第1回教養問題プロジェクト研究会
学部課程における外国語教育の役割
〜「教養」論を視野に入れて〜
報告:齋藤敏康氏
私が用意したテーマは、「学部課程教育(Under
Graduate)における外国語教育の維持」ということなのですけれども、併せて教養というものをどう考えるかということについて私なりの考え方を述べさせていただきたいと思います。もう一つの柱は、「立命館の展望している外国語教育のあり方」についてです。これは具体的に紹介しろということであったので、それをその次に付けたという構成にしています。位置づけとしては、すべての専門分野の立場から教養教育の意味というものは語りうるわけで、そういう点で、経済学の分野、哲学の分野、法学の分野から、あるいは自然科学の分野、それぞれの立場から今日の大学教育ということを念頭において、教養教育のあり方について今後旺盛な問題提起をしていただきたい。その器としてこのプロジェクトを用意するということです。
今日大学がこう着している問題状況との関係でいうと、教養教育というのは次の3つの角度から論じられているのではないか、あるいは見直されているのではないかという気がします。もちろん欠けている部分もあるかと思いますが、まずは大学ユニバーサル化を目前としている時代における教養教育のあり方という角度からの論じ方があると思います。これは補完教育としての意味を教養教育に求めていく方向の議論かと思います。もう1つは、プロフェショナリティーの時代の教養教育というか、大学でどのようにしていかなる技能や知識を身につけていくかということが問われています。特に専門の先生などが、多少焦りの色をにじませながら言うのは、専門的な高い付加価値をつけないと競争できないという時代に、好むと好まざるとにかかわらずなってきつつあると思います。逆に、そうであるからこそ、そうした高い付加価値をつけていくためにも幅広い文化の探求が必要になるという関係が、教養教育・専門教育の間で成立してくるわけです。そのような意味での教養教育のあり方というものもやはり問われていると思います。もう1つは、グローバライゼーションの時代の教養教育ということです。これは国境も民族も文化も越えていくわけですから、まさに越えるための一つの技術、ツールといったものとしての教養教育であって、情報教育や世界的な視野でものを見たり考えたりする能力、あるいはスキルとしての外国語そのものが、こうした観点から教養教育の範疇の中でとらえられているということにもなっていると思います。
私はそうした観点を視野に置きながら、そうした事柄は、いわゆる専門教育やその他の教育と切り離された独自の領域としての教養教育の中で行われるようなものではなく、実は大学においては、Under Graduateの過程を通じて、ある意味で専門教育として、または学際教育として、コア教育として、あるいは地域スタディといいますか、いろんな問題設定、科目設定の仕方がありうるかと思いますけれども、地域学習あるいは教育云々として、そうした教養教育という独自なレテンデートルではなく、そうしたさまざまな教育内容、あるいは教育プロセスというものを通して、これからの大学において教養教育というものが達成されるのではないかと思います。そういう意味では、われわれはContent Based Educationと言っていますけれども、専門課程と密接にリンケージした、それを基礎的な内容とする教養教育という概念を考えていくべきではないかと思っています。これらを一言でまとめると、少し挑発的な言い方になるかも分かりませんけれども、要するにすべての学部課程教育というのは教養教育であるといえるのではないかと思います。したがって、すべての教育分野、専門分野の立場から教養教育を語ることが可能になってくるし、専門教育としても語られることの多くは、結局教養教育ということになってくるのではないかという見通しを持っているわけです。
ところで、そういう現状から将来を見たときの視覚・視点とともに、そもそも教養というものをどう考えるかということを、こうした問題を語るときに、話者は掲示をする責任があるという気もしているわけです。すなわち教養という言葉だけではないかもしれませんが、これほど多義的な内容と概念を含んでいる言葉もないわけで、結局、お前の言う教養というのは一体どういうことなのかということですし、理論的なコンセプトを明らかにしていくことが義務になってくると思います。
その点で言いますと、私たちが立脚している教養という概念に関する思考は、この例会にもお呼びして種々議論したようなツツイキヨタダ氏の研究に基本的に立脚しているのではないかと思います。ここでそれを繰り返すことをいたしませんけれども、日本型教養主義が培ってきた教養というものに対する一つの考え方と実態というものが歴史的にあります。そういうものが基礎であろうというふうには思っています。
それからもう1つ、私はこれは外せないと思っているものがあります。別に新しいことではないし、多くの人が知悉しておられることですけれども、戦後教養教育の理念というか、国立大学の教養部が作られていったときの理念。それは体制や内容という点からいえば、アメリカのリベラルアーツが模倣されているというのはよく知られているところです。しかし、アメリカのリベラルアーツには必ずしもなかったというか、当時の日本の国際環境、政治・文化状況から、独自の理念・色彩もその制度の中には当然帯びていたわけです。それは言うまでもなく、平和主義・民主主義の国家理念を擁護・発展させるということ、そして広い視野立って現実批判を行う知識や能力を持ったインテリ言者を養成するということ。これは特に東大の蓮實総長が強調したことであって、そのひとつの結実として東大の教養学部ができたということも有名なことです。