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「江戸期おんな考」9号所収論文

近世女文における「かしこ」
――女筆手本類からの一考察――


*実際の論文には多くルビが付されているなど小異があります。また、「 」書き以外の引用文(改行字下げ部分)は前後一行を空けて、引用箇所を紫色で表現しています。
*なお、JIS外字が原則として再現されていない点にもご注意下さい(やや繁雑ですがある程度再現可能です。この点に関しては個別にお問い合わせ下さい)。


 はじめに

 近世の女筆手本類(以下「女筆手本」と「女用文章」の双方を含めて「女筆手本類」と呼んでおく)に必ず出てくる「かしこ*一 」は最も重要な書簡用語の一つである。
 書止語の「かしこ(かしく*二 )」はいつごろから使われ始め、いかなる変遷を辿って今日に及んだのか、また、書簡作法上の位置づけや意味合いはどのようなものであったのか。これらは、女筆手本類に強い興味をおぼえると同時に、筆者がこの数年間抱いてきた疑問である。
 本稿では、近世の女筆手本類を手掛かりに「かしこ」をめぐる諸問題──具体的には「かしこ」の重複的使用、弔状(女文)における「かしこ」、また準漢文体書簡(男文)における「かしこ」など──について若干の考察と問題提起を試みたい。

 一 「かしこ」の変遷

 「かしこ」の語源には二つあり*三 、年代からいって古い方は鎌倉時代の辞書『名語記』の「アナタカシコシ」の意とする説だが、しばしば引き合いに出されるのは室町時代の辞書『下学集』下巻(言辞門第十七)に載る説で、女子用往来では後者によったものが多い。
 例えば、元禄二年(一六八九)刊『やしなひ草(婦人養草)』巻第五「二三、女の文にかしくの字かく事」には、

「かしく」の文字、女性の文のとまりに書事、その故有。穴賢と云儀なり。しかるを、となへあしければ五音相通して「かしく」と文字をやつして書也。「あなかしく」の略と意得て可なり。又云、『下学集』にいにしへ和漢両朝いまだ人の家居をもしらざるとき、恙虫人を螫ころす、土ネのことく穴をほりて閉塞て毒虫をのぞくといへり。されば、「あなかしこく無事也」と悦て文のおくに祝しいふに、女筆はよわとしてしかも筆画たゝしく書がよき也。…


とあり、同様に元禄三年刊『女書翰初学抄』上巻頭書にも、

めてたくかしく。女文のおくに不吉ならぬ事はいつにてもかくのことし。昔は「あなかしこ」と書ける也。中比よりかやうに書事也。
昔恙と云虫、人をさしてなやます間、或人此虫を穴へをひ入、穴を閉ふさぎて殺ゆへに、虫たえてなくなりぬ。人みな悦、「穴賢無レ恙なりぬ」と云心也。此故に、文のをくに「あなかしこ」と書留ること也。又、何事もなき事を「つゝかなし」と云も此義也。『下学集』にみゆ。

と同様に説明する。
 それから百五十年を経た天保十年(一八三九)刊『女筆花鳥文素』(滝沢馬琴撰)巻頭の「文のをわりにかしくと書事」には、次のように『蜻蛉日記』下巻に見える例や『年山紀聞』の説を引用している。

女子のふみのをはりに「かしく」と書事は、ふるくより也。『かけろふ日記』に、「八月まつほどに、そこにびゝしうもてなし給ふとか世にいふめる。それはしも、うめき(も)きこえてん。かしく」と有。これも、道綱の母のふみ也。年山子の説に、「『日本紀』に「恐懼」の字を「かしこ」と点じたるも、同じこゝろ也。「あなかしこ」といふ「あな」は、『古事記』に「甚切なることばなり」とあれば、「誠惶謹言」などいはむがごとし。字をかりて「穴賢」と書たるにつきて俗説あり。もちうべからず」といへり。「かしこ」も「かしく」も、「かきくけこ」と通じて、おなじこと也。男子の手がみに「謹言」、女子のふみに「かしく」、其心みなひとつ也。これに「めで度」と書そえしは、はるか後の人のわざなるへし。


 ここでいう「年山子の説」とは、元禄十年(一六九七)安藤為章作、文化元年(一八〇四)刊『年山紀聞』「一、かしく*四 」にある次の一文を指す。

女の文にかしくと書事、古くよりなり。日本紀に恐懼の字を、かしこしと点したるに同じ意なり。阿那恐といふあなは、古事記の自註に、甚切なる時の詞とあれば、誠恐などいはむが如し。字を仮りて穴賢と書たるに付て俗説あり。用べからず。

 いずれにしても、馬琴の指摘のように『下学集』のはるか以前の平安中期(十世紀中葉)には「穴賢」の略転「かしく」の例が見られるのである。それにしても、『女筆花鳥文素』を読んだ江戸後期の少女たちがそのことを知っていたことからも、近世の女性文化は決して侮れないのである。
 とにかく、「穴賢」から「かしこ(かしく)」へと転じたわけだが、古態は「あなかしこ」であって「めでたくかしく」ではなかった。「あなかしこ」は「ああおそれ多い」「ああもったいない」の意で、強い詠嘆の「あな」に引かれて「かしこむ」意が強くなり、「ああおそれ多い(ああもったいない)、だから十分つつしもう」というような自粛自戒の気持ちが込められ、その結果、「謹言」のように書簡の書止にも用いられるようになったものと推測される*五 。
 真下三郎氏によれば、書簡における「穴賢」は鎌倉時代を経て室町時代になるとはなはだ多くなり、やがて「あなかしこ」の「あな」が省略されて「かしこ」だけの使用も一般化し、「かしこ」は国語であって和文体書簡に似つかわしいことから、和文体書簡の書止として定着した。和文体書簡が女性の手紙または男性から女性宛の手紙に限られるようになると、男性一般の準漢文体書簡には「謹言」等が使われるようになり、男女の書止の区別が一層進んだ。ただし、漢字が多い書簡には「謹言」、逆に仮名の多い書簡には「かしこ」を使った伊達政宗の書簡の例もあるという。
 「めでたく」が「かしく」に結び付いたのは、『下学集』よりもさらに百年以上後のことであろう。伊勢貞丈は、江戸中期(宝暦十三年以降)作『貞丈雑記』九「書札*六 」に

