足利氏の家紋 新田氏の家紋

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足利氏と新田氏その8

足利・新田両氏 詳細系図

義貞は上洛して与えられた恩賞は決して悪いものではなかった。 従4位となって上野や播磨を与えられている。 無論義貞だけでなく弟の脇屋義助などの新田一族も恩賞を得ている。 だが足利尊氏は従3位となり、新田一族よりも要所を得ている。 (これは功の差というより、元が無官で所領がわずかしかなかった新田と鎌倉幕府で北条氏に次ぐNO2だった足利との違いの延長にあるものだろう)

建武政権の初期に義貞は冷遇されたとは思えないが、後醍醐、護良親王、尊氏の3つ巴の対立の影で目立たない。 (私は義貞は護良親王ではなく後醍醐天皇派だったと推測している。当初、護良派の赤松円心とは播磨の領土のことでしっくりいってなかっただろうし)

護良親王と近い北畠顕家が奥州を固めたり、足利直義が鎌倉に行くのもこうした対立中での動きだ。 やがて護良親王が鎌倉に幽閉されると、尊氏への新たな対抗馬として義貞が浮上してくる。

建武2年(1335年)北条高時の子である時行による中先代の乱が起きると、鎌倉は一時奪回され、直義は敗走する。 尊氏が救援に向かい、時行から鎌倉を奪い返し、乱を鎮圧する。 尊氏は乱鎮圧後、京都に戻ろうとしたが直義や他の武将の反対で鎌倉を動かなかった。

そして尊氏は「新田義貞討伐」を奏上している。 そのことを知った義貞も奏上を書いて対抗している。 両者の奏上文の内容の一部が抜粋されている本を見ると、互いに相手の悪口を言ってるだけじゃないの?という印象だ。 ただ義貞の対応も決して遅れているものではなく、後世言われるほどの凡将ではない証拠の1つだと思う。

朝廷では両者の奏上書を比較して協議をしていたが、どちらの言い分の方が理があるかなかなか結論が出なかった。 だが中先代の乱の時に直義が部下を使って護良親王を殺していたことが伝わると、 義貞の言い分に理があるという結論になり、義貞は官軍として尊氏討伐軍を率いて東国に向かう。

「鎌倉を奪われた恨み」「足利の末一族としか見られていない怨念」を爆発させる時がとうとうやってきたのだ。 義貞はこみ上げるものがあったに違いない。 (「神皇正統記」は南朝方の史料なのに新田氏は足利の末の一族という扱い)

そのころ尊氏は自分は天皇に歯向かうつもりはない!と寺に引きこもり出家すると言い出した。 (尊氏が引きこもった寺は「太平記」では建長寺、「梅松論」では浄光明寺となっている)

代わりに軍勢を率いて直義が迎え撃つが士気が上がらず足利軍は新田軍に負けつづけていった。 やはり尊氏にたってもらわなければ勝ち目はないと考えた直義達は「出家しても足利兄弟は許さない」という後醍醐の偽の書状を作って尊氏に決意を促す。 やむをえないと尊氏もついに立ち上がり、足利尊氏と新田義貞の戦いが本格的に幕を明け始めた。

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・更新日:2011/03/24・ページ製作者:トータス砲