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「江戸期おんな考」11号所収論文

近世女性礼法の源流
――『女房筆法』と『女房進退』を中心に――


*実際の論文には多くルビが付されているなど小異があります。また、「 」書き以外の引用文(改行字下げ部分)は前後一行を空けて、引用箇所を紫色で表現しています。
*なお、JIS外字が原則として再現されていない点にもご注意下さい。

 近世の女筆手本に魅せられたのがきっかけで、筆者は「散らし書き」等の女性書札礼に少なからぬ興味を抱いてきた。書札礼については先人によるいくつかの論考*一 もあるが、女性書札礼を含む中世の女性礼法についての研究はあまり多くはないように思われる。いまだ研究が不十分な中世の女性礼法について、『女房筆法』と『女房進退』*二 を中心に若干の考察を試みたい。

 
女性書札礼の登場

 そもそも「書札礼」とは何であろうか。小学館『日本国語大辞典』
*三 に

書状の形式・文字などいっさいのことに関して規定した書礼式。たとえば、官位・家格になどによって文言を変え、また、真・行・草の書き方を異にするなどの心得。

とあるのは全く簡潔明瞭だが、橘豐氏が、

書簡作法は社会秩序に対するわきまへの表現であるといふ意味で、待遇表現と類似の性格を有し、また、言葉づかひとして規制力を発揮する生活規範であるといふ意味で、諸礼法の一種といふ位置づけをすることができるであらう。

と述べるように
*四 、その発生に着目すれば「書札礼」はまさに諸礼法とともに生まれた一礼法である。「書札礼」にしろ「書簡作法」にしろ「書状の形式・用語に関する規範および礼法」と言って差し支えなかろう(本稿では「書札礼」で統一)。
 ちなみに現存最古の書札礼は「嘉禎三年(一二三七)林鐘廿日」の識語を持つ『消息耳底秘抄』
*五 で、その跋文に仁和寺の守覚法親王が三条実房と中山忠親に尋ねて著した旨を記すから、守覚法親王が没した建仁二年(一二〇二)以前、ほぼ一二世紀末の成立と考えられる。
 一方、女性書札礼の最初と思われる『女房筆法』は後述のように室町後期、一六世紀半ばの成立と推定されるから、現存史料による限り、体系的な女性書札礼が登場するのは、男性一般の書札礼から遅れること約三五〇年後のことになる
*六 。
 女性書札礼の成立(というよりも成文化)が遅れた理由は、橘氏が説くように、漢文書簡が一般に公的性格を帯びていたのに対し、仮名消息が「私的通信文に徹する性格」があったためだろう
*七 。

男性の書状が前述の通り公文書的性格を帯びるやうになつたために厳密な書式が需められるやうになつたのに対し、女流の仮名消息は、私的通信文としての性格を保つてゐたために、普遍的な書式が要請される理由がなかつたためと思はれる。

 すなわち、私的性格が濃厚な仮名消息は、消息の書式や作法があえて成文化される必要性が乏しかったのであり、さらに言うと、仮名消息は心情の自由な表現に適したものであり、また、仮名消息(特に散らし書き消息)においては情緒的表現が大切にされたであろうから、書状形式や規則等は馴染みにくかったと考える。
 さて、鎌倉初期の『消息耳底秘抄』は公家用の書札礼で、女房奉書に携わる内侍など特定役職の女性用に編まれたものと考えられるが
*八 、全五九カ条中には、
(1)女房のもとへやる立文
*九 は上を長くひねる。(第一一条「立紙事」)
(2)女房への手紙には懸紙を使う。…関所を越さない(近辺への)手紙でも封目を結ぶ。また、仮名文の書止には概ね「穴賢々々」と書く。仮名消息を巻く場合には、三分の一程を折り返して巻く。…(第三〇条「女房許ヘノ消息事」)
(3)女房へやる手紙は二枚に書いて立文にする。(第五六条「女房消息事」)
など男性から女性宛ての手紙に関する作法が見られ、男女における書札礼の相違や、女性の手紙(仮名文)の書止に「穴賢」を用いる原則などを確認することができる。
 しかし、鎌倉期には以上のような公家用書札礼とともに、公家風を模倣した武家用書札礼や僧家用書札礼も誕生した。室町期に入ると公家風を払拭した武家独自の書札礼が発達した。特に、室町中期以降は幕府の身分格式による区別が書札礼に強く反映されるようになった
*十 。
 このような中で、女性書札礼が独自の体系を備え始めるのは『女房筆法』『女房進退』あたりからで、それは室町末期以降とされてきた
*十一 。この成立時期については検討の余地があるが、いずれにしても、女性書札礼の成立は、男性書札礼に比べてかなり後のことであり、かつ、男性一般の書札礼からの抽出・変更という過程をたどったものと思われる。そして、この点は女性礼法全体にも共通する点である*十二 。

 『女房筆法』と『女房進退』の概要

 中古・中世の公・武における書札礼の変遷の末、ようやく女性中心の書札礼、より正確には書札礼を含んだ本格的な女性礼法書が編まれることになった。それが『女房筆法』と『女房進退』である。
 従来の研究では、『女房筆法』も『女房進退』も室町末期〜江戸初期撰作と見なし
*十三 、両書とも同類の女性礼法書と扱う向きも見られるが、果たしてそうであろうか。

