往来物関連情報(柱)

■桂の会主催 「近世女性史講座」 でお話しました(2002/12)

 
2002年12月7日、東京都世田谷区の男女共同参画センター「らぷらす」にて、「女筆の時代と女性たち」というテーマでお話しさせて頂きました。

女筆の時代と女性たち」講演要旨


(1)女筆の意味と女筆手本の類型

 今日お話しする「女筆」というのは、女性の筆と書きますが、女筆にも当然、手書きのものと出版されたものがありまして、今日のお話は全て出版されたもの、刊本についてのものです。それから、女筆手本について何人かの先生が論文を書かれていますが、女筆の定義が非常に曖昧であったり、一応定義はしてあっても実際に論文を読んでみますと必ずしも女性筆でなくて男性筆が混ざっていたりという場合が多いのですが、私の場合は、これらを明確に区別したほうが色々なことが明らかになるので、私が「女筆手本」と言う場合には、女性筆であって、なおかつ出版されたものという意味で、今日のお話をさせて頂こうと思っています。

 調べた限り一番古い女筆手本は、慶安5年(1652)刊『小野お通(づう)手本』ですね。かつて、岡村金太郎さんが「往来物に就きて」という講演会で、その本を紹介したと思いますが、年号がはっきりしている女筆手本では最も古いのが『小野お通手本』ということになっています。

 小野お通については、皆さん、真田淑子さんが書かれた『小野お通』という本が非常に詳しくて、正確な記述だと思います。小野お通はこれまであまり正体が分からない女性だったんですが、お通は「おづう」と濁るんですね…。元禄期に出版されたお通の『四季女文章』にも、題簽の下の方に「小野のおづう」とあり、奥書にも「づう」と書いてあります。そのほか小野お通の直筆本などにも明らかに「づう」と書いたものがありますので、「づう」と濁るのが正しいとされています。真田淑子さんは真田家の末裔にあたる方で、そこに小野お通に関する資料が色々と遺っていて、「過去帳」とか「系図」などから割り出してこのような本を書かれたんですが、それによりますと、小野お通はまず小野正秀の娘で、夫を渡瀬雨林といいます。そして雨林とお通の間に生まれた娘も小野お通と称しておりまして、とにかく小野お通が2人いたということです。このようにお通が2人実在したことが分からなかったために、諸説紛々としてですね、信長や秀吉など当時の権力者たちとの接点も色々あったために、果ては全く根拠のない浄瑠璃作者であるといった俗説も登場したようです。

 大体、女筆手本が登場して消えていく時代は17世紀半ばから18世紀半ばのおよそ100年間です。それで、この時代を「女筆の時代」と私は呼んでいます。確かに江戸後期にも女性が書いた手本がいくつか出版されていますが、大きな時代の趨勢として見た時に、大体この100年間と見てよいと思います。

 そして、最初の書籍目録、万治2年(1659)の目録で、当時出版された書物を記載したものですが、その最初の目録にも女筆手本が2点ほど載っています。一つは文字通り『女筆手本』という書名で、恐らく小野お通の手本だと思います。もう一つは『女庭訓』で、初版本は大字で書かれた女筆手本です。これは女筆手本の中でも最も古いものの一つです。江戸時代初期に本が出版されるようになった最初から女筆手本があったということです。

 それから、「女筆○○」という手本は必ずしも女性筆ではありません。例外が何本かありまして、例えば、元禄6年(1693)の『女筆四季文章』というのがあるんですが、これは中村甚之丞という男性が書いています。また、江戸後期で言いますと、天保10年(1839)の『女筆花鳥文素』も、内容は滝沢馬琴が作って、それを内山松陰堂という男性書家が書いているんですね。このように「女筆○○」と言っても男性が書いたものもあります。つまり、女筆という言葉には「女性筆」という意味もありますが、単に「女性用」という意味で使っている場合もありまして、この辺を区別していかないと、色々と混乱してくることになります。しかし、これを区別していない論文の方が圧倒的に多いんです。

 それで、私の場合は、それを区別した方がいいだろうと…。これを区別していきますと、色々なことが分かってきます。まず大きく「女筆手本類」と総称した場合に、それを書いたのが女性であるか、男性であるか──私は、女性筆ばかりでなく、男性が女性用に書いたものも含めて「女筆手本類」と呼んでいるんですが──まず筆者の性別で区別します。それから、用途の面から、手本であるか、用文章であるか、その他であるかを区別します。そのほか文章形式が手紙文スタイルであっても、実際に使える手紙文と、そうでないものがあります。詳しい説明は省きますが、一見手紙文スタイルでも、実際には「消息文」「特殊消息文」の違いがあります。

 このように分類していくと、表のように、はっきりと女筆手本類の変遷を見出すことができます。表の内、女筆で一番点数が多くなっているのは1700年以降の「手本」で39点です。一方、男筆の方は1750年以降の「用文章」で36点です。女筆だけに注目すると、どの年代を見ても常に「用文章」よりも「手本」が上回っています。逆に、男筆ではどの年代でも「用文章」の方が多くなっています。男性が書いたものは実用的な手紙例文集である用文章が多いんです。反対に、女性が書いたものは「手本」が多いんです。
 このような区別をすると、宝暦(1751〜63)頃を境にして、女性筆から男性筆へ、また、手本から用文章へと変化してきたことが分かります。女筆手本類でも段々と実用的なものが比重を占めるようになってきた傾向が分かります。

