官の寺師次郎右衛門、きび横目(監督官)の義美屋(ぎみや)に地方巡回を命ずる。地役人義美屋、犬田布百姓為盛の娘に横恋慕、手きびしくハネつけられたことに遺恨を抱いていたので、砂糖を隠していると寺師に報告した。代官は為盛を捕えて、同村の寿福宅の庭で石抱きの拷問にかけ、その無惨な姿を見せしめのため村人に公開した。もちろん、はじめからない砂糖が出てくるはずもなかった。ついに為盛は衆人環視の中で責め殺されてしまった。村人たちはいったんひきあげたが、まもなく豆穀打ちの棒を持って集まり、寿福宅を取り囲んで

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竹中労 16/20

うち壊し、砂糖の収納小屋もうち壊した。代官は馬にとび乗って逃げ出し、全島役人を非常呼集して、鎮圧の構えを示した。
 “暴徒”は村外れの丘に砦を築き、食料を持ちこみ、女房子供も一緒に立てこもってホラ貝を吹き鳴らし、来るならこい!と徹底抗戦の決意表明で応酬する、対立は12日間つづいて喧嘩両成敗、寺師次郎右衛門はお役御免、一揆側の主だった者6人は沖永良部に流されて、チョン。
 以上の経過からお気づきと思うが、薩摩は少なくとも、島一揆に対して死罪を適用したことはなかった。よろしいか、反逆に対してより暴戻であった(裏返していえばより恐怖した)のは、首里王府コンプラドール・王侯貴族どもだった。沖縄人よ、このことを胸に置くがよい、あなたがたを裏切りつづけてきたもの、それは尚寧王から屋良朝苗に至るまで為政者と称する奴輩、琉球自身の裡なる買弁であったことを。

 唐ぬ世(ゆー)から 大和ぬ世
 大和ぬ世から アメリカ世
 ひるまさ変(かわ)たる 此(く)ぬウチナー

 さて、チョンダラー先を急ぎまする。今に至るまで世の塵芥とされ、萬物の垢のごとく卑しめられてきら人外河原乞食、数世紀もの怨みツラミを、たかだか数十枚の原稿用紙に吐きつくすこと到底かないませぬ、さてィむ浮世(いちゆ)ぬ浅ましや、天底(あみすく)の星屑の栄光は遙かな先でおじゃります故、暫し舞いをとどめて琉球亡国の物語、骨子(あらすじ)をのみ口上な仕まつりましょう、才蔵やアイアーイ。
 薩摩侵略の50年後、半独立琉球国の宰相羽地朝秀、“日琉同祖論”を唱える。曰く、「日本人と祖先を同じくする琉球人が本来の大和ぶりを忘れ、異国である唐風に染ったことに諸悪の根源はある、琉球人すべからく一切を日本に学び、早く模倣して、大和心になることが肝要である……」
 ハテ? 同祖であるから国も一つにせねばならぬという法はあるまい、かくいうチョンダラーはもと三韓から渡来した、日韓同祖にまぎれもない、ならば朝鮮にもさらに遡って中国にも日章旗を立てるか? そもそも羽地朝秀、またの名を向象賢なる人物は尚真王の血脈をひく。某日、尚豊王摂政の具志川王子(尚寧)は首里の街角で、下男におぶわれてチョンダラーを見物している小児にふと目をとめて、「他日この子は琉球の大和支配のゆるぎないタガをはめる人物になるだろう」と予言した。意味深長、まさに向象賢は大和支配のゆるぎないタガで琉球弧をしめ上げる、史上最悪の買弁政治家となった。琉球史家はよってくだんのごとく、天下の名宰相であったと

