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*金沢大学社会環境科学研究科に提出した学位論文要旨です(ただし図版は別)。 |
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論文題名 | |
近世の女筆手本 ─ 女文をめぐる諸問題 ─ |
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英文題名 | |
The Calligraphic Model Textbooks for Women
in the Edo Period── On the Various Problems Relating to the Female Epistolary Writing |
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英文要約 | |
This thesis aims at presenting a comprehensive exposition on the calligraphic model textbooks for women published during the Edo period, on the basis of a close examination of most of the extant materials on this subject, rather than a partial study which the existing works tend to be. |
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和 訳 | |
本論文は、従来の論考が部分的研究であるのと異なり、江戸時代刊行の女筆手本について現存本の殆どに対する綿密な調査に基づいて総合的な説明を試みたものである。 |
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学位論文要旨 | |
昭和六二年(一九八七)四月から往来物の蒐集と研究を始めて今年で足かけ一二年になるが、この数年来、強い関心と問題意識を抱いてきたのが「女筆手本」であった。 だが、女筆手本に関する論考は極めて少なく、私の疑問に十分に答えてくれる文献に出会うことはなかった。女筆手本に触れた若干の論考も、論者によって女筆手本の定義や範囲がまちまちであったり、限られた数例から一般論を展開しようとしたものが大半であった。 従って、現存する女筆手本(女性筆の手本は約一二〇点刊行されたが、その半分は現存しない)をつぶさに実見して、その全体像を明らかにすることが、本研究の動機となり目標となった。 そして、女筆手本類に関する重要な五つの論点──すなわち、第一に「女筆」という言葉の意味、第二に「女筆手本」の範囲と類型、第三に女筆手本類に特有の「散らし書き」と書止語「かしく」の用法、第四に女筆手本類の筆者(女流書家)、第五に女性書札礼──が本稿の柱となっている。 まず、「女筆」の意味するところである。江戸前期刊本の場合、題簽に「女筆」とあるものは、実際に女性筆を示す場合が圧倒的に多い。最初の書籍目録たる『万治二年書目』に既に「女筆手本」の書名が見えるように、「女筆○○」と称する手本は江戸初期から登場して元禄頃から目立ち始め、最盛期の享保期には軒並み「女筆○○」の書名で出版された。 しかし、女性用手本の全てが女性筆というわけではなかった。男性筆でありながら「女筆」と称する元禄六年(一六九三)刊『女筆四季文章』の如き手本が存在したように、早くから「女筆○○」の書名には「女性筆」と「女性用」の二つの意味が混在していたのである。そして、「女筆○○」と銘打った手本が盛んに刊行されたのも宝暦頃までで、やがて書名からも「女筆」の二字は消えていき、同時に女性書家による手本も激減していった。女筆手本類の変遷上、女筆と男筆は興味深い対照をなすのであり、宝暦頃を節目にして「女筆」の時代から「男筆」の時代へと突入していくのである。 「女筆」に関する従来の研究に見られる問題点の一つは、女筆手本を全て「散らし書き」あるいは「女子消息文(女文)」に限定することである。これらは女筆手本に多く見られる特色である。しかし、全文が「並べ書き」の手本や、『女今川』のような「非消息文」の手本も決して少なくなく、また、一見女文でもその実は諸知識や心得に重点が置かれた「特殊消息文」も多いのである。このほか、目的・用途・編集形式等において基本的に異質である「手本」と「用文章」を区別することで、女筆・男筆との関係やそれらの盛衰も浮き彫りになるのである。 ■女筆子日松 そこで、女筆手本・女筆用文章・女筆往来物・男筆女用手本・男筆女用文章の五類型(本稿ではこれらを「女筆手本類」と総称)から分析すると、次のような出版動向が明らかとなる。 (1)女筆手本…江戸初期から江戸中期(宝暦頃まで)にかけて約八〇点刊行。ピークは享保期。 (2)女筆用文章…(1)と同様の推移を辿るが、刊行点数は(1)よりも少なく、約三〇点。 (3)女筆往来物…特にピークは見られず、江戸中期に六点ほど刊行。(1)、(2)に比べごく少数。 (4)男筆女用手本…宝暦以降がピークで、江戸中・後期に約三〇点刊行。 (5)男筆女用文章…江戸中期(宝暦以降)から江戸後期にかけて約九〇点刊行。 すなわち宝暦頃を境に、一つは「女筆」から「男筆」への移行、もう一つは「手本」から「用文章」への推移が明瞭となる。そして、「女筆」は「手本」中心、「男筆」は「用文章」中心であることも判明する。この変化は実用性の重視や出版物の庶民化傾向に連動するものであろう。 元禄五年(一六九二)刊『女重宝記』や宝永二年(一七〇五)刊『女筆子日松』序文に見える「女筆」の強調は、女筆における書風の変化や女筆の男性化現象に対する警告であったと見なせるが、この頃から女筆手本の出版が盛んになっていくのである。そして、まさにこの時期に活躍した女流書家が居初津奈であった。