一、「目出度かしく」と女の文留様の事、京都将軍の頃までの古書、古案等に見えす。とめは「あなかしこ」と書なり。『条々聞書』に云。女房文のとめやう、とめ所は「御心得候て申給へ」とも、又「御心得候て申入られ候へし」共候て、「あなかしこ」と留へし。又、『武雑書札篇』に云。留所は「御心得候て申給へ」とも、又「御心得候て申入られ候へく候」とも候て、「あなかしこ」ともとめ侍へし。又、『室町殿日記』云。「色紙三十六枚、絵様はれうかた
*七 御いそかせ有へく候。いさゝかゆだんあるましく候。かしく」と云々。古書に「女のとめは「あなかしこ」ととめし也。「めて度かしく」と留る事、世の風俗になりしは、御当代の事とおもはるゝ也。かへつて男の状には「目出候之状如件」なとあり(男の文に目出とあるは、喜悦と云意なるへし)。

と述べて、「めでたくかしく」の成立時期を近世と見ているが、『古事類苑』文学部*八 では貞丈の説を修正して天正年間(一五七三〜九二)以前に遡らせている。

○按ズルニ、女文ニ、めでたくかしくト留ムルハ、古風ニ非ラザルコト貞丈ノ説ノ如シ、サレド徳川氏以来ノ事ナリトイヘルハ誤レリ、太閤記ヲ按ズルニ、天正年間、既ニ之ヲ用ヰタレバナリ、抑々織田氏戦乱ヲ戡定スルニ当リ、大勢一変シタレバ、書体モ亦一新シテ、女文ノ留様モ、亦織田氏ノ頃ヨリ一変セシモノナルベシ、

 これに近い実例を示せば、文禄二年(一五九三)八月に豊臣秀吉が北政所に宛てた書簡に「めでたくかしく」が使われているから*九 、上記の説は妥当である。
 また山崎美成は、天保十一年(一八四〇)刊『三養雑記』巻三に「めでたくかしく」の一項*十 を設けて、

今、女文にはかならず終に「めでたくかしく」とかけること、定まれることなり。いつの頃よりしか書けることにか。されど、「めでたく」といふ詞を消息にいへることは、『源氏物語』總巻の巻などにも見えたればふるきことなり。「かしく」といふは、むかしの仮名文に「あなかしこ」といへる「かしこ」と同語にて、俗文の恐ながらなどいふがごとく、男の手紙に「恐惶」とかけるに同じ意なり。「めでたくかしく」といふ詞は、『一休ばなし』に親月とて、都の町に松立わたし、注連縄かざりして祝ふをりから、され頭いだきありきたまへるを、或人の見て「こはいかに」と申ければ、返しごとに、「にくげなきこのされ頭あなかしこめでたくかしここれよりはなし」とあり。この歌正しく一休和尚の詠ならば、この詞のふるき証とすべし。

と述べている。ただし、『一休噺』を根拠にするのは信頼性に欠けるであろう。
 なお、「かしこ」が「かしく」に転じた時期については、嘉永四年(一八五一)刊『女中用文玉手箱』(山東京山作)頭書「めてたくかしくの事」に次のようにある。

「めで」とは艸木も春に逢て芽の出るによそへ度はねがふ心なり。又、可愛とて、ほめる心もあり。『源氏』をはじめ物語の古き書にあまたみえたり。『古今集』の歌に「残りなくちるぞめでたき桜花」、『いせ物がたり』に「ちればこそいとゞめでたきさくら花」などよめり。文にいふは慶賀なり。「かしく」は、「かしこ」といふべきを、かきくけこの通音ゆゑ「かしく」といふ也。「かしこ」とは、「惶」又「恐」の字也。「かしこ」を「かしく」とかくは、筆のあまれるを、それがならひとなりたるは、四百年前あまりまへよりの世の風也。「めてたくかしく」は、男の書札の「恐惶謹言」とおなじ事也。


