足利氏の家紋 新田氏の家紋

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足利氏と新田氏その4

足利・新田両氏 詳細系図

足利義氏は父義兼の死後、2人の兄がいたが足利家の当主となった。 母が正室(北条時政の娘)だったためだろう。 (2人の兄のうちの1人である義純は源姓畠山氏となったことは前章で述べた)

北条政子や義時から見ると義氏は甥にあたり可愛がられたようだ。 (結局、実現はしなかったが、将軍である実朝の妻に義氏の姉をという話もあった)

義氏自身は北条泰時の娘と結婚。 嫡男の泰氏も北条時氏の娘を妻としたように北条得宗家と非常に縁が深く合戦では、つねに北条氏と共に戦い勢力を伸ばした。

和田合戦、承久の乱、伊賀氏の乱などでも手柄があり数多くの領土を手に入れた。 特に三河に得た領土は多く一族のものが三河に移っている。 (足利一族の細川、吉良、今川、一色などの名字は三河の地名である)

話は前後するが義氏の時代に実朝は暗殺され、実朝を殺した公暁も殺され源氏宗家は断絶。 足利氏が清和源氏で最大の勢力を持つことになる。 北条と友好な関係を重視した義氏だが源氏の一族としてのプライドも持っていた。

宝治2年(1248年)義氏に結城朝光に手紙を書いたところ、返書に差出人が「結城政所」となっていた。 こうした書式は源氏一族だけに許されるものだったらしい(結城氏は藤原姓)。 義氏は怒って幕府に訴えた。 訴えは結城朝光が「足利義兼と結城朝光同等の礼たるべし」という頼朝の書状を提出し、 足利氏の敗訴となったが義氏のプライドを如実にしめすものだろう。

一方、新田氏は新田義兼の死後は孫の政義が後を継いでいる。 (彼の父である義房は新田義重や義兼より早く死亡している) 当時の新田家では義兼未亡人の新田尼が実権を握っており、外孫の岩松時兼を溺愛して、彼に領地が大きく分けられ、新田宗家は苦しくなっていた。 また新田宗家は承久の乱にも出陣しておらず当時の恩賞ブームとも縁がない。

新田尼の死後、政義は家運挽回へと焦り朝廷に接近、院への昇殿や検非違使任官を求めた。 (かって義経がそのことで頼朝の怒りを買ったことは知らないとは思えないのになぜ?とは思うが) 朝廷はその願いを却下!そうすると政義は「所労」といって勝手に出家した。

幕府の許可なく院への昇殿や官位を要求したり出家することは幕府にとって大罪であり、幕府は所領一箇所没収と新田家の総領権を剥奪した。 (総領権は一族の世良田氏と前述の岩松氏が半分ずつ取得となる) 総領権を回復できたのは政義の孫の基氏の代になってからである。

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・更新日:2011/03/24・ページ製作者:トータス砲