●ここに掲げた写真は、幕末〜明治初期の勝山藩の教育家、野呂道庵(俊臣)が明治7年7月8日付けで千葉県令(現在の県知事のような官職)・柴原和宛てに届け出た私塾「明善塾」の開業届の控えと思われるもので、原寸縦232o(ほぼ半紙本大)、墨付き5丁に仮表紙を付けた写本の一部である。
 前半2丁が「家塾開業届出書」(写真上)となっており、その後ろに、「教則并書目」(写真下)3丁(うち中扉1丁)が合綴されている。
 それぞれの記載内容は次の通り。
 
【家塾開業届出書】
 ○家塾所在地──第1大学区千葉県管下第1大区7小区、安房国平郡加知山村、明善塾。
 ○履歴──当塾の沿革として、道庵の父である野呂陶斎が亀田鵬斎門下であった関係から、道庵自らも鵬斎に5年間(文政8年2月〜12年3月)入門し、ほぼ同じ頃(道庵11歳頃)から父の私塾(江戸下谷長者町)で教授を行った。その後、道庵自ら天保3年10月に下谷御徒町に「明善塾」を開業、以後、廃藩置県によって、明治5年9月に廃校するまでの経緯を記す。
 ○学科──修身学、経済学、皇漢洋史学、窮理学、地理学、文章、写字、算術(幾何数学)
 ○教則── 「具別冊」と記すのみで、詳細は本書後半部に別記。
 ○塾則──塾長の給料は定めない旨や、入塾束脩(入学金)は金2円とし、授業料は上中下等の等級毎に設定(上等:月50銭、中等:月35銭、下等:月25銭5厘)。
 ○その他──生徒の休業は日曜日と放課後のみ。病気や事故の場合は保人(親などの保証人であろう)の判の付いた届けが必要。入塾には紹介者が同行しなくても、塾生の親や親戚などからの紹介状があれば許可する。休暇中の外出は午後10時を門限とする。たとえ帰省や病気・事故などでも、欠席日数が50日以上になった場合にはいったん退塾しなくてはならない。退塾者の再入学に場合には入学金を半額とする。塾則を破った者は休日の外出を禁止する。
 この後、以上の通り開塾したくご許可くださいますようにという言葉を千葉県令宛てに綴り、以上に相違ないことを保証する2名(根岸氏・石井氏)の署名を連ねてある。
 【教則并書目】
 例外として、15歳〜20余歳の志学者には入学を許可することや、テストの実施頻度と成績判定・進級等、3等級別のカリキュラム等(生徒学等表)を記した後、「日課書目概略」(写真下)を列挙する。

■塾長・野呂道庵
 野呂道庵の事跡については、近年の市町村合併で平成16年に出来た新しい自治体「鋸南町(きょなんまち)」のホームページ「町報歴史資料館」に詳しい(参考までに、下記に引用しておく)。

1994年2月号


○江戸の下谷の天才少年
 幕末から明治にかけて、勝山藩文学教師として若者の教育に身を捧げた儒学者、野呂道庵は、まさに教育者の鏡のような人物だったそうです。
 道庵は、文化10年(1813)江戸下谷長者町に生まれました。幼名は駿太郎、長じて俊、俊臣、民父などど称しました。
 父は江戸の儒学の大家亀田鵬斎の高弟、野呂省吾(陶斎)で、道庵も父の才を受け縦ぎ幼い頃よりその天才ぶりを発揮、すでに11歳にして駒込で吉祥寺の僧たちや越後の医生を教えるほどの学才を備え、14歳の頃には備前新田の藩主、池田信濃守政善に請われて浅草鳥越町の藩邸に講義に出向いたりしました。
 学才だけでなく体勇ともに備わった人物で、16歳の時父の留守中、母親を脅した夜盗に斬りつけ、まさに首をはねんとしたところ、母のいさめで命を助け逃がしてやったという逸話さえあります。
 道庵の名声は日に日に高まり、天保3年(1832)20歳の時、下谷徒士町に開いた家塾「明善館」には入門者が殺到、同じ徒士町に藩邸のあった伊予大洲藩主加藤遠江守泰幹は、藩士と共に受講しています。また下谷広小路に藩邸のあった安房勝山藩士の入門者も多く、請われて藩邸にも講義に出向きました。

○道鹿、勝山蒲へ
 万延元年(1860)勝山藩主8代酒井安芸忠一が没し、わずか3歳の嫡子忠美が藩主となりました。この時、道庵は忠美の教導役として御近習格儒者に召し抱えられ、高7人扶持、教授料銀5枚の待遇で藩士の一員に加えられることとなったのです。
 慶応4年(1868)維新動乱の中、官軍東下に伴う江戸の兵火をさけ、道庵一家は安房勝山に移住してきました。
 勝山での道庵の住居は現在の下佐久間3596あたりで以前は加藤玄通という医者の家だったものを借りました。
 そのうち江戸も鎮静し、藩士もぞくぞく勝山へ帰ってきて、再び道庵に学ぶようになったので、勝山藩は明治元年10月、藩校「育英館」を創立し、道庵を文学教師に任命しました。
 道庵、56歳の時です。

1994年3月号

○育英館にみる道庵の教育理念
 勝山藩藩校「育英館」は明治2年(1869)の版籍奉還により一時閉校しましたが講義は続けられ、その後、学校存置の令により、明治4年正月、再び開校します。
 この時、道俺はのちの学校制度の指針ともなる8項目からなる「学校攷」(内題「加知山藩学制私議」)を建議しました。この中で道庵は、学校は人材教育の場所であり根本であること、学制の根本は人材を選んで任じることにあることを力説しています。
 「育英館」 の校舎は藩邸内にあった旧代官所をあてて、生徒は8歳以上、士族はもちろん平民の子弟にも入学を許可、学科は漢学を主とし、あわせて習字も教えました。授業は毎朝辰刻 (8時) から午刻 (12時) までで、毎月1日と15日を休日とし、試験は春秋2回、藩主以下教職員みな臨席して、読試、講試などを行い成績にしたがって賞を与えました。授業料も謝礼もとらず、経費は藩の財政から支出していました。これらの制度は、ほとんど道庵の計画によるものなのです。
 ところが、同年7月の廃藩置県によりわずか半年で「育英館」は、またも閉校へと追いやられてしまいました。

○受け批がれる道庵の意志
 藩校廃止とともに道俺もその職を解かれましたが、その後も中等程度の学校の必要性を痛感した道庵は、明治7年自宅に「明善塾」を開き、多くの近村の青少年たちの教育に尽力しました。
 明治15年、70歳の時、門人たちの発起により加知山神社に道庵を讃える寿蔵碑が建てられました。そして明治22年2月22日、道庵は77歳で没しました。葬儀は明善塾で行われ、下佐久間天寧寺に葬られました。
 道席の門人は、いずれも政治、教育、実業など各方面で活躍しましたが、中でも道庵の学をもっとも継承したのは早川儀之助です。
 市井原生まれの儀之助は、明善塾塾頭として道庵を助け道庵の死後、明善塾は閉鎖されましたが、儀之助は市井原の自宅において授業を引き継ぎました。その後、儀之助は保田町長や県会議員を勤め、大正11年、64歳で没しています。