(2)女筆手本を書いた女性たち

 どのようにして女筆手本が盛んに書かれるようになったのかという、一つの背景として、井原西鶴の『好色一代女』に、女性に書道を教える女筆指南を営む女性が出てきます。
 これはフィクションですけども、ただ当時の実際の文化的な様相を映し出したものとして、現実に近いことが書かれていると思います。そこに京都の女筆指南の話が出てきます。御所奉公をした女性が引退した後、そのような女性は礼儀作法ができているとか、教養があるとか、生活態度がきちんとしているとか、品性があるといったことで、引退後も引く手あまたで、このような女性に自分の娘を面倒見てもらいたいと、書道だけじゃなくて礼儀作法や生活上の躾などを教わることができて非常に良いということで、裕福な家庭の女子がこのような女筆指南に通ったんですね。そして、その文面にもありますが、書道の手ほどきとあわせて、「女にいる程の所作」を教えたという話が出てきます。

 こういったことから、女筆指南を通じて、上流社会の伝統とか習慣とか作法とか、そういった文化的なものが町人を始めとする庶民社会へと広がっていったんだと思います。
 先ほど小野お通の話をしましたけれども、初代(松代藩主)真田信之が57歳の時に、小野お通(初代)は55歳で、その当時のお通に宛てた信之の手紙が遺っておりまして、その手紙の中で信之は、小野お通に対して「松代に来たんだけれども、自分の召使いとして京都の女性を2〜3人ばかり人選して送って欲しい」と頼んでいます。小野お通に頼めばしっかりした女性を送ってくれるだろうと信じて頼んだのでしょうね。そして、3つの条件を出しておりましてね。
 一つは、言葉遣いがきちんとしている人でないとダメだと。原文には「むさとした事言わぬ」と書いてありますが、とにかく不注意な発言をしない女性、言葉遣いが慎重な女性ということですね。これが第一条件です。
 第二に、「うつけ者はいやにて候」と書いてありますが、まぬけ者とか馬鹿者はダメ、つまり、賢い女でないとダメだと言っているんですね。
 それから三番目に、「見様の悪しきもいやにて候」ということで、容姿端麗でないといけないということで、気に入らなければ京に送り返すとまで言っています。
 このように非常に厳しい条件で要望しているわけですが、とにかく京都の女性じゃないとダメだと。このような文化的な背景、教養・素養といいますか、要するに、御所奉公の経験があって女筆指南をしているような女性が非常に信頼されています。能書であること、御所奉公の経験を持つということが社会的に非常に高い評価を受けていて、身だしなみとか服装だとか、礼儀作法だとか、言葉遣いだとか…。礼法と言っても色々ありますから、客として招かれた時の礼法とか、逆にお給仕をする場合の礼法とか、手紙を書く時の礼法とか、食事をする時の礼法とかですね。こういったことを一通りわきまえている。
 このように、女筆指南をする女性がどういう位置づけにあったかということが、このような資料から分かると思います。

 宝永6年(1709)の『女用文章綱目』は、万屋かめという女性が書いた用文章の序文なんですが、それを読みますと、万屋かめも、もともと女筆手本を何冊か見て、それに非常に憧れを持ったわけですね、自分もこのように書けるようになりたいと。ということで、色々な女性が書いた女筆手本を何冊も何冊も、何年も何年も練習しながら、「能書達の書きながしたる筆たてのうるはしさ、兎の毛のさき程まなびたく…」、兎の毛というのは細い、ほんのわずかという譬えですけれども、ほんの少しでもこのように書けるようになりたいという一心で、一生懸命、朝も夜も、冬の寒い時も夏の暑い時も修練したと書いてあります。

 宝永元年(1704)に刊行された『みちしば』という手本があります。元禄7年(1694)の『しのすゝき』という長谷川妙躰の手本が出ているんですが、この『みちしば』の作者は、都の人ではなく田舎出身なんですね。都では『しのすゝき』が評判になっているけれども、私は都の人間ではないので、到底その足元にも及ばないが、自分が住んでいる地元に8歳ほどの少女がいて、その子のためにこの手本を書いたのだという断り書きがあります。そして、その上巻見返しに口絵がありましてね、農村風景のあばらやの中で女性が書道を習っている図が載っているんですね。田舎者でも少しでも余裕があれば一生懸命手習いをしなさいという教訓でもありますし、実際にそのような女性もいるんですよという一つの証だったんじゃないかと思います。

 このように宝永頃には都だけではなく、田舎でも女筆を学ぶような女性たちも出てきたのでしょう。 次の頁の右上に「女筆書家別一覧」があります。これは以前に『江戸期おんな考』でも紹介した時は合計115点でしたが、その後発見されたものもあり、現在は133点になっています。そのうち一番作品数が多い長谷川妙躰が24点。少し推定も含まれていますので、実際には2、3点の誤差はあるかもしれません。そして、居初津奈が15点、小野通が8点、沢田吉が7点、以下、春名須磨などと、ずっと並んでおります。
 このうち上位の長谷川妙躰、それから、居初津奈がなぜ含まれないかと私は不思議なんですが、居初津奈はとばして、小野お通と沢田吉。長谷川妙躰、小野お通、沢田吉。この3人を、江戸後期の柳亭種彦が『足薪翁記』とか『柳亭筆記』という書物で「寛永以後の女三能書」と呼び、近世を代表する女性書家と紹介しています。
 出版点数から見ても作品数が多いので、代表的な女流書家であったことは間違いないんですが、庶民への文化的な影響などを考えていきますと、私は、やはり長谷川妙躰と居初津奈が群を抜いていると思います。

