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デビュー戦

 

 

かれこれ1時間以上もパイプ椅子に座ったままで身動ぎひとつしない美香の視線の先では、小学生くらいの女の子同士が激しい取っ組み合いを繰り広げていた。

蹴られては蹴り返し、投げられれば投げ返し、掴みあい、揉み合い、叩き合う。

試合開始前の可愛らしい姿からは想像できない、そんな彼女たちのあまりにも激しく真剣な闘いに、ギュッと拳を握り締めている美香は、瞬き一つせずリング上に熱い視線を注いでいた。

 

 

 カン カン カン カン・・・

 

美香の直ぐ横でゴングが乱打された。

レフェリーに右手を高々と揚げられて嬉しそうな表情でにっこり微笑む女の子と、悔し涙を零さんばかりに目を潤ませて、荒い息遣いのまま四つん這いの女の子。

勝負の世界に身を置く少女たちの、あまりにも対称的な光景を目の当たりにした美香は、心の底から沸き上がる興奮を抑えきれないように、何度も何度も生唾を飲み込んだ。

 

決着のついた女の子たちがリングを降りると、入れ替わりに今度は中学生くらいの女の子たちがリングに上がってきた。

彼女たちもゴングが鳴ると同時に、前の女の子たちに負けないくらい激しい取っ組み合いを始めた。

 

 

 

 

 

 

幼い頃からスウィミングスクールに通っている美香は、最近になって、同じスポーツクラブ内のフィットネスジムで開催されているシェイプアップコースにも通うようになっていた。

シェイプアップ教室といっても、マシントレーニングからエアロビクス、ボクササイズ、果てはヨガや太極拳といろいろあるが、最近になって美香が通い始めたシェイプアップコースは、プロレスを主体としたかなり珍しいものだった。

 

身長160cmながら体重が40kgに満たない超細身の美香がシェイプアップコースというと、何かそぐわない感じがするが、中学3年になってもブラジャーの必要性を疑問視する程の貧乳に悩んでいた美香にとって、このコースに通ってくる少女たち皆が皆、嫉妬を覚えるくらい胸の大きな娘たちばかりとあって、「この娘たちと同じようなトレーニングをしたら、わたしのおっぱいも・・」と、藁にも縋る思いで通い始めたのだった。

 

 

 

(これ、なんだろう?)

 

そんなある日、いつものように熱心なトレーニングを終えた美香がトレーニングルームから出ようとすると、入口脇にあるコルクボードに貼ってある1枚のポスターに目が止まった。

 

美少女プロレス工房〜Angel☆Hearts

 

本職の女子プロレスから学園祭での学生プロレス、地元地域のママさんプロレスサークルや女子総合格闘技大会など、写真やカラー印刷のカラフルなポスターが沢山ある中で異彩を放つその1枚だけは、ピンクの紙に手書き文字でガリ版印刷のように見える質素なものだった。

 

(今日の6時からだ・・・

 総合体育館って、確か隣の駅だったっけ・・・

 今からソッコウで行けば、間に合うかな?)

 

貧乳以外は自分の容姿に自信を持っていた美香は、『美少女』と『プロレス』の二言に吸寄せられるように、そそくさと着替えを済ますとスポーツクラブをあとにした。

 

 

スポーツクラブの送迎バスで駅前まで向う間、美香は今日のトレーニングを思い出しては、知らず知らずのうちにイメージトレーニングを始めていた。

元々が水泳選手の美香にとって、実際に身体を動かしてのトレーニング以外にも、オリンピックや世界水泳のビデオで超一流選手の動きを見て研究したり、頭の中でイメージトレーニングをするのは極普通の事だった。

 

駅前でバスを降りてからも美香のイメージトレーニングは続いていた。

プロレス主体のシェイプアップコースに通うようになった美香は、水泳のビデオに加えてプロレスのビデオ、それも特に美香と同性である女子プロレスのビデオを見ては熱心に研究し、プロレスのイメージトレーニングも欠かす事がなかったのだ。

 

会場に到着して席に着いてからも、試合が始まるまでの間、美香のイメージトレーニングは続いていた。

 

 

《 あかーコーナー・・ 》

 

 カーン

 

 

だが選手がコールされ、試合が始まった途端、美香が今まで描いていたイメージが一瞬で払拭された。

 

いつも家で見ている女子プロレスのビデオに登場する選手は、殆どの選手が胸が膨らんでいなければ女性とは判らないような体型で、女の命である筈の髪の毛も、ショートカットを通り越して刈上げている選手や、スポーツ刈りのように坊主頭に近い選手、中には剃り込みを入れている選手までいて、美香の考えを根底から覆すようなものばかりだった。

稀に女性らしい体型をした選手が登場したと思っても、彼女たちもインタビューで横に並ぶ男性アナウンサーより立派な身体の持ち主ばかりだった。

 

 

ところが、初めて生で見た女子プロレスは違っていた。

街中で見掛ければ、まさかこんな娘がプロレスをするなんてとても信じられないような、まだあどけなさの残る可愛らしい少女たちが、ボディラインを露にするリングコスチュームを身に纏い、生身の身体ひとつで相手を倒そうと奮闘している。

そんな彼女たちの姿に、実況席の直ぐ横に陣取った美香は、キラキラと輝く熱い視線をリング上に注ぎ込んでいた。

 

 

リング上で繰り広げられる女の子同士の闘いに、美香の目が釘付けになっている間にも、美香と同じくらいの年頃の女の子たちがリングに上がっては、激しい闘いを繰り広げ、勝敗を決してリングを降りる事を繰り返していった。

 

 

 カン カン カン カン・・・

 

興奮と感動で金縛りに遭ったように身動ぎひとつしないままリングを見つめているうちに、全ての試合が終わってしまった。

全選手が揃って客席に挨拶をすると、熱い声援を送り続けていた観客たちもポツリポツリと椅子から立ち上がり、名残惜しそうに会場を後にしようとしていた。

 

 

(やりたい!