私はそういう戦後教養教育の理念的なアーキタイプを今確認していくということは非常に大事なことではないかと思います。そして、そこに今日的な味付けを私なりにするとすれば、今非常に希薄になっている公(オフィシャル)という価値、公共という概念を教養教育の基礎に置く必要性ということとも重なってくるのではないかと思います。つまりそれは、私の言う公的な価値とか公共概念というのは、具体的にたとえば今の憲法は、平和主義・民主主義に立脚しているわけですけれども、こうした憲法や人権、人間の尊厳あるいは社会的なモラル、倫理、科学的な知識の基礎、こういったものを日本の高等教育を受けた人間の必須の素養としてきちんと涵養することが、教養教育の根幹に改めて据えられなければならないのではないかと思います。私が言うところの教養というのは、根本的にはそういうものであると申し上げておきたいと思います。
しかしそういうことであれば、憲法や社会学をやっていらっしゃる方、自然科学をやっていらっしゃる方が、それぞれの観点から専門的なお話をしていただければいいわけで、こうした言説にこだわるかぎり私の出番はないのですけれども、そういうことを少なくとも大学教育における教養観の基礎におきながら、私自身が専門的にかかわっている言語文化研究の立場にそれを援用して考えてみるとどのような説明が可能になるか、どのような言説が可能になるかということが2で述べていることです。題して「言語・文体の獲得と外国語教育」というふうに仮にしてみました。つまり今言ったように、言語文化の研究に携わる者として、特に大学のUnder Graduateにおける言語教育の意味をどう考えるかという意味付けのつもりです。
いろいろな切り口があろうかと思いますが、いま非常によく言われる言葉として、こういう角度からの説明が多く行われているし、それがまた世界のグローバルな言語文化状況を表す鍵の言葉でもありますので、そこから出発するとすると、多言語主義(マルチリンガリズム)、多文化主義(マルチカルチャーリズム)というものが持っている可能性を、21世紀に向けて指摘することができるのではないかと思っています。もちろんご存じのように、マルチリンガリズムとかマルチカルチャーリズムということを言っても、その具体的なあり方というの、地域文化によって全く違うわけですし、それがどういう脈絡で使われるか、どういう脈絡で出てくるかということによっても全然意味が違ってきます。非常にポジティブな意味をはらむ場合もありますけれども、逆に、こういうことを言いさえすれば、新しい言語文化状況が切り拓かれるかのような錯覚を売り物にするというか、逆にネガティブにしか働かないマルチリンガリズム・カルチャーリズムというのもあるわけですから、その辺の見極めはきちんと個々の問題に即してやらなければいけないわけです。
しかし、ポジティブな積極的な意味でこれを使ったときに、またこの概念で展望したときに、私は次のような定義を与えることができるのではないかと思います。例えば、マルチカルチャーリズムあるいはマルチリンガリズムといっても、それは支配的な言語や文化が予め存在していて、基本的に一元的な国家や共同体が存在し、その内部で少数者の言語や文化の多元的な言動を承認する。そういった類型での多言語主義・多文化主義というのは、私が先ほど言ったところのネガティブな解釈に導く多言語主義・多文化主義につながるものであろうと思います。
私が考えるのは、多様な言語や文化が文字通りパラレルに置かれて、異質性や非対称的な言語文化の諸関係が全く日常的であるような関係性を原理とする社会において、一人ひとりの人間の内部における言語と文化の選択的な横断が自由に行われるようなしくみ。あるいは、人間が本来持っている非常に重層的で多様なアイデンティティーが自由に変容したり、異質な、あるいは非対称的な言語文化関係の中を横断したりするということを許すような社会です。私はこういう社会が、言語文化論の立場から目指されるべき21世紀の将来の社会であると思います。それがまたグローバルな言語文化の立場からの一種のグローバリズムの定義であると考えているわけです。
ですから、そういう角度から日本を見ると、日本において日本=日本人=日本語=日本文化という等式を自明な統一体と認識する。多くの日本人はそのように認識しているわけですけれども、そのように認識することの非真実性、あるいはそうした認識がはらむ危険性を視野に入れておかなければならない。自らの存在が、その属性の体現者であると認識するところから生ずるそれ以外の者に対する差別や排除の思想と言説というのは、この等式を承認する限り繰り返し現れるわけで、その悲劇的な結果も20世紀において見てきているわけです。ですからこういう等式から言ってみれば自由になって、多様な言語と文化に自由に個々人がアプローチし、そうしたものにアイデンティティーを認めることができ、そしてそのアイデンティティーは変容することも可能である。横断とか変容という言葉を私は使いますが、そういうことも可能である。そのような社会や人間関係や個々の内面のあり方を目指すために外国語教育というのはどういう意味や役割を持っているのか、というふうに私は問題を抑えるわけですけれども、実際には、今私が申し上げたのは、多少ユートピアじみているかもしれませんが、そうした方向に向けての歩みというのは歴史の中で絶えず行われてきたことであるだろうと思います。
近代だけをとってみても、実際には、異質な言語文化というのは絶えず混交してきたわけです。混交することによって、Aの言語文化からBの言語文化への横断や変容を可能にしてきたし、Aの言語文化とBの言語文化の混交によって、Cの新しい言語文化が創造されるというような営みを人間のわれわれの歴史は絶えず行ってきました。それは簡単に言えば「クレオール」という言葉で説明してもいいと思いますけれども、クレオールとしての言語文化状況というのは、現実には世界に非常に広く存在しているわけです。
