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太平記について その1

一般的に「太平記」は南朝贔屓だと思われています。 はたして、それは正しいのでしょうか? 結論を先に言わせてもらいますと、それは間違っていて、戦前・戦中の政府が「太平記」を自分たちに都合のいいように捻じ曲げたに過ぎません。

「太平記」の序文には、「位についても徳がなければ、その地位を保つことはできない」と書いてます。 その例として古代中国の「夏」のケツ王、「殷」のチュウ王を挙げていますが、この物語の展開上、北条高時や後醍醐天皇にも当てはまるでしょう。 (彼らは天下人の地位から滑り落ちて、自害したり、京都を追われて回復できずに世を去るのだから)

建武の新政に対しても「太平記」の作者は冷ややかで、千種忠顕や文観の乱行を批判してます。 さらに、後醍醐に諫言しても、まるで聞いてもらえず、絶望した万里小路藤房が出家して、どこかに旅立ったことを描いてます。 これだけでも、建武の新政を「建武の中興」と、もてはやした戦前・戦中の政府とは大きな差があるのが分かると思います。

「太平記」で英雄的に描かれている人物として楠木正成が挙げられるでしょう。 後醍醐に呼び出された楠木正成の登場シーンは実にかっこよく描かれています。 そんな楠木正成の最期が描かれるシーンでの「七生報国」というセリフを戦前・戦中は大変美化してました。 だが、正確に言えば、このセリフを言ったのは正成の弟の正季であって、正成はこのセリフに同意はするが、手放しで褒めているわけではない。 以下にその場面について簡単に書いておきます。

正成は正季に向かって「最期の一念によって来世の良し悪しが決まるという、お前は何を願う?」と言い、 正季は「7回、人間に生まれ変わって朝敵を滅ぼしたい」と応えます。 それを聞いて正成は「罪深き悪念だが、私もそう思う」と返事をして、2人は刺し違えて死んでいきます。 この部分は作者のフィクションの可能性が高いが、このような思いを抱きながら死んでいく場合、作者は全面肯定しているわけではありません。 ところが、戦前・戦中の政府は「罪深き悪念だが、」という部分は完全に無視しています。

また、新田義貞に内緒で尊氏と和睦交渉を行なっていた後醍醐だが発覚し、義貞の家臣の堀口貞満に激しく責められます。 「負けているのは、義貞が悪いのではなく、帝(後醍醐)に徳がないからだ!」と陪臣とは思えないほどの正面きっての罵倒ぶりです。 こうした堀口貞満の行動に「太平記」の作者が否定的なこと述べている部分は全くないのです。 (ちなみにこの罵倒するシーンは「梅松論」にはありません) 後醍醐に関しても厳しい評価を「太平記」の作者はしているのです。

「太平記」の35巻に北野神社で3人の僧が現代(つまり南北朝時代)の政治状況について話すシーンがあります。 簡単に要約すると、「過去にも前9年の役、後3年の役、源平の戦いなどもあったが、元弘の時代から こんなに長く戦乱が続いたことはない。なぜだろう?」という問いから始まって、京都での混乱振りを批判して、 「吉野側(南朝)に期待したい」と僧の1人が言いますが、別の僧がすぐさま、「吉野側に期待するなんてとんでもない! 私は吉野側に見切りをつけてきたのですよ。似たようなものです」と返します。 そして、かっての中国や北条氏の時代はよかったと愚痴るのです。

こうして見ると「太平記」は北朝や足利氏にも厳しいが、南朝にはもっと厳しい印象が残ります。 「太平記」は北条高時については、バカ殿としか描いていませんが、歴代当主である泰時、時頼、貞時をベタ褒めしており、 「もしかして北条贔屓?」なんて印象も持ってしまいます。(笑)

参考文献・ページ

・更新日:2011/03/24・ページ製作者:トータス砲