■女房進退
 まず『女房進退』は、大きく「女房衆しつけの事」六九カ条、「みつしたな(御厨子棚)のかさり物之事」四カ条、「くろたな(黒棚)のかさり物之事」三カ条の三部に分かれるが、その中心は言うまでもなく「女房衆しつけの事」である。
 本書は女性礼法全般を述べたものとしては現存最古の部類と考えられ、次のような構成になっている。
 一〜三〇条…本膳以下各種食礼(客方礼法)、また女房衆の給仕方礼法、食事に関する公武別・男女別の呼称の違いなど。
三一〜五六条…四季時服、衣装の種類、着衣に関する故実、衣装の整理・保管、布帛の扱い方と数え方、紙類の数え方と扱い方など。
五七〜六一条…手水に関する作法・故実、また手箱の蓋の置き方。
六二〜六六条…料紙・筆・墨・硯など文房具に関する作法。
   六七条…書札礼(「女はう衆のふみの書やうの事」)。
六八〜六九条…爪の切り方、出陣の際の具足類の仕立てに関する作法。
 すなわち、食礼・四季時服・書札礼・雑礼から構成され、主たる書札礼は長文の第六七条のみである。しかも、同条末尾に、

是は大方ぬきかき候。惣別。かやうの御事ハ。そうてんなくては。御心へゆきかたし。さりなから。御こころへ候やうにかき候。

とあるため、先行書札礼からの抄録であることは明らかで、第四七条に「伊勢殿の書物にもあり」と記すから、それは室町時代に隆盛した伊勢流の書物であった可能性が高い。
 総じて言えば、『女房進退』には「参りやう、口伝あり」「わたしやうに上中下有。猶口伝あり」「これにはしさい(子細)あり」のように、作法の具体的な説明をせずに、その詳細を口伝に委ねるという記述が極めて多い
*十四 。これは、刊本によって普及した近世の女性礼法と一線を画す点であり、また、『女房筆法』と明快に異なる『女房進退』の特徴の一つでもある。

■女房筆法
 他方、『女房筆法』は、「女房文かきやう」七カ条、「もくろくとゝのへやうの事」三カ条、「いしやうかはりの事」一九カ条の三部から構成されている。「筆法」という書名の通り書札礼を中心とし、その後半に四季時服など衣装に関する知識や作法が収録されているが、食礼や給仕方礼法が欠けている点であまり体系的でない。
 第一条「女房文かきやう」では「一、おとこのかたより。女房衆へまゐらせ候文。いつれの御方へも。まゐる申給へとかく事。うやまふ事なり…」と起筆するように、『女房筆法』は男性書札礼の単なる抜粋という印象を免れない。これに対して『女房進退』は、「一、女はう衆のふみの書やうの事。うやまふかたへは。ヽヽヽ申させたまへとかき候か。うやまふやうなり…」で始まり、本文中で「女はう衆より。おとこ衆へふみを御やり候にも…」とまず女性中心の説明した後で、「おとこ衆より女房衆へは…」と男性から女性宛ての手紙に触れるから、『女房進退』は女性の視点で書かれた、洗練された女性書札礼と見なせるのである。
 ともあれ、両者にはほとんど同文の箇条も所々見られるから、一方から他方へ直接・間接の影響があったことは確実であろう。
 ところが、『女房筆法』「いしやうかはりの事」第三条には、

…おりすちなと申候物は。しせうゐん殿御時まては。めされ候はぬよし候。…くはうさまの外。みたいさま。日野殿。三てう殿。女中くわんれいの御はゝ御ゆるしにてめし候。また三しよくハ。はいりやうにてめし候。

という記述があり、「慈照院殿」すなわち足利義政(一四三六〜九〇)、また「管領」「三職」といった室町幕府の要職名が見える。
 実は、これは伊勢貞親(一四一七〜七三)が大永八年(一五二八)に編んだ『宗五大艸紙』
*十五 の次の一文を丸々引用したものである。
…慈照院殿御時までハめされ候はぬ由候。又から織物ハ一段御賞翫の儀に候。公方様の外。御台様。日野殿。三条殿。女中管領の御母御免にてめし候。又三職は拝領候てめし候。