 嘉永四年から四百年前というと、応仁の乱で有名な応仁元年(一四六七)より二十年程前、先の『下学集』の約十年後ということになる。
 以上のように、「かしこ」は「あなかしこ」から始まり、やがて単独の「かしこ」、そして江戸初期には「めでたくかしく」「めでかしく」が使われるようになった。準漢文体における「かしく」の例は後述するように近世中期まではかなり行われたようで、江戸初期には「恐々かしく」「恐惶かしく」などの例も見られた。また、近世には同一文中に「かしく」を多用する例も多く、最初を「かしく」とし、二回目を「又々かしく」とする場合もあった。さらに明治期には手紙の内容によって、用件の概略を述べた手紙では「あらあらかしこ」、差し迫った文面では「早々かしこ」を使うこともあった*十一 。
 ところで中世の書札礼書を見ると、鎌倉初期の『消息耳底秘抄』では仮名文の書止は概ね「穴賢々々」とすることが記され、さらに鎌倉〜室町時代の『玉章秘伝抄』で「穴賢」は準漢文体書簡の「恐々謹言」と同礼であることが定められた。
 しかし、その後「穴賢」は準漢文体書簡にも使用される例が増えていったようで、室町初期の『書札作法抄』には次のような記述が見える。
@漢字の手紙文に「アナカシク(穴賢)」は必ずしも不相応ではない。
A児の手紙は仮名文が本意だが、稽古のためには漢字でも差し支えない。時と場合によるのであって、一様に考えるべきものではない。
B主人から家人への手紙には「穴賢」または「謹言」と書く。
 つまり、本来和文体の書止であった「穴賢」が室町時代には準漢文体書簡の書止としても使われるようになったのであり、以後、少数派ながら江戸中期あたりまで続いた準漢文体の「かしく」へと連なるのである。
 なお明治期になると、近世で定着した「かしく」を再び「かしこ」に戻そうとする動きが表れ、今日に至るのである。二例ほど紹介しておこう。まず、明治十一年(一八七八)刊『女児私用文例』初編「大かたの人の誤やすき事とも」である。
「かしく」は、「あなかしこや」にて、「かしこ」とは、「恐入」といふ事なれは、男文の「恐惶謹言」に当る。昔の文には「穴かしこや」、其次なるは「あなかしこや」、又心安きには「かしこ」とはかりも書たり。いつれも「かしこ」にて、「かしく」にはあらす。故に、必す「かしこ」と書へし。「く」にならぬやう、余りしやれて書へからす。
 次に、明治十三年刊『消息文範』上巻頭書「消息文範の略」である。

○あなかしこ
俗語に「あゝ恐れ多や」と参る意。文のとぢめに書たる。昔の例を考ふるに、うるはしく物したる文にのみ書りとおもはる。「槙柱(『源氏物語』第三十一巻)」まて、(玉かつら君の文のとぢめに)「あなかしこ」とありて、ゐやしく書なし給へり。我より上なる人に、うるはしう書なしてまゐらする文には、「あなかしこ」、又「あなかしこ」と重ねても書べく、ひとし並の人にも「あなかしこ」とゝぢめてよけん。また、すこし軽くいひてよからんには、「かしこ」とのみものすべきなり。友たちなど常に書かはす文には、此詞書かでもよかるべし。

 いずれも、「めでたくかしく」ではなく「あなかしこ」になっており、その点では、まさに近世を飛び越えた中世への復古であった。
 さて、種々の女筆手本類を見てくると、こんな疑問が起こるであろう。同一消息文中における「かしこ」の重複的使用である。既出の例文にもその例が見られたが、女筆手本類には一つの消息文中に「かしこ」が二回以上出てくるケースが少なくない。特殊な例だが、万治頃刊『女手本』下巻には、次のように「かしこ」が三回も出てくる例文すら見られる(図1参照)。

女手本(かしくの多用)
図1 『女手本』(2丁分。同一消息文中に「かしく」を3回使用した例)

今ほと通天之紅葉盛のよし承候まゝ、二、三日中に御見物に御出(かしく)なされましく候や、うけ給たく存候。わか身ひまにてゐ申候まゝ、御出候はゝ御供申度候。めてたくかしく。いつもうれしさ、めてたくかしく


 この例文は、一度初段冒頭の右下に「返書」をした後で、その上段の細字へ続くというシンプルな二段散らしである。本書の例文は文字の大きさにも減り張りがあって読みやすいが、大字部分(第一段)の末尾の折り返し点にまず「かしく」を置き、返書(第二段)の末尾に再び「めてたくかしく」と書き、さらに相手に親しみの余韻を残す「いつもうれしさ」という語句を追伸文風に付け加えたうえでもう一度「めてたくかしく」の書止語で締めくくるのである。
 また、同じ頃の万治三年(一六六〇)刊『女初学文章』にも「かしく」が二回出てくる例文が散見されるが、そこでは二回目を「又々かしこ」としてある。
 中世の女性書札礼に「かしこ」の重複的使用について触れたものがないのは、そのような用例がなかったか、極めて例外的であったためであろう。だが、近世の女筆手本類の例文中に「かしく」の重複的使用がまま見られる一方、その用法についての明快な説明をそこから得ることは困難である。
 種々文献にあたっているうちに、ようやく次の例を発見したが(管見の限り、他の女筆手本類にはほとんど見られない)、それが幕末刊『女用文袖珠』の頭書「文したゝむる心得」である。

○竪文三段、五段、或は七段がへしなどには、初段の書どめに「目出たくかしく」をかき、又をはりにも「かしく」を書ことならひ也。

 このように江戸後期には、二段以上の散らし書きの場合、第一段末尾に「めでたくかしく」を置くことが一般化していた。いずれにしても、これは「めでたくかしこ(く)」とともに近世に始まった習慣と考えられる。
 こうなると、実際に手紙を読む者にとって「かしこ」は、単に手紙文の左端あるいは文末の区切りを示す一種の記号であったと解釈した方がよい。「かしこ」の連発は、手紙を書く本人にも、それを受け取った相手にも「かしこ」本来の意味をほとんど認識させなくなると思われるからである。
 生死をさまよう病人のいる家への見舞状にすら、「めでたくかしこ」の書止を使う例(『女初学文章』)が実際に見られるが、このような理解しがたい例文も、「かしこ」の記号化と無縁ではなかろう。

