足利氏の家紋 新田氏の家紋

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足利氏と新田氏その10

足利・新田両氏 詳細系図

尊氏が九州から京都に攻め上がってくる前、「梅松論」によると楠木正成は「義貞を切って尊氏と和睦した方がいい」と進言。 また「太平記」によると「尊氏軍を一回京都に入れてから兵糧を絶つ」という策を提案したという。 しかし正成の提案は受け入れられず、正成は義貞への援助で湊川に向かうことになる。 義貞の方はついに赤松円心の白旗城を落とすことはできなかった。

そして5月25日に湊川の戦いが始まる。 この時、尊氏軍は海から直義軍は陸から兵庫に向かっていた。 新田・楠木軍が勝つためには尊氏軍の上陸を阻止して直義軍を破るしかないが...。

西側に陣を敷いていた正成は直義軍と激突。尊氏軍は東から上陸しようとする。 それを追って義貞軍も東側へ移動。 そうした状況が続くと中央に大きな間が空いてしまい、尊氏軍はそこから見事上陸。 楠木軍と新田軍は分断される。

楠木軍は直義軍相手に奮戦するも圧倒的兵力の差は野戦ではいかんともし難く、楠木軍は次々と討たれて行く。 ついに正成も弟の正季相手に刺し違える。 この戦いは相手の軍団を分断し兵力の差も計算に入れて戦った足利軍の作戦勝ちだった。 また、上記の「梅松論」の話から察するに義貞と正成の仲も良くなさそうで、連携もうまくいかなかったことも考えられる。

湊川の敗戦の後になってようやく後醍醐は延暦寺に逃れる。 (これが正成の言ったとおり湊川前に実行していれば違った局面になったかもしれない) また、この移動の途中で光厳上皇は「具合が悪くなった」と後醍醐側の監視をごまかして、東寺の直義のところへ向かう。

そうはいっても、新田を始め南朝軍も(まだ吉野に行ったわけではないので正確には南朝とは言えないが)ここでかなり奮戦している。

6月5日・6日の合戦で千種忠顕らが戦死しているが、義貞軍の奮戦で後醍醐は難を逃れている。 また三河で新田一族の大館義氏が暴れたりなどのため、足利も京都の軍を裂いたりもしている。 だが足利軍も小笠原宗直や斯波高経らの協力で、東側から叡山の兵糧を絶つことに成功。 その状況を打破するため、南朝軍は何度か京都に突入しようとするが京都の足利軍も引かない。 そして京都での戦いでは名和長年が戦死する。

こうして長期に渡った攻防も兵糧攻めで南朝の旗色が悪くなっていく、後醍醐は義貞には無断で尊氏との和睦話を進める。 そして10月に和睦のため後醍醐が叡山を降りようとしたが、洞院実世の口からそのことを知った。 義貞の家臣である堀口貞満は激怒して 「義貞は帝のために懸命に戦ってきた。だが義貞軍が負けたのは弱いからではなく、帝に徳がなく味方が少ないからだ。 ともあれ長年忠義を尽くした私たちを捨てるなら全員の首を刎ねてくれ!」と後醍醐を罵倒。

返答に窮した後醍醐は「足利を欺くための和睦で息子の恒良に譲位するから、恒良と共に北陸に向かってくれ」と苦しい言い訳をする。 自分を見捨てるような行動を取った後醍醐に対する義貞の心中は察するにあまりある。 だが義貞は「打倒!足利」を夢見て恒良親王と共に北陸へ向かった。

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・更新日:2011/03/24・ページ製作者:トータス砲