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反論その1 反論その2 反論その3

第2期ウルトラシリーズへのよく聞く批判への反論

反論その1

第2期ウルトラシリーズは初期ウルトラファンからあまり評価されていないことが多い。 正直、私も第2期ウルトラを低く評価してしまっていた時期がある。 特に「タロウ」や「レオ」は暴走しすぎと考えしまっていた。 むしろ子供のころより冷静に「タロウ」や「レオ」は今のほうが冷静に見れると思う。

私が第2期ウルトラへの考えを改めるようになったのはある時、 第2期ウルトラシリーズというものを抜かしてウルトラシリーズを考えたことがある。 すごく悲しくなってしまった。 「シリーズもの」の強みがほとんどなくなってしまうという結論に達してしまった。 TVや映画でのイベントだけでなく雑誌で連載されていた漫画などのことを考えても。

もちろん、ウルトラシリーズの中で一番好きな作品は人それぞれだし、それは当たり前のことだ。 だが第1期と比べてそんなに酷評を受けねばならないほどひどい作品だったのか! そのことについて少し反論したい。

まず、「第2期ウルトラシリーズは完全なお子様番組になった」という意見についての反論をしていく。 ウルトラマンシリーズは子供をメインターゲットにした作品である。 それは「ウルトラQ」から「ウルトラマンガイア」までウルトラシリーズでTV放映化された全作品に共通していえると思う。 だから「子供番組」に徹することは決して悪いことではない。

第2期ウルトラシリーズの各作品は全体的に人間ドラマを描いているものが多い。 むしろ子供には分かりにくい部分も多くあったのではないかとも思う。(自分の体験も含め) 無論、全体的にはメインの子供達へのアピールという点では成功したと思う。 だから4作品も続いたのだ。

話は変わって「タロウ」のZATをおふざけ集団と批判されることがある。 確かに奇天烈な作戦等でそんな印象を受けてしまうこともなくはないだろう。 でも「ウルトラマン」の科学特捜隊もそれとほぼ同様な奇天烈な作戦を遂行したこともあるし、イデやアラシのコミカルなやりとりで 物語が進む場合も多い。 でも「ウルトラマン」ではそういう面はあまり批判されていない。 私は「ウルトラマン」のその部分を否定したいのではない。ただ不公平だと思う。 「タロウ」にそういう批判をする人ならばその批判がもう少し「ウルトラマン」に行ってしまっても不思議はない。

次に「超獣はただの侵略兵器で個性がない」という批判。 侵略兵器であるパターンが多いのはその通りだが「個性がない」というのは変だ。 超獣にもユニークなものも多い。 全身からミサイルを出すベロクロン、空を割って出てくるバキシム、牛のはなぐりを盗んでしまった男がカウラになったりと、 ヤプールの超獣やヤプール滅亡後でも騒音で成長するサウンドキラーや時間移動をするタイダラホーシなどバラエティがある。 ヤプール滅亡後は怪獣と超獣の違いがピンとこないという意見なら私もあるが、「個性がない」というのは見当違いと言わざるを得ない。

それに「怪獣=侵略兵器」というパターンは「ウルトラセブン」が最も顕著だ。 もし私が「セブンの怪獣は侵略兵器ばかりで個性がない」といったら、 「確かに侵略兵器だがセブンをしっかり見れば個性があることがわかる」と反論されるだろう。 同じ言葉を私は超獣に使いたい。

反論その2

第2期ウルトラは教訓やお説教の押し付けという批判に対して反論をしたい。 TVドラマ番組は製作者側が視聴者に向けて何らかのメッセージを発信しているものだと思っている。 しかしそれは押し付けではない。そのドラマを見て各個人が考えればいいことだ。

またそうしたメッセージのためエンターテイメント性がほとんど感じられないというなら、第2期ウルトラに対し上記のような 批判がでるのは分かるが、第2期ウルトラに対するエンターテイメント性がないとか、ほとんど感じられないという人は皆無に近いだろう。

もちろん第1期ウルトラシリーズだって製作者はメッセージを送信している。 そしてそれらのメッセージが伝わりやすい作品は傑作と呼ばれいるものが多い。(もちろん私も傑作だと思うものが多い) 例として「ウルトラマン」37話「小さな英雄」・「ウルトラセブン」26話「超兵器R1号」・ 同42話「ノンマルトの使者」などは教訓が強く感じられると思うが「駄作」だろうか? また第1期ウルトラファンにも好評な「帰ってきたウルトラマン」の31話〜34話(いわゆる11月の傑作郡)だって教訓性が濃厚な作品だ。

次に怪獣に関するドラマと人間ドラマの分離という批判について、こうした作品はウルトラに限らずたくさんある。 要はそのドラマ内のバランスの問題だと思っている。 あまりにもそのバランスが崩れているなら問題があるけど。 私は第2期ウルトラシリーズはそのバランスが取れた作品が多いと思っているし、そういうドラマの作成方法自体も悪いものでは決してない。

