足利氏の家紋 新田氏の家紋

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足利氏と新田氏その7

足利・新田両氏 詳細系図

足利家時が無念の自刃を遂げた後、家督を継いだのは長男の貞氏である。 家時の後だけに北条得宗家の警戒は厳しかっただろう。 9代執権の北条貞時が出家したとき貞氏もそれに習い出家するなど神経を使ったようだ。

貞氏が元弘元年(1331年)に死ぬと高氏が家督を継ぐ。 無論この頃は西国で護良親王や楠木正成が西国で六波羅探題の軍勢と戦っていた頃だ。 高氏もこの時1度西国に出陣している。

そして元弘3年(1333年)3月、高氏に2度目の出陣を北条高時から言い渡される。 この時、高氏の妻や嫡男の千寿王(後の義詮)を人質にしていることから、やはり足利家への警戒心は緩まっていない状況でもあった。

この前後に楠木攻めに加わっていた新田義貞は病気を理由に上野に帰っている。 この後、彼らは反北条の兵を挙げるわけだが、ここで義貞の鎌倉攻めを決意した原因を考えてみたい。

よく理由として挙げられる理由として楠木攻めの時、護良親王の令旨を受け取ったとか、 北条からの急使を切ってしまったことなどが挙げられている。

私は護良親王の令旨はあったと思うが、急使を切る前に義貞の意思は決まっていたと思う。 急使を切ったのは反北条の意思表明だったと思う。 だがそれだけで義貞が動いたとも思えない。 この時は足利と新田は当初は共同していたと思っている。

正直、護良親王の令旨だけでは東国で北条と戦うのは厳しい。 西国で寝返るのならともかく、東国は「朝廷アレルギー」が強いし...。 だがそれに加えて足利が絡んでいたのなら、義貞の軍勢にあれだけ多くの人が加わったのも、戦後ほとんどの武士が千寿王側についたのも納得がいく。 (もちろん令旨が全く無効だったとは思えないが)

新田からすれば言い方は悪いが、足利や親王の名前を利用して軍勢を集めて鎌倉攻めで、新田の武名を世に知らしめようと思った部分もあったと思う。

足利からすればついに先祖代々の悲願を実現するため、後醍醐の綸旨を手に入れたり、様々な御家人に書状を書いている。 高氏や高国(後に直義と改名)も気持ちが高ぶっていたろう。 また高氏たちは鎌倉を直接は攻めることはできないが、後のため鎌倉にも目を向けていた。

足利高氏により、5月7日に六波羅探題は落ち、5月22日、新田義貞の鎌倉攻めにより得宗家の当主である北条高時は自害。 「武家の都」鎌倉を攻め落としたわけだから義貞は天にも昇る気持ちだったと思う。

しかし現実は...、鎌倉攻めの途中で義貞の軍に北条家から逃れた千寿王の軍勢が合流した。 そして鎌倉攻めが終わるとほとんどの武士は軍忠状を千寿王に出した。 当然、義貞は面白くない、そして足利と新田の対立が始まる。

義貞が北条方の首実検を行なっている最中に先祖の源義家が後三年の役に用いたという旗を発見した。 最初は喜んだが見てみると「二つ引き両」の旗だった。新田の家紋は「大中黒」である。 義貞はがっくりして「わが家には無縁のものしまっておけ」と言った。

これを足利家のものが聞いて「二つ引き両の旗は足利家にとって大事なものなので引き取りたい」と申し出たが義貞は断った。 両家の険悪なムードを象徴する話だ。

だが両家の力の差はいかんともしがたい。 高氏の腹心である細川3兄弟が鎌倉にやってくると、高氏に異心はないという誓紙を義貞は書かされて鎌倉を去り京都へ向かう。

義貞はこの時「足利といっしょに戦ってもだめだ。みんな足利に手柄を取られてしまう。 新田が世に出るためには足利を倒すしかない!」そんなことを考えたと私は勝手に想像している。

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・更新日:2011/03/24・ページ製作者:トータス砲