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NEW166 源平屋嶋合戦記 (げんぺいやしまかっせんき)
【作者】不明。【年代】元治元年(1864)書。【分類】歴史科。【概要】異称『源平屋島合戦』。特大本2巻2冊。『源平盛衰記』巻第42(「勝浦合戦附勝磨並親家屋島尋承事」〜「源平侍共軍附継信盛政孝養事」)を参酌・要約した文章を大字・3行(末尾は四行)・無訓で記した手習い本。「抑、元暦元年三月十九日之事成に、源氏武例高松に着給ふ。于時、屋嶋内裏には、伝内左衛門尉成直討道信伯父、福良新三郎以下百六十人之切首、姓名注進、首実検之折節、武例高松之里之家々焼払…」と一ノ谷の戦いに敗れた平氏が次の拠点とした屋島に攻撃をしかけた元暦元年(寿永3年(1184))3月19日から書き始め、翌年2月19日の屋島の戦いで平氏が長門国彦島へ敗走するまでのあらましを述べる。下巻巻末に、安徳天皇ゆかりの六万寺に伝わる寿永2年閏10月の祐円・平重衡・平経政3人の詠歌について紹介する。
★軍記物語等からも自由に手習い本を作っていったことを示す資料である。歴史的な名場面を話して教えたりしながら、子どもの興味を学習意欲につなげようとしたのであろう。江戸時代の往来物は実にバラエティに富む。



NEW167 松山状 (まつやまじょう *仮称)
【作者】智伯書。【年代】元禄5年(1692)書。【分類】歴史科。【概要】異称『松山之状』。大本1冊。永禄5年(1562)11月に始まる北条氏康・武田信玄連合軍の松山城攻めから、翌6年2月の松山城陥落までの経緯を記した往来。「抑、今度号武州松山之地ニ両将被以御旗事、自北条氏康・同氏政頻依御頼有ニ、無拠、当城執詰卒固茲飼冬霜月十一日、氏康被及御行火失、并以投続松、端曲輪悉令放火之条…」と起筆し、「…為後日任筆、顕紙面候。一笑、右松山之状御宿監物作之。寅ノ皆月上旬」と結ぶ文章を大字・5行・無訓で記す。末尾で、この攻防戦が源平合戦に増さる激戦であったと伝える。信州水内郡飯山領茂右衛門新田で使用された手習い本(「今川状」「弁慶状」とともに合綴)中に所収。
★古状短編としては比較的初期のもので、本書以外に伝本をみない。興味深いのは、他国の歴史に関する古状を教材にしている点であろう。



NEW168 〈絵入かな附〉増補古状揃 (ぞうほこじょうぞろえ)
【作者】不明。【年代】江戸中期刊。[大阪]糸屋市兵衛ほか板。【分類】歴史科。【概要】異称大本1冊。一般の『古状揃(刊本)』†に数通の古状短篇等を増補した往来。「今川状」「義経腰越状」「義経含状」「弁慶状」「熊谷状・経盛状」「曽我状(往来)・同返状」の八状に「朝日奈状(朝夷奈状)」「名頭(字)曽我状」「頼政状」「寺子教訓書(『寺子往来』所収)」の4本を合綴するが、それぞれ単独の刊本も存在したらしい(そのいくつかが現存)。本文をやや小字・7〜8行・付訓で記し、全ての丁に挿絵を施す。付録記事も豊富で、巻頭に「修身三戒」、本文中に「武田信玄の歌」「今川了俊事跡」「源義経事跡」「弁慶事跡」「曽我兄弟事跡」「朝日奈三郎事跡」「源頼政事跡」「宇治平等院」「尊円親王事跡」、頭書には本文に関する挿絵のほか「小笠原諸礼集」、巻末に「芸能の和歌」「五音口中開合」を掲げる。なお、裏見返の柱に「合書童子訓」とあるため、江戸中期刊『合書童子訓』(江戸・鱗形屋孫兵衛板)の少なくとも一部が本書と共通と考えられる。
★架蔵本の表紙見返しには「安政四年丁巳霜月日、退蔵六歳ノ時、読始」と記す。絵入り本で親しみやすいが、漢字ばかりの本書を6歳から読ませているのには驚く。購入日は天保7年(1836)で、退蔵の読み始めは安政4年(1857)だから、父親の代から使用した往来物であろう。江戸時代、書物は消費財ではなく、家宝あるいは什物として代々受け継がれるものだった。



NEW169 童蒙七部書 (どうもうしちぶのしょ)
【作者】不明。【年代】元禄(1688〜1704)頃刊。[京都]丸屋源兵衛ほか板。【分類】合本科。【概要】大本1冊。書名は「凡例」による。「庭訓往来」「御成敗式目」「実語教・童子教」「今川状」「腰越状」「義経含状」「手習状」の7部を合綴した往来物。本文をやや小字・8行・付訓で記す。巻頭に「いろはの由来」「かたかないろは」「十二月之異名」「篇并冠尽」「十干并ニ十二支」「木火土金水之五性ニ合判形相性之事」を掲げ、頭書に「文章註并ニかへことば」「書状したゝめやうの事」「百官名并小性の名」「人之名、かしら字」「家名づくし」「名字づくし」「名乗づくし」「坊主名づくし」「尼名づくし」「南膽部州大日本国之図」「国尽并郡付御城下付」「万躾方之次第」「将棊の詰物」「いろはうた」「諸礼哥しつけがた」を収録する。
★挿絵などから元禄頃の刊行と見られるが、原題が不明(凡例の書名のみ判明)で、かつ、従来未発見の合本科往来である。元禄期は合本科往来の濫觴期のため、年代が判明することを切に願う次第だ。



NEW170 因伯農民童子往来 (いんぱくのうみんどうじおうらい)
【作者】不明。【年代】明治7年(1874)書。【分類】教訓科。【概要】異称『農民童子教訓書』。特大本1冊。因州地方の農家子弟向けに書かれた教訓書。「一、農民と生れては、至極軽き者なれども、御百姓は国家の根本にて、御上の御宝が土地・人民とて、従殿様に御撫育を専に思召被為下、昼夜に不限御国恩の難有事不可忘…」で始まる冒頭は一見一つ書きのようだが、実際は全一編の文章に作る。父母へ孝を尽くし、老人は他人でも懇ろに敬い、親兄弟で争うことなく、村中が和睦して互いに切磋琢磨し、苦楽を共にして暮らすこと、また、四季の農耕に励んで正直・倹約を心懸け、子どもにも分相応に手習い・算用を習わせ、将来は村方の役に立つように育てることを説く。さらに、因伯両国の永代請免制のあらましにも触れ、この「作取の御国」の百姓に生まれながら農業経営に苦しむようでは他国で世渡りできるはずがないと戒め、幼少から身に付けるべき事柄や守るべき心得を述べて締め括る。特定地域の童蒙用に編まれた往来として興味深い。因州八上郡下野村(現・鳥取県八頭郡八頭町)で使用された手習い本中に所収。本文を大字・6行・無訓で記す。
★何気ない手習本に、このような興味深い往来物が含まれていることが時々あって、発見した時は研究者冥利に尽きる。地域限定の往来であり、地元の子どもにオリジナルの教材を作り続けた手習い師匠の意気込みが伝わってくる。