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本能寺の変に関する妄想

これから書く事は妄想が95%以上閉めていると思ってください。 自分自身、絶対正しいなんて思っていません。 「神君伊賀越え」をでっち上げ扱いするとんでもないしろものです。

実行犯である明智光秀は伝統を重んじる性格のため信長のやることに段々ついていけなくなっていた。 さらに佐久間や林のように追放されるかも知れないとノイローゼに近い状態だった。

近衛前久などの朝廷の実力者も不安を持っていた。現在は無官の信長だが正親町天皇に退位を迫ったり圧力をかけてくる。 信長をなんとかしたい、そこで自分達とも太いパイプを持っていて、 さらに近畿管領的立場で信長の行動を把握してる光秀を動かして信長を殺すことを考えた。 さらに協力者として徳川家康を誘った。

徳川家康からすると今川や武田も滅び、同盟のメリットがなくなった。 (滝川一益を関東管領にするなど信長も東国に目を向けはじめ状況が変わった) 徳川も織田が邪魔になってきた。 しかし正面から戦っては勝ち目がない。そこでこの誘いに乗った。

そこで朝廷は信長を京都に誘き寄せた。 (信長は正親町退位を断られて怒り1年以上京都に来てない、おそらくそれらの問題で譲歩する姿勢を見せたのだろう。 太政大臣か将軍か関白のいずれかになってほしいとかいうのもひっかかる) しかし光秀は迷ってるので、機内にきていた家康もバックアップするといって決心させた。

私がなぜ家康を疑ったかといえば旧武田領は安定しておらず、家康はそこに目を付けた!(信長が死ねば間違いなく旧武田領は混乱する) ただ帰国後すぐに甲斐・信濃に向かわず京都に向かおうとしたのはポースで甲斐の一揆の拡大などを理由に(秀吉のことがなくても)引き返したと思う。 (すぐ甲斐・信濃に向かえば怪しまれる) そして甲斐・信濃が一段落したころ機内の情勢も決まっているだろうから臨機応変にやるつもりだったのではないか。

また信長の死後、甲斐で一揆が起きるが、家康の動きは実に奇妙だ。

6/02 本能寺の変
6/10 家康の使者 本多信俊、甲斐の河尻秀隆の所に到着
6/12 家康、加賀見氏に所領を宛行う
6/14 秀隆、本多信俊を殺害
6/17 家康、窪田氏に所領を宛行う
6/18 秀隆、一揆勢に殺害される

12日や17日に家康が宛行った領土は河尻の領地であり、おかしい。秀隆の死を前提にやっているみたいだ。 この一揆の黒幕が家康であると疑いたくなる。 (またこのような状況からすると京都より甲斐を重視しているとしか考えられない)

最後にこの妄想からなぜ秀吉を外したかといえば、毛利の状況によっては帰って立場が悪くなることや、 柴田勝家などが光秀を倒してしまう可能性もあることなどがあげられる。 あと、四国への外交問題で秀吉は三好派で光秀は長宗我部派で対立して事も理由の1つだ。

それに引き換え家康は悪くても旧武田領の3割から4割ぐらいは「ほぼ確実」に手に入る。

私の妄想は以上です。

・更新日:2011/03/24・ページ製作者:トータス砲