往来物関連情報(柱)

■10/6、教育史学会・第46会大会のコロキュウムで発表しました。(2002-10)

 
2002年10月5〜6日、中央大学多摩キャンパスで開催された教育史学会・第46会大会の2日目のコロキウムで発表しました。

概 要


 【日 時】 10月6日 16:15〜18:15

 【場 所】 3107 (文学部棟 3号館 1階)

 【テーマ】 教育史教材作りの工夫 ─ 図像の資料的価値と教育的効用を考える ─

 【オルガナイザー】 宮澤康人 (放送大学)

 【報告者】 小泉吉永 (現代けんこう出版)/ 佐藤秀夫 (日本大学)

 【設定趣旨】
 「歴史学革命」とも呼ばれる、フランスのアナール派の方法論のなかに、図像資料の積極的利用を中心とする資料革命の主張が含まれていたことはよく知られています。ところがその後、それに沿った研究蓄積は、教育史の分野に限らず、十分ではないようです。文学史料中心主義の呪縛から歴史家が解放されることの困難さのせいでしょうか。

 一方、日本ほど古い図像史料が豊富に残っているところは少ないと言われます。とくに子供の多様な姿が表現されていることでは、世界に類を見ないほどであるとも聞きます。それを教育史の人たちはなぜ活用しないのだろうか、と日本史の横井清さんたちは不思議がっているそうです。

 図像資料を研究的に、また講義用教材として利用することは、様々な可能性が含まれていると考えます。それをめぐって、原理的なことから、実際的なことまで、いろいろな経験やアイデアや情報を交換して、将来、図像資料のデータベースを作るための基盤が生まれるといいと思います。



私の発表 「往来物における絵図資料の活用について」 要旨


 
*当日の発表は、近日中に全文を掲載する予定です。

 近世資料として、特に往来物(刊本)の絵図を取り上げました。配付資料に使用した絵図は、私が大空社編集部時代に携わった『江戸時代女性生活絵図大事典』と『絵図集成近世子どもの世界』(いずれも大空社刊)で扱ったものが大半で、そのほか絵図掲載の理由などを探るため、家蔵の往来物・心学書など約4500点を全て点検して、気付いた点などを発表しました。

(1)絵図と往来物

 絵図に対する教育的関心は、中村タ斎編、寛文6年(1666)刊『訓蒙図彙』のころからで、本書は日本最初の絵入り百科事典などと呼ばれていますが、当時、ヨーロッパで広がりつつあった世界最初の子ども絵本、あるいは世界最初の絵入り教科書と言われるコメニウスの『世界図会』(1658年)と、ほぼ同じ頃に刊行されています。
 これ以後、『訓蒙図彙』を始め、絵入りの往来物や絵本が子どもの教育に効果的であること、学問への動機付けに最適であることなどを、貝原益軒、湯浅常山、江村北海などの指摘もあり、出版物における絵図も増えていきます。
 往来物に関して言えば、まず、『女訓抄』『女鏡秘伝書』などの女子用往来から絵入り本が登場します。これらは、「仮名草子」に分類される仮名書きの女訓書ですが、他の往来物に比べ、初版本が登場してから、絵入りになるまでの年代が比較的短いのが特徴です。刊記を見る限り、これらの女訓書は万治年間に絵入り本になったようにも見えますが、書籍目録では寛文末年、むしろ延宝期頃に絵入り本が盛んになっていっている様子が窺われます。
 寛文年間と言えば、いわゆる「赤本」と呼ばれる子ども絵本が誕生した頃であり、まさにその頃から子ども向けの絵本、絵入り本が増えていった感があります。このあと、出版された往来物を見ますと、元禄期には非常に多くの絵入り本が出ており、出版市場でのニーズの高さを思わせます。
 さて、これらの往来物になぜ絵図を入れたのかを、往来物の序文や書籍広告に探ってみますと、大体、5つくらいの理由に整理できます。
 第一に、児女(女・子ども)の興味と理解
 第二に、児女以外に幅広い読者の興味と理解
 第三に、直観的な理解
 第四に、言葉で説明しきれない場合の補足
 第五に、絵手本としての活用
 このうち最後の用途は注目すべきだと思います。後述するように、往来物の絵図には模倣も多く、往来物の絵図を「絵手本」になること、つまり、絵図の模倣を積極的にPRしているわけです。現在の著作権とは全く反対の発想です。