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竹中労 17/20

この男を誉め上げておるから世話はない。
 向象賢の日琉同祖論これすなわち、支配者大和人(やまとんちゅ)と被支配者(うちなーんちゅ)とを、同化帰一する方便で述べられた。俺っち三韓出身のチョンダラー、同化帰一せぬがゆえにでなくむしろ“日本人になろうとする”努力、逆に差別を生み出してしまうパラドクスを我身の上に、イヤというほど見てきたんだわサ。むかしのことは措いて、近くに例をひけば1919年3月の“万歳事件”、3,000,000万もの群衆が独立バンザイを叫んで蜂起した大乱を、ようやく鎮圧した大日本帝国天皇、民心安定の詔書を発した−−、  「朕、ツトニ朝鮮ノ康寧ヲ以テ念トナシ其ノ民衆ヲ愛撫スルコト一視同仁、朕ガ忠良ナル臣民トシテ秋毫差異アルコトナク、名々其ノ所ヲ得、其ノ生ニヤスンジテ休明ノ決ヲ受ケシムコトヲ期セリ」
 平ったくいえば、チンは日本人も朝鮮人も同じ“臣民”と考えとる、職業、学問等々の機会均等と生活の安定を与えてやる、同じく明るい暮らしを約束するから、これ以上騒ぎ立てるなという意味だ。“同化教育”、この時を起点としてはじまる、けっきょくそれは「日本語をはなせる下層労働者」をつくり出す政策であったのだが、朝鮮民衆の中には一視同仁其ノ所ヲ得ルという幻想を抱いて、来日するものが少なくなかった。
 その結果−−、関東大震災虐殺、全国3府27県から23,715名を軍・警察等に収容、土木建築の強制労働に従事させ、日当内地人2円34銭、朝鮮人1円1銭の差別に置く。
 チョーセンチン
 チョーセンチント バカニスナ
 テンノーヘイカ
 ミナオナチ
 ……沖縄の人々、なぜか、朝鮮人が被虐の系譜を語るごとくには、日本への呪詛を語ることをしない。明治5年(1872)9月、維新の慶賀使として伊江王子尚健、宜湾親方朝保、随員100余名ともなって上京、「朝廷スナワチ琉人ヲ寵異シ、家族毛利氏ノ御宅ヲ空シウシテ館宿セシメタリ、毎日官費ヲ以テ盛膳ヲ給イ、カツハシバシバ勝景美観ノ処ニ招延隷待セラレ、天恩ノ重渥、威戴ノ至リニ耐エザリキ」(随員・喜舎場朝賢)
 くりかえされる上り口説(くどぅち)、尚寧王の場合と同様、宴会・観光で骨ヌキにされた一行は、「尚寧ヲ琉球藩主トシ、華族ニ列ス」というお墨付きをいただいて戻って

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竹中労 18/20

きた。これにて琉球安泰、と思いこんでいたんだわサ。アニはからんや、弟然らんや明治12年(1879)3月26日、処分官松田道之は廃藩置県を示達。5月27日琉球最後の王・尚泰を日本に連れ去り終生軟禁する。かくて第二尚王朝は滅亡した。
 羽地朝秀、宜湾朝保、屋良朝苗、3人とも“朝”を冠としておるのは、朝ナントカてェ名前が沖縄に多いので、べつに偶然の一致ではない。だが、琉球史に登場する親日派、知日派ことごとく、買弁と呼ぶべきであるとチョンダラー申上げたいのだ。
 極論か、……極論では決してない、朝鮮を見よ、明治38年(1905)第2次日韓協約によって併合への道をひらいた、李王朝5人の大臣−−李完用以下は、今日“五賊”と民衆から呼ばれ、ワイロをむさぼり人民を侵略者に売るものの代表とされている。1972年“復帰”のまさに100年前、琉球処分の道をひらいた伊江王子、宜湾朝保たちはコンプラドール以外の何者でもなかった。そして屋良朝苗、お前もだ!
 日琉同祖=一視同仁が、沖縄にもたらしたもの、ナマヌジシーヤ、ヤマトグチ、ツウジランドン、サシツケータビーサヤー(当節は日本語が話せないと不自由ですな、伊波普猷“琉球語便覧”より)、方言罰礼による同化教育、琉球語を使っているのを見つかると、バチフダを渡されて操行点を1日に半点ずつひかれる、札をもらったものは方言を使った他の生徒をみつけて、教師のところへ連れていかねばならぬという仕組みだ。密告スパイ行為の奨励、このバチフダ教育は戦後も沖縄教職員組合によって継承され、いわゆる祖国復帰運動に結びつけられた。
 朝鮮人共和会手帳−−、「互イニ内地語デ談話シマセウ」「早ク内地文化ニ染ルヤウニシマセウ」「男女トモニ朝鮮衣服ヲ速ヤカニ廃止シマセウ」「本会ハ×警察署管内半島人同胞デ組織サレ当局ノ御指導ノ下ニ皇国臣民タルノ精神ヲ涵養スルコトヲ目的トスル、右各項ニ違反シタル場合ニハ除名送還スルコトアルベシ」(1940年)
 昭和20年(1945)、4月から6月に至る“沖縄決戦”、琉球総人口の3分の1を殺した、日本は、“1億玉砕”のかけ声だけで本国ではついに戦わず、奄美・沖縄を戦勝国アメリカに差出して、4分の1世紀をかえりみなかった。
 1945年8月6日、9日、広島・長崎に原爆炸裂、朝鮮人強制徴用工40,000人が死亡、放射能を浴びた20,000人、彼らの祖国に帰って4分の1世紀、無告無補償の谷間にいまなお切り棄てられている−−。
 ウチナーンチュ、「我々は朝鮮人とちがう」というか? ナンセンス、同国人で