1つの例として、日本の明治の原文一致運動を考えてみたいと思うのですけれども、言文一致運動を経て日本の近代口語文体が確立してきたということは、私たちは中学校でも小学校でも習うことですけれども、坪内逍遥や二葉亭四迷や山田ギミョウの実験的な創作あるいは理論構築から始まって、明治の30年代に、およそ20年ないし25年後になりますけれども、夏目漱石の文体に至って、われわれが今日使う現代口語文の祖形が確立されたといわれています。その確率のプロセスの中でさまざまな力が働いていると思いますけれども、現代日本語の確立に最も大きな意味を持ったのは、外国文学です。つまり明治のインテリ言者たちは、外国語の文献を原文で読み、そしてそれを翻訳することを通じて日本語の文体を根本的に変えていったわけです。そういう営みを経ることによって、文学でいうと江戸の戯作的世界しか描けなかった日本語は、夏目漱石の文学に見られるような近代的な内面心理の描写を可能にしていったわけです。外国語を介在させないで、日本語がいわば、それ自身の内発的な契機だけで発展するということは不可能だったと言えると思います。同じことはヨーロッパの言語の近代化についても言えるし、私が専門とする中国の言語の近代化についても言えるわけです。中国では1911年の辛亥革命以降、中華民国の時代になります。それを「民国期」といっていますけれども、その初期である1910年代から20年代、日本の言文一致運動に遅れること20年から30年ぐらいなのですけれども、この時期に「五・四文化運動」というのが起こり、これがいわゆる中国における言文一致運動にあたり、文学用語では「文学革命」といっております。ここにおいても、中国の当時の文・言文が口語化していく、言文一致の文体を獲得していくプロセスにおいて、外国文学が決定的な影響を持っているわけです。日本で行われたのと同じ営みが中国でも行われております。
四書・五経とか大学とか、儒学の学問を徹底的にやって、それで華僑の試験に受かって、北京に登って高級官僚になるというのが彼ら中国の知識人の理想であったわけですけれども、その華僑試験の制度が1905年に廃止されてなくなるわけです。ほぼそれと同時に、それに代わるものとして、ヨーロッパ近代の科学や民主主義というものが彼らの文化的な素養になっていくわけです。そうした文化状況の中で、ロシア文学、ドイツ文学、イギリス文学、ホイットマンなどのアメリカの新しい民衆文学などの外国の文物を、当時の若い知識人たちが競って渉猟したということが、中国の言語の近代化にとって徹底的に重要な役割を持ちました。
文化大革命で悲惨な死を遂げた老舎という劇作家がいるのですけれども、北京生まれの北京育ちで、日本でいえば、江戸の下町で生まれた江戸っ子作家です。多くの作家たちが30年代にヨーロッパの文学に学びますから、文体が一時非常にヨーロッパ化するわけです。そういう時代にあっても、老舎だけは非常に中国語らしい味のある口語文学を書いていたというふうに評価されてきた作家なのです。その最も中国語らしい文学をものする老舎がイギリス留学を何年もしていて、19世紀のイギリスの大衆文学、とりわけチャールズ・ディケンズの小説に非常に深く傾倒していたという事実がもう一方であるわけです。そういう沈潜期を経て、彼の非常に中国語らしい文体による一連のユーモア小説というものが1920年代に生まれてくるわけですけれども、1919年代の後半は彼はイギリスに留学していたという関係があります。
それはちょうど、非常に日本的な心理的世界をタンメイする典型的な作家とみられている川端康成の文学的出発というのは、実は昭和の初めにモダニストとして出発したわけですけれども、ギョクニチリーチや今東光などと一緒に、非常にモダンな文体の創出者であったということこととも響き合うものなのです。いずれにしても、そういう外国語の文体と絶えず混交するし、その両方を行き来することによって、近代日本語の世界性というものが獲得されてきたということです。それは決して、そうした文体・言語が大きくドラスティックに変換する一時期だけのことではないということを申し上げたいわけです。そういうクレオールというのは日常的にずっと続いているということです。
例えば、大江健三郎がノーベル賞をもらって王立アカデミーで記念講演をしたタイトルが、『あいまいな日本の私』というものですけれども、私が注意を喚起したいと思うのは、「20数年前に日本語の作家として初めてこの場所に立った川端康成が、『美しい日本の私』という講演をしましたということで、自分と川端康成の文学的な立場を比較するという話が始まるわけです。資料の4ページから8ページぐらいまでのところで、その後は、そこまでの議論をさらに敷衍して戦後文学者論に移っていきますので、8ページの終わりから2行目ぐらいまでのところを私としては注目していただきたいと思います。
言っている内容は、川端康成は『美しい日本の私』という題目のもとに非常にトラディッショナルな日本の心理間というものを世界の人々に示して見せた。ただしそれは、彼としては非常に洗練された日本語でそれをおこなったという自意識を持っているだろうけれども、その文体は世界の人々に開かれた文体ではなかったということを言っています。川端康成本人が、「日本の美の神髄というものは世界の人々には理解できないものであろう」と、いわば自己認定をしています。したがってその言葉も、世界の人々に日本の美を伝えるような装置として機能していないということを非常に批判的に述べているわけです。実際、川端康成の『美しい日本の私』を読みますと、たとえば、禅の話を長々としているわけです。禅問答というのがいかに日本の以心伝心的な思惟というものを体現しているかという話をするわけですけれども、禅問答などというのは日本人もわからないわけです。そういうわけで、非常にトラディッショナルな美的な日本観というものを提示しながら、その理解を拒否している。それで、大江自身はそれと対局な立場に立つというわけです。つまり、文体においても思想においても、ヨーロッパやアメリカ、アジアや中国、ラテンアメリカやアフリカの優れた近代の文学伝統に、文体においても思想においても積極的につながろうという思考を持ちたいということをこの中で言っているわけです。