 わたしもリングに上がって試合をしたい!)

 

どのような競技でも、それなりに練習を積めば試合をしてみたくなるのが人の常。

フィットネスジムに通いだして2ヶ月が過ぎ、そろそろ自分の力を試してみたいと思っていた美香は、目の前で繰り広げられていた激しい攻防に、感銘すら覚えていた。

 

他の観客たちが帰り支度を始めても、興奮冷めやらない美香は、じっとリングを見つめたまま微動だにしなかった。

すると美香の視界を遮るように、近隣では有名なお嬢様学校の制服を着た一人の少女が、工具片手にリングに上がっていく姿が目に映った。

 

美香は無意識のうちにパイプ椅子から立ち上がると、吸い寄せられるようにリングに近づいて行った。

 

 

「あのぉ、お願いがあるんですけど・・・」

 

声を掛けた途端、美香は一瞬ためらったものの、直ぐに気を取り直すと、それでもおずおずといった感じで、リング上の少女に声を掛けた。

 

「えっ・・

 わ、私・・・ですか・・・?」

 

すると制服姿の少女も、美香に負けないくらいモジモジとした仕草で返事をしてきた。

 

 

「わたしもプロレスやってみたいんですけど・・・」

 

美香の一言で、リングの撤収作業を始めようとしていた少女たちの動きがピタっと止まった。

声を掛けられた制服姿の少女は、一瞬、美香の顔をじっと見詰めた。

 

 

(今日、試合が無かったのは、私だけだ・・)

 

日頃から『ひと試合でも多く経験を積んで、早く強くなりたい』と考えていた制服姿の少女・久乃月葉は、そのままリングの周りを見廻した。

するとリングを取り囲むメンバー達は、皆一様に『貴方が相手してあげな』とでも言いたそうな表情で月葉に視線を向けていた。

月葉が更にもう一度、リングの周りを見廻すと、帰りかけた観客たちも一人、また一人と元の席に戻り始めていた。

 

 

《 月葉ちゃーん、頑張れー! 》

 

突然、観客席から叫び声が上がった。

するとそれが合図でもあったかのように、会場中から声援が上がり始めた。

 

 つーきーは! つーきーは! 

 つーきーは! つーきーは! 

《 たーたかえ! たーたかえ! 》

《 つーきーは! たーたかえ! 》

 

《 月葉ちゃん、負けるなー! 》

《 月葉ちゃーん、ファイトー! 》

《 飛入りの娘も頑張れー! 》

 

 

「えっ、みんなも、お客様も・・

 は、はい・・分かり、ました・・

 そ、それでは・・お願い、します・・」

 

会場中の視線を一点に集めていた月葉は、意を決したように美香を見下ろすと、深々と頭を下げた。

 

 

(うそっ、この娘も選手なの?)

 

月葉のことを手伝いのスタッフだとばかり思い込んでいた美香は、余りにもおっとりとした彼女がプロレスの選手で、尚且つ自分の対戦相手になる事に、信じられないものでも見たかのように呆然と立ち尽くしてしまった。

 

 

「ほらっ、どうしたの?

 プロレスやりたいんでしょ?

 だったら早くリングに上がって・・」

 

「わぁい、良いんですか?」

 

いつのまにか美香の直ぐ隣に来ていた少女がリングインを促すと、美香はたちまち嬉しそうな顔になった。

だが、第3試合で闘っていた彼女は、美香の制服姿をまじまじと見詰めると、そのまま言葉を濁してしまった。

 

「っと、その前に・・」

 

「大丈夫です、下に着てますから・・・」

 

相手の言いたい事を察した美香は彼女の言葉を遮ると、その場で制服を脱いで、いつもテレビで見ているプロレスラーがやるように、サードロープの下を転がりながらリングインしてしまった。

リングに上がった美香が着けている濃い紫色をした競泳用の水着は、光の当たり具合で濃紺にも黒色にも見えた。

そんな美香が、緊張を隠すかのようにトップロープを掴みながら身体を解し始めると、撤収準備でリングに上がっていた少女たちは、一人また一人とリングから降りていった。

 

「ほらっ、月葉も!」

 

「あっ・・・着替え、なきゃ・・・

 えいっ!」

 

「えっ?」

 

ほんの一瞬、美香がまばたきをしている間に、月葉は水着姿になっていた。

アクセントと言えば左胸にスポーツ用品メーカーのロゴがプリントされているだけの美香とは違って、月葉の着ている緑を基調としたワンピースタイプの水着には、腰の周りに股下1cmあるかないかの超ミニスカートが縫い付けられている。