(2)絵図の変化と模倣

 数多くの絵図を見ていきますと、類似した絵図が多いことや、その中にも多少の変化が見られることに気付きます。時代が変われば風俗も変わります。その変化に伴って、往来物の絵図が意図的に「当世風」に改められていった事実を見つけることができます。例えば、資料にありますように、『女重宝記』や『女小学教草』の例や、近世から近代への移行する過程での西洋化に対応して、書名や挿絵を改めた『童蒙道のおしへ』などの例もあります。
 また、個々には金閣寺の例をあげていますが、風景画なども江戸初期から末期にかけて随分、写実的なものになっていきます。遠近法や鳥瞰図といった絵画表現も導入された結果、かなり写実的になっていきます。金閣寺の頂点にあるシンボルの鳳凰の大きさに注目して頂ければ一目瞭然です。享保頃の鳳凰はあまりに大きくシンボリックに描かれていますが、安永頃にはかなり実際の縮尺に近くなりますが、それでもまだ実際のものよりもも大きく描かれています。
 それから、往来物の中だけでも、絵図の模倣はかなり頻繁に行われており、前述の「絵手本」として、既刊の往来物を後続の往来物が模倣することは日常茶飯であったようです。
 例えば、『女教艶文庫』から『女小学身持扇』のように、記事から絵図までそっくり模倣するという例があります。このように仙台板では、江戸板や上方板の模倣が相当行われています。
 また、『童子教画本』の猿回しの絵も、『女大学出世文庫』に模倣されていますが、こちらはやや構図を変えています。どこが違うでしょうか。絵図の持つメッセージや描かれた意図を探るアイコノロジー(図像学)という学問があるそうですが、そのような視点からこの絵を読み解いていくと、この両者は似ているようでも、表現のレベルに置いてはかなり違うものと言えそうです。
 すなわち、正月の縁起物である「猿回し」を暖かく迎え入れる女性達の反対側に、犬を描いています。「犬猿の仲」と言われるくらいに仲が悪い犬が去るに向かって吠えたてています。この猿を描くことによって、女性達や子ども達に喜ばれていることを協調しようとしたのではないでしょうか。絵を味わうという意味からすれば、やはり『童子教画本』を描いた岡田玉山の方が一枚上手だったようです。模倣は模倣以上の何者でもなく、オリジナルとはどこか違うということの一例だと思います。
 『女大学宝箱』から『百姓往来』のように、女子用往来から男子用の往来に影響した例もあります。『女大学宝箱』は本文の「女大学」ばかりが凝視されていますが、本文以外の前付・後付・頭書にも重要な意義があります。近年、そのような指摘も徐々に出始めています。
 また、決まった表現形式があって、それが伝統的に模倣されてきたという側面も見られます。『いろは歌絵抄』と『実語教童子訓』の挿絵は、ほとんど透き写ししたくらいに同じように描かれています。
 さらに、かなり強引に二つの絵図を合成して一つにしたという『菅神御一代文章』の口絵の例もあります。手習師匠をむりやり菅原道真に見立てた男性図に取り替え合成したため、子ども達の視線と道真の視線がまるでかみあいません。
 このほか、表現形式の固定化としては、二十四孝の例のように、おきまりの形があったようで、逆に言えば、このような形が決まっていることで、特に説明がなくても大方の読者が理解できたものと思います。
 また、『女大学宝箱』では各年代で挿絵が微妙に変わっていきます。それを模倣した往来物もいくつかありますので、どの版を模倣したのかという関連を繙くこともできるかもしれません。

(3)絵図資料活用のヒント

 以上のように、往来物の絵図からも色々な問題意識が起こってきますが、思いつくままに列挙すると、次のようになります(詳細はレジュメ参照)。
○集まれば絵図の意味も見えてくる。
○一枚の絵図をどう捉えて索引化するか。
○説明のない絵図から当時の常識を推測できる。
○絵図には意外な情報が含まれている。
○刊記の限界を補う絵図の可能性。
○読者対象に合わせて描き方も変わる。
○時空を超越した非現実的な絵図もある。
○遊戯性・娯楽性を兼ねた絵図もある。
 このほか、レジュメに出していませんが、浮世絵などには、「見立て絵」による風刺・政治批判や、紅一色で刷られた「疱瘡絵」のように呪術的な絵、一種のまじないのようなものもあります。子ども絵本「赤本」の赤い表紙にも魔よけの意味があるようです。赤は疫病神が嫌う色として信じられたからです(現代でも、「赤」は生命力にあふれたエネルギッシュな色として使われます)。もしかしたら題簽を赤刷りにした往来なども、そんな気持ちが込められていたかもしれません。

●まとめ

 このように、絵図資料は文字資料を補完するものであると同時に、文字資料にはない情報を多分に含むもので、絵図資料の活用によって新たな視点や比較研究への可能性はさらに広がると確信しています。
 そのためには、文字も絵図も含む資料全体の把握が大切であって、翻刻だけでなく影印、できれば原本に当たって資料全体を理解していくことが大切だと思います。
 また、絵図資料も、単に浮世絵、しかも特定の年代の特定の浮世絵に限らず、あらゆる年代のあらゆる絵師の浮世絵をデータベース化していくこと、浮世絵だけでなく版本・写本などの絵図についても同様のデータベース化が大きな課題になります。
 例えば、「子ども浮世絵」というジャンルがありますが、稲垣進一氏によれば、子どもを描いた浮世絵のうち現存最古のものは、奥村政信が描いた宝暦頃の唐子絵で、現存しないが、このような子ども絵は正徳頃にも出回っていただろうと推定しています。ところが、現存の往来物では、山本序周作・享保4年刊『文林節用筆海往来』や寺田正晴作・享保5年刊『諸職往来』に既に唐子絵が見られ、現存の浮世絵よりもさらに早い例を見つけることができます。
 このように、芸術的な観点で優劣をつけずに、色々な絵図をデータベース化していくことが必要ですが、これはなかなか難しいことでしょう。少なくとも、版本には『国書総目録』のような検索ツールがあるように、絵図についても、何らかの標準的なデータベースの形式、あるいは索引化の方法論を確立していくことが重要ではないでしょうか。
 いずれにしても、往来物を見る限り、近世庶民の「言葉遊び」や「絵図の遊び」は、現代人よりもはるかに豊かなで、楽しいものだったと思います。



配付資料(PDFファイル)
  ・
1〜4頁 (218KB)
  ・5〜6頁 (1039KB)
  ・7〜8頁 (1278KB)
  ・9頁 (675KB)
  ・10頁 (1369KB)
  ・11〜12頁 (736KB)