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北朝対南朝その2

後醍醐天皇の倒幕計画

持明院統と大覚寺統の皇位の争いが激しい中で、後宇多天皇の子である尊治親王こと後醍醐天皇が文保2年(1318年)に即位しました。 (この前年の文保元年(1317年)に文保の和談で大覚寺統、持明院統が交互に皇位に就くことが決まりました。 とはいえ後世から見ると皇位の在位期限などが守られたとはいいがたいですが(苦笑))

だが後醍醐は即位こそしたもの、後醍醐の後の大覚寺統の系統は後醍醐の兄の後二条天皇の子である邦良親王に譲ることになっていました。 (後に邦良親王も子供のうちに亡くなってしまいますが)

つまり後醍醐は1代限りで後醍醐や彼の子孫が「治天の君」になれる状態ではありませんでした。 後醍醐が即位した当初はまだ後宇多が院政をしていましたが3年後に後醍醐の親政となります。

実権も手に入れれれば、自分1代でなく、自分の系統で皇位を独占したいと思うのも人情でしょう。 また後醍醐は宋学の信望者で「王者(天皇)が政治をするべき」という信念も持っていました。

そんな後醍醐からすれば、軍事政権であり、持明院統・大覚寺統の和談の仲介役の鎌倉幕府は邪魔者以外の何者でもないでしょう。 後醍醐は2度にわたり倒幕計画を実行するが失敗。(正中の変、元弘の変) 後醍醐は捕らえられて隠岐に流罪となって、持明院統の量仁親王(光厳天皇)が皇位に就きます。

後醍醐天皇がなぜ即位できたか?

後醍醐天皇の産まれた時や若い頃の状況を考えると、私は「よくこの人が天皇になれたな?」と思う時があります。

理由:

  1. 嫡男でないこと(兄の後二条天皇が後宇多の嫡男)
  2. 父である後宇多上皇としっくりいってなかったこと

普通この2つが重なっていれば、まず天皇になれません!

2. について簡単な補足をいれます。廣済堂文庫 太平記49の謎(著 大森隆司氏)によりますと、後醍醐が産まれた時は認知もなかなかしてもらえず、 (そのため後醍醐の母親は認知してもらうために後宇多の父親である亀山に接近したりしています) なんとか認知をしてもらった後も、後醍醐が青年になった頃には女性問題で父親ともめたらしいです。

そんな彼が天皇になれた原因の有力な原因の1つとして西園寺実兼の娘を妻にしたことが大きいでしょう。 (この時代の有力な史料の一つである花園天皇の日記では実兼の娘を略奪したような形らしいですが) 西園寺家は朝廷と鎌倉幕府とのパイプ役を勤めているため、大きな影響力を持っています。 実兼は本来、持明院統の公家だが娘の幸せのため動いたと思われます。

次に後宇多の院政から後醍醐の親政へ変わったことについてですが、以前の両者の関係からすると、 3年の間に後宇多派と後醍醐派で主導権をめぐる暗闘があってその結果、後醍醐派が勝利を収めたと私は推測しています。

光厳天皇の即位と3種の神器

その1の冒頭でも書きましたが、私は南朝正統論に疑問を持っています。その理由の1つは、光厳天皇の即位です。 光厳天皇の即位は後に南朝正統論の最大の理由となった3種の神器の有無の点でも問題はありません!

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・更新日:2011/03/24・ページ製作者:トータス砲