【特別インタビュー】
寺子屋・往来物研究の次のステップ (その1)

 *石川松太郎先生(東京都・謙堂文庫館長) に伺いました (2004年5月)。
── 今日は、先生が最後の著作としてまとめられている『寺子屋の源流を探る』や、これからの往来物研究の方向性などについてご自由にお話し頂ければと思います。まず『寺子屋の源流を探る』ですが、ご執筆はどの位まで進んだのですか?
[石川] 今は第2分冊の「20世紀前半(明治期〜昭和前期)」までですね。乙竹岩造と高橋俊乗と、それから石川謙とね。この3人が一番よくやっていますから。
── そうしますと全部で3分冊になるんですか。
[石川] それで戦前が完結で、今、戦後を書いています。戦後はね本当は簡単にしたいんですよね。寺子屋研究というのは大体戦前が主なんですね。往来物など寺子屋研究の資料は増えました。大変豊富な資料になっていますけど、寺子屋そのものの研究がどれだけ増えたかというとちょっと心許ないですね。それに比べて往来物は、一時期非常に衰えて石川謙位しかやらなかったのですが、父(石川謙先生)が亡くなる頃から増え始め、現在は往来物研究はまず盛んだと言ってよいでしょう。これは小泉さんの努力も大きいですね。
── いえいえ(笑)。

[石川] 一時は(往来物研究で)孤独感を味わったんですけどね。父が亡くなった頃はね…。それから徐々に回復してきまして今のような状況になりましたね。
── そうでしたか。そこで、どうなんでしょうか、最近は大学改革とかで研究者の環境も厳しくて、先日、ある大学の先生ともお話ししましたが、やはり自分の好きな研究ができなくて、結局、大学が生き残るための学部とか、社会的な貢献とかが優先されて、とにかく実用的な学問といいますか、そちらの方に偏り過ぎているようにも見受けますね。そうしますと、往来物のような研究をしたくてもなかなか難しい状況もあるようですね…。
[石川] まあ、これは一時的な現象だと思いますけど、寺子屋あるいは往来物のみならず、今はちょっと苦しい状況にありますね。それでも、例えば八鍬(友広)君の研究なんかは面白いですね。当時の読み書きを使って、公権力に対する改革を促す姿勢とかね…
── ええ、いわゆる目安往来物というものですね。
[石川] ああいう角度から往来物の研究が復活してくるかもしれませんしね。
── なるほど…。ちょっと話を戻しますが、先生の『源流を探る』は、今、戦後にかかっているということですが、全体ではどのくらいのボリュームになるんでしょうか。
[石川] 初め4巻のつもりだったんですけど、途中でちょっと長くなってしまってね。まあ、戦後はそんなに長くしたくないので、まあ最低5巻くらいかなと思っていますけど。
── 戦後といいますと、昭和年代くらいまでですかね。
[石川] そうですね。平成もちょっと入るかもしれませんけど、大体20世紀後半ですね。とにかく寺子屋の資料は量的にはかなり増え、開発されましたけど、研究そのものはね、少し停滞しているというか、考えなくてはならない状況ですね。往来物の方も色々研究していかなくてはならない点が沢山あると思いますけど…。
── お陰様で『往来物解題辞典』を完成できましたが、その後も調べていくと、ちょこちょこと新たな往来物が出てきますし、また、インターネットでもご存知のようにホームページ(往来物倶楽部)で情報発信していますと、色々な所から問い合わせや情報提供がありまして、とにかくどこまで探っても新しい往来物が出てきますので、その後発見したものは解題を書きためてはいるんですが、とにかくキリがないというのが本音ですね…。ところで、先生は初めから往来物や寺子屋教育の研究をなさっていたのですか?
[石川] 僕は最初、技術者教育史を少しやったんですが、大体最初から日本教育史で…。
── そうだったんですか。
[石川] 卒業論文から日本教育史ということです。それで、東京文理科大学、今の筑波大といって良いんでしょうが、そこを昭和25年に卒業しまして、その時の卒業論文が「藩校における教科書の研究」だったんですね。その縁がありまして、また、もちろん父からの影響もあって、藩校をやったのなら、今度は庶民をやらなきゃいけないということでね、昭和28年くらいからは往来物の研究を始めました。まずは地理科往来と産業科往来を主としてやりました。それが初めですね。なぜそれをしたかというと、当時、社会科学による教育史研究法というのが非常に盛んでして、やはり働く人たちが使った教科書、その労働や生活に一番身近な教材で組み立てられている往来ということで、地理科と産業科にしたんですね。
── それは先生がご研究される年代のお話ですが、もっと若い頃、たぶん物心付いた頃から往来物に触れてこられたと思うのですが、その頃はどんな風に見ていらっしゃったのですか?
[石川] いやあ僕自身はね…、「(往来物が)随分多いな」「(父が)随分一生懸命買っているな」とは思いましたね。直接往来物の研究につながったかどうかは分かりませんが、当時「コロコロ」と呼ばれた人力車に乗せてもらって、父と一緒に学校の講義に出掛けましてね、で(講義が)終わりますとね、またその人力車に乗って神田の方の古本屋を回るんです。
── その人力車は大学の入口でずっと待っているんですか?
[石川] ええ。当時はのんきな時代でしたからね(笑)。昭和7、8年の頃ですよ。そうしますと、父が古本屋で色々と往来物を探したりね。
── 先生もいっしょに行ったんですか?
[石川] 子どもだから付いて行ったんです(笑)。抱っこして貰うんですよ。
── それは、先生がおいくつの頃ですか?
[石川] 7つくらいですね。まだ小学校前です。妹たちは母が世話をするので、父が私をコロコロに乗っけて連れて行ったんですね、神田の和洋、今の和洋女子大学ですけど、そこへ行くんですよ。それで、講義の間は職員室で待っているんですよ。昔は良い時代ですから、しかも女の先生でしょ、だから、おやつか何か出してもらって、講義の間は待っているんです(笑)。 それで、講義が終わると、「じゃあ」というので、神田の方の古本屋に帰りに寄って…。