そうした積極的につながろうという思考を持つ人々の文体的な努力というのはどういうところに現れるかというと、つながるための日本語の変容という努力の中に現れるわけです。つまり、例えば大江個人は非常にフランス文学に傾倒した人であって、フランス語的な文体、しかしそれはフランス語そのものの翻訳文体ではなく、そうしたものを基調にしながら、おそらくヨーロッパのいろいろな言語にトランスファイすることが可能な、また思考のレベルでも、そうした言語操作を通じて思考の認識の一致を勝ち取ることが可能な文体を彼は意識的に追及するわけです。よく俗論で、大江の文体は何を言っているか分からないということが言われ、そういう面が確かにあるわけのですけれども、これはやはり文学者としてのそういう営みの結果であり、ひとつの試みであると理解すべきだと私は思っています。
そのようなことを敷衍して考えると、決して言文一致運動や五・四文学革命の時期だけではなく、開かれた言語、開かれた思考への自由な変容と横断というのはいつの時代でも行われていて、そうした営みの一つひとつが新しいクレオール現象を生み出しているのだということが言えると思います。
そうすると、マルチリンガリズムやマルチカルチャーリズム社会というのは、私は21世紀はそういう社会になっていくと思いますけれども、こうした歴史的な横断と変容が個のレベルで、一人ひとりのレベルでより一層日常的に成立する社会ということになるわけです。そのような自由な選択と横断、あるいは変容を可能にする言語教育が大学で求められている、と私はおきたいわけです。そういう教育こそが、21世紀の大学における教養教育の実態にならなければいけないのではないかと思っているわけです。
以上が第一部ですが、そういう考え方に立つと、今の立命館の改革がどうなるのか、どういう方向であるかというと、私としては非常にUnivalentなという心理に引き裂かれざるを得ないというところがあります。物事が一挙にいろいろ矛盾を解消しながら理想的な方向にいくとはもとより思っていませんけれども、そのプロセスがどのようにあるかということは、それぞれのプロセスを一回限りの人生として生きる者にとっては非常に大事なわけです。そういう点で問題があるというふうに思わざるを得ません。ですから、外国語教育改革に限らず、私の立命館の改革に対するスタンスは、いわば反対することを通してその案が持っているまっとうなものを浮き立たせ、前に進めていくというスタンスで望みたいと思っているわけです。
ご存じのように、立命館は98年に大きなカリキュラム改革を行いました。言語教育に関していうと、要するに複線化です。選択肢を多くしたということと、高度化を目指したということ、集中的な学習を可能ならしめるシステムを作ったということにまとめられていくと思いますけれども、外国語教育検討プロジェクトというプロジェクトチームの答申が出ました。そこでは、98外国語教育改革の中間的な総括をしながら、98年度以降に起こってきた高等教育とりわけ外国語教育をめぐる情勢の変化も踏まえて、21世紀初頭の立命館の外国語教育改革の骨子を掲示するという提案になっています。その提案の内容は第1点から第7点にわたっていて、それを可能にする、それを支える外国語教育改革を担う教員組織整備の基本的な考え方というのがその後ろに隠されているという構成をとっています。
外国語教育改革の骨子の中で、特に21世紀初頭のひとつの新しい高度化のシステムとして、「大学院での高度な言語教育・研究の展開」というのが掲示されています。大学院における高度な言語教育の展開を具体的にプランニングしたのが、まだ素案の段階ですから1ページ目だけコピーしたのですけれども、「立命館Teacher’s School(Teacher’s College)」という構想です。当面は修士課程になりますが、___課程前期とともに、外国語教育あるいは文化というものを集中的に教育・研究する機関としてTeacher’s Schoolを創る。なぜTeacher’sかというと、そういうところに来る人というのはすでに社会的に活躍している人たち、とりわけ先生が多いのです。ですからそういう人たちのリカレント教育をひとつの眼目とする。先生だけでなく、商社で働いている人、翻訳をやってる人でもいいのですが、そういう意味です。それを21世紀初頭の大学改革の目玉にしようとしていて、そこに向けて各学部の学部課程教育、言語教育の高度化の一環システムをつくっていこうというのが、この2つの提案の狙いということになります。
今日の私の報告としては、前者の外国語改革検討プロジェクトの答申の中心的なポイントをまとめてありますので、それを簡単に紹介し、今立命館でやろうとしているものの紹介に代えたいと思います。