 妙躰の書はこの図録にもありますが、このように非常に独特な字を書きます。糸で引いたような連綿体の字を書きますが、妙躰流が享保前後に一世を風靡するわけですね。そして沢山の手本が出版されましたが、今日は『さゝれ石』、正徳3年(1713)の刊行ですが、当時の女筆手本の雰囲気をよく伝える例として持ってきました。原物の方がインパクトありますので、これもお回しします。

 沢田吉は『女今川』の作者と言われておりますが、『女今川』は実は二つあるんですよ。貞享4年(1687)の『女今川』と、沢田吉が書いた元禄13年(1700)の『女今川』の二つあります。後者の元禄板で原題簽が付いたものがほとんど存在しなかったために、元禄板も一般に『女今川』と呼ばれていますが、香川大学の神原文庫に『新女今川』という原題簽を付けたものがありましてね。これが私は元禄板の原題に違いないと思っています。神原文庫本には元禄13年の刊記はありませんが、中味はそれと全く同じです。恐らく沢田吉が最初に出したものは『新女今川』という書名であったと思います。多くの方はこの二つの『女今川』をほとんど区別していませんが、沢田吉が書いたのは元禄板の方です。その(元禄板の)序文を読みますと、貞享板の『女今川』を改編するのは、私(沢田吉)が書いた『女今川』の方が良いからではなくて、自分の根性の曲がっている所を直すために、自分の戒めのために書き記したのであると言っています。これを読む限り、本来の『女今川』は沢田吉の創作ではないことが明らかです。ということで、中のタイトルも『自を戒む制詞の条々』となっていますね。

 居初津奈の作品は、図録に『女実語教・女童子教』が出ていますね。これは挿絵も文字も居初津奈が書いたものです。非常にオーソドックスといいますか正統的な書ですね。非常にきれいな字ですね。妙躰ともまた趣が違っていて、非常に模範的な字ですね。

 それから小野お通ですが、(作品は)全部で8点ほどです。慶安5年の手本を最初として、その作品の多くがほとんど同じ内容で、江戸中期まで何度も名前を変えて出版されていますが、小野お通の手本は同じ板木を組み替えて出版されたと思われるものが多いんですね。慶安5年板は見たことがありませんが、寛文6年(1666)以前刊行の『女筆手本』と思われるものが私の手元にありまして、元禄板『四季女文章』も、享保(1716〜35)以前刊『女筆春の錦』も、本文の大半が同じです。ただし、多少の出入りはありますが。同じ板木が何度も何度も使われ組み替えられて、書名も変えられて出版されています。資料には『女筆春の錦』の一部を載せておきましたが。これ、何と書いてあるか分かりますか。これは和歌なんですけど、散らし書きの極致と言ってもよいものですね。要するに文字が宙に舞っていましてね、このような散らし書きも珍しいんですが、もはや重力を失って文字が宙を舞っているような感じですね。しかもよく見ると、文字の左右が逆転していたり、天地が逆転していたり、それから、筆順が全く逆から書いてある字まであります。お通は、これをつなげて全部一気に書いているんですね(一同感嘆の声)。
 つまり、お通という女性の書の素晴らしさといいますか、すごさといいますか、それを端的に表していると思います。右上から順番に読んでみますと、「風ふけば、峯にわかるゝ、しら雲の、たえてつれなき、君か心か」と書いてあります。とにかく天地左右が逆転していない通常の文字の方が圧倒的に少ないんですね。文字の反転、転倒、筆順の逆転ということで、散らし書きの極致といってよいでしょう。

 次に、春名須磨ですが、彼女も長谷川妙躰の書を学んだ女性だと思います。享保9年(1724)の『女筆いろみとり』という手本には「須磨十一歳筆」と書いてありまして、当時非常に話題になったと思います。書籍目録などにもわざわざ「十一歳」と書いて、さかんに宣伝されているんですね。須磨は播磨国佐用郡の百姓である春名小三郎の娘で、この春名家はこの地域の大庄屋だったようです。実は『女筆いろみどり』を出版した本屋は大坂の吉文字屋市兵衛と言いますが、この吉文字屋も佐用郡の春名家の一族で、このほか、材木商の春名忠成(平右衛門)も宝暦頃にやはり吉文字屋市兵衛から小説類を出版しています。同じ一族ですから、多少贔屓目があったのかもしれませんね。春名須磨11歳の筆と宣伝した背景にはそのような事情も関係していたかもしれません。

 それから佐々木照元は、原本を見たことがありませんが、元禄〜享保頃に活躍した京都の書家で、佐々木志頭磨という有名な書道家の娘です。その娘の佐々木照元、照、あるいは由也ともいいますが、彼女に対して「お前がしっかり書道を学ばないと、書流が絶えてしまうので、一生懸命修行をしなさい」と言われて修練を積み大成したというようなことが『女五常訓』という女子用往来の記事に出てきます。そして、その筆力は石をもうがつようで、とにかく筆の勢い、力強さの点で、とても女性が書いたものとは見えなかったと紹介されています。