あとはゴングが鳴るのを待つだけといった表情で、月葉が跳躍するようにトントンと軽く飛び上がると、腰周りを隠す超ミニスカートもフワフワと捲り上がった。

水着姿になっても胸の膨らみが殆ど判らない、まるで水泳の授業が始まるのを待つ小学生のようなスタイルの美香に対して、メリハリのある身体つきと男心を擽るようなパンチラを期待させるリングコスチュームで色気を振り撒いている月葉とでは、とても同じ中学生とは思えないほど対称的な光景でもあった。

 

 

「お願いします」

 

月葉の姿に一瞬嫉妬心を覚えたものの、美香は気を取り直すと深々と頭を下げるとコーナーから離れ、慎重に間合いを詰め始めた。

リング中央まで進み出た美香は、その時になって漸くゴングが鳴っていないことに気が付くと、振り返りながらリングの下に向かって声を掛けた。

 

「ゴング、まだですか?」

 

「ねえ、ちょっと・・

 選手紹介くらい、やらせなさいよ・・」

 

だが、リングの下から声が返って来ると、美香は慌ててコーナーまで戻り、問われるままに名前と体重を答えた。

 

 

 

《 あおーコーナー、飛入りの女の子、86パウンド・・

  さいーとー、みーかー! 》

 

《 あかーコーナー、Angel☆Hearts所属、103パウンド・・

  ひさーのー、つきーはー! 》

 

 カーン

 

 

「あ、開始ですね・・

 私もまだまだプロレスは修行中の身ですが、よろしくお願いします」

 

 

急かされるようにゴングが鳴らされると、月葉は美香に向って丁寧に挨拶をした。

次の瞬間、制服を着ていた時のモジモジとした気弱そうな態度が一変して、キッと闘う少女の顔つきに変貌した。

そして、力比べでも誘うかのように、右手を軽く上げながらゆっくりとリング中央へと進み出てきた。

美香もこれに応えるかの如く、両手を上げながら慎重に間合いを詰め始めた。

突如として緊迫した空気に包まれたリング上で、二人の少女は互いに相手の指先を見詰めるように、やや上向き加減で一歩また一歩とその間隔を慎重に詰めていった。

 

 

「えいっ!」

 

牽制し合うように近づいては直ぐに離れる事を繰り返していた二人の指先が触れるかと思われた瞬間、美香の右脚が勢い良く蹴り上げられた。

 

「ああっ・・」

 

不意打ちのように突き出された脚がお腹を直撃すると、月葉は苦しげな表情を浮かべながら身体をくの字に曲げた。

すると美香は、間髪入れずに月葉の頭を抱えて、そのままヘッドロックを極めてしまった。

 

 

「っくぅっ・・」

 

お尻を突き出したような格好で苦しむ月葉。

美香は腕に渾身の力を込めて、月葉の頭を締め上げている。

 

 

「ううっ・・」

 

再び月葉が苦しげな呻き声を上げた。

その脚は、まるで美香から逃げようとするかの如く、少しずつ少しずつ後ろに退っていく。

恥かしげもなく大股開きでヘッドロックを掛けている美香は、そんな月葉の動きに抵抗するかのように、一段と脚を広げて一生懸命踏ん張った。

だが、人間誰しもがそうであるように、前に進むよりは後ろに退る方が大きな力が出せるもの。

美香が懸命に踏ん張ってもその身体は、月葉の動きに合わせて少しずつ後ろに退って行った。

 

 

「くぅぅっ・・」

 

お尻がセカンドロープに触れた途端、月葉は再び苦しげな呻き声を上げた。

と次の瞬間、月葉は凭れ掛かるようにロープに身体を預けたかと思うと、その反動でスポッと頭を抜いて、そのまま美香を反対側のロープめがけて飛ばしてしまった。

 

 

「きゃっ、きゃぁぁぁっ・・・」

 

後ろに退るまいと懸命に踏ん張っていた美香は、その勢いも手伝って、大きな悲鳴を上げながらロープに向って行った。

 

 

「きゃぁぁぁぁっ・・・」

 

それでも美香は、ロープの直前で必死に身体を返すとその反動を利用して、今度は勢い良く月葉の元へと戻っていった。

 

 

「やぁぁぁぁっ!」

 

美香は拳を握り締めた右腕を水平に伸ばすと、気合を入れるような叫び声を上げながら月葉に向って突進して行った。

 

 

「そりゃぁぁぁっ!」

 

戻ってくる美香に対してショルダータックルを狙っていた月葉は、まるでラリアットでも狙っているかのように突っ込んでくる美香に弾き飛ばされてしまった。

 

 

「きゃぁっ・・」

 

悲鳴を上げながらマットに叩きつけられた月葉の身体が小さくバウンドした途端、緑のコスチュームに包まれた胸元も身体の動きに合わせるようにプルルンと揺れ動き、忍装束のスカートもフワット舞い上がった。

ほんの一瞬だが、その全容を露にした月葉のほっそりと伸びた太股と、その存在をアピールするかのように揺れ動き続ける月葉の胸は、同性の美香から見ても、十分に大人の色香を思わせるような光景だった。

 

 

「そーれっ!」

 

そんな月葉に軽い嫉妬を覚えた美香は、追い討ちを掛けるように月葉の胸元めがけてフライングボディプレスを浴びせ掛けた。

 

