こそだて草 (こそだてぐさ)

  (小池貞景作。弘化4年(1847)序・刊。明治期後印。[東京]近江屋半七板。

*作者は神職・国学者。文化7年生〜明治12年没。大原野神社権宮司で、明治9年『教則千字文』を著す。巻末広告に「此書は幼児を婦人の朝夕に教訓すべきそのすべを貝原氏の著述風に習ひて書れたるものにて、面白き胎教の説あり」と紹介する。

★本文冒頭
○要旨
 子どもを育てることは父母の教えが基本である。その中でも特に母親は心しないと、子どもが成長して正しい人になることは困難である。ところが世間では、「父は教える人、母は養う人」とばかり思い込んでいるのは甚だしい誤りである。
 そもそも子どもは生まれて4〜5歳になるまでは母の懐を離れないので、父よりも母の教えがより影響力が強い。父が子どもに教えるのは7〜8歳以後のことであるから、まずそれまでに母がよく教えないと、7〜8歳になっても愚かなままで、父の教えも見につかないものである。
 本来、人のもって生まれた魂は神のからの授かりもので教えを受けずともおのずから善良なものだが、世間の悪に触れるに従ってその善が失われていくのである。
 とかく子どもの頃についた癖は成長した後も直すことができないので、十分注意して育てないといけない。そのためにも、まず母親は平生から心を正しく保つように努めるべきである。五感で感じる全てが母親を通じて胎児にも影響するのであるから、妊娠中の衣食住や生活に気をつけ、胎教を慎まなくてはならない。(以下、胎教の具体例を説き、さらに次のような小児養生論を展開する)

・子どもの病気は大概食物が原因であるから、多すぎないように分量に気をつけ、また、果物や菓子類はなるべく少なくした方が良い。

・子どもが泣いたときに親が叱るのは良くない。機嫌を取るのが良い。かと言って、子どもの心のままにさせるのは良くない。また、面白いものが来たと言って外へ連れ出して紛らかすことがあるが、これも度重なっては、子どももその手に乗らないのでよくない。「人が言うことは皆ウソだ」と子どもが思うようになるのは、このようなことが発端となるので注意すべきである。

・子どもの玩びに金魚、蛍、キリギリスなどの生き物を与えるのはよくない。もし殺してしまった時には殺生の罪になり、このようなことから殺生を好むようになり、不仁の人間の基となる。大人は罪を作っても人のため世のためにする積善もできるが、子どもはそうでないので作った罪を消すことができない。幼時から殺生をしない子どもは、疱瘡も軽くすみ、怪我や過ちもしないというが、そういうものであろう。

・「男は算筆、女は縫い針」と言って、これらができないと、その身の生涯の損となる。従って、どれほど貧しい家庭でも、これらをほどほどに仕込んでおきたいものである。しかし、生まれ付き子どもが嫌いなものもあって、どれほど教えても憶えない子どももいる。このような子どもには強いて教えてはならない。知らないことがかえって、その子どもにとって良い場合もあるからである。世間には無筆でも金をためる者がいるし、学者となって家を滅ぼす者もいる。ほころび一つ縫えない女性でも、立派な夫を持って生涯楽しく暮らす者もいる。逆に縫い針は人に優れても放蕩者を夫に持って生涯苦しみ、その縫い針でその日暮らしをする場合もある。

・近年は奢りに長じた風潮のため、万事倹素にしない限り、自然と華美に流れ、子どもの躾も奢りに走りがちになるものだ。富める家はなおさらのこと気を付けるべきである。世間では子どもの七つの祝いに多額の金銭を費やすのはいったいどういう心であろうか。その費やす金銭は、その子のためにもならず、陰徳にもならず、ただ外見を飾るばかりである。この風俗は自然と貧者にも広がって、親は子どものために苦労するようになっている。その結果今や、大家といえども、5人も6人も子どもを養うことは出来なくなっている。親の生きているうちは豊かでも、子どもの代になった時には貧しくなる。子どもの行く末を思うならば、無益のことに金銀を費やしてはならない。

★本書は原本が玉川大学、内閣文庫、九州大学、京都大学等に所蔵されているほか、翻刻が『教の園・下巻』に収録されています。家蔵本は明治期後印本ですが、原本で読みたい方はデジタル複写をお申し込みください。