 二 弔状と「かしこ」

 さらに、「かしこ」の用例を検討するために、「弔状」に焦点をあててみよう。
 一般に、相手に不快を与える文言を手紙の文面に書かないのがマナーであることは古今東西を問わないが、近世の女性たちも様々な心遣いをした。
 例えば、居初津奈の『女文章鑑』には、祝儀状に使う「祝ひ」という言葉を仮名で綴る場合に、本来は「いはひ」であるが、この表記は「ゐはい(位牌)」を連想させるため、あえて誤りである「いわゐ」を使うことを述べるし、また、人を見舞う場合の「とふらう(訪)」も、他人の不幸を「とふらう(弔)」と紛れやすいので十分注意すべきことを説く。また、津奈は『女書翰初学抄』でも、「息災」の「災」の字をあえて小さく脇へ寄せて書く習慣について触れている。
 このような気遣いが最も求められたのが弔状であった。
 さて、近世最初の女筆手本類の一つ『女初学文章』中巻には「人のしにたる所へとふらひにやる文」と題した弔状を載せるが、それは次のようなものである(図2参照)。

女初学文章(散らし書きの弔状)図2『女初学文章』(珍しい散らし書きの弔状)

ひさしく御わつらひ、つゐにかくれ給ひ候事、御ちからおとし、申へきやうもなく候。あなかしこ


 冒頭の挨拶語を書かずに直接弔意を示すのは弔状の基本的作法であるが、ここでは死者の名前も記さず簡潔に哀悼の意を述べている。本書の頭書に「しゝたる家はけがらひあるにより、文のかへり事なし」と付記するように、弔状にすぐに返事を書くことはタブーであり、弔状の礼状は忌み明け後に書くのが通常であった。従って、本書を始め大半の女用文章には弔状の返状を載せないのであり、本書もここまではごく常識的なものである。
 しかし、『女初学文章』の弔状には極めて特異な点がある。すなわち、弔状にも関わらず散らし書きになっていることである。散らし方はさほどでなく並べ書きに近いが、各行の行頭が揃っていない以上、この例文は散らし書きである。近世一般の作法では、祝儀状には散らし書きが好まれて使われたのに対して、弔状には散らし書きは禁物で、必ず並べ書きでなくてはならなかった。
 そこで、江戸時代各期の女筆手本類から弔状を抽出すれば、江戸前期〜後期における弔状の文面や作法の変化が分かるであろう。以下に、『女初学文章』以後、すなわち元禄〜明治初年の約二百年間の刊本から十例を列挙してみた。
@元禄三年(一六九〇)『女書翰初学抄』

誰様御事、御煩、終にうるはしき御気色なふ御終のよし、兼てよりつねざまにはひきかえ、かろからぬ御事とは存候へ共、今更のやうに袖しほるばかりに候。分てかた様御事をしはかり、御いとおしく存候。去ながら、常なきは三界のならひ、逢別離苦のくるしみは火宅のおきてにて候まゝ、とかく御愁傷をとゞめられ、一蓮詫(托)生の御追善こそ本意にておはしまし候。

A宝永六年(一七〇九)『女節用集文字袋家宝大成』

誰様御事御いたはり、つゐによろしからす御過のよし、兼々よりつねにかはり、をもき御事と存候へとも、今さらのやうに袖をしほりまいらせ候。殊にかた様の御うへおしはかり、御いとをしく存候。去なから、うき世の中の習にて候まゝ、只御なけきをとゝめられ候て、御追善こそかんようにておはしまし候。
*かねてより病状も知らなかったり、急死の場合として次の例文も掲げる。
たれ様御かくれなされ候よし承り、おとろきいりまいらせ候。さそや御ちからをとし、おしはかりまいらせ候。されとも、一たひはあらでかなはぬ御事と御さとりまし、とかく御くやみをとゝめられ、御きやうやうこそ第一にておはしまし候。

B享保十三年(一七二八)『女万葉稽古さうし』

(貴人)誰様御不例の御事、終に御本復なく御隠遊ばさせられ、いか計驚存まいらせ候。御悔のため、羊羹一折十棹差上まいらせ候。かしく
(同輩)誰様御事、兼ての御悩一かたならずも、御養生遊ばし候に、本復の御事もなく過させられ候よし、一家打驚まいらせ候。そもじ様御悲しみの御程いか計と察しまいらせ候。寔に生者必滅の習、誰のかるべくもなき道におはしまし候へは、せめては御心もじの程御明らめおはしまし候へて、偏に御追善こそ肝要に存まいらせ候。かしく
(下々)秘蔵の愛御かへり候よし、今程聞候て肝を消しまいらせ候。嘸とや二方の御嘆申さん様もなく存まいらせ候。此一折、常しも好の菓子にておはし候まゝ、御盛物に備へ給り候べく候。かしく

C延享元年(一七四四)『女文台綾嚢』

誰様御事御病気、終に御本服なく御過なされ候よし承り、皆々打驚まいらせ候。わきてそもし様、御悲の程いか計とさつしまいらせ候。御悔の為かくのご
とくに候べく候。かしく
*忌明礼状も付す(省略)。

D宝暦九年(一七五九)『女千載和訓文』

誰様御痛はり御へいゆふなく御過遊し候よし、驚入まいらせ候。わけてそもじさま御なけき押計り、御いとおしく存まいらせ候。去なから世のならひにて御ざ候へは、御なげきを御やめ成れ候て、よく御とむらひ遊され候べく候。
*忌明礼状も付す(省略)。また本書では「かしく」は全ての例文に省かれている。