 

「あっ、来る・・」

 

いくら中途半端なラリアットで弾き飛ばされたとは言え、まだまだ月葉は体力的に余裕がある。

月葉は冷静に美香の動きを見極めながら、サッと横に転がった。

 

 

「きゃぁぁっ、あうっ・・」

 

突然目標を失った美香は、自らその身体をマットに打ちつけた。

 

「あうっ、あうっ、あうっ・・・」

 

辛うじて前受身を取り顔面だけは守ったものの、まるで轢き潰された蛙のように四肢を軽く曲げた格好でマットに叩きつけられた美香は、身体を丸めてもがき苦しんだ。

 

 

「あっ、今です!」

 

心中の思いが思わず口に出た月葉は、好機とばかりに立ち上がると、すかさず美香の両足首を掴んだ。

 

くの一の関節技といえば、あまりの激痛から相手の意識を失わせるようなものや、関節を外して相手を抵抗不能な状態に陥れる体術が主体だが、今の月葉はプロレスを修行中の身。

リング上では極力忍びの技は使わないように心掛けている月葉にとって、この場面では、一時も早く完璧にマスターしようとしているプロレスの基本技である、逆エビ固めしかなかった。

 

 

「あぁぁぁっ、ダメっ、ダメっ、ダメっ・・・」

 

月葉の狙いが何であるかを咄嗟に悟った美香は、素早く両腕を広げると身体を返されないようにと必死に踏ん張った。

 

 

「あ、両手を・・だったら!」

 

余りにも素直すぎる月葉は、決して嘘など吐けないのであろう。

思った事がそのまま口から出ると、美香の両脚をずらしながら足首を脇に抱え込み、そのままスタンディングの体勢でアキレス腱固めを極めてしまった。

 

 

「きゃっ、あぁぁぁぁっ・・・」

 

ただ踏ん張るだけではダメだと判った時には既に遅く、くの一ならではの関節技を極められた美香の口からは、迸るように大きな悲鳴が上がった。

月葉としては逆エビに入る為の布石とはいえ、技を極められている美香にとっては同じこと。

大きな悲鳴を上げながらも、これ以上アキレス腱固めを進展させないように、月葉の足首を掴もうと必死に身体を捩った。

 

 

「ダメ、ダメ・・」

 

いつも家で見ているビデオでは、身体の柔らかい女子プロレスラーはみんな相手選手の足首を掴んでバランスを崩しながら窮地から脱している。

だが、美香が同じように身体を捻ってみても、月葉のバランスを崩すどころか足首に手さえ届かない。

見るとやるとではこんなにも違うものなのかと焦りの表情を浮かべながらも、美香は懸命に腕を伸ばし続けた。

と、次の瞬間・・

 

 

「ええぃっ!」

 

「きゃぁ、ダメ、ダメ・・」

 

瞬時の判断だった。

必死に腕を伸ばして自分の足首を掴もうとする美香の抵抗が弱まったのが感じられると、月葉は渾身の力を振り絞って美香の身体をひっくり返してしまった。

 

 

「あぁぁっ、痛ぁぁぁぁぁぁっ・・・」

 

身体を返された途端、美香の腰に激痛が走った。

 

 

「あぁぁぁぁっ・・・」

 

すかさず右手をロープに伸ばす美香。

だが、早くもジワっと浮び上がってきた涙に目が霞み、ロープが近いのだか遠いのだか判別がつかない。

 

 

「やった・・まだ逃しません!」

 

逆エビが極ったもののロープに近く、ポジション的には良いとは言えず、それならばと月葉は身体を左右に揺さぶって、美香の腰にダメージを与えた。

 

 

「あぁぁぁぁぁっ、痛ぁぁぁぁぁぁぁっ・・・」

 

泣き声のような悲鳴を上げた美香は、ギュッと目を瞑って必死に腕を伸ばしている。

だが、いくら伸ばしても指先にロープが触れないと判ると、今度は両手をマットにピッタリと付け、まるで匍匐全身でもするかのように肘に力を込めた。

 

 

「えいっ、ギブアップですか?」

 

いくら泣き声を上げているとは言えこれでギブアップする筈が無いとは思いつつも、ついつい思ったことが口から飛び出してしまう月葉。

 

 

「痛っ、痛っ、痛っ・・・」

 

一方の美香は、月葉の問い掛けなど耳に入らない様子で、懸命にロープに近づこうとしている。

すると月葉は、美香に逃げられないように踏ん張りながら、何度も何度も腰を落とした。

 

 

「あぁぁぁぁっ、痛っ、痛っ・・・」

 

美香は、そうすれば痛みが和らぐかとでも言うように、マットにギュッと指を突き立てた。

 

 

「凄い・・こんなに長く逆エビに耐えれるなんて・・・」

 

(私だったら・・)

 

月葉が身に纏っている忍装束をモチーフとしたリングコスチュームには、股下1cm有るか無いかのミニスカートが縫い付けられている。

そんな格好で逆エビなど掛けられたら、スカートの中を曝け出してしまう事になってしまう。

事実、過去に月葉は逆エビを極められて、下着を晒されながら、あまりの痛さに悶え苦しんだ、苦く恥かしい経験をした事があった。

 

(あのとき・・)

 