津奈は、元禄三年(一六九〇)刊『女書翰初学抄』や元禄八年刊『女実語教・女童子教』の作者として知られるが、彼女は往来物史上、最も重要な人物の一人であり、筆頭にあげるべき女性啓蒙家であった。 もとより、女筆手本類の作者に関してわれわれが知り得る情報は極めて乏しいが、近世女筆の双璧たる居初津奈と長谷川妙躰については、その作品群や周辺資料からの断片情報により事跡や理念へのアプローチを試みた。 まず、居初津奈では『女文章鑑』『女書翰初学抄』『女文章都織』の三点に焦点を当てた。貞享五年(一六八八)刊『女文章鑑』では「正しく女性らしい言葉遣い」が強調されたが、これは津奈の他の著作にも共通する理念であった。また、『女書翰初学抄』は女用文章中最も詳細な施注や簡潔な女性書札礼などの点で優れたものであった。本書の影響下に編まれた数々の類本の影響も考えると、『女書翰初学抄』ほど多くの女性に読まれた女用文章はないと言える。本書が並々ならぬ普及を見せた理由は、(1)実用性の高さ、(2)女性自身の著作、(3)性差の強調に対する身分差の超越の三点に帰することができよう。さらに延享四年(一七四七)刊『女文章都織』は、女文の体裁で古典の教養を記した「特殊消息文」であった。その方法論に斬新さはなかったが、『太平記』等の軍書を含む幅広い分野の古典的教養を女性に求めた点が異色であった。 このように、津奈の著作は独創的かつ個性的であったが、一方、女筆手本の最多作家である長谷川妙躰は、女筆手本類の普及に最も顕著な働きをなした人物であり、従来の正統的女筆の信奉者には受容されないような独特な散らし書きで一書流をなした女流書家であった。 彼女の手本は元禄七年(一六九四)刊『しのすゝき』を最初として宝暦初年まで六〇年間にわたって刊行されたが、その筆法の独自性や作品数の多さに反して、内容面での特色はあまり見られない。わずかに享保一〇年(一七二五)刊『錦乃海』の「手習の仕用の事」に筆道理念の一端が窺えるばかりである。同書で、妙躰は「女性には女性らしい書き方があるが、常に柔和一辺倒の筆致ではならず、緩急自在で変化に富みながら、なおかつ全体の調和がとれた生字でなくてはならない」と述べているが、この「生字」こそ妙躰流の真髄であった。 津奈が、文字の「点、引、捨、はねなどの所をながく書まじき也」(『女書翰初学抄』)と述べたのは、恐らく、元禄頃から流行し始めた妙躰流に対する批判であろう。女文の理想を「やさしさ」に求めた津奈と、それを「やわらかさ」に見出した妙躰には共通する面も見られた。しかし妙躰は、「やわらかさ」を基調としながらも、文字に込められた生命、点画や字配りにおける変化と調和を第一義としており、芸術家として書を追求する姿勢が強かった。 享保期をピークとする約半世紀間は女筆手本類の黄金時代で、この時期に女流書家が輩出し、多くの女筆手本が出版された。しかし、より重要なのは、女筆の盛況が庶民に潜在していた逸材を掘り起こしたことである。わずか一一歳で『女筆いろみどり』を書いた天才少女・春名須磨は、実は播州佐用郡新宿村の百姓の娘であった。彼女らの俊才を世に知らしめたのは書肆の功績が大きい。書肆は出版すべき能書の筆跡を求めてやまなかったのである。 さて、女筆手本に頻出する「散らし書き」と「かしこ(く)」については、多くの例文を掲げて縷々論述した。「散らし書き」は平安中期以降の貴族社会に広がっていた書法であったが、やがて武家女性にも波及し、江戸時代には女筆手本類によって庶民にも普及した。しかし近世では、中世以来の諸様式に拘泥することはなく、何段にも分ける複雑な散らし書き(返書)など独自の展開も見せた。また、散らし書きには特別な感情が込められることが多いため、男性宛ての手紙には不適当とされ、逆に、祝儀状には好まれる傾向も見られた。このほか、散らし書きは芸術性の涵養にも役立ったと思われる。 中古以来の「穴賢」から派生した「かしこ(く)」は、近世では「めでたくかしく」が最も一般的な形となったが、準漢文体書簡における「恐惶かしく」「恐々かしく」や、女筆手本類における「かしく」の重複的使用など、特殊事例もあった。また、「かしこ」の用例と関連して弔状の変化を見たが、江戸後期には、忌明後に送るべきとされた弔状の礼状が比較的短期間のうちに書かれたことを示唆する事例や、弔状における実務的な文面や香奠の具体的記載が目立つようになった。 中世において女性書札礼はほとんど編まれることはなく、男性から女性宛ての手紙の作法が女文にも反映されたと考えられる。室町末期頃の女性礼法書『女房進退』『女房筆法』中に見えるのが女性書札礼の先駆的事例とされるが、当時の礼法書は秘伝書的性格が色濃く、また、ごく限られた女性のためのものであった。一方、近世最初の女性礼法書である万治三年(一六六〇)刊『女諸礼集』は、女性礼法を公開し、武家から庶民へと広がる契機をもたらした点で重要な意義を担うものであったが、本書には女性書札礼は含まれていなかった。 だが既に慶安三年(一六五〇)刊『をむなかゝ見(女鏡秘伝書)』には、従来にない詳細な女性書札礼が見られた。上輩・中輩・下輩など六階級の尊卑別例文を掲げた具体性や、現実的で行き届いた注意など、本書には近世の女性書札礼の特色が顕著であった。また、元禄期、居初津奈の「文かきやうの指南十ヶ条」は必要最小限の書札礼を的確にまとめており、近世では最も普及した女性書札礼であった。他方、長谷川妙躰の「女中文書やう心得の事」(実質八カ条)もコンパクトな書札礼であり、後続の書札礼に影響を与えた。このほか、元文六年(一七四一)刊『女消息華文庫』や寛延四年(一七五一)刊『女諸礼綾錦』、天保一二年(一八四一)刊『新増 女諸礼綾錦』などの書札礼も、先行諸書に感化されながらも独自の内容を含んでいた。 いずれにしても、これら近世の女性書札礼の特色は、(1)書札礼の庶民化、(2)男女差の強調、(3)実際的・具体的記述に見出せる。すなわち、庶民は武家社会の書札礼をそのまま受容したのではなく、庶民の実情を踏まえながら適宜修正を加えていったのである。 |
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