 こればかりではない、つぶさに検討すると、次のように『女房筆法』の本文の大半が『宗五大艸紙』からの抄録である。

○「女房文かきやう」
 第一条(文言・脇付の上下)
  →『宗五大艸紙』「書札之事」第三〇条から抄出・増補。
 第二条(差出人・名乗りの表記)
  →同「書札之事」第三〇条から抄出。
 第三条(脇付がない場合の文末) →×(該当なし)
 第四条(上巻・書止・懸想文・料紙)
  →同「書札之事」第三〇条から抄出(一部重複)。
 第五条(大小上臈宛て披露文) →×(該当なし)
 第六条(散らし書き) →×(該当なし)
 第七条(行頭に置かない文字)
  →同「書札之事」第三〇条から抄出。
○「もくろくとゝのへやうの事」
 第一条(仮名目録) →×(該当なし)
 第二条(御台様宛て仮名目録) →×(該当なし)
 第三条(女中折紙) →×(該当なし)
○「いしやうかはりの事」
 第一条(四季時服)
  →同「衣装の事」第二条とほぼ同文。
 第二条(北絹紡ぎ)
  →同「衣装の事」第三条とほぼ同文。
 第三条(公方様「御服」の意味等)
  →同「衣装の事」第四条とほぼ同文。
 第四条(殿中の織物着用)
  →同「衣装の事」第五条とほぼ同文。
 第五条(縞織の格)
  →同「衣装の事」第六条とほぼ同文。
 第六条(当流の小袖)
  →同「衣装の事」第七条とほぼ同文。
 第七条(丸生絹)
  →同「衣装の事」第八条とほぼ同文。
 第八条(公方・大上臈の単衣)
  →同「衣装の事」第九条とほぼ同文。
 第九条(丸生絹 *第七条と酷似)
  →同「衣装の事」第八条に増補(ただし重複)。
 第一〇条(帯の割り方)
  →同「衣装の事」第一〇条とほぼ同文。
 第一一条(三襟の重ね着)
  →同「衣装の事」第一一条とほぼ同文。
 第一二条(袷・小袖)
  →同「色々の事」第二条とほぼ同文。
 第一三条(蚊帳)
  →同「殿中さまざまの事」第六条から抄録・要約。
 第一四条(孫の扱い) →×(該当なし)
 第一五条(花見の盃) →×(該当なし)
 第一六条(神占の花見) →×(該当なし)
 第一七条(琴の置き方) →×(該当なし)
 第一八条(簾のかけ方)
  →同「みすかくる事」(全一条)に大幅増補。
 第一九条(寝具等) →×(該当なし)

 すなわち、『女房筆法』は、『宗五大艸紙』のうち女房に必要な礼法だけを抽出して、さらに若干の増補を加えたものである*十六 。先述のように、室町幕府の要職に関わる礼法をそのまま引用している点からすれば、管領職が実在した永禄六年(一五六三)*十七 以前に編まれた可能性も高い。従って、一五三〇〜一五六〇年の三〇年間、あるいはそれに近い年代の成立と考えられる。
 また、『女房筆法』と『宗五大艸紙』の関係に比べると、『女房進退』と『宗五大艸紙』の関連性は稀薄である。後述のように、これは『女房進退』が流派や成立年代の異なる諸書を参照して編まれた結果ではないかと考える。
 これらのことを踏まえると、『宗五大艸紙』から比較的近い時期に『女房筆法』が編まれ、さらに半世紀程度を経た室町末期に『女房進退』が成立したと考えるのが妥当であろう。

 『女房筆法』と『女房進退』の性格の相違

 『女房筆法』と『女房進退』の成立過程は以上の通りと仮定して、この両書の性格の違いを知るために、もう少し具体的に検討してみよう。
 両者を比較した場合、看過できない点が二つある。
 まず第一に、書札礼における待遇表現の相違である。『女房筆法』には手紙の上書きについて「まゐる 人々申給へ」「人々申給へ」「まゐる申給へ」「まゐるまいらせ給へし」「まゐるへし」「まゐる」「まゐらせ候」の七段階の表現を掲げている。
 一方、『宗五大艸紙』「書札之事」第三〇条*十八 には、

一、女房文の書やう。「いづれの御かたへ 参る申給へ」と書敬也。「参るへし」と書はそれよりつぎなり。「参る」とばかり書て。真中に其名を書は我より下成べし。

としか記さないから、『女房筆法』において意図的に多段階の待遇表現に改編されたことになる。
 それに対して、『女房進退』には披露文の「(女房衆の名)ヽヽ人々御中」と「ヽヽヽヽ申させたまへ」の二つを示すから、『女房筆法』は待遇表現における厳格さを重視しているように思われる。
 第二に、推定される編者と編集方針の相違である。『女房筆法』「女房文かきやう」第一条の後半部には、「ほうちやうさまより二いろはいりやういたし候」で始まる一通の仮名文を載せるが、その末尾に「いせのかみ/さた陸」とある。これは明らかに伊勢貞陸(一四六三〜一五二一)を指すものであろう。さらに、それに続いて「むかしよりかくのもんごん御文候うへは。これにて御こころへあるへく候」と記すことから、『女房筆法』の作者が伊勢家または伊勢流の故実家であること、しかも、一五世紀末から一六世紀初頭の伊勢流故実を一つの指針とし、その当時を「むかし」と呼んでいることが分かる。
 同様に「もくろくとゝのへやうの事」に掲げられた目録の書式三例のうち二例の末尾に「いせ(の)う京(の)すけ/さた遠」とあるのは伊勢右京亮貞遠(文明=一四六九〜八七頃の人)であろうから、この点からも応仁の乱以後〜一五世紀末頃の故実を一つの典拠としている向きが窺われるのである。しかも、以上は実際の記録によって執筆されたであろうから、『女房筆法』の作者は伊勢家の人物と推定するのが妥当である。もしそうであれば、『宗五大艸紙』の閲覧も比較的容易であり、その改編もさほど困難ではなかったであろう。
 これに対して『女房進退』の方はどうであろうか。
 同「女房衆のしつけの事」第二八条
*十九 中に「今川殿の家のりうには…」あるいは「六かく殿ノ家ノりうには…」として今川流や六角流の故実を紹介し、さらに同四七条*二十 には「伊勢殿の書物にもあり」と記すことから、『女房進退』は、伊勢家・六角家・今川家のいずれでもなく、従来の故実書を統合する意図を明確に持った第三者的立場の故実家によって編まれた可能性が高い*二十一 。
 すなわち、『女房進退』の作者は諸々の故実書によって女性礼法の統合化を試みようとした態度が随所に見られ、言ってみれば、当代の礼法の共通項を求めようとしたのではないか。その結果、諸流に独自な内容を削ぎ落とさざるを得なくなり、その際、現実の武家社会においては諸流で作法や故実が微妙に異なることを示すために、「その取やう口伝有」「まいりやうはくてんあり」「これにはしさいあり」などとして省略したのであろう。
 事実、

