農家訓 (のうかくん)

  (山名文成作。天明4年(1784)作・刊)

*山名文成は生没年未詳。江戸時代中期の紀伊国名草郡永穂村の農民で、公共事業に尽力した。『農家訓』は上下2巻からなり、上巻に「四恩」「五常」「農民用心の説」「赤子養育聖人弁」「準縄曲尺弁義」「始末の大旨」の6章、下巻に「天下の三民同恩の解」「小童へ勧むる学の説」「堪忍両義章」「三光天象不違義」「孝行意得の説」「上下通情の弁」の6章を述べる。

○本文より抜粋・要旨

・赤子が胎内で生まれ育つ道理も、農夫が作物を育てることと同じ道理である。妊婦は時には難産することもあるため、いかに安産になるようにと日々心労するのであり、安産しても、生まれた赤子を五体満足か、目が見えるだろうかと心配するのにいとまがない。生まれた赤子には両親が日夜愛情をかけ、多年の心労を伴うが、この時点で成長した後に悪人になれと思う親はいるはずがない。しかし年を重ねて、子どもを小学の門に入れようと思う頃から、善悪の両道が萌し始めて、善悪の弁えも生まれてくるのであるから、善を勧め、悪を去る道を心懸けなくてはならない。
・しかし、世間にはしばしば悪人が生まれる。父母へ不孝をし、法度を破って天道に背き、人道を欺く者がいる。これは、その親の心掛けに誠がなく、行いが正しくなく、義心が薄く、身を修めないからであり、母親の嫉妬・邪念・妄語の気がまじって子どもは放逸・散乱の人間となる。
・子どもには8歳から子どもの性に従って読み書きを教えるべきである。子どもにとって父は万事の師であり、子どもに手習いや算術、学問、その他諸芸をも習わせたいと思うのも、子どもの愚蒙を啓き善良の人になってほしいからであり、自ずから子どもも親孝行になるはずであるが、親自身が親不孝である場合には、親の曲尺(基準)が最初からずれているために、そうならないのである。
・万事親に習うのが子どもの常であるから、成人に従って教育法が変わってくる。父親はわが子を思うあまりに教えるものなので、気短かに罵って怒り教える時は、その至善を失い、かえって子どもの心を悪くしてしまう。父の教え方が未熟なままで教えるために、子どもは父の怒りを無理と思い、父の善なる思いを省みることなく、父の命令に従わず、ついに父親を責めるようになる。教育者はまず己の心を正して人に施すべきである。父母が身を修めず、正直な心で持たずに教えようとしても、子どもには堪忍の情が欠けて親の教えを用いず、かえってそれに背くのである。古書にも「親不孝の罪は、親に七分、子に三分」と書いてある通りである。
・子を育てる道は、天命を恐れ、国政を重んじ、人道を慎むというように、最も恐るべきの大事である。もし、農家がわが子を悪人に育て、親の手に負えないことを憎んで勘当するとしたら、それは自分が育てた病犬を世に放って世間の人に害を加えることではないのか。その親にとって不孝だとしても親に難儀があるばかりである。しかし、勘当して世間に放てば、1人の悪人のために煩わされる者は数万人に及ぶのである。このような親にはどれほどの天罰が下るであろうか。


★本書の原本は家蔵本のほか、内閣文庫・東大・東北大等が所蔵。翻刻では『日本経済叢書』15巻、『日本経済大典』22巻などに収録されています。原本を読みたい方はデジタル複写をお申し込みください。