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竹中労 19/20

あると主張する限り諸君は永久に差別される。沖縄ニッポンではないと“異邦の論理”で大和に対峙する限り諸君は自由なのである。
 昭和45年(1970)11月、“国政参加選挙”で当選した7人の沖縄県議員を、日本国会は、“天皇しか出入りしない”正面玄関から迎え入れた。晴れがましくライトを浴びて代表質問に立つ沖縄の選良、このときまさに琉球処分が始まったことを自覚せず、権力体制の赤いじゅうたんを踏んで、天にも登る心地だったにちがいない。
 100年の時をへだてて、あまりにも符合する本土受入態勢に、チョンダラー慄然とする、この異常な隷待こそ、ヤマトの沖縄に対する“差別”の証左ではないのか? 議員たちは誰一人、“天皇の門”から国会に入ることを拒まなんだ、−−天皇ノ重渥、感戴ノ至リニ耐エザリキとくら、チャチャラカチャカポコ平和と民主でよかったネ。

 夢(ゆみ)ぬ狂人(ふりむん)や 後先(あとさち)ん知らん
 我儘 自儘たむん
 見いぶさあるときや 夢や見らん
 ゆみぬふりむん さらふりむん
 ゆみぬふりむん ままならん

 ユミヌ・チョンダラー、俺は流れ者、諸国行脚の芸能者、東の方に事件あれば西の方に伝え、北から南へポロロン太鼓打ち鳴らし、ありゃ負けたか四九か、ここよんく聞けしっきゅーか、子宮は女子の大切で、そこが男の好くところ、四四なら赤子の寝しょんべん、おやまた負けたか三五か、産後の嚊なら気が早い、やれいくまたいくまたまたまたいく、ササ負けたか三三か、サンサンサカズキ済みました、緞子どうするかけ声で出来た嬰子がこの子です。家は代々犬殺し、親父は墓所の骨せせり、セガレ遊廓穴せせり、後に残りし質札は無間地獄の空証文……
 とまあ、こげな風に阿呆ダラ経をうたって村々をまわりよった、ご見物衆聞(ち)ちみ候(そう)れ、わいらは遠く九州は博多よりビンズルモーと申す小高いところに部落を造り、一間四方の阿弥陀堂を囲んで渡世致しておりまする。先祖供養、人形まわし、チョンダラー舞えば3年の厄払い、徳川300年、葵御紋の栄える御代はずーんと裕福に楽しく暮らしておりましたが、明治・大正・分明開化の時の流れに、やれ猥雑だの風紀を乱すの、果ては盗人のうたがいをかけられ、到るところで迫害・差別・唐ガラシの