E文化十二年(一八一五)『女当用文章』

誰様御事ひさの御びやうき御養生御手をつくされ候へども、つゐに御かくれ遊ばし候との御事、さぞかし御ちからおとし申べきやうもなく候。かしく

F天保五年(一八三四)『女用筆の枝折』

御悔申度一筆申入まいらせ候。左様候へば、御隠居様御事ひさ御病気にておはしまし候処、終に御よろしからず、御過遊はし候よし、扨々、驚入まいらせ候。御歎きのほと申つくしがたく存上まいらせ候。こなたにても申出し御残多く存まいらせ候。何にても相応の御用候はゞ御遠慮なく御申下され候べく候。まづは、御悔申あげたく御一統様へ宜敷御伝へまし頼上まいらせ候。かしく

G天保十二年(一八四一)『新増 女諸礼綾錦』
*「死去悔みの文」「同返し」の二通を載せる。

(死去悔みの文)御病人さま事折角御介抱なされ候へども、御養生かなひなく終に御すぎなされ候よし、おどろき申候。みな様嘸かし御いたみのほど察し入まいらせ候。扨は、殊のふ麁末に候へども、にしめ一重さし上まいらせ候。まつは、御悔まで人して申上まいらせ候。かしく
(同返し)御念もじの御文拝しまいらせ候。仰のごとく隠居事、過し七日おもひがけなく死去いたされ、みな当惑いたし候。さ候はゝ御心にかけられ、御香奠金百疋送り下され、忝直さま手向まいらせ候。其内御めもじに入、御礼申上候べく候。かしく

H江戸後期『女用文袖珠』
*「不幸知らせの文」「同悔みの文」「同かへし」の三通を載せる。

(不幸知らせの文)一筆申上まいらせ候。私方母事久々病気に御座まし候所、養生かなひ申さず、昨夜身まかり申候。此よし態々御しらせ申上まいらせ候。かしく
(同悔みの文)御隠居様御事御病気におはしまし候所、御養生御叶ひあそばされず、今朝ほど御死去のよし、驚入まいらせ候。折角御介抱の御詮もなう嘸々御歎かはしさ察し申上候。麁まつながら、金子二百ぴき御香料として送りまいらせ候。御仏前へ御そなへ下さるべく候。何もよの中のならひ、この上は深う御なげきなく、跡御念もじに御弔ひ肝要と存上まいらせ候。先は御悔み申上たさ、此よしのみ。かしく
(同かへし)御念もじの御文いたゞき、あり難く拝しまいらせ候。誠にぞんじがけなき不幸にて、愁ひにのみしづみまいらせ候処、御しめしにてやう思ひ直し、跡のいとなみに取かゝりまいらせ候。御気もじにかけられ、結構なる御香でんにあづかり、恐入候。いづれ中陰*十二 もあき候はゞ、御めもし致し御礼申上まいらせ候べく候。かしく

I明治十一年(一八七八)『女児私用文例(初編)』

(悔状)誰様御事昨夜御死去之由、先比より少々御不快とは承候へ共、格別之事もあらせられずとのみ存居候処、誠におどろき入まいらせ候。御存命中今一度御窺不申、扨々残念限なく存上まいらせ候。どなた様も嘸々御愁傷御察し申上まいらせ候。御香奠として重一掛献上致まいらせ候。御生前毎度御越被下候て、花壇の御世話被下候御陰により、此節うるはしく咲出候纏枝牡丹、菊花并に風蘭一鉢御霊前へ御供へ被下へく候。かしこ

(忌明状)不幸之節は、御心切に皆々様御こし被下御苦労に預り、御香儀万事御叮寧に遊被下、喪中にも毎々御心入し早々御手むけ被下、浅からぬ御志之程、厚く御礼申上まいらせ候。先々、滞なう相いとなみ、今日忌明致候に付、とりあへず御礼迄。猶尽せぬ御礼とも御めもし様に申上候べく候。以上
*「忌明状」も付す。

 まず、以上十点の全てが鉄則通り並べ書きであるから、先の『女初学文章』の散らし書きは例外中の例外である。他の女用文章をひもといても、散らし書きの弔状はほとんど見出すことができない。
 次に、多くが弔状の返状を載せないのも書簡作法に則っている。弔状に対する礼は使者に口頭で伝えるだけで手紙にはしたためず、その礼状は忌み明け後に改めて送るものだった。
 しかし上記のうち、G、Hは弔状から比較的短期間に書かれる文面になっている。Gの「過し七日おもひがけなく死去」の報告と「其内御めもじに入、御礼申上候べく候」というのは死去後間もないと見るのが自然である。また、Hは死亡通知の手紙(不幸知らせの文)を載せる点でも異色だが、三通目の返状は中陰、すなわち「四十九日」後に改めて礼を述べる旨を綴るから、これも同様に死去後比較的短期間の文章である。ここに弔状の作法の変化の一例を確認できる。
 さらに、江戸後期から明治期にかけて字音や漢字の使用が目立つのが分かろう。
 文面では、@の文章が比較的長文で個性的である。また、江戸前・中期の例文は弔意を示すことに重点が置かれているのに対し、江戸後期のFは実務的・実際的な雰囲気を漂わせているし、何よりG〜Iは悔やみのしるしとしての「香奠*十三 」が文面に出ているのが特徴的である。前掲のうち江戸前・中期の例文には「香奠として」「香料として」といった文言が見えないが、それがただちに香奠の習慣がなかったことを示すものでないことはBからも明らかである。
 とすると、祝儀のしるしに物を贈答するということを含め、これは「心」と「物」の主従関係に変化が生じたことを示唆するものではないだろうか。
 これに関して興味深い主張がある。北尾辰宣編、寛延四年(一七五一)刊『女諸礼綾錦』巻之六「文したゝめやうの事」中の一文である。