中心的なポイントは、まず英語の学力を向上させる。プロジェクトの人たちの言葉を使えば、飛躍的に向上させ、日本の大学で最も英語のよくできる大学にしたいということのようです。ではどうなると日本で最も英語のよくできる大学になるかというと、TOEFLで、550点以上の層が15%から20%できたら、ICUも抜くし上智も抜くし、ひょっとしたら東大も抜くということになるらしいです。ですから当面は15%を目指すということで、全体として英語を特化させ、英語中心のカリキュラムにしていこうということです。「550点以上の高度な運用能力を持つ学生が英語履修者の一割を占める」。ここでは一割になっていますが、理事会の議論の中では15%です。「そのため、入学前もしくは入学後に、TOEFL 550点以上を取得した者には8単位を認定し、選択外国語、副専攻などのより高度なプログラムを受講させる。500点から549点の学生は上級クラスを設定する。サマーセッションなどいろんな仕組みでとにかく550点以上を目指す」。それから「もともと英語の能力が優秀なものを入学させるためにTOEFL入試を導入する」。一方で、やはり3万人の学生を預かる総合大学としては、ミニマムのラインも設定することが社会的責任になってくるということで、「400相当のレベルを求め、第一セメスターで…」週4回集中的にやるのですが、「取得できなかった者は、後期にTOEFLクリア科目を受講させる」。とにかく400点をクリアするまで手を替え品を替えいろんなことで英語を勉強させるということです。それでも取得できなかった者も出てきます。TOEFL 300という者もいます。これはどうしようもないので、再履修を課さずに代替科目で単位を認める。これが大きな抜け穴になっているわけです。3つ目に言ってることは、TOEFLは今でも1、2回生で全員受験をやっていますが、3回生以降は落ちるというのがあります。そこで3回生後期で、就職に向けてはTOEFLよりTOEICの方が有効だということで、TOEICの無料試験制度を導入する。それから、今は国際関係学部をはじめ、経済の国際コミュニケーションコースなど、国際と名の付くコースが立命館にはいっぱいあります。そのコースでは、専門科目の少なくとも2割以上を外国語で受講することを目標にするということです。これはわれわれ外国語教員の側からも、われわれのリソースはそういう専門の領域で熱いものを持っているわけだから、そういう人たちが外国語教育にもっと関与すべきだということで言っているところですから、そうしてほしいと思います。5番目としては、「上記の諸課題を遂行するために整備計画を行う」ということで、その際に教員の内部構成の変更を行うということです。いわゆる新常勤講師(任期5年)で専任1名で2名に相当する。つまり給料が半分の講師の制度をつくる。現行の常勤講師制度も存置するということで、専任、新常勤講師、常勤講師、非常勤講師という4層の教員体制というわけです。6番目に体制としては、経過上外国語教育を管理するセクションは、今は衣笠とBKCに分かれて、それぞれ言語コミュニケーションセンター、言語教育センターが存在していますが、これを整列統合し、言語習得センター(LAC)のようなものを発足させるということです。
それから先ほど私が示しましたTeacher’s
Schoolに関する答申の付属文書では、大学院新展開推進本部というところがあるのですが、この時代として言語教育分野の大学院の補足を検討・推進する。この大学院は次の役割を果たすことを目的とするということで、3つ挙げられています。1つは、社会的需要の広がっている英語教員の再教育、日本語教員の養成、中国語教員の養成。2つ目は本学大学院における語学教育センターとして。3番目は学部教育とLACにおける言語教育プログラムの開発、それに基づくコーディネート。つまりここで外国語の各学部課程教育のプランニングやコーディネートをやっていこうという発想です。そういう改革プロジェクトを現在持っているわけですが、これらが軌道に乗るとどういうイメージなのかというのがチャートにした図です。
TOEFL入試を課して入学し、入学試にPlacement
Testをし、550以上、500〜549、400〜499未満、400未満というふうにそれぞれ別れています。550点以上の人はあらかじめ8単位を認定して発展プログラムの方に入っていくということで、各学部に存在するこの層を、そういうモジュベーションがある限り大学院まで引っ張っていこうということなのです。500〜549の諸君は、サマーセッションや課外講座、スプリングセッション、UBCとのジョイント等を繰り返して、550以上の方向にもっていくということです。400〜499の諸君についても基本的にはそういうことで、2回生の終わりまでの12単位のプログラムをきちんとやる。そのうえで3回生以降は、5から8セメスターに書かれているような内容を積極的に受講するように指導する。400未満の諸君は、とにかく400を2年間でクリアするように、400〜499の枠の中に入ることができるようにがんばらせる。それもできない人は、欄外の再履修科目、代替科目にいくということで、全体としてはこういうイメージになっています。私の報告は以上です。
<質疑応答>
○○ 議論の流れとして確認しておきたいのですが、斎藤さんの考え方の一つの筋道として、立命館の今のやり方というのは、要するに語学教育を社会のニーズに合わせた実学的なものに変えていくという非難はあるわけです。斎藤さんは最初の教養議論のところで、教養的な語学も必要であるという前提に立っておられると思いますが、そういう立場から、今の立命の語学教育のあり方というのは偏向しているというのがあるわけですね。
斎藤 もちろんあります。基本的にはそうです。
○○ それが根本的な前提ですか。