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竹中労 20/20

粉をかけたメシを寄越すわ、面の内側に糞を塗られるわ、大正の末にはビンズルモー部落わずか3戸に凋落、最後の勢頭(親方)玉城太郎を以て、京太郎は滅び去ったのでごわりまする。いま残るは、むかしチョンダラーのふり写した田舎芝居のみ。
 なれどさきごろ、大和よりユミヌ・チョンダラーと名乗る中年男の放浪者竹中労またNDUとやら申すカメラを担いだ若者たち、琉球弧漂泊の旅を志して来り去り、また来りまた去り、またまた来り去って、『モトシンカカランヌー』という面妖な音楽活動写真、『琉球共和国 沖縄ニッポンではない!』と称する書物など、ウチナーンチュに流布しておりまする。
 ……俺はユミヌ・チョンダラーだ、琉球の独立を、まぼろしの人民共和国、汎アジアの窮民革命をゆめみる。政府なき国家を、党なき議会を、官僚なき行政を、権力の廃絶のための過渡の権力を……、ゆめみる。

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国頭太福 1/3

 琉 球 共 和 国

機関誌編集委員長   
国 頭 太 福 



 1つの妖語が東支那海をさまよっている。(注1)

    琉 球 共 和 国 !

 耳慣れないこの5つの文字を叫ぶ男が居る。 野底土南(NUKA DUNAN)
我が梁山泊=蝶恋花舎の頭領、天速星、神行大保、戴宗こと竹中労は、彼を称してパブステマ(洗礼者)のヨハネと呼ぶ。
 ヨルダン河ならぬ、琉球列島、海河川の水をもて、悪魔の子たれと洗礼を施すひとつの鬼火!
 それ
 よく燎原の火となりえるか?
(注1)
ドイツ人、カール・マルクスがぼくの頭脳にのり移ってから久しいが、近頃そのミスターM氏に挑戦して支配の構造をくつがえそうと頑張っている。太え不逞の徒(平岡正明)が2人居る。その2人には申し訳ないが、暫くM氏の尻尾につかまらせてもらい、彼及び彼の兄弟同じくドイツ人、フリードリヒ、エンゲルスの「共産党宣言」からもじって最初の行を記しつつ書き始めてみた。
 ヨーロッパを東支那海に置き替えたのは、文明的産業主義者、就中先進国革命論者に軽くパンチを見舞ったことはもとより、それにもまして日本帝国主義を撃つ要が多分に此処へあるからに他ならない。すなわち、そのことをぼくのおやじ(組長なのだ)太田竜は「状況」(71年10月号、「琉球共和国」独立の檄)論文で[日本は「海洋・島しょ国家」であり、日本帝国を死滅させるためには、革命軍は海を制しなければならない。(中略)琉球共和国は、日本帝国を滅す15年革命戦争の「北の尖端」である、と。すなわち南方から東京政府を包囲する戦線の北端である、と。]いい又おじき竹中労も「流動」(72年5月号、野底土南、琉球独立のヨハネ)論文で、統一赤軍の革命戦略の誤謬をついたのち[“あさま山荘”ではなく沖縄で、山岳アジトではなく四通八達の「水滸」に拠って、琉球弧の島々に潜行浮上するゲリラ部隊を創出して、諸君は戦闘すべきだったのだ。]と言っている。我々は海洋が如何に重要なポイントであるかという事に関して、近くは川藤展久・シージャック事件での対警察大活劇をあげることができるし(この件についての詳細は平岡正明著「あらゆる犯罪は革命的である」現代評論社刊を見よ!)また遠くにおいては今世紀初頭の日露戦役における、ツアールロシア・浦塩艦隊(旅順艦隊とあわせて大平洋第一艦隊と呼ぶ、因に同第二艦隊がいわゆるバルチック艦隊)の活躍をしっている。すなわちウラジオストック港を出撃した浦塩艦隊は“天皇の海”日本海周辺はいうにおよばず、津軽海峡を通って大平洋へ抜け東京湾の鼻先で勇躍、御前崎沖まで南下、日本帝国海軍・第二艦隊(上村彦之永司令長官)の必至の策敵を尻目にさんざん日本軍の兵、武器輸送