あまりにことおゝき間。しるしかたし。大かたかくのふんなり。*二十二 

とも述べ、煩雑な記述を避けようとする意識が見られるから、結局、「口伝あり」や「子細あり」としてほのめかせることに落ち着いたのではなかろうか。
 また、『女房筆法』と比較した場合の『女房進退』の特徴として、女性に限らず男性一般の礼法を紹介したり、武家を中心としながらも公家礼法に触れたり、老若や身分高下の違いや流派の違い、また、古今の変化
*二十三 など礼法・故実の多様性に注意を向ける文言が(意図の有無は別として)多い点も挙げられよう。
 以上から、『女房筆法』と『女房進退』の際立った特徴を整理すると次のようになる。

【女房筆法】
○書札礼と時服(四季衣装)中心の内容。
○男性の視点が残る女性書札礼
○待遇表現が多彩。
○伊勢流中心の記述で、『宗五大艸紙』の影響大。
○作者は伊勢家もしくは伊勢流信奉者。特に、一五世紀後半の故実を一つのよりどころとする。
○「口伝あり」などの秘伝的記述が全くなく、どちらかというと具体的記述が多い。

【女房進退】
○食礼・給仕方礼法、坐作進退、語彙・数量呼称、時服、書札礼、飾り物等など衣食住全般にわたる内容。
○女性中心に記述された女性書札礼。
○『宗五大艸紙』や『女房筆法』の影響も見られるが、諸流の故実を統合しようとする姿勢が見られる。
○公武・諸流・男女・上下・老若・古今など礼法・故実の多様性に触れる。
○作者は明らかに伊勢家・今川家・六角家以外の人物。
○「口伝あり」「子細あり」として具体的内容に触れない箇所が極めて多い。

 室町期の女性礼法

 さて、『女房筆法』あるいは『女房進退』は、完成度の比較的高い女性礼法書だが、今日に伝わる室町期の主要な女性礼法書(女房故実書)には次のものがある。『女房筆法』等を含め、概要をまとめておこう(書名の前の○印は伊勢流、◎印は小笠原流、また説明中の(イ)は作者、(ロ)は年代、(ハ)は概要、(ニ)は収録文献を示す)。

○簾中旧記
(イ)伊勢貞陸作。(ロ)一六世紀初頭成立か
*二十四 。
(ハ)本書末尾に伊勢貞丈の識語があり、それによれば、東山殿の御台所妙善院(=日野富子)時代の女房故実全般を記したものである。内容は次の全一四部七三カ条と後文からなる。文禄二年(一五九三)書『女房故実』は本書の改編本。
(1)「御所様より御所々々への御うはがきの事」二条
(2)「御産所の事」一条
(3)「正月御こはくごまいりやう」一条
(4)「正月御はがためやうだい」一条
(5)「正月御つえの事」一条
(6)「五月御くすだまの事」一条
(7)「御なりの事」一四条
(8)「御所さまの御やうだい」一〇条
(9)「大上らふの御つぼねすまゐの事」二条
(10)「御よめいりの時の事」七条
(11)「御かけ候まぼりの事」一条
(12)「女ばう衆御持候扇の事」一条
(13)「女ばういしやうの事」二八条
(14)「公方より御ふぢの事」三条
(ニ)『群書類従』二三輯。

○よめむかへの事
(イ)伊勢貞陸作。(ロ)一六世紀初頭成立か。
(ハ)婚礼儀式、特に輿入れや式三献以下の儀式、御厨子・黒棚の装飾、花嫁衣装等について多くの図解とともに記す。小見出しや箇条立てが一貫していない面があり、徐々に書き加えられた経緯を連想させるが、構成は次の六部三八カ条。
(1)「よめむかへの事」六条(六図)
(2)「しき三こんのとゝのへの事」五条(六図)
(3)「みづしのたなかざりやうの事」一条(一図)
(4)「くろだなをきものの事」九条(二図)
(5)「よめいりのやいしやうの事」六条(図なし)
(6)「とのいものゝたちやうの事」一一条
(ニ)『群書類従』二三輯。