恥かしい過去を思い出して頬を赤らめた月葉は、無意識のうちに全身に力を込めていた。

 

 

「ノー、ノー、あぁぁぁぁぁっ・・・」

 

急角度に反り返った美香の口からは、迸るように甲高い悲鳴が漏れ続けている。

だが、悲鳴を上げながらも美香の腕は、ジリジリとロープに近づいて行った。

 

 

「あっ、だめっ、だめです・・」

 

月葉が必死に踏ん張れば、美香だって必死に腕を伸ばす。

 

「きゃぁぁぁぁっ・・・」

 

美香が一段と大きな悲鳴を上げながら懸命に腕を伸ばすと、その指先が漸くロープに触れた。

 

 

「ロープ!ロープ!」

 

美香が声の限りに叫び声を上げると、月葉は直ぐに美香の脚を離した。

そして、5カウント以内の反則が認められているプロレスで、こんなに正々堂々と闘っていて良いのかと思われるほど潔く、リング中央に戻って美香が立ち上がってくるのを待ち構えた。

 

 

「うぅぅぅぅっ・・・」

 

一方の美香は、ロープブレイクで攻撃が中断したとは言え、腰へのダメージが相当なものなのか、呻き声を上げるだけで立ち上がることが出来ない。

 

 

「やりますね・・」

 

普通この場面では、痛めた腰にストンピングを浴びせ更なるダメージを与えるか、リング中央まで引き摺って行って更なる攻撃を加えるのがプロレスの常道だが、お嬢様育ちが災いしてか、一見卑怯にも見えるそのような行動を即座にとる事が、月葉には出来なかった。

 

 

「あうっ、あうっ、あうっ・・」

 

ぎゅっと目を瞑り苦しげなうめき声を上げながら腰を押さえる美香は、片手でロープを掴んだまま、いつまでもロープ際に横たわっている。

 

 

「あ、まだ来ない・・

 仕方ないわ、ごめんなさい・・」

 

試合の最中でも相手を気遣う気持ちがそのまま口から出てきてしまう月葉は、なかなか立ち上がらない美香を見て、意を決したように近づいていった。

その気配を十分に感じ取っている美香は、月葉があと一歩というところで、腰の痛みを堪えながら一気に身体を丸めると、月葉の踝めがけて思いっきり蹴りを入れた。

 

 

「このやろー!」

「あうっ!?」

 

思いもよらぬ体勢からの蹴りを受けて、月葉は脚を押えて立ち止まってしまった。

すると美香は、腰の痛みを我慢するように這いずりながら近づくと、そのまま月葉の脚に抱きつくようにしがみついた。

 

 

「ちくしょー!このやろー!」

 

超細身の身体ながら、美香は全体重を掛けて月葉を押し倒そうとした。

 

「あ、あっ・・」

 

一方の月葉は、強引なタックルを片足で踏ん張って必死に堪える。

が、美香の勢いにリング上の空気まで味方したのか、月葉の超ミニスカートが風圧で半ば捲れ上がりそうになってしまった。

 

 

「嫌っ、スカートが・・」

 

月葉は思わず右手でスカートを押えてしまった。

 

「きゃぁっ・・」

 

その途端、バランスを崩された月葉は、そのまま美香に押し倒されてしまった。

 

 

「お返しだぁ!」

 

月葉の足首を掴んで素早く立ち上がった美香は、そのまま逆エビの体勢に持っていこうと一気に力を込めた。

が、そう易々と逆エビを極めさせてもらえるはずも無く、美香が顔を真っ赤にして力を込めれば、月葉だって両手を広げてマットに付けて、身体を返されまいと必死に堪えている。

 

 

(このままじゃあ、いずれ・・・)

 

月葉の脳裏には、逆エビを極められ捲くれ上がったスカートの中身を晒されてしまった恥かしい記憶が、再び蘇ってきた。

 

「そんなの嫌・・なんとかして・・そうよ!」

 

月葉は掴まれている両脚を、まるで自転車漕ぎでもするかのようにジタバタと動かした。

すると案の定、月葉の身体をうつ伏せに返そうとしていた美香の注意が、月葉の両脚に集中した。

 

 

「こら、ジタバタ・・」

 

美香が言い掛けた途端、月葉は頭の後ろで両手を組むと、まるで腹筋運動でもするかのように、そのまま上半身を勢い良く持ち上げた。

突然迫り来る月葉の顔に、何が起きるのか判らずパニック状態に陥ろうとする美香。

そんな美香をよそに、月葉はその愛くるしい唇を美香の頬に軽く押しあてた。

 

 ちゅっ

 

「きゃっ」

 

いきなりキスをされて、美香は慌てて仰け反るように顔を反らせた。

頬へのキスは月葉にとっては日常のコミュニケーション。

それに過去の経験から、試合中にキスされる事で動揺する相手がいた事もあったので、月葉は『美香もこれで動揺すればラッキー』程度の軽い気持ちで、このような行動に出たのだ。

ところが美香は、月葉の予想を遥かに上回るほどの動揺を示してバランスを崩すと、そのまま後ろにひっくり返ってしまった。

美香が逆エビを掛けようとする体勢から足首を掴んだままひっくり返った弾みで、月葉の身体はまるで水平投げでも喰らったかのように、美香の上を飛び越していった。

しかも運が悪い事に、美香が逆エビを掛けようとしていたのは、さっき月葉の逆エビを辛うじて耐え切ってロープブレイクした場所からそう離れてはいない。

 