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国頭太福 2/3

ルートを攪乱している。
 野底土南がその著書「どうすれば通貨不安は解消できるか、付祖国琉球の世界における地位」という小冊子の表紙で、琉球列島を中心にした地図(北緯23度〜30度、東経121度〜134度)の下に[陸の小さきを憂うなかれ、大洋の広きを知れ!偉大な祖国LOOCHOOそこには無限の宝庫が眠る]という時、氏もまた前二者に理会していると見る。
 では結論といこう、
 我々琉球の祖先が、その昔サバニ等で海上を機動したように、且また倭冦の故事をおもえばかのマラッカ海峡の“恐怖”を此処東支那海で日本帝国主義につきつけることはたやすいといえる。
 琉球共和国とはどういう国家なのか?
 この設問に答えて、野底土南は去った1月27日(木)夜、沖縄タイムス社大ホールで催された『さらば幻視の祖国よ』(72映画&パネルディスカッション)においてこうのべている。
 「国家を廃絶するための国家」と。
或る新左翼の一派は、我々が、琉球独立を叫ぶことをもって、くだらない2段階革命論者といっしょくたにしようと躍起になっているが、我々は「民族独立行動隊」とは全然関係ないのだ。更にある種の権力盲者は我々をも自己の同類とみなし、つまりきみたちのいうことは、社会主義社会へ到る過渡としての権力プロレタリア独裁と同じことではないかというが、我々は如何なるものであろうとも権力とは縁がない。
 そのような愚問がでてくることを危惧して、竹中労は慎重にも過度の国家といっている(同『さらば幻視の祖国よ』から)し、又それの具体化としてこう叫ぶ。

   政府なき国家!
   官僚なき行政!
   党派なき議会!

 過渡としての権力、プロレタリア独裁という場合、そこには意識すると否とにかかわらず、権力というその言葉の概念規定を毫もそこなわせまいという意味があり、権力とはけしてみずからをして消滅せしむるものではない。
 歴史的にはプロレタリア独裁の萌芽として、ソビエトという形態があるが、そのロシア革命における“10月の理想”をしょってたつところのものは一国社会主義というスターリンの権力へむしばえていった過程であることを想起せよ!
 中間主義者・レーニン及びトロッキーは、ドイツ革命を心待ちにし、それによってプロレタリア独裁におけるある種の危険性(?)を防止できると考えていたようだが、

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国頭太福 3/3

彼らにとって権力はそれほどあまくはなかったようだ。
    ・・・
 栗原登一はその著者『世界革命』(三一書房刊1967年12月1日発行)の序章、第2節(19頁)でこういっている。
 [現代帝国主義がレーニンの分析したように全地球の支配を完了したのである限り、ここでわれわれはただひとつの帝国の中枢と、ただひとつの、つまりひとつのつながりの、それを包囲する辺境とを持つのである。
 われわれはここで深く、<人間とはなにか>という哲学問題に導かれる、辺境とは、人間をこえる自然の発現の形態であり、階級支配によって決してとらえつくされることのない、共産主義を求める人類の傾向なのである。
 それは野蛮のかなたにあって、帝国の<文明>が全力で追跡してもとらえつくされることのできないものである。秦の始皇帝は、万里の長城によって無益にこの辺境の威力の滲透に挑戦した。今日、アメリカ合衆国の帝国の主人たちは、とらえることのできない敵を求めてベトナムをさまよっている。古代の帝王たちは、原始共産社会を破壊しつくしたようにおろかにも錯覚した。
 われわれの革命の勝利を保証するものは、腐朽しつくした文明の諸手段ではない。
 革命を実現するものは、現体系の対極に、すなわち、その辺境の最深部につくられるわれわれの根拠地である。このとりでをわれわれのただひとつの祖国として宣言し、この理想の祖国に忠誠であることが必要である。]