惣じて、酒肴くはし類、重の内など送る時の文躰、「先何々の御しうぎ御よろこび申上候はんため、文を進じまいらせ候」よしを書て、次に「是々のものを進し候」由をかくべし。或は「御見廻のため何々を進上いたし候」などゝ書事、当時通用に書事なれども本義にあらず。文を遣す事を専一と心得へし。「何々のため文を遣し候ゆへ、とりあへず肴、菓子など送りまいらせ候」よしをいひ遣すと心得べし。又、返事にも「何々の御祝ひと仰られしめしあつかり、ことに珍敷重の内おくり給り」など有べし。惣て祝儀などの時、自身行て祝ひをいふべき事うやまひなり。みつからまいられさるとき、自筆に文をしたゝめ、使をもつてよろこびをのぶるなり。酒肴など送る事、自身参りても、又は文遣し候ても、其品に送るといふもの也。酒肴にて祝儀をいはふにはあらず。よくわきまふべし。

 あくまでも手紙にしたためる心情こそが大切なのであって贈答する品物はその代用であるとの主張、また、本来は自ら出向いて祝意を伝えるべきところを自筆の手紙に代えるのであるという意見は、今日なお学ぶべき価値を有する。江戸後期にいたって弔状に香奠の品目が明記されるようになったのは、祝儀状の作法が弔状にも影響したものとも考えられるが、いずれにしても弔意とともに香奠の内容が重視されるようになったためであろう。辰宣の警告にもかかわらず、手紙における「心」と「物」の意味合いは近世から近代にかけて確実に変化していったのである。
 なお、弔状における「かしこ」の作法について整理しておこう。宝永六年(一七〇九)刊『女節用集文字袋家宝大成』は弔状に「なを書、かしくも、たれよりのよりといふ字も書へからず」と述べ、弔状に「かしこ(く)」そのものを禁じているし、宝暦九年(一七五九)刊『女千載和訓文』頭書「文のかきやう指南」にも「とむらひくやみの文は、尚々がき、参る、かしく、参人々申給へなど、みなかゝぬものなり」とあって「かしこ(く)」の使用を禁じている。
 しかし、江戸後期では次のように不幸の手紙には「あらあらかしく」、その他の手紙全般に「めでたくかしく」を用いるのが一般的になったようである。hは文化十五年(一八一八)『女文通宝箱』頭書「文こと葉つかひ」、iは天保十二年(一八四一)『女用手習鏡』頭書「文言葉つかひ」である。
h「めてたくかしく」は祝儀文にかぎらす、すべてのふみにかくべし。「かしく」は「穴賢」を略したるもの也。但し幸ならざること、又悔状などは遠慮すへし。只「あらかしく」にてとめてよし。
i「めでたくかしく」とは、祝儀ふみにかぎらず、すべての文にかくべし。「かしく」とは「穴賢」といふことの略したるなり。但し、悔状などは「めで度かしく」とかくべからず。「あらかしく」とかくべし。
 少なくともhでは、死去以外の不幸、従って、病気を見舞う場合も「めでたくかしく」を使わないのがマナーであり、この点江戸後期の作法はわれわれの常識に近い。江戸前期には弔状だけが特別扱いされていたのであろうか、『女初学文章』の例では、同じ不幸でも弔状と病気見舞状とに一線を画す意識が明確に読みとれる*十四 。
 なお、蔀関牛は天保十二年(一八四一)の「女諸通用文章」頭書「女書札式*十五 」で、幸・不幸を問わずあらゆる手紙に「かしく」を用いてよいと述べている。
「かしく」は或説に「可祝」の意なるゆへ弔の文には書べからずとあれど、関牛按ずるに、「かしく」は「かしこむ」の下略にて「惶」の字なり。すなはち、男文に用ゆる「恐惶謹言」と同じ意なれば、すへての文の留に通じて用ゆべし。
 弔状の「かしく」をタブー視する説がある一方で、関牛のような意見もあったわけである。いずれにしても近世では、弔状の「かしく」の使用について、次の考え方がほぼ並立的に存在していたようである。
@弔状の書止は「めでたくかしく」も「かしく」も使ってはならない。
A弔状の書止は「めでたくかしく」とせずに「あなかしこ」とする。
B弔状の書止は「めでたくかしく」とせずに「あらあらかしく」とする。
C弔状の書止は「めでたくかしく」とせずに単に「かしく」とする。