── 現在もある古本屋などの面影はありますか?

[石川] いやぁ、もうねえ。
── 一誠堂はありましたか?
[石川] 一誠堂はあった。ただし、記憶の中にはあまり残っていません。恐らく今も続く古本屋が何軒かはあったと思いますがね。羽織をはおってね、親父が往来物を探していたことは憶えています。そして「これいくら」と言ってね…。
── 値段をお父さんが決めるんですか?
[石川] もちろん向こうは売値は決めてあるんですけど、まけさせるわけね。向こうもまけるのはちゃんと計算に入れてあるんだよね。それで、今で言えば1000円というところを親父が「これは高い、800円くらいなものだ」と言って、それで「まん中とって900円にしよう」とかね、そういう時代ですよ(笑)。そうやって集めていましたね。
── そうですか…。
[石川] あとはカタログ、古本屋の目録ですね。それで注文していましたね。それで、往来物を買うときのコツを、親父がよく僕にも話していましたが「最初はあまりまけさせちゃいけない。高いなと思っても買ってやれ」と言っていました。そうすると必ず古本屋が教えてくれる。「石川さんは必ず買ってくれる」というので、色々な情報を教えてもらえる。「どこどこの古本屋にはこういうものが出ていますよ」とね。「初めからまけさせることばかり考えていると、(そういう情報を)教えてくれないよ」と話していました。
── お父さんが往来物をお集めになったのは大正の後半ですよね…。
[石川] 大正12年に欧米の留学から帰ってきまして、13年に法政大学に勤め始めたんですけども、その頃からですね。その頃から猛烈な勢いで集め始めました。
── 例の岡村金太郎さんに「カスしか残っていない」と言われて発憤したそうですね(笑)。
[石川] ええ(笑)。幸いその時の日記があって、「今日はこういう物を買った。今何百冊になった」という記録がみんな残っています。それと、往来物だけでなく、心学にも関心がありましたから、教訓物も随分集めていました。
── 岡村さんに「今から集めても無駄。あとはカスしか残っていない」と言われて石川謙先生が「なにくそ」と思われたそうですが、今から考えると、確かに岡村金太郎さんのコレクションもすごいんですけど、やっぱり全体の往来物の数からしたら、その何倍もあるわけで、いまだに次々見つかって際限がないように、日本の先人達が残した往来物という文化遺産は大変なものですね。
[石川] 父は7000部と言っておりましたが、恐らく優に1万は超えてしまうだろうと思いますね。種類は数え方によっても違ってきますが、万をもって数えると言ってよいでしょうね。
── 往来物の資料も大空社を始め大分充実してきましたが、結局、その中の細部の研究ということになりますと、まだまだ研究の余地が無尽蔵にあると思うんですよ。この間も、たまたまインターネットで知り合った方が漁業関係の雑誌をやっていて、その方とお話しする機会があって、漁業とか藻類学などの分野でも岡村金太郎さんは草分け的な存在でよく知られているんですが、岡村さんが往来物の研究者であったということはほとんど知られていないということでした。その方が言うには岡村金太郎さんが往来物の研究者であったことに驚いたのが一つ。それから、往来物のなかに「魚字尽」というのが沢山あって、かなり古くから成立していて色々なバリエーションがあることに驚いたそうです。とにかく、どの部分を取っても研究の素材として往来物は魅力的ですし、それをホームページでも紹介していきたいと思っています…。最後に、これからどんな視点で往来物を研究していったら良いか、こんな視点やテーマが面白いよというのがおありだと思いますが、ご教示を頂けたらと思います。