たとえば先にあげた「帰ってきたウルトラマン」の「11月の傑作郡」の1つ 32話「落日の決闘」もMATによる竜神岳調査と父を亡くし養父に育てられた少年のトラウマという2つのドラマから成り立っている。

また「ウルトラマンA」の36話「この超獣10,000ホーン?」もサウンドギラー対策をするTACと本当は子供に好かれたい暴走族という2つのドラマが中心だ。 個人的にはただ騒音を好む超獣に対策を練って倒すだけよりはるかに面白いものになっていると思うがいかがだろうか? (もちろんこうした例は他にたくさんある)

もちろん第1期シリーズも怪獣に関するドラマと人間ドラマの分離というものはある。 顕著な例を上げれば「ウルトラマン」26・27話の「怪獣殿下(前・後編)」はゴモラを発見してから倒すまでのドラマと (その間、当初は生きたまま展示しようとしたりなど様々なことがある) 「怪獣殿下」というあだ名の少年についてのドラマである。 また「ウルトラセブン」24話「北へ還れ!」も機械を狂わせるカナン星人の作戦とフルハシ隊員の家族のドラマという2重構造になっている。

ここまで例を上げれば怪獣に関するドラマと人間ドラマの分離の方法がそんなに非難を受けるものではないことは分かってもらえたと思っている。

反論その3

「第2期ウルトラシリーズはウルトラマンがピンチになると他のウルトラ兄弟などが救援に来るので、防衛チームが目立たない」とか 「隊員の個性が目立たない」とかいう批判もよく見かける。 確かに第2期ウルトラはウルトラ兄弟やウルトラの父や母が救援にくることも多い。 (それが第2期ウルトラの楽しみの1つでもある) でも「レオ」を除けば防衛チームが活躍する話やレギュラー隊員が主役を張る話も少なくない。

それを話す前に「レオ」の場合について説明しておきたい。 「レオ」は企画段階からして隊員の性格設定がないという状態で一歩引いた状態になっている。 「レオ」(特に初期)はゲンとダンの師弟関係を前面に出して強調している。 それを描くためにはどうしても一歩引く必要がある。 いままでのように隊長が主人公をただの隊員として扱っていたのではその関係がぼやけてしまう。 つまり「レオ」の個性が生きてこないという状態になってしまうのだ。

そんな中でもMAC隊員がエピソードの主役クラスで目立つのは12話の「冒険野郎が来た!」の佐藤三郎隊員と 21話の「北の果てに女神を見た!」の北山隊員だろう。 でも両者ともゲストで、レギュラー隊員ではなかったりする。

ではつづいてMATについて、MATは単独では等身大の宇宙人や円盤などを除いて単独で怪獣を倒した例はあまりない。 でもグドン・ツインテール戦やシーゴラス・シーモンス戦などは新マン単独ではまず勝てなかった! ツインテールにダメージを与え、シーゴラスの角を破壊して勝因を作っている。 セブンがウルトラブレスレットを届けた後の話でも22話や31話で伊吹隊長が活躍して、新マンのピンチを救っている。

隊員が主役が主役クラスで活躍したエピソードといえば南の9話や25話、岸田の11話や44話、上野の50話、丘の47話などだろう。 また岸田が郷と対立し南が郷を庇うというパターンは、その他のエピソードを見ても印象が強い。

TACはファイヤーモンス、オニデビル、ガスケゴンなどを倒している。 ファイヤーモンスやオニデビルはAを1度は破っているのだ。

隊員の目立つエピソードといえば山中は北斗と対立することが多いし、特に7話でマヤを北斗が疑ったときはすごかった。 後、「ぶったるんどるぞ!」と後輩に檄を飛ばすシーンを覚えている人も少なくないだろう。 今野隊員は9話でカメラマンの純子を初恋に人に似てるとか、44話で自慢の怪力が出なくなってしまった話が印象が強い。 吉村は超獣に対する知識が豊富だし、16話では困りながらも高井青年の世話を見たりしている。 美川隊員は4話といい22話といい、つくづく男運がない。お気の毒。

ZATは様々な「○○作戦を開始する」などのセリフが耳に残っているけど、戦歴もかなりのもので ムルロア、ベムスター、ベロクロン、ドロボンなどを倒している。

隊員の個性に目を向けると北島は兵器の開発を担当しているけど、7話などでいきなり釣りをやり始めたり、 45話では幼馴染を怪獣にされてしまっている。 南原は13話や51話での母親とのやりとりなんかは面白い。 上野は一見あまり目立たないけどムルロアの体に飛び乗り、AZ1974爆弾をしかけたりしている。

こうして見てみると科学特捜隊やウルトラ警備隊と比べても印象が薄いとは思えない。

・更新日:2011/03/19・ページ製作者:トータス砲