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北朝対南朝その1

はじめに

南北朝の戦いは北朝が勝ち、現在は北朝の光厳天皇の子孫が皇位を継いでいます。 こうした現状から、はっきりいって子供の頃はなぜ負けた南朝が明治時代に正統とされたのか理解できませんでした。

それは幕末から明治維新に「水戸学」の影響があり(水戸学は南朝正統を主張していました)、彼らが倒幕の大きな力の1つになっていますから、 その流れからいって戦前までは南朝正統でも仕方がないのかもしれませんが、今はせめて両朝併記ぐらいが妥当と思っています。

持明院統と大覚寺統への分裂

南北朝時代というと一般的に足利尊氏と後醍醐天皇の対立が明確になってから(中先代の乱後)から、足利義満による両朝の合一までの期間を指しますが、 実際は鎌倉時代の後半ぐらいにあたる後嵯峨院の時代に始まったといっていいでしょう。

後嵯峨上皇の嫡男は久仁親王(後深草天皇)なのですが、後嵯峨は次男の恒仁親王(亀山天皇)の方を溺愛してました。 そして後深草を退位させ亀山に即位させると、さらに亀山の子(後宇多天皇)を皇太子と決めました。 その後、後嵯峨は亡くなってしまうと治天の君(天皇家の実権を持つ者)は後深草か亀山にするか問題になりました。 (後嵯峨はそのことについて公式な意思表示をすることなく死んでいます) この問題を解決するため、後嵯峨の正室(つまり後深草・亀山の母)に聞いたところ「後嵯峨の意志は亀山にあった」と答えました。

後深草はショックで出家すると言い出しました。 後深草からいえば嫡男である自分の系統が天皇家を継ぐはずなのにという思いがあったのでしょうし、それは道理です。

時の執権である北条時宗は後深草に同情し、後宇多天皇の後は後深草の子である伏見を天皇にすることになりました。

こうして天皇家は2つの系統に分裂して、後深草天皇の系統を持明院統(後の北朝)と呼んで、亀山天皇の系統を大覚寺統(後の南朝)と呼びます。

さらに持明院統は後伏見天皇と花園天皇の系統が、大覚寺統は後二条天皇と後醍醐天皇の系統ができて両統の暗闘はさらに激化! さらに動乱の時代に突入するのです。

鎌倉幕府の朝廷への対応

鎌倉幕府が両統に示した調停案は朝廷の力を分断するためにやったと解釈する人もいますが、それには私は反対です。 むしろ、元との対立などもあり、国内でのトラブルがおおごとにならないように妥協案を提示したのだと思います。 (ここで鎌倉幕府のとった行動が正解だったかは判断が難しいかもしれませんが) 私がそう考える理由は、後に後醍醐天皇が正中の変を起こした後でも天皇のままだったりと、朝廷対策が中途半端と感じていること等が原因です。

その2へ続く

・更新日:2011/03/24・ページ製作者:トータス砲