忘れ去られた文化へのこだわり

 *小林義弘さん(静岡市・静岡みきのくち保存研究会副会長) に伺いました (2004年5月)。
── 小林さんのホームページを拝見しましたが、かなり独特な内容を掘り下げていらっしゃって驚きました。「みきのくち」のことを初めて知りました。
[小林]
確かに、私のホームページは少しマニアックな内容ですね(笑)。「みきのくち」というのは、お神酒徳利や瓶子に挿して、招運来福を願う縁起物なんですね。しかし、現在はほとんど死語になっていて、一般の辞書にはもちろん出ていませんし、江戸時代の行商などを紹介する本などでも無視されることが多いのです。
── 現代人には全く忘れられてしまった存在なのですね。
[小林] そうなんです。
── 私も手元の辞書で調べてみたんですが、『広辞苑』には出てきませんでした。さすがに、小学館の『日本国語大辞典』には載っていて「神酒徳利の口にさす折紙。扇形の飾り。主として金色に染める」と出ていました。言葉では理解しにくいですが、この説明を読むと、往来物の挿絵などに時々見られる「あれか」と思い当たりますね。
[小林] そうでしょうね。とにかく、可愛そうな「みきのくち」のために、一肌脱ごうという訳で、みきのくちの名前や存在を知らない一般の人や、みきのくちの製作を希望する職人さん向けになるべく分かりやすく紹介したものです。一般の人向けには「みきのくち」の歴史や絵、写真などを、職人さん向けには製品のデータを載せています。職人さんなら、写真とデータで類似品を製作できますので、「みきのくち」職人の後継者作りに貢献できればと思っています。現在製作している職人さんは、70〜80歳代が殆どで、絶える寸前ですので。
── それにしても、「みきのくち」だけにテーマを絞っていながらも、多彩な情報発信をなさっているように拝見しましたが…。文章や図解が豊富ですし、図解もきちんと出典や所蔵先まで明記されていて、精力的に資料収集や研究をされている様子が伝わってきますね。そもそも「みきのくち」を調べるようになったきっかけは何だったのでしょうか?

[小林] 実は、元宮大工だった佐々木さんという友人がいまして、彼から「以前習い覚えた、神棚に飾る飾り物を作ってみた。何という名前なのか、また、何を象ったものなのかが分からない。大工組合、神具店、図書館、神社などで尋ねたが、見たことも無いと言われた…」という話を聞きました。平成10年(1998)の春のことです。彼が「みきのくち」の製作を始めたのは、先人の苦労を継承したいということと、職人の社会的地位の向上の一助にしたいという願いからで、私も素人ながらお手伝いになればと調べ始めたんです。
── 一肌脱いだわけですね。
[小林] そうですね…。最初に「みきのくち」についての記事を見つけたのは『多摩民俗事典』でした。やっと「みきのくち」という名前が分かったんです。その歴史などを詳しく知りたいと思いましたが、「みきのくち」について研究した参考書はほとんど無く、民俗関係の本、江戸、明治の絵本、浮世絵などをずっと調べてきました。色々な文献を見て「みきのくち」が片隅にでも描かれている挿絵の資料名をチェックしておきました。そうこうするうちに往来物にたどり着いたというわけです。
── 地道な研究を積み重ねて、一つ一つ解き明かしていったという感じですね。やはり、インターネットも駆使されたのでしょうね?
[小林] はい。2002年の春からは、ADSLのインターネットも使えるようになったので、往来物の本格的な調査を始めました。往来物の本物を手にしたいと『女諸礼綾錦』を購入しました。大本で百科事典のような本でしたが、これで江戸時代の人達が勉強したのだなあと思うと、感動を覚えました。みきのくち関連の挿絵は、教訓科の本に多いように思えますが、実際に手にとってみると、説明だけでハズレのことも多いです。
── 『女諸礼綾錦』は、小笠原流の女性礼法書を庶民向けにアレンジした最初の本としても重要ですね。江戸中・後期の女性礼法書のスタンダードと言ってもよいものでしょうね。どちらにしても女子用往来は挿絵が豊富ですから、重要な調査対象になったんですね。
[小林] ええ。それから、YAHOOで「往来物」をキーワードに検索したら、小泉さんの「往来物倶楽部」の頁を見つけたんです。往来物には、みきのくちとも関連のある、「小笠原流の折形」の挿絵が掲載されていますが、「往来物倶楽部」の小泉さんの論文、「近世女性礼法の源流」も興味深く拝見しました。
── そうだったんですか。往来物には色々な分野の研究者の方との接点があって、ホームページを公開してから、かえって私の方が往来物の価値を再認識した次第です。

