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● CCCP (ソ連)


 かつて、ショスタコーヴィチやハチャトゥリヤンが健在だった時代に、ソビエトで、度々、作品が演奏されたり出版されたりしていた日本人作曲家は、アラム・ハチャトゥリヤンの生徒だった寺原伸夫しかいなかった。芥川也寸志のように憧れを抱いて訪ソし自らの作品を紹介した人がいなかったわけではないが、モスクワに7年間も住んでハチャトゥリヤンのお墨付きを得て活動していた寺原の演奏会の数は、やはりダントツであった。しかしこういったことは、閉ざされた、まさに「鉄のカーテン」の向こう側の話で、日本では全く知られていない。

 寺原亡き後、その弟子の中島克磨の作品もソビエトで演奏される機会を多く持っていった。その背景には、ソ連作曲家同盟のチーホン・フレンニコフ書記長に作品が評価されたことが大きく、また、カバレフスキーの弟子のセルゲイ・チェボタリョフやハチャトゥリヤンの弟子のトリブ・シャヒジ等との友好・信頼関係も影響している。

 以下は、ソビエト時代の1984年以降に中島作品がプログラミングされているコンサートのポスターの一部。モスクワ現代音楽祭、ボルバード国際シンポジウム、レニングラード国際音楽祭他、様々なコンサートで、2台のピアノのための「森の民」や、オルガンと朗読のための「ミゼレレ」などの作品が度々取り上げられた。

 この中で重要なものは、ロシア功労芸術家のパイプオルガン奏者、リュボーフィ・シシュハーノヴァ、からの委嘱作品の演奏で、ぺレストロイカが近づくにつれ、宗教曲も解禁になっていったことがうかがわれる。ソ連時代のポスターは、現在のロシアで作られているような色彩感豊かなものではなく、赤と青色の、ロシア語の文字だけの素朴なものであった。

 中島のロシアになってからの関わりについては、フロントページと近況のページを参照。


<ソビエト時代の演奏会ポスター>


 ショスタコーヴィチやハチャトゥリャンが亡くなった後のソビエトで、最も重要だった作曲家は、チーホン・フレンニコフと、ドミトリー・カバレフスキーだと言えるだろう。前者は、なんといっても、ソビエト作曲家同盟の書記長であり、ジダーノフ批判の演説をし、作曲家の路線を社会主義に適合するよう修正する役を担っていた人物で、自身作曲家として多数のオペラや協奏曲を残しただけでなく、優れたピアニストとしても活躍した。後者は、日本の教科書でもお馴染みで、運動会では必ず耳にする道化師の”ギャロップ”の作曲者。協奏曲やソナタ、前奏曲など優れたピアノ曲を多数書き、教育の世界でも多大の貢献をした。

<1>チーホン・フレンニコフと

<2>ドミトリー・カバレフスキーと


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