 それから長谷川縫(三栗縫)ですが、最近ある方が早稲田大学文学部図書館を調査されまして、珍しい女筆手本類がいくつかあることを知りまして、私の見たことがないものも3点ほどありまして、その一つが長谷川縫の『女筆春の野』です。原本には三栗と署名されていますが、彼女も妙躰流だったために、目録では長谷川縫と紹介されたようです。

 そのほかに、妙躰から筆海子という書号を受け継いだ長谷川品、また、先ほど紹介した田村よい尾や窪田やす、そのほかに長谷川氏と名乗る正体不明の書家もいます。ということで、女筆手本の作者には色々な女性がいますが、残念なことにほとんど事跡が分かっていません。どのような女性であったかが分からない場合がほとんどです。そのような中で、若干の事跡が判明しているのが居初津奈であり、長谷川妙躰です。この二人についてはある程度のことが分かっています。

(3)居初津奈と長谷川妙躰

 まず居初津奈ですが、『女書翰初学抄』の序文が一番詳しい情報ですね。それを読むと、彼女は京都生まれではなく、京都から少し離れた場所に住んでいて、どこで生まれたかは分かりませんが、とにかく若い時から京都に出て書を学び、それから和歌ですとかそのほかの諸芸能を京都で学びたいとずっと思っていたわけですね。「京都に行かないと諸道は学べない」とも言っています。京都の文化的な位置づけや、京都と京都以外の地の文化的な格差の大きさが分かりますが、津奈はたまたま壮年の頃、「隙ある身」となったので、今こそ、長年持ち続けてきた念願を果たす時だと──「壮年」を言葉通り解釈しますと、30歳頃になります──こうして30歳頃京都に出て書を学び、そのほかの諸芸も学んだようです。
 それで、京都に住んでもう20年になると、その序文には書かれています。『女書翰初学抄』は元禄3年(1690)に出ている本ですから、それから逆算して、その20年前に30歳くらいだったことから推定していくと、大体寛永17年(1640)頃の生まれであろうと、多分前後はあるでしょうが、大雑把に言ってその頃の生まれということになります。
 とにかく30歳頃上京して書画を学び、40代後半には書道家・画家として活躍していたであろうと思います。先ほどの図録で見た『女実語教・女童子教』などでは挿絵も描いていますから、本の挿絵を描くということはかなりのレベルだったと言えると思います。40代には書画ともに相当の域に達していたということですね。
 そして48歳頃に最初の著作である『女百人一首』や『女文章鑑』を著しています。年代的に最後の著作は元禄8年(1695)の『女実語教・女童子教』で、52歳頃の作品と思われます。居初津奈の作品一覧ではそれ以降に出版されているものもありますが、津奈は恐らく元禄頃に亡くなっていて、それ以後の作品は津奈の遺稿を出版したものでしょう。それで、地方出身であること、それから名前が「つな」と共通していること、それから筆跡がよく似ていることから、窪田つなは、あるいは居初津奈と同一人ではないかと思っています。先ほど貞享4年板『女今川』のお話しをしましたが、年号を除いて、資料の元禄9年板と全く同じものです。

 その奥書の最後に「江州大津住窪田宗保/孫つな筆」と書いてあります。先ほどお見せした『女初学文章』は窪田やすが書いたものですが、そこにもほとんど同じ後書きがあって、そこに「江州大津住窪田宗保/息女やす」とありまして、窪田家は女筆を輩出した一族だったようです。「やす」が母で、その娘が「つな」ですね。
 大津というのは御存知のように、京都から電車に乗って二駅、京都の次が山科でその次が大津ですね。二つくらい山を越えて行きますが、非常に京都からは近い所です。直線距離で10qあるかないかという程ですね。それほど近いんですが、それでももう田舎という意識ですね。それで、都には立派な女性書家が沢山いるでしょうから、私などがこのような作品を書くのは憚り多いのですが、書肆の要望を断り切れなくてただ写して書いただけですよと述べています。
 このように当時の女性が、都で学んでいないということの引け目を感じていたんでしょうね。ですから、当時、一流の書を学ぼう、一流の芸能を身につけようと思ったら、京都にいかないとダメなんですね。
 図録の『女実語教』にある居初津奈の字と比べると、窪田つなの筆跡はよく似ていますね。この二人の「つな」という女性が同一人であるかもしれないという確かな根拠はなく、単なる憶測ですが、少なくとも似たような境遇で女筆を志していたのでしょう。

 さて、居初津奈の作品なんですが、代表的なものを3つほど紹介しておきますが、まず『女文章鑑』ですね。貞享5年に出ている初期の作品です。本文冒頭の1丁分の図を掲げておきましたが、右半分が表で左半分が裏になりますが、まず本文が大字5行で書かれていますね。
 「先度は御こしの所にふたふたと御帰にて、なに事も申さず、さてさて御残多存まいらせ候。近きうちにかならずかならず御出まちまいらせ候。かしく」と、まあ、先日いらっしゃったのに、大したお構いもしないで、あわただしくお帰りになったのはとても残念なことです、近いうちに必ずやお越し下さいというような手紙ですね。
 そこに細かい字で書かれているのは注意書きです。例えば「先度」という所には、「女性の文躰にかたし。「ひとひ」「いつぞや」「せんもじ」と書くべし」などと書かれています。「先度」というような言葉は女性が使うべきではない、漢語ですね、漢字で書く言葉でなくて、大和詞、仮名で書く言葉で書くべきであると。次の「近きうち」にもより優しく適切な表現に直すべきだという注意書きがあります。
 要するに、この右側に書いてある文章は良くない見本なんですよ。津奈はこちらを「あやまり文章」と言っています。その左側に、それを直した正しい文章を出しています。
 「日とひはまれの御出にて御座候に、あからさまにて御帰、なにの風情も御座なく、いかばかり御のもしに思ひまいらせ候。遠からぬ比、のとやかに御あそひなされ候やうに御出待ちまいらせ候。かしく」ということで、正しく女性らしい文章の見本を示して、このように書きなさいよと教えています。
 以下、全部、このように悪い例と良い例を対照させています。「正誤文例対照法」とでもいうべき方法で適切な女文の書き方を教えたものです。その最後にも手紙の書き方に関する基本的な作法に触れています。そこでも、正しい言葉遣い、女性らしい表現など、手紙の書き方が簡潔に説かれています。

