孝学所(孝学堂)とは、菅原友山(河瀬友山・孝学道人)が、天保初年頃に京都堀川頭の水火天神(現在の水火天満宮 京都市上京区堀川通寺ノ内上ル3丁目)内に設けた結社、いわば社会教育施設である。水火天満宮第16代宮司の孝学暁(こうがく・あきら)氏のご教示によれば、菅原友山は、中興の祖である初代・菅原友光(1725〜89)を初代として5代目に当たるという。
  友山は、濃州大野郡寺内村の河瀬東三郎祐誓の長男として寛政3年(1791)6月1日に生まれ、後、天保12年(1841)1月、錦小路殿丹波朝臣頼易卿の養子となり、水火天神神主家へ入家し、同年3月に神職を受け継いだとされる。安政4年(1857)3月27日に享年67で亡くなったが、その間、下記のように数多くの著作を残し、彼の死後もその活動は明治期まで続いたと言われる。以下の著作は、私の調査した限りの出版物だが、その多くが篤志家による施印であり、孝学道を信奉する人々の善意によって行われたものである。
  事実、架蔵本のうちの『費八分記(ついえはぶき)』の巻末には、
 ○此書中の益味、宜敷(もっとも)と思召御方々は、御遠慮なく御再板被成、山家・海浜までも広々御弘め下され度(たく)候。且又、施主の御志ある御方へは板行御かし申上候間、是また御遠慮なく御つかひ可被下候」
と施本希望者を募っている。また、施主名こそは印刷されていないが、同所の見返しには墨書きで 「施主・堅田浦 酉年女」と記載されており、女性による施印であることも注目されよう。
  このように、孝学所(孝学堂)は、江戸後期に突如閃光を放つが如く登場し、一時期は石門心学にもまさるような活動を展開しており、京都における孝道実践の一大拠点であった。

孝学所の出版物 (小泉調べ *印は架蔵本、または原本確認したもの。★は画像あり)
 天保3年 「孝養門」 ★ 
 孝道の基本を説く。「孝学感養記」の前半にも収録。*家蔵
 天保6年 「三野人物考」  未見。「孝連人物考」と関連あるか。
 天保7年 「孝養の箇条(孝・和寿蓮満意)」★  孝行の要諦など42カ条を記した一枚刷。*田丸哲也氏蔵
 天保8年 「孝連人物考(孝学人物考)」 ★ 
 門人120人の「孝道」に関する教訓歌等を収録。*家蔵
 
天保頃  「孝学感応禄」 ★  施本を始めとする孝道実践の具体例を示す。*家蔵
 弘化頃  「孝学衣慎録」  「孝学食慎録」に記載。
 弘化頃  「孝学祭礼記」  「孝学食慎録」に記載。
 弘化頃  「孝学食禄編」  「孝学食礼記」と関係があるか。
 弘化4年 「孝学感養記」 ★ 
 「孝養門」と「孝学感養記」を合綴したもの。*家蔵
 弘化4年 「孝学食慎録」 ★ 
 食物への感謝とその報恩としての孝道を説く。*家蔵
 嘉永2年 「〈孝学社中〉実明記」 ★ 倹約と「孝行の種・積徳銭」などの孝道実践を説く。*家蔵
 嘉永4年 「費八分記」 ★ 
 物や時間の浪費を戒め、主・親・師匠への報恩を説く。*家蔵
 刊年不明 「孝学食礼記」 ★  食物に対する感謝と心得を諭す。*家蔵
 刊年不明 「孝行繁昌・孝心成就」 ★  孝行の教訓文・教訓歌を記した一枚刷。飛騨高山・孝弘堂施印。*家蔵
 刊年不明 「いろは歌孝行鏡」 
 孝道をイロハ歌で諭したもの。孝学社中施本。*東京大学蔵
 刊年不明 「孝養文」  「孝養門」を指すか。
 刊年不明 「孝養文功徳書」  不明。