斎藤 根本的な前提ですが、ただ日本の言語環境というのは、マルチリンガリズムでもないし、バイリンガルでもなく、全体としては非常に単調なモノトーンな言語状況があるわけです。それを何らかの形で破っていく必要はあるわけです。その時に、たとえば英語を非常に重視して、ある時期英語を学生に集中的に学ばせるということが、学生がそれを受け止めるモジュベーションを持っていればの話ですけれども、それはその言語の混交状況というか、英語で自己表現することもできるし、日本語で自己表現をすることもできる。英語を基礎にして自分のアイデンティティーを構築することもできるし、日本的なものに自分のよるべき基盤を求めることもできるというような人格を形成することがそれによって可能ならば、私は大学でそういうプログラムがあってもいいと思っているわけです。同じことは、アジア諸言語についても言えるし、ヨーロッパ諸言語についても言えるわけです。ところが今の立命館のいき方というのはそうではないわけです。
○○ それでいくと、みんな英語をやるだけなのですか。どんなシステムが考えられますか。
斎藤 諸言語を並列させるのではなく、英語をストロングな言語としてカリキュラム上に位置づけようという新しい提案です。英語を一定程度やったうえで、あるいは学生の多数を英語に組織したうえで、英語はやはり嫌だという学生は、その他の言語をやっても構いませんという位置づけです。
全部で12単位で、最低英語で4単位やるわけです。それは1年生の前期課程で週に4回ですが、その段階で少なくとも400点以上取っている諸君については、次に英語を選択するか、ドイツ語を選択するか、中国を選択するか、他の選択肢を選ぶ自由を与えるというシステムです。
○○ 今の話に関係しますが、斎藤さんの報告では、教養としての不満に絡んだ今の立命のあり方。2つ目はマルチカルチャーリズムの話がありましたが、それとの関係で、英語に特化することの問題性。それがもう1つの前提になっています。その2つですか。
斎藤 私の立論の基礎はその2つです。
○○ では、1セメスターで全員が4単位の英語をして、2セメスターからは400をクリアした学生は、英語に集中して12単位でもいいし、フランス語、ドイツ語、中国語を残り8単位にしてもいいし、英語を8で中国語が4でもいいというシステムですね。
斎藤 2年生の終わりまでの12単位はそうです。
○○ では、400をクリアできなかった人は400をクリアするまでがんばりなさい。他の言語はやってはいけませんという構造なのですね。
斎藤 そうです。
○○ うちの大学もどうするかというと、来年から英語ばかり12でもいい。英語をやめて他の外国語を12でもいい。ほかと組み合わせてもいいというふうにやると思います。考え方が似ていますね。それはなぜかというと、英語の力は一定付けないといけないと。うちは500という数字は出ていませんけれども、それぐらいの力をつけないと話にならないという時代がある。これをどうとらえるかです。――B面へ――
そこで私は議論の中で、かつての教養主義、つまり英語だけでいいのかということです。しかし私は現在の学部生を見たときに、そういうかつての戦前的教養主義というのはもはや成立する状況ではないと思います。2つの言語をやったって、言語に伴う文化を身につけることはできない状況ではないだろうかと思うわけです。だから無理にやっても仕方がない。しかし言語というのはここで出しているように、スキルの面と文化の面があります。日本のいままでのやり方は、スキル抜きで文化をやってきた。だから文化もスキルも身に付いていないというのが現状ではないかということ踏まえたら、私はこういう発想はある程度分かります。
○○ ___の話で、日常会話___をしていかないといけない。学習するときに、われわれも外国語文化、特に英語の文化が入ってきて、本当に日本語を英語に置き換えてしゃべるケースというのは非常に多いのです。日本語を使わなくなって、それ自体が日本語になったような気がするわけです。ただ論文を書くときに日本語に置き換えますが、ふっと我にかえって、日本語が浮かんでこなくなります。それでどういうことをしているかというと、講義の中では必ず日本語と並列して、英語で表すならば括弧して日本語で入れてやっています。そういう訓練を自ら自分の頭に課し、学生にもそれをやる。これを繰り返しやっておかないといけません。こういう訓練のもとにそういう原理があって、語学教育なりを発想しているのであればいいけれども、そうでなければ、これ自体が学生にとって、要するに悪い意味でのストレスになる可能性があります。つまりここは英語学校で、英語を学ぶために入ってくるというのを覚悟していればいいけれども、やはりいろいろな学部に散っていくと思います。もう入り口のところで、学生の方も頭の思考が働いていないところがあります。その辺をどうするかということです。
○○ 400をクリアすれば選べるわけでしょう。つまり、英語以外だめですという構造ではないですね。
斎藤 もちろんそうです。
○○ それは他の外国語をやるにしても同じなのです。基本的にそういうことを考えながらカリキュラムなりそういうシステムを組んでいるのかというのが、大学の根幹に座っている者としては気になります。
○○ そういう問題以前に、このプロジェクトの(1)に表れていると思います。例えば就職の問題などでも、立命館の発想というのは、一部上場企業にどれだけ入れるかというのがあるわけです。つまり大学の社会的知名度をどれだけ上げるかという、その同じ線上に考えられているということがあります。これは学生のためではなく、大学のためにやっているわけです。そういう意味では学生を手段にしている。これはある意味では、教育の基本的な前提のところで違ってきている。これはどんないいことを言っても、それはだめだという基本的な視点があるわけです。これはどこかで必ず学生側からの反発もあるだろうし、矛盾が出てくるという気がします。
○○ それはそれで分かるのだけれども、やはりそれだけの力をつけるシステムをどう作るかという…。
○○ それはテクニックの問題を言っています。テクニック以前に、大学は専門学校ではありません。専門学校でこれをやるのだったらだれも文句は言わない。