 三 準漢文体書簡の「かしこ」

 さて、「かしこ」をめぐるもう一つの問題点について考えていかなければならない。
 それは、仮名文以外の消息文、すなわち準漢文体の消息文に「恐惶謹言」「謹言」などを使わずに「かしこ」を使う場合である。これは準漢文体と和文対の作法の混用とも考えられるが、正式な作法では認められなかったものである。
 ちなみに、準漢文体の「穴賢」は、古く平安後期撰『明衡往来』の「穴賢々々。謹言」や鎌倉初期撰『十二月往来』の「穴賢々々。敬白」などの使用例が確認できるが、いずれも「謹言」や「敬白」と併用するものであり、また、極めて稀なケースであることから、「穴賢」は書止として十分な地位を与えられていなかったことを思わせる。
 その後近世に至るまで、一般に和文体には「かしこ」、準漢文体には「謹言」を使うのが基本とされた。
 だが、江戸中期(宝暦頃)以前の用文章に準漢文体書簡における「かしく」の例が時々見られるように、そのような用例は正格ではないにしろ近世前期までは確実に存在したものであり、以後、徐々に消滅していったものと考えられる。
 具体例を見ながら検討していこう。準漢文体の消息文は、近世初頭より種々出版されている用文章を調べるのが最適だが、ここに「かしこ」の使用の変化を示す恰好の資料がある。
 それが明暦二年(一六五六)作・明暦三年刊の『江戸 新用文章』、一般には『新板用文章(障)』と呼ばれるものである。本書は江戸前期から中期にかけて普及した最古の用文章の一つで、書名を異にする異板や異本、また改題本などが多数存在するが、本文のみの純粋な手本である明暦板系統と、頭書に絵抄・注釈を加えた寛文板系統の二種に大別される(それぞれ下巻第二状「借用申銀子之事」の末尾に「明暦二年」または「寛文二年」とある)*十六 。
 両系統とも二巻二冊本で、明暦板系統は、上巻に「正月初て状を遣事」から「年の暮に祝を得たる時礼状之事」までの一九通(大半が用件中心)を載せ、下巻には「家売券状之書様之事」以下四例の証文類文例と、「諸道具字づくしの事」「着類字づくしの事」「編并冠字づくしの事」の三つの語彙集に加えて「義経含状*十七 」を収録する。

図3『新用文章』(「恐惶かしく」の例)



 この明暦板系統と寛文板系統とでは頭書の有無のほか、収録書状数や配列、また語句の相違など種々の変更が認められる。特に、明暦板系統の例文に見られた「かしく」や「恐惶かしく」といった書止を「謹言」「恐々」に改めるなど、「かしく」の使用を意図的に排除した形跡が窺われるので、なおさらのこと無視できない。
 この変化が見られる例文として二例あげておく。
○上巻第七状「田舎などへ遣文躰之事」

新用文章 (明暦板)幸便御座候条、一筆令二啓上一候。仍其許皆々様御堅固被レ成二御座一候哉。旦暮御床敷存候。爰元公私無事罷在候之間、一入御心易可レ被二思召候。皆々様以二別紙一可申候へ共、従二貴公様一能様御心得頼入候。猶追而可二申達候。かしく
(寛文板)幸便御座候条、一筆令二啓上一候。仍其許皆々様御堅固被レ成二御座一候哉。旦暮御床敷候。爰元公私無事罷有候之間、一入御心易可レ被二思召候。皆々様へ以二別紙一可申候へ共、従二貴公様一能様御心得頼入候。猶追而可申達候。謹言

○上巻第十状「留守の間に人来りて、あはすして後にやる状之事」

(明暦板)疇昔者、邂逅之預二御来訪一候得共、折節令二他行一残念之仕合候。何等之御用等御座候哉。従二貴報一可レ令二伺公一候。恐惶かしく
  孟春日 (図3参照)
(寛文板)疇昔者、邂逅之預二御来訪一候得共、境節令二他行一残念之仕合候。何等之御用等御座候哉。依二貴報一可レ令二伺公一候。恐々
   市之丞様                             仁左衛門

 文面上わずかに字句が異なり、寛文板では左訓(右翻刻文では省略)が増補されるなどの異同が見られ、また、後者では日付の一行に代えて差出人名と宛名を挿入した点で新しい。しかし最も大きな変化は、前者で書止の「かしく」を「謹言」に、後者で「恐惶かしく」を「恐々」に改めたことである。とりわけ「恐惶かしく」は、和文体と準漢文体の書止を合成したような書止で、近世の用文章では極めて稀である*十八 。
 だが、明暦板系統の「かしく」は十年足らずのうちにほとんど改められたようである。『新板用文章』に見られる「かしく」消滅の傾向は何を意味するのであろうか。あるいは上方と江戸での習慣の違いか、または準漢文体書簡における「かしく」の使用が一般的でなくなったためであろうか、いずれにしても、当時の実情を反映した意図的な改編であったことは間違いなかろう。
 以上のほか、明暦板から寛文板への改編で生じた相違は、後者において施注されるなど一層便利で実用的になったことである。例えば、証文文例では寛文板では「売主誰」「請人誰」といった署名についても注意を喚起しており、実用面での前進が見られる。
 この間、『新板用文章』は板元を変えながら何度も上梓されたことが推定され、寛文板では頭書に語注を付したものや、語注のほかに挿絵も加えたものも登場した。従って、ある時期には江戸板・上方板を合わせて少なくとも十種近くの『新板用文章』が市場に出回っていたはずである。この当時は版権の意識も薄く、本屋仲間といった公権力を基盤とした板元の組織化もほとんどできておらず、重板・類板といった不正な出版も野放しにされていた。このような自由競争下で、複数の板元がこぞって『新板用文章』を出版したからこそ、数多くの異板が生まれ、頭書のアレンジなども試みられたのであろう。
 以上のように、準漢文体書簡に「かしく」が使われるケースは江戸前期までは確実に存在したが、これは正式の作法ではないから、自ずと使用状況や使用範囲が決まっていた。この点に関して、宝永三年(一七〇六)刊『諸礼筆記』巻之二「書礼」は次のように記している。

「かしく」と書事は、女中の状にかぎるやうに覚たるは非なり。男子の文にも書事也。されども同輩以上へは、用べからず。かしくと書は、大かた也。今、とめる格に古礼用ひしなり。