 次の『女書翰初学抄』という用文章ですが、女用文章の中でもこれほど影響力を持ったものはほかにないと思います。改訂版や海賊版など非常に模倣が多いものです。先ほど居初津奈の作品を一覧にしたものを見ましたが、そこに書いてある通り、非常に改題本が多いんですね。元禄11年(1698)の『女用文章大成』から始まって、『女文庫高蒔絵』とか『女文林宝袋』とか『女通用文袋』とか、改題本だけで5本あって、元禄10年の『女万葉集』の例文もほとんどが『女書翰初学抄』の丸写しですから、全部6種類もあります。図版では改題本の『女文庫高蒔絵』が掲げてありますが、頭書の部分が「女鏡秘伝書」に変わっていますね。本文は全く同じですよね。ただ『女書翰初学抄』の方は、一つ一つの例文に細かい注釈がついています。丸付きの漢数字で対応関係が分かるようになっています。本文の語句の言い替え表現や注釈ですね。
 女子用の手紙文に関する往来物は300点以上あると思いますが、その中で、これだけ詳細な施注を施したものはほかにありません。このように注釈が徹底していること、海賊版や改題本が多いように後世に多大な影響を及ぼしたことでも、非常にユニークといいますか、重要な位置づけの往来物です。

 それから最後の『女文章都織』ですが、図は婚礼道具で書籍を調達するというテーマで書かれた受け答えの例文なんですが、色々な書物、古典籍の名前を列挙して紹介したものです。文章形式は手紙ですが、その本質は古典的教養を授けることにあります。古典の知識を盛り沢山に入れて、その内容、作者などを紹介した本なんですね。つまり、手紙文の雛形というよりも、手紙文の形だけをかりて古典を教えた教科書に近いんです。ですから女用文章の形式ですけども、純粋な女用文章とは違います。このようなものを私は「特殊消息文」と言っています。スタイルだけが消息文ですね。ですけども主眼はそこに書いてある知識や内容を教えることにあります。
 古典に関する豊富な知識や情報という点で見た場合に、この『女文章都織』に並ぶ女子用往来はないんです。これもとてもユニークですね。この1冊の往来物で実に80点の書物を紹介しています。御伽草子、物語といっても歌物語あり、歴史物語あり、軍記物語あり、説話物語あり、随筆、歌集、類題和歌集、それから女訓書ということで、様々な本を紹介しています。
 このように居初津奈の場合、非常にユニークな本を書いている。女性らしい言葉遣い、女性らしい書ということに非常に重点を置いています。それから書道も素晴らしかったが、絵描きでもあったという点ですね。

 次に、女筆の双璧を担うもう一人の女性書道家、長谷川妙躰ですね。型破りな「生字」で女筆全盛期をリードしたと見出しに書いておきましたが、妙躰は女筆の全盛時代を創った女性です。
 妙躰、貞、豊、筆海子など色々な名前がありますが、京都の書家で、少女時代から御所奉公して、12年間、妙喜尼という女性に書を学んで、引退後、京都で女筆指南をしたんですね。弟子に、長谷川品、長谷川貞寿、長谷川縫、長谷川佐野がいて、最後の長谷川佐野は私の研究仲間の先生が直筆本を入手してコピーを送ってくれまして、拝見したら妙躰の書とそっくりでした。この佐野も妙躰の弟子だったと思います。佐野については出版された手本はありません。それから資料には書いてありませんが、春名須磨も明らかに妙躰流です。須磨の作品中にも明らかに妙躰の作品から引用したと思われる箇所があります。
 このように妙躰の事跡は、図録に紹介した記事によるものですが、妙躰に関する記録はこれだけなんですね。これは『女用文章糸車』という女子用往来の中に出てきます。明和9年(1772)に出版された往来物ですが。長谷川妙躰に関して書かれた記事はこれしかありません。
 それで彼女は、元禄7年(1694)の『しのすゝき』から宝暦3年(1753)まで60年間に25点の女筆手本を書いておりまして、作品数が圧倒的に多く、活動年代も非常に長いんですね。元禄頃、居初津奈はおそらく50代から60代で、60前後で亡くなったと思われますが、その頃、妙躰は若手の女流書家として彗星の如く登場した。その当時、妙躰は20代でしょう。以来、60年間も女筆指南を続けていたわけです。