 

「あぁぁぁっ・・」

 

お腹を強かロープに打ちつけた月葉は、それでも懸命にロープを掴むと、場内に止まろうと必死に踏ん張った。

一方の美香は、いきなりキスされた事に怒りの表情を露にしながら素早く立ち上がると、月葉の髪を後ろから鷲掴みにして、引き摺り倒そうと思いっきり引っ張った。

 

「ちょっとぉ、何すんのよ!」

 

「あぁぁっ、ろ、ロープ・・」

 

美香の指がロープに触れたときは、月葉は素早く美香の脚を離して、リング中央へと戻っていった。

だが美香は、両手でしっかりとロープを握っている月葉の髪を引っ張っている。

ロープブレイク中に襲い掛かるような卑劣な反則をする気などサラサラ無かった美香だが、キス攻撃での動揺が激しかった所為か、月葉の言葉を無視するように、そのまま髪の毛を引っ張って引き摺り倒してしまった。

 

 

「あぁっ、ま、まだ・・」

 

「ロープから離れてんでしょ!」

 

自分で無理やり引き剥がしておきながら、ロープブレイクは終わりだとばかりに、美香は引き摺り倒した勢いで掴んだままの月葉の髪を引っ張って、その身体をリング中央まで引き摺って行った。

 

 

「あぁぁっ、か、髪の毛を・・」

 

 

「ヘアーNO! One,Two,Three・・」

 

流石にいつまでも髪を掴んで離さない美香に、レフェリーが見かねたようにカウントを取り出した。

すると美香は、パッと髪の毛から手を離したかと思うと、再び髪を引っ張って月葉の上半身を起こして素早く後ろに回り込み、立膝を突きながら強引にチョークスリーパーの体勢に持っていってしまった。

 

 

「ギブは?」

 

「あうっ、ノー、ノー・・」

 

苦しげな表情の割にははっきりとした声でギブアップを拒絶する月葉。

素手での闘いではどうしても関節系の技で相手の動きを封じるか、頚動脈を絞めて相手の意識を絶つかで勝敗が決まりがちなくの一だからこそ、月葉にとってもこの手の攻撃には無意識のうちに防御が出来ている。

首を絞めるのと髪の毛を引っ張るのとではどちらが危険かは一目瞭然なのだが、先程ヘアプルで反則カウントをとったレフェリーでさえ、未だチョークカウントを取ろうとしないのが、その何よりの証拠であった。

 

 

「ギブは?ギブは?」

 

美香は強引に引っ張るように力を込めながら、執拗に何度も訊いた。

だが、両腕でがっちりと首をガードしながら美香の動きに逆らうように、重心を前へ前へと持っていこうとする月葉の身体は、なかなか抉じ開けられない。

 

 

(よーし、それなら・・・)

 

美香は恥ずかしげもなく大股開きになると、全体重をかけて無理やり月葉の身体を後ろに引きずり倒そうとした。

急激に体勢を変えた美香の動きに、自らの首をガードする月葉の腕が僅かに緩んだ。

次の瞬間、美香の腕がするっと滑ったかと思うと、そのまま月葉の顎に引っ掛かり、キャメルクラッチのように月葉の頭部を後ろに仰け反らせた。

 

 

「あっ、きゃっ・・」

 

「あぁぁぁぁぁっ、くっ、くぁぁぁぁっ・・」

 

腕が滑って一瞬不安定な格好になった美香が小さな悲鳴を上げた途端、蹲るような格好だった月葉の口からは、苦しげな悲鳴が堰を切ったように迸った。

 

 

(うそっ?

 なんか極まったの??)

 

バランスを崩してもうダメかと思った瞬間、突然響き渡った月葉の悲鳴に、技を掛けた筈の美香の方が驚いたような顔になった。

 

 

「あぁぁぁぁっ、いやぁぁぁぁっ・・」

 

胴締めキャメルクラッチとでも呼んだら良いのであろうか、お腹と腰、それに背中から顎に掛けて一挙に極められて、月葉は大きな悲鳴を上げ続けた。

 

 

「ギブは?ギブは?ギブは・・・」

 

月葉が苦しげな悲鳴を上げると、何がどうなっているのか良く判らない美香だが、それでもうわ言のように繰り返した。

 

 

「ノォ、ノォ、あぁぁぁぁっ、ノーーー!」

 

きちんとした技にはそれなりの返し方や耐え方が有るが、いま美香が極めている胴締めスリーパーが崩れてキャメルクラッチと合わさったような複合技では、返し方どころかそれに耐える術さえ直ぐには思いつかない。

只でさえプロレス系の関節技には慣れていない月葉にとって、これは予想外の非常に厳しい展開になってきた。

 

 

「ギブは?ギブは?」

 

「ノォ、ノーーー!

