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疑問!信玄の遺言

武田信玄といえば、有名な戦国武将の1人だが、どうもその遺言の内容については疑問に思う部分がある。 まあ、信玄について書かれた物では「甲陽軍鑑によると...」などという部分があって、 「甲陽軍鑑」は嘘の部分もたくさんあって史料としての価値は低いと言われているし、私も同感!(爆)

まず、1つ目は疑問度は30%位ですが(苦笑)、「自分の跡目は信勝(勝頼の子)で、勝頼は信勝が16歳になるまでの代理」という部分。 これじゃあ、勝頼は何をするのも苦しくなってしまう。 平和な時代ならともかく、戦国時代で、織田や徳川や上杉という強敵に囲まれた状況ではとも思える。

ただ、勝頼は信玄が殺した諏訪頼重の娘が母親なので「信玄の子」というより「頼重の孫」として育てられてきている。 (武田氏の通字である「信」の字は入っておらず、頼重の「頼」が入っているのがそれを象徴している) だから育ったのは当然、信州の諏訪で甲斐ではない。それが原因かもしれないが、信玄時代からの家臣とはうまくいってない。 だから家臣を納得させるためのものと考えれば納得いく部分もあるけど!

ちなみに信玄は父の信虎を追放したり、嫡男の義信を殺したりと結構お家騒動が多い。

2つ目は「自分が死んだら上杉謙信と結べ」という部分、これは完全に出鱈目だと思っている。 長年戦ってきた間柄だし、和睦を申し入れた方がかなり相手に譲歩しなければならなくなるだろう。

後に上杉景勝が謙信死後の家督争いに勝つため、勝頼に和議を申し出るが、この時は上野にある上杉領の部分を武田に譲っている。 こうした事を考えると逆に武田の方から申し入れた場合は、旧村上領の北信濃や上野にある武田領の部分を譲るぐらいのことは覚悟しなければならない。

また当時同盟者の北条氏政との関係は悪化することになる。 北条と上杉は関東で争っている状況だ。

この3家が同盟を結べればいいが、この3家はA家とB家が結んだ場合はC家とは、敵対関係になるという状況が長い間つづいている。 (実際、先ほど例に出した謙信死後の騒動で上杉景勝と和睦したため、勝頼と北条氏の関係は悪化)

上杉が味方になっても北条が敵に廻れば意味はほとんどない。 その上、領地を割譲しなければならないのでは確実に弱体化である。

また謙信が若い勝頼が相手では攻める気がなかったというのも嘘。 確かに信玄の死後、勝頼と直接は戦ってはいないが、これは北陸や関東の事情で謙信が攻めなかっただけである。 信玄の死後、信長が謙信に贈り物をしたところ、「そんな贈り物よりいっしょに武田を攻めよう!」と怒っているぐらいだ。

勝頼は低く評価されているけど、織田の明智城、徳川の高天神城を落としたりとかなり優秀な武将だ。 べた褒めするわけじゃないけど、2流の武将ぐらいにしか扱われていないような状態はあんまりだ。 最期は破れてしまったけどある程度、評価は割り引いて考える必要があると思う。

・更新日:2011/03/24・ページ製作者:トータス砲