○娵入記
(イ)伊勢貞陸作。(ロ)一六世紀初頭成立か。
(ハ)輿入れ時の新婦衣装、介添人、行列編成、門火、儀式等のあらましと、特に婚礼道具の詳細を記す。全七九カ条。
(ニ)『群書類従』二三輯。

○女房筆法
(イ)作者不明。(ロ)一六世紀中葉成立か。
(ハ)『宗五大艸紙』から女房に関する項目を抽出して増補あるいは改編を加えたもの。主として前半部に書札礼、後半部に時服等の女性礼法を掲げる。特に本格的な最初の女性書札礼が含まれる点が重要。全体の構成は次の三部二九条。
(1)「女房文かきやう」七条
(2)「もくろくとゝのへやうの事」三条
(3)「いしやうかはりの事」一九条
(ニ)『続群書類従』二四輯下。

○女房進退
(イ)作者不明。(ロ)一六世紀末成立か。
(ハ)『宗五大艸紙』『女房筆法』等の影響下に編まれた体系的な女性礼法書で、次の三部七六条からなる。
(1)「女房衆のしつけの事」六九条
(2)「みつしたなのかさり物之事」四条
(3)「くろたなのかさり物之事」三条
(ニ)『続群書類従』二四輯下。

◎嫁取故実
(イ)小笠原長時(一五一四〜八三)・小笠原貞慶(一五四六〜九五)書。(ロ)天正(一五七三〜九二)頃書。
(ハ)婚礼に関する小笠原流
*二十五 故実書。祝言座敷における銚子その他の置物の飾り方、酒食に伴う給仕方礼法および食礼など最小限を記す。箇条の構成は次の三部三〇カ条で、(1)(2)と(3)は本来別々のものとする説もある*二十六 。
(1)「銚子包様之事」六条
(2)「嫁取座鋪之次第」六条
(3)「女中もしつけの事」一八条。
(ニ)『続群書類従』二四輯下。

○大上臈御名之事
(イ)伊勢貞知(?〜一六一〇)書。(ロ)天正一七年(一五八九)年書。
(ハ)室町時代中期の大上臈の名や、衣装・化粧・坐作進退、中臈・下臈の名称や身だしなみ等の女房故実・礼法、さらに数多くの「女房詞」を列挙する。構成は次の三部一七一カ条。
(1)「大上臈名」三六条(項目)
(2)「女房故実」四〇条
(3)「女房ことば」九五条(項目)
(ニ)『群書類従』二三輯。

○女房故実
(イ)伊勢貞知書。(ロ)文禄二年(一五九三)年五月書。
(ハ)一名『御産所記』。一六世紀初頭撰作と思われる『簾中旧記』の改編本。伊勢貞知が光照院所蔵本を底本に書写した文禄二年写本が『続群書類従』に所収。次の一九部一〇二カ条からなる。
(1)「御所様より御所々々への御うはかきの事」二条
(2)「御こわくこまいりやうの事」一条
(3)「御さんしよの事とも」一条
(4)「御はかための事」一三条
(5)「正月よりめし物の事」二〇条
(6)「つねの御所御かうしの事」一一条
(7)「くはうへ御まいらせ候御ねうはうしゆの事」二条
(8)「御所さまの御やうたい」一条
H「御さん所の事」一条
I「御こわく御のまいりやう」一条
J「御はかためのやうたい」一条
K「御はかためのやうたい」一条
L「御なりの事」一条
M「御なりのときの御ともの御やうたい」四条
N「御かけまほりの事」八条
O「大上らふの御つほねすまいの事」七条
P「御よめいりのときの事」六条
Q「女はういしやうの事」一六条
R「おとこしゆうのいしやうの事」五条
(ニ)『続群書類従』二四輯下。

 以上のように、代表的な女性礼法書を見渡しても、ほとんどが伊勢流であり、現存史料に基づく限り、伊勢流では一六世紀初頭に体裁を整えた女性礼法書・故実書が誕生していたのに対し、小笠原流の女性礼法書は半世紀以上遅れた一六世紀末にようやく姿を現すといった状況であった。
 殿中や衣食住の日常生活全般に関わる諸作法、すなわち「躾」の権威
*二十七 である伊勢氏の面目躍如たるものがある。