 あぁぁぁぁっ、いやぁぁぁぁぁ・・・」

 

これで決めるしかないとばかりに美香が渾身の力を振り絞って締め上げると、美香の手足を外すことはおろか防御も覚束ない状態の月葉は、リング中央で身体を捩りながら悶え苦しんだ。

 

 

「ギブは?ギブは?」

 

「ま、まだ・・

 まだダメぇぇっ・・

 あぁぁぁぁぁぁっ・・」

 

四肢に絡みつかれ腰から背中に掛けてを痛めつけられている月葉が、堪えきれずに脚をバタつかせている姿は、傍で見ていて可哀相になるくらい、本当に苦しげに思われた。

 

 

「きゃっ、あぁぁっ、つつっ・・」

 

地獄の責め苦にも匹敵するこの体勢から逃れる術を知らない月葉にとって、唯一この苦痛から開放される手段は、ロープブレイクだけしかない。

月葉は懸命に力を振り絞って強引に身体を左右に揺すると、美香を背負ったような格好のままで、ロープめがけて転がりだした。

 

 

「わっ、きゃっ・・・」

 

いきなり転がり出した月葉に泡食った美香は、思わず飛び退くように逃げてしまった。

 

 

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ・・」

 

思いがけず美香の複合技から解放された月葉だが、荒い息遣いでロープ近くにうつ伏せのままでいる。

 

 

「あん、隠せない・・」

 

美香から逃れようと散々もがき暴れた月葉のスカートは派手に捲くれ上がり、中の下着を完全に露出させていた。

 

「はぁ、はぁ、はぁ・・」

 

荒い息遣いの月葉が呼吸をするたびに、その中身と同じように可愛らしく上下する白い布切れが、観客の視線を釘付けにしている。

一方の美香は、月葉の動きに驚きのあまり自ら飛び退いてしまった事を後悔するような表情で、勢い良く立ち上がっていた。

 

 

「くっ、このぉ・・・」

 

素早く月葉の元へ駆け寄った美香は、未だ荒い息遣いでうつ伏せのままの背中と言わずお尻と言わず、目に付くところに片っ端からストンピングを入れ始めた。

 

 

 ドスッ ドスッ ドスッ・・

 

「あっ、ああん、あぁぁっ・・」

 

美香の脚が叩き込まれるたびに、悩ましげな悲鳴を上げる月葉の身体が、ビクンビクンと跳ね上がる。

 

 

「このやろー!起きろー!」

 

美香は屈み込んで月葉の髪を鷲掴みにすると、そのまま力任せに引っ張り上げた。

 

「あぁぁっ、あぅぅぅぅっ・・」

 

髪の毛を引っ張られても未だ抵抗できる状態まで回復していない月葉は、美香が為すがままに引き摺り起こされてしまった。

 

 

「いくぞー!」

 

月葉の髪から離した腕を高々と突き上げた美香は、観客にアピールしているのだか自分に気合を入れているのか、それとも月葉に宣告しているのだか判らないような叫び声を上げると、そのまま月葉の身体をロープに向けて思いっきり飛ばした。

 

 

「きゃっ」

 

覚束ない足取りながら辛うじてロープ直前で身体の向きを入れ替えた月葉は、背中からロープに当たった瞬間、まるで腕まくりでもするかのように伸ばした肘のあたりを擦る美香の姿をとらえていた。

 

 

「だりゃぁぁぁっ!」

 

すると美香は、訳の判らない叫び声を上げながら、力を込めた右腕を水平に突き出しながら、月葉に向って突進して行った。

 

 

(あっ、このタイミング・・)

 

弾力性のあるロープに身体を預ける月葉の脳裏には、試合開始直後に喰らったラリアットのイメージが蘇っていた。

 

「やぁぁぁっ!」

 

ロープに弾かれてリング中央へ戻り掛けた月葉は、本能的に横に回りこむと、そのまま全体重を浴びせ掛けるように美香の腕に飛びついた。

 

 

「きゃっ、嫌っ、あぁぁっ・・・」

 

既に体力の限界に近づいている美香は、月葉に飛びかかられた途端、呆気ないほどあっさりとひっくり返ってしまった。

 

 

「うっ・・

 えぇぇぇぇぇぃっ!」

 

美香の腕にしがみ付いたまま受身も取れず強かマットに背中を打ちつけた月葉は、一瞬小さな呻き声を上げながらも、そのまま腕拉ぎの体勢に移行していった。

 

 

「あぁぁぁぁっ、痛ぁぁぁぁぁぁぁっ・・・」

 

一瞬の事で何が起きたのかは理解できていないが、肩から手首に掛けて強烈な痛みが走ると、美香は頭を激しく振りながら脚でバタバタとマットを叩いて、甲高い悲鳴を上げた。

 

 

「ギブアップ?」

 

腕拉ぎは月葉が無意識のうちに掛ける事が出来る技のひとつであり、その威力は、くの一の得意とする関節外しどころか、下手をすれば肘を破壊しかねないほど危険な技である。

そんな強烈な技がここまで見事に極まると、いくら女の子の身体が柔らかいとはいえ、美香がいつまでも耐えられるとは思えない。

 

 

「あぁぁぁぁぁぁっ・・・」

 

あまりの痛さに、今にも泣き出しそうな甲高い悲鳴を上げながら、必死に身を捩って逃げようとする美香には、自分が技を掛けられているポジションなど全く目に入らなかった。

だが、技を掛けている月葉には、自分たちがいる場所がロープから1mも離れていない事、身を捩ってもがき暴れる美香の脚がロープを掠りそうになっている事判っていた。

 

