足利氏の家紋 新田氏の家紋

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足利氏と新田氏その5

足利・新田両氏 詳細系図

新田氏は総領権回復後も順調とは言えなかった。 むしろ霜月騒動で上野守護が安達氏から北条得宗家に変わり幕府の手が直接伸びてくる。 その頃になると新田氏も土地を売って凌いでいるような状況となる。

義貞の父である朝氏は元徳2年(1330年)か延元2年(1337年)まで生きていたらしいが、 文保2年(1318年)には義貞が土地を売却した文書があり、 その頃には義貞が家督を継いだと思われる。 これに対する幕府の安堵状があるのだが「新田孫太郎貞義」と誤記されている。 これも当時の新田の状況を現していると思う。 北条氏とって名前もろくに覚えてもらってないのだ。 (正しく書かれていれば「新田小太郎義貞」となる)

話は足利氏に戻り、時代もまた鎌倉中期頃まで戻る。 義氏のころまで(少なくとも表面上は)北条と足利は友好な関係だったが、その子である泰氏の頃からギクシャクしたものが見え始める。

泰氏は当初、北条得宗家とはうまくいっていない名越光時の妹を側室にしたりしているが、正室は北条時頼の妹を迎えている。 寛元4年(1246年)の寛元の乱、宝治元年(1247年)の宝治合戦で、名越光時や三浦泰村が倒されているが、どちらにも泰氏は出陣していない。 親得宗派なのか反得宗派なのか中途半端に感じる。 (三浦氏との合戦のときは正室の死と重なっていたため鎌倉でなく、本拠地の足利にいたのが参戦できなかった原因だが)

そんな泰氏は建長3年(1251年)自由出家をして下総にあった領土を没収される。 なにかの陰謀がばれたため先手を打って出家したいう説もあるが、詳細はよく分からない。

泰氏の後を継いだのは3男の利氏で、彼は北条時頼の長男(庶子)の北条時利の烏帽子親となっている。 (時頼の嫡男は言うまでもなく次男の時宗である) しかしなぜか烏帽子親となった数ヵ月後に利氏は頼氏と改名し、後に時利も時輔と改名している。 だがこういうところから考えると、時輔と足利氏の関係は強かった可能性がある。

また詳しくは次章にに書いたが、時輔が殺された文永9年(1272年)の2月騒動は足利氏も関与していた可能性が高い。 (時宗と時輔の対立を煽り得宗家の弱体化を狙ったのかも)

当時の当主は頼氏の子である家時で彼は足利家当主7代目にあたる。 それは足利氏にとって、とても重要な代だった。

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・更新日:2011/03/24・ページ製作者:トータス砲