 女性礼法の展開と近世への影響

 二木謙一氏が語るように
*二十八 、室町期は「足利将軍を中心とする武家の身分格式や諸儀礼が形成され、その習慣やしきたりを規範とする武家故実の発達がみられた」時代であった。
 特に、義教の永享期(一四二九〜四〇)から義政の長禄・寛正期(一四五七〜六五)に至る時代が室町的な武家故実の完成期とされる。こうして、小笠原持長とその子孫を中心に弓馬・軍陣の故実といった武家故実の根幹が整備される一方、伊勢貞親・貞宗父子を始めとする伊勢氏一族によって幕府の典礼や殿中の坐作進退など衣食住の生活全般にわたる諸礼法が完備されることになった
*二十九 。
 また、二木氏は武家故実を次の二つに大別する。
○武家的なもの…弓馬や武器・武具・武装・軍陣等に関するもの
○生活的なもの…典礼・坐作進退・衣紋・書札礼等を始め、広く衣食住に関するもの
 この分類からすれば、女性礼法は例外なく後者である。女性書札礼がそうであるように、女性礼法も男性一般の礼法から「生活」に密着した部分を抽出し、さらに「女性」独自の内容を加味して発展させていったものである。
 従って、「生活的」側面に比重を置く女性礼法が、先述の通り伊勢流を中心に発展していったのは自然の成り行きであった。
 ところで、室町期に武家故実が発達した背景には、室町幕府の特色の一つである「故実礼治主義」があり、特に、足利義満を中心に故実の一元化と総合化、また新儀の作成が意識的に行われ、その結果、伊勢家や小笠原家といった武家故実家が生まれたという
*三十 。同様に二木氏も、室町期に生じた数々の故実書は、単に小笠原家・伊勢家といった特定礼法家の流儀を記したものではなく、足利将軍を頂点とする「室町武家社会での慣習や作法の規範」を示したものであったと指摘する*三十一 。
 すなわち、室町期の武家故実は「一元化」の方向で発展していったものである。
 しかし先述のように、『女房筆法』や『女房進退』を見る限り、室町期全体を通して単に「一元化」の方向で推移したとは思えない。むしろ室町後期には、諸流で異なる作法が少なくなかったと思われる。
 それは、室町末期の女性礼法書でも同様である。例えば、小笠原流最初の女性礼法とされる『嫁取故実』(天正頃作か)の跋文
*三十二 に「右之冊。当家雖為御秘事。任御執心応記進上候。努々疎早不可有他見者也」と記し、また、近世最初の体系的女性礼法書たる万治三年(一六六〇)刊『女諸礼集』の跋文*三十三 にも「右、女之躾方干世雖在数多、今当加増補、名女諸礼集、正改令板行者也」と記す。
 これらのことからすれば、室町幕府の故実・礼法の一元化路線は、室町中期以前の流れであり、その後、幕府権力が弱まるにつれて事情が変わってきたのであろう。同様に、幕府権力の後ろ盾によって「女性礼法の権威」を保っていた伊勢流も、その絶対性が薄れ、小笠原流その他の流派でも独自の女性礼法が生まれ、その結果、女性礼法が多様化していったのではないかと考える。
 しかし、『女房進退』の「口伝あり」「子細あり」という表現は、一見、閉鎖的な家伝の女性礼法書の印象を与えるが、先述のようにその編集意図が諸書を参照しての女性礼法の統合あるいは一般化にあったとすれば、それは全く別の意義を持つ。それは諸流の統合化・体系化による一般的な女性礼法の確立である。
 このように見てくると室町期の女性礼法(武家礼法と置き換えても良いだろうが)の展開には、次のような仮説が成り立つ。
 すなわち、女性礼法はもともと一元化を目指して体系化が図られたが、やがて、幕府の衰退や伊勢家の権威失墜によって、諸家でおのおの異なる礼法が生まれるようになり、さらに、室町末期までに、これらを統合かつ一般化していこうとする動きが現れた、すなわち「一元化→多様化→一般化」という過程を経て近世を迎えたと考えられるのである。
 この間、女性礼法書の内容も変化していった。本稿のまとめとして、室町期から江戸期の女性礼法の変化を概観しておく。
 室町中期から後期にかけて展開した女性礼法書は、書札礼、婚礼(および出産)、通過儀礼、年中行事、食礼(および給仕方礼法)、座礼(座作進退)、言葉遣い(語彙)など各方面にわたるが、これらを一冊で網羅するものはなく、多くが特定分野に関しての礼法・故実であり、意図する読者も特定の家や特定の身分の者に限られていた。
 このような中で、室町末期までに女性礼法の統合化の兆しが生まれ、『女房進退』のごとき体系的な女性礼法書への成熟が見られた。そして、個別的礼法書から総合的な礼法書へ展開していく過程は、そのまま近世に受け継がれていった。
 近世初頭になって女性礼法は出版を通じて家々や流派を超えて公開されるに至った。かつて「女性礼法の権威」とされた伊勢流は廃れ、近世においては士庶ともに小笠原流が礼法の基本とされた。小笠原流の礼法書は無数に刊行されたが、既に江戸初期から「秘伝」「口伝」的記述がほぼ一掃され、礼法の統合化と一般化が進んだ。
 具体的には、『女房進退』など室町末期の体系的な女性礼法から約半世紀を経た後に刊行された、慶安三年(一六五〇)刊『をむなかゝ見(女鏡秘伝書)』、万治三年(一六六〇)刊『女諸礼集』などが女性礼法の基本になったと思われる。特に後者は江戸中期・後期にいくつかの改編本を生んだように、これらの刊本を通じて、中世とは比較にならないスピードで女性礼法が武家から庶民へと広がっていったであろう。
 近世初頭の女性礼法は、ますます体系的かつ百科的な構成となった。すなわち、中世以来の書札礼、婚礼、通過儀礼、年中行事、食礼、座礼、言葉遣いなどに加えて、女子教訓の側面が強化されるとともに、家政全般、妙薬・養生、化粧・風俗、諸芸・教養などの新しい分野での記述が補充された。
 さらに、『をむなかゝ見(女鏡秘伝書)』『女諸礼集』から約半世紀後の女性百科辞典『女重宝記』には、近世初頭の女性礼法が集約されることになり、女性礼法が士庶の区別なく女性一般に必要な教養と認識されるようになっていった*三十四 。
 すなわち、女性礼法の確立あるいは女性礼法書の編纂の点では、小笠原流は伊勢流の後塵を拝す形となったが、女性礼法の社会化という点でははるかに大きな役割を演じることとなった
*三十五 。その大きな契機が『女諸礼集』であり、古活字本から製版本への出版技術の発展に伴い、大量出版が可能になったことと相俟って、時を同じくして小笠原流が「公開」路線をとったことにより、小笠原流は近世以降の女性礼法においても決定的な影響力を持つ結果となったのである。