 琉球共和国とは、理想の祖国それの仮の名であり且、真実の名である。

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琉球独立党 1/2


琉球独立党よりのメッセージ



 偉大なる指導者、シャクシャインをもつ、アイヌ民族の皆さんに、友情と連帯の挨拶を送る。
 吾々は、この100年たらずの邪蛮化教育によって、ここで示されるような象形文字の混文によって通信せざるをえない苦痛を覚える。尤も私自身は、自分自身の母国語を万人に通読できるローマ字で、しかもより正確に表現できる。けれども、意志の疎通を欠くことをワザワザする必要はない。
 この連帯の意を表する理由は次のとおり。

 1.琉球民族も、アイヌ民族も共に、邪蛮の支配下に同化を強いられた被抑圧民族であること。
 2.当然の帰結として、それぞれの民族魂−−その表現である言語、文化は滅びつつある。特に、アイヌ民族の場合は、人口も、言語も、共に著しく滅びていると伝え聞いている。
 3.支配者=抑圧者たる邪蛮の文化は、尊敬に価するものは何もない。
 4.人民大衆も、オノレの生地(各地方)の文化を卑しみ、ネコもシャクシも東京(盗京)へ集中し東京人になりすまして、オノレの劣等感を排除しようとする。ここでは、東京優等、地方劣等のコンプレックスがあらゆる分野を支配する。
 5.これは、一切の富、一切の権力の極端な集中が、無秩序な経済と文化(西欧亜流)を支配し、その表現が4の人民の意識を規定しているのだが、人は未だ、その真因をつかんでいない。この野蛮な秩序のもとで、もっとも被害を受けるのは、地方、ことに弱小民族である。
 6.この矛盾と対決できる主動力は、まず弱小民族である。
 7.この矛盾は国を越えて現に進行中である。
 8.世界の大勢は、被抑圧民族が、抑圧者から主権を奪い返し、自から主権の地位につくこと即ち、民族解放の大業をかちとる方向に進んでいる。

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琉球独立党 2/2

 9.不幸にしてわが琉球は、すでに述べた邪蛮化教育によって、民族魂はむしばまれ、「復帰」という最も恥ずべき奴隷への道を辿った。
 だが、幻想と虚像の「祖国」の支配下に突入したその日から、予見した通り、恐慌となり、人心は動揺し、生活不安におののいている。
 買弁者どもは、為すすべもなく、一挙に、その恥ずべき買弁、買国の罪業は、人民大衆の目にはっきり映っている。これから益々政治経済の矛盾が鋭くなり、人民大衆の不満は、いよいよその圧力を増す。
 このエネルギーが、やがて、まやかしの「祖国」「日本人」の虚構をうち砕き、自分自身の祖国−−琉球共和国をうち建てるようになるであろう。
 それにしても失われた魂を呼び戻す作業は容易ではない。何故なら、迷血100年来の邪蛮化教育は、人民の税金の大半を浪費して今後も続けられるから、併もあらゆるマスコミ、政党、労組、企業etcのチャンネルを通じて、邪蛮の支配を補完するから。
 ともあれ、いかに金と力をふりむけようと政治経済上の矛盾を解決することはできない。眠れる民族魂は、いつかは、必ず醒めるものだ。この意味から、アイヌ文化資料館の開設は、滅びつつあると聞く、アイヌ民族の更正に、必ずや貢献するものと確信する。
 願わくばこれを機に、民族の友情と連帯を広く国際的にも強め、オノレの正当な地位をめざして前進しよう!

1972年6月10日 


萱 野  茂   様


琉球独立党(LIP)
              党首 野 底  土 南(NUKA DUNAN)
  
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1972年8月発行

三 星 天 洋

発行所 琉 球 共 和 国
住 所 那覇市久米町2-108

LOOCHOO 独立党教育出版局

定価 300円

奥付原本画像

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