 準漢文体での「かしく」は正格でない以上、上輩には禁じられた用法であり、一般に目下への手紙に用いるものとされたのである。
 ところで、『往来物分類目録』等で知られる岡村金太郎の旧蔵本(現東京大学総合図書館蔵)中に、小森松洞作『拾玉用文宝箱』という用文章がある。岡村本は安永三年(一七七四)、大阪・京都三書肆による求板本だが、初板は享保十七年(一七三二)、大阪二書肆刊である*十九 。その岡村本の刊記部分に次のような書き込みがされている。

此作者大馬鹿也。文字之相違、文体之ベラボウ可笑云々。


 かなり辛辣な批判である。「文字之相違」はともかく、ここの「文体之ベラボウ」とは何を意味するのか。
 本書は「新年状」から「家継誕生祝い」までの四十二通の消息文例を収録した用文章で、文体上際だった特色は「かしく」または「穴賢」を含む例文が九通も含まれる点である。とりわけ次の「穴賢*二十 」は準漢文体の「かしく」よりもさらに少ないケースで、近世後期の人々には古風というよりも異様に感じられたのであろう。

累日之雨、徒然之至候。庭前苔生問人弥希候。山居之心地不レ異候。此節預二御来駕一者、猶以可レ有レ興候也。穴賢

 この書き込みをした者は、恐らくこのような準漢文体書簡における「かしく」や「穴賢」の使用を批判しているものと思われる。特に求板本から見れば初刊は四十年も前のことであるから、この間に書簡作法や書簡用語が実態にそぐわなくなっていたことは十分考えられる。どちらにしてもこの事実は、近世後期には「かしく」は和文体に限定されようになり、準漢文体の「かしく」が一般的でなくなったことを示す傍証となろう。
 川柳(『誹風柳多留』)に、

師匠さまかしこと以上別に置き(四篇・一六丁)
師匠様かしくの方は世話がなし(七〇篇・二〇丁)

などとある。言うまでもないが、前者は手紙の書止に「かしこ」を使う女子と、「以上」を使う男子の席を別にするという、当時としてはごく当たり前の教育法を示しており、後者は手習師匠が教えるのでも、男児よりも女児の方が手間がかからないの意である。
 いずれにしても、ここでの「かしく」は女性を象徴する言葉として使われている。近世後期では「かしく」が女性専用の言葉としてすっかり定着していたのであり、逆に言えば、男性による「かしく」の使用、すなわち、準漢文体書簡での「かしく」の使用が非常識であるという一般認識が確立していたことを示唆するものであろう。

【参照文献】 
*注に掲げた諸文献のほかに次の資料・文献を参照した。
○原本
明暦頃刊『新用文章(新板用文障)』*家蔵。
万治三年刊『女初学文章』*家蔵。『江戸時代女性文庫』六十巻(大空社)に影印収録。
万治頃刊『女手本』*吉海直人氏蔵。『江戸時代女性文庫』七十九巻(大空社)に影印収録。
寛文頃刊『新板用文章』*家蔵。
貞享五年刊『女文章鑑』*母利司朗氏蔵。『江戸時代女性文庫』八十六巻(大空社)に影印収録。
元禄二年刊『やしなひ草(婦人養草)』*家蔵。『往来物大系』八十九巻(大空社)に影印収録。
元禄三年刊『女書翰初学抄』*玉川大学蔵。『江戸時代女性文庫』六十巻(大空社)に影印収録。
宝永三年刊『諸礼筆記』*大空社蔵。『江戸時代女性文庫』九十九巻(大空社)に収録予定。
宝永六年刊『女節用集文字袋家宝大成』*原本の複写を若杉哲男氏蔵。
享保十三年刊『女万葉稽古さうし』*国立国会図書館その他に所蔵。ここでは改題本『女教文章鑑』(謙堂文庫蔵)によった。同書は『往来物大系』九十二巻(大空社)に影印収録。
延享元年刊『女文台綾嚢』*家蔵。
寛延四年刊『女諸礼綾錦』*家蔵(宝暦五年板)。
宝暦九年刊『女千載和訓文』*謙堂文庫蔵。
安永三年刊『拾玉用文宝箱』*東京大学および家蔵。
文化十二年刊『女当用文章』*家蔵(天保十二年板)。
文化十五年刊『女文通宝箱』*家蔵。
天保五年刊『女用筆の枝折』*家蔵。
天保十年刊『女筆花鳥文素』*家蔵。
天保十一年刊『三養雑記』*家蔵。
天保十二年刊『新増 女諸礼綾錦』*家蔵。
天保十二年刊『女用手習鏡』*家蔵(江戸後期後印)。
嘉永四年刊『女中用文玉手箱』*謙堂文庫蔵。
江戸末期刊『女用文袖珠』*家蔵。
明治十一年刊『女児私用文例』*家蔵。
明治十三年刊『消息文範』*家蔵。

○その他文献
山田忠雄『元和三年版下学集』(新生社 昭和四十二年)。
石川謙・石川松太郎『日本教科書大系・往来編』(講談社 昭和四十二〜五十二年)。
「消息耳底秘抄」(続群書類従完成会『群書類従』三十一輯下)。
「玉章秘伝抄」(続群書類従完成会『群書類従』九輯)。
「書札作法抄」(続群書類従完成会『群書類従』九輯)。
浜田義一郎『江戸川柳辞典』(東京堂 昭和四十三年)。
岡田甫『誹風柳多留全集・索引編』(三省堂 昭和五十九年)。