 

(ロ、ロープが近い・・

 この娘が手を伸ばしたら届いてしまうかも・・・)

 

月葉はすぐさま次の技へ移行しようと、腕拉ぎに込める力を僅かに緩めた。

が、次の瞬間・・・

 

 

 

 ペチ ペチ ペチ・・

 

「痛ぁぁぁぁぁぁっ、あぁぁぁぁぁぁっ・・・」

 

逃げる事も耐える事も出来なくなっている美香は、直ぐにでも外して欲しいと言わんばかりに、月葉の太股を何度も叩いた。

 

 

「ギブ、ギブ、ギブ・・・」

 

 

 

 カン カン カン カン・・

 

レフェリーが合図した途端、会場内にはゴングの音が響き渡った。

 

 

「はぁ、はぁ、はぁ・・」

 

直ぐに技を外して立ち上がった月葉は、そのまま右腕をレフェリーに高々と掲げられた。

会場にはどよめきにも似た歓声が沸き起こっていたが、勝者である月葉の顔は何故か強張っていた。

 

 

(勝ったけど・・

 私はまだまだプロレス修行中の身・・

 なのに腕拉ぎを、忍の術を使ってしまった・・)

 

リングの上では使わない心算だった忍の体術を極めてしまった事に、月葉の顔には悔やんでも悔やみきれないような表情が浮かんでいた。

 

 

 

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ・・・」

 

突如として耳に入ってきた美香の荒い息遣いで現実に引き戻された月葉は、自分の顔が真剣な表情になっていたのに気付くと、慌てて笑顔を作った。

だが、月葉の足元では、目に涙を浮かべながら腕を押える美香が、未だ荒い息遣いのままで横たわっていた。

途端に月葉の顔は、心配するような表情になってしまった。

 

 

「美香さん、ごめんなさい・・

 大丈夫でしたか?」

 

プロレス修行中の身でありながらプロレス技で極めなかった。

プロレスの試合なのに結果的には忍の術で勝敗を決してしまった。

そんな悔いと美香に対する申し訳なさが相まって、月葉は謝るような口調で声を掛けた。

 

 

「だ、だいじょーぶ・・・」

 

負けた悔しさと腕の痛みに、美香の言葉は続かなかった。

それでも、いつまでも腕を押えて横たわっている訳にもいかないことに気付いた美香は、右腕を庇うようにしながら立ち上がる素振りを見せた。

 

 

「よかった・・

 また闘ってくれますか?」

 

美香が立ち上がると、月葉は漸く安心したような表情で声を掛けた。

 

 

「う、うん・・・」

 

美香は慌てて涙を拭うと、笑顔を取り戻しながら握手を促すように手を差し出した。

月葉もこれに応えるべくその手を握り返したかと思うと、そのまま美香の腕を高々と掲げてみせた。

美香が驚いたような表情を見せた途端、会場中からは暖かい拍手が送られた。

すると月葉は、そのまま客席に向って頭を深々と下げた。

つられたように美香も頭を下げると、月葉は美香に横を向かせるような位置に立ち、そこでも深々と頭を下げた。

会場内の拍手が割れんばかりに響き渡る中、四方に挨拶をし終えた月葉と美香は、もう一度互いに向かい合って力強く握手をすると、二人揃ってリングを降り、それぞれの花道に分かれて試合会場を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うわぁぁぁぁぁん・・・」

 

更衣室に案内されて一人になった途端、美香は誰憚る事無く大声で泣き出してしまった。

 

元々が水泳選手である美香にとって試合とは、如何に速くゴールに到達するかという事であった。

代表選手選考会でも本番の試合でも、どれだけ速いタイムを出せるかが勝負であり、どれだけ速くゴールまで泳ぎきるかが勝負であり、その結果が、順位として残されるものであった。

 

ところがプロレスには、勝者と敗者しかいなかった。

仮にトーナメント戦に出場して、優勝、準優勝と結果を出せたとしても、一試合一試合には、やはり勝者と敗者しかいない。

今まで『順位』という結果で優劣を決められる競技に慣れ親しんできた美香にとって、『勝敗』という結果が出るプロレスの試合で負けたことは、想像以上にショックであった。

 

 

「うわぁぁぁぁぁん、うわぁぁぁぁぁぁん・・・」

 

しかし、美香の目から止め処も無く溢れる涙の訳は、試合に負けてしまった悔しさだけではなかった。

 

プロレスと水泳では種目こそ違うが、試合である以上は最後まで闘い抜くことが大前提の筈である。

ところが今日の美香は、試合途中であまりの痛さからタップ、即ち自ら負けを宣言してしまった。

押さえ込まれて3カウント以内に返す事が出来なかったのでも無ければ、リングアウトで力尽きて10カウント以内に戻れなかったのでもない。

自ら降参してしまったのだ。

 

水泳の試合で言えば途中棄権、すなわちリタイアである。

 

 

「うわぁぁぁぁぁん、うわぁぁぁぁぁぁん・・・」

 

試合に負けた悔しさ、最後まで闘えなかった不甲斐なさ、自ら降参してしまった情けなさ・・・

一人ぼっちの更衣室で、美香はいつまでもいつまでも泣き続けていた。

 

 

原案:久乃月葉&齋藤美香

 

(おわり)

 

 

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