足利家には先祖である源義家の置き文として、「7度生まれ変わって天下を取る」という意味の文書が伝わっていたといわれる。 足利家時はその7代目にあたる
(1:義国、2:義康、3:義兼、4:義氏、5:泰氏、6:頼氏、7:家時)
正直これが義家の書いたものとは私は思っていない。理由としては
むしろ、頼朝が幕府を開き、北条が実権を握った後、足利家の当主が作り上げたものと考えた方がいいと思う。
後に尊氏が幕府を開いたため尊氏が作り上げたとか、家時が作り上げたとか様々な説があるようだ。 だが私は少なくても頼朝時代以後の当主で、しかも家時より前の当主だったと思う。 (それ以前の当主は足利の地の領土のことで精一杯だと思う)
┌ 義親 ─ 為義 ─ 義朝 ─ 頼朝 │ (源) │ (新田) 義家 ┤ ┌ 義重 ─ 義兼 ─ 義房 ─ 義政 ─ 政氏 ─ 基氏 ─ 朝氏 ─ 義貞 │ │ │(足利)│(足利) └ 義国 ┴ 義康 ─ 義兼 ─ 義氏 ─ 泰氏 ─ 頼氏 ─ 家時 ─ 貞氏 ─ 尊氏 足利氏・新田氏系図
その根拠を言う前に尊氏説と家時説への反論をしたい。
尊氏は確かに北条に変わって天下を取る野望があった。 ただそれは「天下獲りの野心がある家に産まれたゆえの野心」だったと思う。
つまり本来は尊氏は野心をあまり持たない男だったと考えている。 北朝:建武3年、南朝:延元元年(1336年)清水寺に尊氏は願文を書いたが、 「私は早く遁世して弟の直義に今生の幸福を譲りたい」というような内容だ。 こういう男が天下取りの置き文を作り上げるとは考えられない。
続いて家時説だが、泰氏以後、足利家当主は得宗家の当主から1文字を取り「氏」を通字としている。
系図と重複する部分もあるが家時とその前後2代の当主の名前を見てみると
そんな中、家時という名は義家の「家」と得宗家の通字である「時」を組み合わせたという別格といって良い名前だ。
父の頼氏も家時も死んだ年は諸説あるので断言はできないが、家時が元服したときまだ頼氏も生きていた可能性が高いと思う。 そういうことから考えて家時は産まれたときから「天下獲りを期待されていた」と思う。
こうして考えると候補は義氏・泰氏・頼氏の3人のいずれかになるが、 その4で書いた結城朝光との書状に関する事件を根拠に義氏の可能性が1番強いと思っている。
義氏自身は表面は親北条だったが、源氏としてのプライドは高かった。 こうしたプライドを踏みにじった結果に義氏は憤慨して、自分には無理だが子孫に北条氏を倒してほしいと置き文を作ったのではないか!
当時武家にとって、天下取りとは「北条を倒し、それにとって代わること」当然、家時はそのための行動を起こしたと思う。
まず、北条時輔が討たれた文永9年(1272年)の2月騒動に関わっていたと考えられる。 理由はこの直後の3月に足利一門の1人である渋川義春が佐渡に流されていること。 時期からして騒動に関わっていたと考えたほうが無難だ。 また前章で述べたとおり、時輔の家時の父親の利氏は烏帽子親になっていることから考えても、時輔とのパイプは強かった可能性がある。
また弘安8年(1285年)には霜月騒動が起きて安達泰盛が討たれた事件が起きるが、 この時はこの事件の関連で足利一門の吉良満氏が自害している。
こうした一門の配流や自害は家時の罪を庇ったためだというのは考えすぎだろうか?
幕府(北条得宗家)からしてもこうした事件から家時の関与を怪しみ、追い詰められて、 ついに家時は自殺して家の存続を図ることしかできなくなったと思う。
家時の死んだ年は諸説あるが、こうしたことを考えると弘安年間だと私は思っている。 先祖の悲願を達成できずに家時は無念で書置きを残す。
その中で「3代のうちに天下を」と書いているが、普通に考えれば、それは義詮までという意味に考えられる。 しかし、歴史関係の本をみると尊氏の代までにと解釈している。 少なくとも義家の置き文と同じ代の数え方をすれば、1:貞氏、2:尊氏、3:義詮ということで義詮までの代ということになる。 それに自分(家時)はこれから自殺する時の文章なのだから、天下獲り実現のために家時本人を代に含めるのも不自然な気もする。
・更新日:2011/03/24・ページ製作者:トータス砲