【注】
*一
 例えば、伊木壽一『書状の変遷』(昭和七年 岩波講座「日本文学」一七回)、橘豐『書簡作法の研究』(昭和五二年 風間書房)、同『書簡作法の研究・続篇』(昭和六〇年 風間書房)、同『手紙文の国語学的研究』(平成一〇年 風間書房)、真下三郎『書簡用語の研究』(昭和六〇年 淡水社)など。
*二 『女房進退』も『女房筆法』も、『続群書類従』巻第七〇一(続群書類従完成会『続群書類従』二四輯下)に所収。
*三 同書第五巻(昭和四九年 小学館)一三八二頁。
*四 前掲『書簡作法の研究』一九頁。
*五 『群書類従』巻一四四(原本*家蔵)、また続群書類従完成会版『群書類従』九輯に所収。なお、本書の成立年代の考証については前掲『書簡作法の研究』一五三頁以降に詳しい。
*六 これはあくまでも現存する書札礼についてであり、男性の手紙と同様に女性の手紙に関する作法や慣習はさらに古くから存在していたはずである。事実、『女房筆法』よりも半世紀ほど早い、一六世紀初頭頃に成立した『簾中旧記』(『群書類従』二三輯)にも、御所方の上臈など貴婦人の手紙の上書きについて記す。これは書札礼と呼べるほどの体系をなしていないが、少なくとも身分の上下に応じた複雑な待遇表現が存在することを示すもので、文言に示されていない各種の書札礼が存在してことを思わせる。このように、成文化された女性書札礼の登場ははるか後のことであり、古く平安時代には既に女文にも一定のルールや社会的慣行が見られた。橘氏の指摘では、手紙の書止に「あなかしこ」と記したり、手紙の返信に「かしこまりて、うけたまはりぬ」と記す習慣や、差出書・宛書は書いても「日付」を書かない原則も一般化しており、用紙にも種々決まりがあったという(橘豐『書簡作法の研究・続篇』(昭和六〇年 風間書房)六頁)。
*七 前掲『書簡作法の研究・続篇』一〇〇頁。
*八 前掲『書簡作法の研究・続篇』一一頁。
*九 書状の包み紙の上下をひねって折り込んだ書状形式。
*十 二木謙一『中世武家の作法』(日本歴史叢書 平成一一年 吉川弘文館)一八七頁。また田端泰子氏は、『日本中世の社会と女性』(吉川弘文館 平成一〇年)九八頁で、女房が室町幕府に出仕する場合の装束の規制が法制化されていった点に関して、「このような規制を通じて諸家の女房から家来、僧徒に至るまで、広く幕府の法秩序の中に組み込んでいこうと意図したのではないか」と述べるが、待遇表現の厳格化など女性書札礼の整備についても同様の事情が存したであろう。
*十一 島田勇雄・樋口元巳校訂『大諸礼集』二(平凡社東洋文庫五六二 一九九三年)の樋口元巳氏の解説(二三九頁)では、「『女房進退』『女房筆法』は室町末から江戸初期の頃の書とされ…」と記す。
*十二 この点に関して、樋口元巳氏も、室町期以降の礼法は「通礼」「武家礼法」「女性礼法」の三つに分類でき、この三種は史的には武家の礼法に始まって指導を中心になされ、次いでその具体的指導を受けて女性礼法が発達し、さらにこの両者から適宜抽出される形で通例が生まれたとする(前掲『大諸礼集』二の二三三頁以降)。なお、ここで言う「通例」は、宝永元年刊『諸礼筆記』に見える用語を借りたもので、普通人の礼法一般を指す。
*十三 例えば、前掲『大諸礼集』二の二三九頁に「室町末から江戸初期の頃の書とされ…」と紹介する。
*十四 末尾七カ条には見られないが、それを除く六九カ条のほとんどに見られ、「口伝あり」と同類の表記は二八カ所、「子細あり」と同類の記述が六カ所見られる。なお、前掲『中世武家の作法』六頁にも「武家故実も歌道や芸道と同様に、術技の要訣が秘事口伝の方式で、師匠から門弟子へと伝承された。そして故実書に記される術技の奥義も、元来は口伝と合わせて伝授されるべきものである」と、武家故実は詳細を口伝に任せることが多いため、その具体的内容の把握が容易でなく、故実書の史料的活用による研究が遅れていることを指摘する。
*十五 『群書類従』第二二輯五八四頁。
