父子訓 (ふしくん)

  (中村弘毅(梅華・新斎)作。若槻敬序。文化4年(1807)11月序。文化8年1月刊。[京都]岩崎卯之三郎・葛西市郎兵衛板)

*上巻「父之部」、下巻「子之部」から成り、父の心得(「慈」に集約される)と子の心得(「孝」に集約される)を併せて説いた教訓書。まず「父之部」では、父親たる者は「慈」、すなわち「子ををしへて、人の道をしれるまことの人」となすことが根本であり、武士なら忠義を励み文武に精通させ、農工商なら各々の家業に出精し、四民ともに父母への孝行、長兄への弟を守り、身を修め、家を保ち、後世に名を残すほどの徳行を身につけるように教育すべきであると述べ、以下、先祖の祭り、胎教、幼時からの教育(概ね『小学』による)、読み書き教育、師を選ぶこと、学問の趣旨、算術教育、家業教育、学問と養生、教えざる親や財産のみを残す親の誤り、母の姑息の愛、父母が模範たるべきことなどを説く。また「子之部」では、子の教えの根本が「孝」、すなわち「よく父母に事る」ことで、孝は「百行の本、万善の先」であると述べ、続いて、胎内に生を宿してから生まれ出た後も昼夜を問わず注がれた「撫育・愛養」の大恩は計り知れず、その報恩を少しでも怠れば不孝となると戒める。さらに、孝行の趣について縷々述べ、身体を損なわないこと、士農工商それぞれに道を尽くすべきこと、幼時の手習い・学問に励むべきこと、父母の心を我が心とし、父母の心を養うべきこと、妻帯後の孝行、孝の字義、父母死去後の葬祭・服忌など、「二十四孝」等の故事を引きながら孝行のあらましを詳述する。
*なお、作者は江戸後期・京都の漢学者で、女子用往来の『女訓三乃道』も著している。


写真は原本の表紙・見返しと上巻本文冒頭
○「父之部」 より抜粋

・中村新斎(弘毅)は、本書の中で、「書物を読んだか否かではなく、その人の行為が人道にかなっているか否かが学問した人の基準である」と喝破した。そして学問は、士農工商が「各々その家をおさめ、身を保ち業を守る為の稽古」であるから、万民に不可欠として庶民の学問無用論を払拭する一方、「学問をすると病気になったり、気詰まりする」という俗説に対しては、「学問と養生は同じ道理であり、かえって学問は養生にも益が多く、一切害がない。学問することで気詰まりや鬱屈が生じ、病気になると思うのは、自ら学問をしたことがないための惑いである」と反駁した。
 以下に、彼の学問観を示す記述を抜粋しておく。


○学問とは、良き人になるべき稽古をすることなり。人と生まれて良き人とならずば、身を保つことあたわず。家を亡ぼし、先祖の祭りも絶ゆるにいたるべし。されば、貴賤となく、何を業とする人にても、幼少の時より、先ず学問をなさしむべし。前にしばしば「教え」と言うはこの事なり。わが子を良き人となすは、親たるもの第一緊要の事なれば、よくよく思いてあやまることなかれ。

○学問は芸にはあらず。人の道を学ぶなり。芸はその身の職分により、ならわずとも事欠くるにもあらず。また、恥とならぬもあり。「万能より一心」という諺のごとく、あまたの芸をよくすれども、大事のわが家業にうとく、かえってその芸、日用当務の障りとなりて家を失う者も少なからず。学問はその一心をよくし、士はまことの士となり、農工商は真の農工商となり、各々その家を治め、身を保ち、業を守るための稽古なり。

○学問なくして身を保ち、家を治め、良き人と呼ばるる者は、書籍は読まざれども、その行う所、人たる道にかないなば、すなわち、学問せし人と言うべきなり。また、幼年より学問せし人の行い悪しく、また世事にうとき類は学問せしゆえにあらず。まことの学問というものをせざるゆえなり。

○もとより学問は、人の人たる道にして、死して後やむべきものなれば、「朝(あした)に道を聞きて、夕べに死すとも可なり」(『論語』)とあり。年長けたるうえにても、志だに起こらば、速やかに学ぶべし。学問は幼少の間の事とのみ思うべからず。

・また、作者は母親の教育上の影響にも触れる。

○わきて子のために大事なるは母なり。なべて女の情質は道理にくらきものゆえ、子を育つるも情愛に溺るるのみにて、何の弁えもなく、たまたま父の子を教うることあるをも、さえぎり止めて、ありたきままに育てなし、成人の後までも甘き毒を与え、ついにわが子を悪におとしいれ身を亡ぼし、家を失わしむるに至るなり。…子も、父に対しては厳なるを思い、十に一つは慎むことあれど、母には慣れ慣れて、その戒めをも軽んじ、不敬・不孝なるもあり。皆これ、母の姑息の愛の、自ら招く所にして、子のために上なき禍なり。

○古人も「父の子を教うる事は、母に一倍(二倍の意味)して、子の母に似る事は、父に十倍す(すなわち、父親は子どもに対して、母親の二倍も教えるが、子どもは父親の10倍も母親に似てくるということ)」と言えり。母たる者、よくよく慎み、心を用うべき事なり。もしあやまてば、その愛する所の子を浅ましきものになし捨てて、父母も生涯の憂いに沈むなり。

・そして、子育ての究極は、親自身が身を正して、道を行うことであるとしている。

○子を良き人にせんと願わば、先ず親たる者、良く身を修め、道を行うべき事、道理の当然なり。道知れる良き親の子は、良く教えを受くる故、良き人になるなり。良き人となれば、また、その子を良く教え、良き事を見聞き習わす故、その子もまた良き人となるなり。かくてぞ、誠に代々善人うち続きて、家長久に伝わり、先祖のまつり豊かなるべし。

★本書は原本が筑波大・広島大・岡山県図書館・成田図書館等に所蔵されているほか、影印が『近世育児書集成』に、その一部の翻刻が『子育ての書・三』に収録されています。架蔵の原本を読みたい方はデジタル複写をお申し込みください。