久世条教/条教談話 くせじょうきょう/じょうきょうだんわ

  「久世条教」
  (早川正紀(まさとし)作。寛政11年(1799)序・刊。[美作久世]典学館蔵板。[大阪]浅野弥兵衛売出)
  「条教談話」
  (早川正紀作、斉藤数山補注。天保5年(1834)刊。[武州か]斉藤数山蔵板)

*「久世条教」は江戸時代後期の名代官・早川八郎左衛門正紀(1739〜0808)が建てた日本最初の教諭所「典学館」(1795、美作国久世)および「敬業館」(1798、備中国笠岡)で使用された農民教化用のテキストで、「勧農桑(のうそうをすすむ)」「敦孝弟(こうていをあつくす)」「息争訟(そうしょうをやむ)」「尚節倹(せっけんをたっとぶ)」「完賦税(ふぜいをまっとうす)」「禁洗子(せんしをきんず)」「厚風俗(ふうぞくをあつくす)」の7カ条からなる。このうち第5・6条を除く5カ条は、中国清の聖祖が康煕9年(日本の寛文10年=1670)に通達した「康煕聖諭」16カ条を模範としたものである。早川代官は、疲弊し荒廃した地域の復興のために、教諭所を建てて、この条々を月3回民衆に教諭した。特に久世などに見られた堕胎・間引きの悪風を改善するために、「禁洗子」の一条を盛り込み、育児を奨励した。
*「条教談話」によれば、早川代官は春と秋の二回に地域を巡回して自ら「久世条教」を庶民に説いたという。その当時に早川代官に付き従っていた斉藤数山は、早川代官の死後四半世紀も経たないうちに風俗がふたたび廃れ、「久世条教」の名前も忘れ去られるに至った状況を嘆き、地域再興には「久世条教」以上の書物はないと確信し、この条々に若干の補注を加えて、天保5年に出版したものが『条教談話』である。
★「条教談話」写真
○洗子(子を間引くこと)を禁ず
 天・地・人を合わせて「三才」といい、天は父、地は母、人は子にたとえられる。天の三光(日月星)が日夜怠りなく運行を続け、地が陰陽寒暑の狂いなく往来して五穀・草木・禽獣を始め万物を生育してくださるのも、全て子である人間に対する無限の恵みである。このように、「わが子をあわれむ」のが天の道である。
 しかしながら、この美作の人々には昔からの悪習で「間引き」といってわが子を殺してきたのは、いったいどのような神経であろうか。これは、全くもって天地の道に背く所行である。
 どんなに貧しい家庭でも、母の乳房が二つあれば二人の子どもは養えるものである。しかし三つ子では乳房も不足することから、相応の養育費が支給される有難い世の中になっている。このように、公儀では赤子一人ですら大切になさるのに、本当の親でありながらわが子を殺すことは言語道断の悪事である。…

【「条教談話」の補注】
 ここからは(早川代官の言葉を敷衍して)数山が言う。このような悪習は美作国に限らず関東にもある。わが子を愛し育てるのは、天が万物を育てるのと同じ人間として当然の情である。わが子を愛する心があればこそ、他人の子どもも大切にできるのであり、たとえ小さな虫でも殺すまいという気持ちになれるのに、わが子を殺すとは、禽獣にも劣る行為であり、そのような親は必ず災難に遭う。
 たとえ子どもが多くていったんは困窮するといっても、子どもが成長するに従い、相応の稼ぎもするようになり、程なく困窮からも立ち直れるものである。とりわけ百姓には子どもが多い方が良い。あちこちに荒れ地があるのは人手不足にほかならない。それだからこそ、上野国甘楽郡では小児養育のお手当を長年下さってきたし、最近は吾妻郡でもそのような支給が始まった所である。このような公の補助もあるのであるから、間引きなどは決してしてはならない。


★活字で読みたい方は → 『久世条教』は『吉備文庫』を、『条教談話』は『日本経済叢書』または『日本経済大典』をご覧下さい。原本で読みたい方はデジタル複写をお申し込みください。