[小林] 「往来物倶楽部」では、小泉さんの蔵書データの公開だけでなく、貴重な蔵書のデジタル複写もして頂けるとのことで大変有難いと思いました。まず小泉さんの「家蔵往来物目録」で一番気になった『小笠原流諸礼折形』の複写を最初にお願いしました。
── そうでしたね。あの本は少し特色があって折形が色刷りで載っていますね。
[小林] ええ。複写して頂いたデジタル画像もきれいで、かなり拡大しても十分に見ることができました。その後、何冊か複写していただいていますが、どれも満足しています。ところで、以前からの疑問なのですが、「折形」の挿絵はどの本が初出なんでしょうか。蝶花形なども本により異なりますし…。
── どうなんでしょうか? 詳しいことは分かりませんが、女子用往来の挿絵という点では、17世紀半ばの万治頃の『女訓抄』の再刊本や『女鏡秘伝書(をむなかゝ見)』の再刊本には挿絵が入ったものが登場していますね。私の持っているものでは万治3年(1660)の『女式目』に「祝言座敷の図」が載っていて、「みきのくち」の図は見えませんが、雄蝶・雌蝶の飾りが見えます。手書きは別ですが、版本の絵図で探そうと思うと、17世紀後半以降ということになるでしょうね。
[小林] そうですか。往来物には、年中行事の五節句の紹介記事、特に七夕が多いのですが、挿絵も説明も面白いと思います。いわれ、飾り方、和歌なども諸本によって違いますし、牽牛・織女の二星が夫婦であるという説も、そうではないという説も載っています。七夕まつりは、江戸時代に普及したという記事を読んだ記憶がありますが、往来物の出版とも関連がありそうです。往来物は、刊年が違うと挿絵が違っていたり、他の本の挿絵を転用していたりと、初出、絵師、発行地などの考証も必要かとも思います。画像のデータベースがあればとも思います。
── 挿絵のデータベースはほとんど手が付けられていませんね。データベース化の必要は全く同感です。以前に私が編集に携わった『江戸時代 女性生活絵図大事典』や『絵図集成 近世子どもの世界』などは往来物の挿絵が数千点載っていて分類されていますので、その足がかりになるでしょう。
[小林] ぜひ一度調べて見ようと思います。とにかく、私のホームページでは厳密な考証が不十分かもしれませんが、「みきのくち」の名前と存在を、一人でも多くの方に知って頂くことがホームページの主な目的ですので、これからもその方向で充実させていきたいと思います。
── 今日のお話で、また一つ、往来物の気になる絵図が増えました。何とかしないといけませんね。絵図のデータベース化に本気で取り組むべき時が来ているようですね。本日は良い勉強になりました。ありがとうございました。

小林さんの過去の歴史へのこだわりがなければ、「みきのくち」の存在は本当に風化してしまうのではないでしょうか。浮世絵や往来物に出てくる絵図が一体何なのかが分からないことも時々あります。往来物の記事にしても、当時の日常ではごく当たり前だったものほど「暗黙の了解」で解説も付かず、絵図だけが手がかりという場合もありますし、逆に説明だけで絵図がないためにはっきりと分からないこともあるでしょう。小さな発見でもきちんと記録に残しておくことが大切なのでしょうね。ましてはネットで公開すれば、その普及の可能性は甚大です。小林さんのお話を伺って、私も「みきのくち」の絵図に注目していこうと思った次第です。