○○ それは大学から上の、専門的な5から8で外国語授業をやりましょう、インターンシップもやりましょうという構造が組んであるわけです。
○○ 例えば就職のことで言えば、一部上場企業に入ることが、本当にその個人にとっていいことなのかどうか。そういう問いというものを学生にどうやって持たせるかというのが大学教育の核になるわけです。その根本的な点を抜かしたら、大学の大学たる所以というのはなくなります。
○○ 自分探しができなくなります。
○○ 私はそういう議論は引っかかります。
○○ 大衆化した大学でも、やはりその部分は大学であれば…
○○ それを否定するわけではないけれども、一定の力を付けないといけません。例えば今までの日本の大学における語学教育は、本当にどんな力をつけたのかというのを問い直さないといけないだろうと思います。
○○ それをやるのだったら、例えばTOEFLで550点以上を15%にしようという発想はしないわけです。学生のそれぞれの個性と希望でどういうコースが必要かという発想を持たないといけません。根本的に全然大学教育の発想ではありません。
斎藤 カリキュラムとしては、われわれが持っている資源というのも限りがあるわけだし、いろんな諸条件に規定されますから、どの道似たような制度になるかなという気はします。ただ問題は、そういう制度を意味づけする理屈というか、考え方だと思うのです。その点で私は臼井さんがおっしゃっているような危惧を立命館については覚えます。要するに今放っておけば、学生が圧倒的に影響を受けてなびくのはアメリカ文化であり、アメリカ語であるわけです。ただでさえ放っておいたらそういうふうになるのに、むしろそれをより強調して、実際には、英語をやらなければ話にならないよというプレッシャーを、この制度を運用する過程で学生に非常に強く掛けるのです。そうすると、ほとんど学生の意識というのは、逆にそれで、ああやっぱり英語なのだなということになって、圧倒的多数が英語になびいていく。よほど変わり者がフランス語をやったりドイツをやったりということになってくるのです。
○○ レベルを上げようと思ったら、数がいるから、かなりの層が集まらないと上がりません。
○○ 一時的にこういうことが起こると思います。何年かしたらおそらく反発が出てきて、第二外国語の英語以外のところに学生が集中的に流れてくる可能性があります。
斎藤 私たちはそういう意味で、非英語の立場からすれば、それはそれでおもしろいかなという気はしています。つまりこちらは非常にぜいたくな教育ができるわけです。学生は少なくて、モジュベーションの高い連中が来ますから。
○○ そうなればいいのだけれども、英語で落ちこぼれて、どこも行くとこがないというのがしょうがないから行こうかというのが集まってくると、逆に対応に困ります。
○○ 臼井さんもフランス文学をやっているでしょう。私自身も語学教育を出たけれども、果たしてそれが、教養としての多文化の言語を身につけるような教育だったのか。あるいは、それがたまたま研究者になった自分だけではなく、広く身についたのか。そして語学の力としてつけたのか。だから、一体大学の語学教育というのは何をするのかというところからしたときに、私などが思うのは、今まであまりにも実際の運用能力を軽視してきたのは事実です。そこを踏まえないといけません。例えば英語でいえば、英文学の人がやっていたわけで、他のドイツ語力や何にしろ、どれだけ力をつけることをやっていきたかというと、ほとんどはつけなくて、研究者になるような人は本人の努力でついてきたわけであって、大学の語学教育としては極めて中途半端であった。だからここで揺れているようの英語教育の専門家を入れるというのは私は必要だと思います。
○○ 先ほど斎藤さんが報告された立命館の今のプロジェクトの話とは筋が違った話で…
○○ プロジェクトで提起されている問題に当たっている問題を抑えておかないと…
○○ それはそれとして議論しないといけません。それはおそらくだれも否定する人はいません。
○○ それをクリアすることは現に求められているのだということを抑えておかないと、ハナから意地があるからということだけでやると私はまずいと思います。
○○ より高度な専門性の教員を入れることに関してだれも反対していません。
○○ それを認めたうえで教育改革をやっているわけです。
○○ 今まで紹介があったお話というのは、授業でどういう教え方をして、そのためにどういう教員を入れたら実際に運用能力が上がるかということは出ていなくて、TOEFLの500点というのを基準にして、学生の尻を叩くような話ばかりが前面に出てきています。ではどうやって教育するのかという話が抜け落ちていて、しかもこの文書は、あらかじめ500点を超えるような学生を集めたらいいではないかというところがあります。そういう下心が見え見えなのです。だからそこの部分と、しかし実際の教育内容で運用能力を高める努力が必要だというのは大多数が認めるところです。しかしそのやり方として、こういうふうに点数で線引きをして尻を叩くということがいいのかどうか。少なくともこのプロジェクトには下心があります。まずそこで引っかかります。
○○ 多くの大学が大学改革の中で生き残りをかけてやっているのは、いい学生を取るための手段。そして今度はいい就職口を探すという、そこを念頭にしているわけです。そこから出てくる計画はいっぱいあるわけです。ところが実際には、いい大学へ入ることと、自分の向いたところへ行くというのは、今のシステムでは対峙しているのです。就職のときによく言うのですが、「先生、どんな資格を取ったら就職に有利ですか」と。「僕に適正な職業があるでしょうか」と。そんなもの20代の初めぐらいで分かるはずがない。一生かかっても適性は分からない。ただ、好きか嫌いかというのはよく分かります。むしろそこのところを大事にした方がいいのと違うかという話をするわけです。だから本当に好きになるための手段、知的好奇心を湧き出すための仕掛けというのが本来は大事なはずなのに、そこの部分が欠落しているというのが今の大学改革です。私が受けた英語教育も実はそこだったのです。正しい日本語で翻訳できないような英語をたくさん学んできました。