*十六 『宗五大艸紙』は大永八年(一五二八)に伊勢貞頼(宗五)が著した故実書である。前掲『中世武家の作法』七四頁に本書が「質・良ともに群を抜いた故実書の白眉」であり、本書の影響下に数多くの故実書が生まれたことを記す。
*十七 『国史大事典』(昭和五八年 吉川弘文館)の「管領」項(第三巻六五一頁)に、応仁・文明の乱以後は「管領職は有名無実化し、欠任の期間が多くなった。永禄六年(一五六三)細川氏綱の死により管領職は自然廃絶となった」とある。
*十八 『群書類従』二二輯六〇〇〜六〇一頁。
*十九 『続群書類従』二四輯下、四三一〜二頁。
*二十 『続群書類従』二四輯下、四三六頁。
*二十一 本書には諸書からの抜粋を示す箇所が少なくない。『続群書類従』二四輯下で言うと、第三一条(四三二頁)に「大かたぬきのきにして参らせん」(「ぬきのき」は「ぬきかき」の誤り)、第四三条(四三五頁)に「あまりにことおゝき間。ぬきのきなり」(同様の誤り)、第六七条(四四二頁)に「是は大かたぬきかき候。惣別。かやうの御事は。そうてんなくては。御心へゆきかたし。さりなから。御こころへ候やうにかき候」などがその例である。
*二十二 『続群書類従』二四輯下、四三五頁。
*二十三 伝統的な故実によりながら、随所で執筆時現在との比較を行っている。具体例をあげると、『続群書類従』二四輯下の四三二頁に「今は昔。ほそのかたよりむき候事は。しさひあり」、また、同じく「昔は女はう衆は。綾の小袖うすかいはいに桃の花色に染てめす也」、四三四頁に「今ときの人は。おさあひ人なとに。くちはなとのいろなきあわせなとめし候事。ためしにもなき事の候。…いまときはかつしきにあかき物きせ申事。一かうなき事に候」などである。
*二十四 作者の伊勢貞陸は永正一八年(一五二一)八月没である。また、本書文中に登場する「金仙寺」は伊勢貞宗の法名で、貞宗は永正六年(一五〇九)一〇月に没している。すなわち、貞陸撰作説が正しければ、『簾中旧記』は一五〇九〜二一年の一三年間に編まれたことになる。
*二十五 この小笠原流は江戸時代に普及し、民間にまで影響を与えた小笠原流礼法の源流であり、室町幕府弓馬故実師範の小笠原氏とは別の家系である。信濃の小笠原長時・貞慶の系譜を引き、豊前小倉藩および幕臣旗本として残った家柄である旨を、前掲『中世武家の作法』二四六頁に記す。また、本書識語の小池甚(之)丞貞成の門人、斎藤三郎右衛門久也に師事した水島卜也は、水島流武家礼法の創始者となり、江戸時代に普及した。
*二十六 前掲『大諸礼集』二・解説二三九頁。
*二十七 前掲『中世武家の作法』七二頁。
*二十八 前掲『中世武家の作法』二〜三頁。
*二十九 前掲『中世武家の作法』五頁。
*三十 前掲『大諸礼集』二・二三三頁。以下、室町期の礼法・故実の変遷については、本書によるところが大きい。
*三十一 前掲『中世武家の作法』三頁。また、本書七二頁にも「室町幕府の確立による武家の社会的地位の向上とともに、将軍のみならず武家衆らにも、その身に応じた諸作法が要求されるようになった。(中略)そうした室町幕府周辺の武家故実において中心的な役割をはたしたのは、小笠原氏と伊勢氏であった。小笠原氏は、前述したように弓馬・軍陣故実の師範として、また伊勢氏は「躾」の権威として仰がれた」と記す。
*三十二 『続群書類従』二四輯下、四〇五頁。
*三十三 『江戸時代女性文庫』六一巻(平成九年 大空社)。
*三十四 本稿では近世初頭の女性礼法書の具体的言及を控えるが、この点については拙稿「江戸期の婚礼関連書」(『江戸期おんな考』六号 一九九五年 桂文庫)、『江戸時代女性文庫』四〇巻・解題(拙稿 平成七年 大空社)を参照されたい。
*三十五 前掲『大諸礼集』の樋口氏の解説(二四〇頁)に「室町期の女性用故実書は殿中儀礼を得意とした伊勢家が多く関与しているが、伊勢家は近世に於てはそれを発展させる事はなかった」と述べ、『女諸礼集』が小笠原総領家の七冊書の本文を換骨奪胎して使用しているとの島田勇雄氏の指摘を紹介している。