 これも研究仲間の先生が、妙躰の直筆本と思われるものを見つけましてね。かなり筆勢は弱くなっていますが、この資料が貴重なのは、最後に「筆海子/長谷川氏/妙貞七拾八歳書」と書いてあって、紛れもなく80歳近くまで生きたことが分かることです。恐らく宝暦頃に書かれたものでしょうね。妙躰は非常に長く生きて作品数も一番多く、享保期を中心にして妙躰流がブームになるわけですね。
 ですから、妙躰流を模倣した手本が色々と出たせいか、享保頃になると、妙躰も自分の手本の奥書に「筆海子の号なきものは真筆にあらざるものなり」と明記して、類書を排斥するようなことが書かれるようになります。これは類似品が多く出回ってきたので、「そのように書いてくれ」と板元から注文されたのかもしれませんが。いずれにしても妙躰が大変な人気だったことを示しています。
 しかし、居初津奈は妙躰のような書き方を良く思っていませんでした。『女書翰初学抄』の巻末で「点、引、捨、はねなどの所をながく書まじき也」と一言書いているんですね。これは「妙躰流」とは書いていませんが、元禄頃から彗星の如く登場して活躍し始めた妙躰、それは5年、10年とたたないうちに田舎にもすぐに広まり、「妙躰流」ともてはやされ、田舎でも「都では『しのすゝき』が流行して評判だ」と伝わっていたほどですから、相当に注目を浴びたのでしょう。しかし津奈は、それは正統派の書き方ではないと言いたかったんでしょう。『女書翰初学抄』の記事は暗に妙躰流を批判したものだと思います。同様の妙躰流の批判が『女千載和訓文』の中にも書かれています。
 どちらにしても非常に独特な散らし書きでして、男性にはないような書き方ですね。江戸時代の書体は御家流が基本でした。男性が書いた往来物はあまり変わりばえしないんですが、書流によって多少の差はありますが、大半が御家流でそれほど大きな変化がありません。それからすると妙躰流は、非常に独創的かつ革新的で、画一的な男性の御家流とは異なる、型破りな書法であったと言えると思います。

 それから、妙躰流の神髄を集約した言葉に「生字(いきじ)」というのがあります。享保10年(1725)『錦の海』の中に「手習の仕用の事」という記事があります。これは妙躰が自らの書論を展開した唯一の記事と言ってもよいものですが、文字には、文字の太さ細さや字形などメリハリをつけて、バランス良く書かなければ生きた字とはいえない。妙躰の譬えでは、人間の顔に凹凸がなくて瓜のようだったら、生きて働くような人間の顔ではない。手足が棒のようでは美しくも何ともないというわけです。文字のすみずみまで神経が行き届いているというようなことでしょうが、このような字を「生字」と呼んでいます。
 それで「生字」というのは、妙躰が最初に言った言葉なのかなと思っていましたが、色々と調べておりましたら、元禄6年(1693)の『手習仕用集』の中にも出ており、書道の世界では一般に使われていた用語のようです。文字に勢いがあってよく動き、魂がこもっている字、生命がこめられた字が「生字」である、逆に、点画のバランスがとれていない字は「死字」だと言っています。その中間ぐらいを「病字」と言うのだと、書道の世界では使われていたみたいですね。

 このように妙躰と津奈の二人の書家、津奈は確かに妙躰のような書を批判していますけど、共通点としては、女筆を基盤として女性らしさ、あるいは女性の自己主張といいますか、女性らしい文化や女性らしい言葉遣いなどを、女性が女性に対して主張した、女筆手本などの出版物を通して発信していったという点では共通するのではないかと思います。

(4)女筆の時代の意義

 このような女筆の時代の意義としては、享保期をピークとして100年間が女筆の時代で、この時代に女流書家が輩出したことです。女筆手本を見て、このように書けたらいいなと修練した女性が、やがて大成して自ら女筆手本を出すという例、先ほどの万屋かめのような例がありましたし、それからわずか11歳で女筆手本を書いた春名須磨という女性もいました。このような女性達が続々と登場したわけです。
 その背景に何があったのかを考えてみますと、「仮名文化崩壊への警告」ということがあったと思うんですね。どうしてかといいますと、元禄頃から仮名文化などの伝統的な文化がどんどん壊れ始めているという危惧を指摘する意見が色々と出てきます。
 一つは元禄5年(1692)の『女重宝記』で、苗村丈伯が書いたものですね。そこに「女中はかりにも男の書たる手本、よき手なりともならひ給ふべからず。男の手をならひたる女筆は、筆だてするどにみへ、文章も何としても男らしき事間々あるものなり。よき女筆を手本とし給ふべし」と書いてあります。
 『壺の石ぶみ』という女訓書にも、真名、つまり漢字は男子が「裃(かみしも)」を身につけたようなもので、仮名は女性が着飾ったようなものだとして、それが逆になったら、つまり、女性が裃を着て、男子が下げ髪などをしたらふさわしいといえますかと言っています。
 それからこれにならったものでしょうが、宝永2年(1705)の『女筆子日松』という手本がありまして、女性が男の筆に学ぶと、言葉が巧みでいやしくなる、「つよからぬ女に上下のはかまきせたるがごとし」とあり、最近の手本が男筆に近くて、美しくないと指摘しています。御所方の人にそのようなことを教わった『女筆子日松』の作者が、20年かけて女筆の模範的な書を集め、それを写して書いて『女筆子日松』という手本を出版したんですね。
 同様に、宝永4年(1707)の『わかみとり』にも「世間に板行の女筆数多有之といへ共、多くは男筆にて、児女の手本に成かたし」とあります。