○○ 社会のニーズに応える必要はあって、やはり大きな会社に入りたいという学生は現にいるわけだから、そういう学生にとっては、TOEFLが何点かというのは必要な資格かもしれません。しかしそれを立命館の外国語教育としてやるのがいいのかどうか。専門学校ではないわけですか。
○○ プロジェクトの答申は外国語担当の方が中心でしょう。
斎藤 外国語担当の先生だけではありませんが、外国語担当の教員が中心です。そもそもこういうものが出てきた背景には、もっとあけすけな、中川会館の官僚の作成した文書による、2007年をめどにした教員の再編成計画というのが発表されたのです。それは端的に外国語教員を半分ぐらいに減らしてしまって、ロースクールをはじめ、新しい型の大学院教育の充実に振り向けるという案だったのです。われわれはそれに対して強力に反対して、これが外国語教員の総意とは言いがたいけれども、それに対する対案であるという性格は持っています。いろんな条件の中で、こういう範囲の対案を提示せざるを得ない。
○○ 半分ぐらいに減らして、あとはアウトソーシングだという話がありました。非常勤や新非常勤というのはあるけれども、それは消えていますね。少なくとも自前で語学力をつけましょうということですね。
○○ うまいといえばうまいわけで、ならない話をぽんともってきて、外国語教員自身がこういう対応をせざるを得ない方向に持ってくるわけです。
○○ このマルチカルチャーリズムの理解とか公共性の概念についてはいろいろ意見があるのですが、それはまた今度ということで、1つだけお伺いしたいのは、いわゆる伝統的な教養概念、ドイツ型の教養概念で語学教育をやる場合には、従来のゲーテを使ったりとか、シェークスピアを使ったりというレベルと、今のテクニカルな語学教育を対比させるというのはあまりうまくないと思います。むしろそうではなくて、例えばTOEFLの点数を上げるということを考えた場合でも、ある意味で教養教育がなかったらならないものです。学生のインセンティブです。つまり語学がどうやって発達するかというと、日本の文化やアメリカの文化に対する関心というのがあって、そういうものをきちんとベースにしないと、語学自身をやろうという気にならないのです。テクニックだけだったらやる気が起きないし、上達もしません。それは私もフランス語を持っていてやっているのだけれども、常に感じるのは、やはり基本的な知識がないと本当に翻訳もできません。やはりそういう点でのベーシックな教養教育がないと、語学はだめです。だから語学教育と教養教育を分けたらだめなのです
斎藤 私はそういうふうに取られたら誤解で…
○○ それを斎藤さんの意見とは言っていませんが…。
○○ こういう中にも私は当然組み込んであるのだと思います。
斎藤 すべてをお話ししませんでしたから、いわゆる文化(カルチャー)に重点を置いたレクチャー、あるいはゼミというものもやっていこうという案ではあります。
○○ そうでないと力はつきません。常識的に、部分的に400、500取れる学生が仮にいるとしたら、その子たちはこんなことをしなくても取れるのです。
斎藤 教室で教えていると分かりますけれども、文法や単語だというふうにスキルばかりやっていると、学生はいい加減疲れてくるし、反発するのです。特に中国をやっている連中などはそうです。水滸伝を読みたいから中国語を勉強しているのに、口語で「買い物はどうする」とか、そういうのはどうでもいい。『紅楼夢』を読みたいというのがいるわけです。だから、どうしてもそういうスキルを中心にした授業を中心におく場合には、そうした文化や広い範囲に及ぶものをレクチャー科目としておいておかないといけません。
○○ 私もそれはレクチャー科目として必要だと思います。つまり語学教育としてではなく、当然そこでは翻訳もやるけれども、いわゆるかつて日本のわれわれの大学であった語学教育ではなく、レクチャーとして、翻訳の勉強としてあるのではないかなと思います。それは絶対にいると思うし、当然組んであると思うし、全員が実用的な、プラグマティックな語学教育専門家ということはあり得ないわけで、それで力がつくなどということはないだろうと思います。
○○ 私があずかっている運動部のスポーツ推薦の学生は、各学部で語学力が一番問題になっています。ところがこれをカイセンするのは簡単な方法があるのです。例えば自分のやっているスポーツというのは外来のスポーツが多い。それをなぜ外国語でやらないのか。文化論をきちんと定着してやろうと思えば、例えばルールのルーツであるとか、それがどういうふうに変遷していったかというのは、ある意味で興味を持つわけです。だから仕掛けをどうしていくかという部分は、むしろわれわれプロの仕事です。あとは好奇心でやる場合と、それをせざるを得ないような環境に持っていく。例えば論文でしか受け付けなかったら、英語をやらざるを得ません。その環境づくりの方がもっと大事なのではないかということです。そのカリキュラムができていません。それを崩してまでこれをやると、子供たちの正常な発育・発達の論じ方から言えば、おそらく自律神経に…
司会 話を進めていく中で、外国語教育だけで1つのプロジェクトができる気がしてきましたが、いろんな分野から教養観を語っていただいて、もし特別に取り上げなければいけないものがあれば、またそれを考えていくことにしたいと思います。
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