[石川] 色々あると思うんですけども、例えば、先ほどの魚偏の漢字ということについて言えば、往来物に出てくる漢字の中で、日本人が作った和製漢字が、往来物の中に非常に多く取り入れられている、あるいは中国と同じ漢字を使っていても意味はまるで異なるといった点が「魚字尽」などにはかなりあると思います。もちろん「節用集」などの辞書で研究しても面白いと思いますが、辞書と違って、「魚字尽」のような往来物は子どもが全部書き写しますから、そのような研究も面白いと思います。それから、ホームページで小泉さんが書いていましたが、例えば「村名尽」などはつまらない往来物のように見えるけれども、あれを地図の上に表していくと、一つの意味が浮かび上がってくるんじゃないかということですね。
── ええ、そういうことをどこかに書きましたね(笑)。
[石川] これは言えると思いますね。例えば『江戸方角』を調べてみて面白いのは、江戸城を中心にして11の方角に分けて地名を列挙していますね。お気づきだと思いますが、あれを今の東京を基準にしてみると、西側の地名は割合少なくて、今で言えばせいぜい新宿・中野あたりですね。しかし東側は弘法寺(ぐほうじ)、千葉県市川市あたりまで出てきます。つまり東に延びているわけですね。ご承知のように隅田川を境にして西の武蔵国と東の下総国ということになっていて、両方をつなぐ橋ということで「両国橋」と呼ばれていますね。
── ええ、そうですね。
[石川] つまり『江戸方角』の作者が描いた「江戸」というのは、武蔵国、下総国という分け方よりも、庶民の町がどうなっているかということの方が中心になっているわけですね。国別ではなくて、庶民の生活圏に近い区分なんですね。制度上の区分ではなく生活上の区分ですね。このように考えると地理科往来も非常に面白いんじゃないかと思います。
── 確かにそうですね。
[石川] このような点に一番最初に気付いて書いているのは、僕が見た限りでは『練馬区教育史』ですね。地名尽の往来物を使って地図上にドット形式で落として考察していますね。これが一番早い研究ですね。「ああ、これは面白い、先駆的な研究だな」と思いましたね。それから『長野県教育史』もやっていますね。
── そうですか。


●続き(その2)