 また、伝統的な文化の喪失という点で言いますと、慶安3年(1650)に出版された安原貞室の『片言』の中にですね、これは言語に関して色々書いた本ですけど、その中に、都の言葉は昔は良かったけれども、いつのまにか田舎言葉が混ざってきて、悪くなってきたと書いてあるます。都の文化が地方へ広がり、地方の文化が都に入ってくるといった文化の交流が進めば、当然、伝統的なものやその地域に独特な文化が段々と崩れていくわけですね。この作者も、京の文化がどんどん崩れていっていて、特に言葉の乱れはひどいと言いたかったのでしょうね。それで、そもそも、このような京都の風俗の乱れは、応仁の乱に始まったんだと言うわけですね。
 それから、先ほども出ました『女重宝記』にも、当時の都の流行が、京都の女性本来の「艶にやさしき」風とはかけ離れた「下女、端(はした)の風」であると書いてあります。要するに、京都本来の文化が変質している今、今と言っても元禄時代ですが、地方からやってきた人が、その当時の京都の様子を見て「これが京都か」と誤解されるのは、全く「花の都の恥」であると言っています。
 ですから、居初津奈が京都に行ったのは元禄時代よりも前ですが、そのように地方の人が京へ行きたい、行きたいと思って上京しても、そこにあるのは、地元の人からすれば本来の京都の文化ではないという意識があったんでしょうね。
 そのほか『婦人語の研究』で有名な真下三郎先生も、元禄から宝永頃に女房詞が庶民へ普及していったと述べられていますが、御所など上流社会の言葉がどんどん庶民に広がっていったわけですが、その過程で言葉も徐々に崩れていったんですね。御所言葉が御所から一歩外へ出て広がっていった時に、それは一方で言葉の変質という状況につながっていったと思います。

 資料に「女性と漢字の奇妙な関係」と書いておきましたが、女筆手本では、女性は男言葉を使うべきではない、漢字をあまり使うべきではないという考え方が一般的でした。『女重宝記』でも女性は漢字の知識は必要でも、会話や手紙には使ってはいけないというようなことが書かれています。同様に宝暦9年(1759)の『女千載和訓文』にも同じように「漢字を知っていても、決して使ってはいけない」と書かれています。知っていてもよいけれど、使ってはいけないというのですね。この考え方は明治になってもずっと続いていました。
 その中で珍しく例外的なのは、天明9年の『女文章四季詞鑑』で、これを書いたのは男性でしょうが、挿絵は北尾政美という有名な画家ですが、当時の版下は一人の画家が挿絵も文章も全部書いてしまうことも少なくないので、全て北尾政美の創作とも思われます。
 これには、たとえ女性であっても、人名や地名を記載する時には適度に漢字を使うべきだと書かれています。その理由は例えば「四郎兵衛」や「次郎兵衛」は、平仮名では濁点の有無で区別がつかなくなりますし、「ひとつやなぎ」も漢字で書けば「一柳」と2文字で済み、漢字を使う方が間違いが少なくて合理的だし、書く文字数も少なく無駄がないと主張しています。
 これはどちらかと言えば例外であって、女性には漢字がなじまないとするものが大半でした。

 しかし実際に、女筆手本と女用文章の漢字使用率を比較してみると、面白いことが分かります。一つの手紙文の中で漢字と平仮名の文字数の比率がどのように変化するのかを調べてみました。女筆手本は仮名文字が主体ですから、美しく書いて見せる書ですから、漢字よりも仮名の方が適しています、散らし書きにしても何にしても。従って、漢字使用率に時代的な変化があまりありません。
 ですけども女用文章は違います。漢字使用率が段々上がってくるんですよ、江戸中期よりも江戸後期なればなるほど。漢字の使用割合が高くなってきます。女用文章の最初の手紙文1通について調べると、江戸前期の漢字使用率は13〜37%ですが、江戸後期になると30〜46%でした。
 女用文章は実用本位に編まれていますので、日常使う手紙の模範文ですから、実生活に即した形で作られることが多いわけです。その女用文章において漢字を使う割合がどんどん高くなっているのは、裏返して言うと、女性の生活の中で漢字を使う頻度が高まってきた、あるいは女性の言葉の中や、女性の言語生活の中に漢語や漢字が増えていった結果、男が使うような言葉を女性も共通して使うようになっていったということが言えると思います。それから女用文章はほとんどが男性が書いたものですから、男が書いた女用文章というのは、自然と漢字を使う割合が高くなったり、男性語や男性的な表現が徐々に入っていったのかもしれません。
 そして、江戸後期の嘉永頃に出た『女用文章袖硯』にも面白い記事があるんですけど、そこに漢字に振り仮名を付ける理由が書かれているんですね。女性の手紙文は仮名主体で書くべきだが、ここには文字──ここで「文字」というのは漢字のことですが、とにかく漢字を覚えるために、あえて漢字を多めに使っているが、実際に書く手紙は仮名書きが望ましいというようなことが書かれているんですね。この女用文章の文例では、漢字をわざと沢山使っていますよ、それは漢字を覚えてもらうためです、だけども普段使う場合にはなるべく平仮名を多く使うようにした方がよいというわけですね。

 明治になると、漢語化はさらに進みました。明治11年(1878)の『女日用文例』を見ますと、極端に漢語化された女子消息文とありますが、本当にこれが女子の手紙文なのかと思うような例文です。「新年の御吉慶千里同風目出度祝納候…」とまさに男性が書くような手紙ですね。最後が「恐惶謹言」ですから。この『女日用文例』は全部こんな感じの文章なんですね。このような極端な例もありました。
 しかし、同年代の女用文章にも、女性はインテリでも漢語はあまり使わない方が良いとか、普通の人の前で西洋言葉は使うべきではないといった心得が書かれています。要するに、相手に分からない言葉ではなく、相手に分かりやすい言葉を使った方が、優しく見えるとか、柔和だということもあるわけですね。そういうことで、江戸時代以来の理念が明治になっても払拭されずに遺っていたということです。

 このように、近世から近代へと時代が移り変わってきた時に、女筆文化はいかなる変遷を遂げたのか、つまり、女筆の文化は継承されたのか、それとも消滅したのかということですが、一つは女性らしい言葉遣いをするべきだという考え方は近代にも受け継がれました。それから、簡潔な女性書札礼ですが、これも大元を正すと、まず居初津奈が女性の手紙の書き方を10箇条にまとめました。女性の手紙の書き方についての教訓は慶安3年の『をむなかゝみ(女鏡秘伝書)』にも出てきますが、そこでは例えば相手の身分に応じて6段階くらいに書き分ける、差出人の名前と宛名人の名前の高さを微妙に変えたり、文字のくずし方によってこれも6段階くらいに書き分けたり、そのほか細々とした作法がありました。それを居初津奈はたったの10箇条にまとめてしまい、そこで津奈自身も言っていますが、女性はそんなに詳しい作法を知らなくてもよいと、大事なことは女性らしく正しい言葉遣いであって、あまり身分に応じて6段階に書き分けるようなことをほとんど求めていません。つまり、身分差よりも性差を重視しているんですね。
 男性側では得てして複雑な書札礼が展開しがちだったのを、簡潔なものに切り替えたのが居初津奈であり、長谷川妙躰であったわけです。居初津奈の作った書札礼などは、明治期に出た女性教養書(明治30年(1897)『日本女礼式大全』)などにもほとんど丸写しされています。元禄期の書札礼が、ほとんど文言を変えずに明治後期の活字本にも載っているんですね。

 それから例文の多様性なども近世でも近代でも同様です。また、漢字や漢語の使用は近代に入って強化されたものもありますので、これも受け継がれています。
 結局、近代に入って消えていった最大の女筆文化というのは、散らし書きなんですね。明治30年代に入ると散らし書きが消えていきます。というのも、これらの女用文章や手本が木版刷りから活版印刷に変わります。すなわち、文字が活字になった時点で、もうくずし字や連綿体は表現できません。ましてや散らし書きなどは文字の大きさや、くずし方を変えるといったことが必要ですが、こいうったことを一切切り捨てないと活字にならないわけですよ。活字によって散らし書きは完全に消えることになりました。

 こういったことを踏まえて、最後に「女筆の時代」の意義をまとめてみますと、第一に女性独自の文化が展開した時代であるということです。文化的な側面からの特徴ですが、女性が女性らしい書、女性らしい言葉遣い、女性らしい書札礼、そして妙躰のように男性にはない革新的な書などですね。高尾一彦さんも女筆は女性文化の向上を示す重要な指標の一つだと指摘していますが、特に、女筆の時代はそのような文化が特に庶民を含む幅広い層に広がっていった点が重要だろうと思います。小野お通も非常に女筆文化において重要な役割を演じましたが、お通の場合はまだまだ上流社会が中心だったと思います。その点、妙躰や居初津奈の働きは庶民階級も含む広い層の女性に影響を与えたわけです。
 二番目に、女性が書筆を通じて自己主張した時代という、意識的側面の特色です。女性が書の才能、能書であることを含めて、とにかく自分の才能を武器にできた時代でした。書に優れていることで、立身出世のチャンスが与えられたということですね。そして、自己主張の一つの例として、女性が自らの作品に署名をするようになったことがあります。このような動きは、少なくとも出版物では女筆手本が最初だったと思います。ただ、窪田やすや窪田つなには「都にはよろしき女筆あまたおはしますへけれは…」といった遠慮がありますが、女筆の黄金時代である長谷川妙躰の時代になりますと、「筆海子の号なきものは真筆にあらざる者也」ということで、さらに自己主張の強い姿勢が見られるようになります。
 それから第三に、女性が社会進出の可能性を広げた時代というふうに言えると思います。江戸時代後期の文政4年(1821)に出た『筆道師家人名録』というのがありますが、これは江戸市中の書家の人名録ですね。そこに書流とともに書家の名前と住所が書かれたありますが、御家流を数えると375人の書道家の名前が乗っていますが、そのうち120人が女性です。大雑把に言って約3分の1が女性。このことはちょうど江戸後期の江戸の寺子屋の3分の1が女師匠であったと言われますが、それともよく符合することです。
 江戸後期にはかなりの女性が社会に進出していったと思われます。そのほかの人名録などを見ても、12歳とか、7歳といった本当に若い世代が書道家として名前を連ねていて、これらの本は書道の師範を探す際のガイドブックで、師匠の名前や住所だけでなく、中には似顔絵なども載っていますから。そこに7歳の女子までが入っているわけです。
 このように、女筆文化や女筆手本の影響によって、女性の社会進出も確実に進んだのではないかと思います。



配付資料 1〜3頁 (PDF 416KB)

  配付資料 4〜6頁 (PDF 1.08MB)

  配付資料 7〜9頁 (PDF 203KB)

講演録(全部) (PDF 256KB)