往来物解題へ戻る

●解題編序文
   刊行にあたり    石 川 松太郎  (監修者)

●図版編序文   編集を終えて   小 泉 吉 永  (編著者)



    
刊行にあたり

  本辞典は、今日まで遺されてきた往来物のほぼ全種について、作者、撰作・筆写・刊行等の年代、出版地ないし出版者、編集の形態、内容、そして所蔵機関、複刻資料等に及ぶ解題を施したものである。
  「往来物(往来・往来本)」は、もともと進状・返状といった往返一対の手紙模範文・模型文を集めた手本類であった。その成立は一○〜一一世紀の平安中期頃で、高山寺に遺されている往来物(いわゆる高山寺古往来)や藤原明衡の作と伝える『明衡往来』を先駆とする。
  その後、こうした往来物が次々に編まれていき、一五世紀の室町時代には、『富士野往来』のように手紙文以外の文体を集めた手本も、教科書として編集されたとの意味合いから、往来物と呼ばれるようになったのである。さらに、近世〜近代初頭にかけては、往来物の概念はますます拡大し、手紙文体であれ、韻文体・散文体であれ、教科書として著された手本類をも包括するようになっていった。
  それゆえ、中世より盛んに学習されてきた『実語教』『童子教』『今川状』『御成敗式目』等に加えて、五人組帳前書・諸法度集なども教材化され、「往来物」はこれらを含んだ初歩教科書・教材の代名詞として扱われるようになったのである。本書は、このような広義の往来物を対象に、長期に及ぶ資料収集と調査によって初めてなしえた、往来物の初めての解題辞典である。
  往来物について識者が関心を持つようになったのは、明治中期、二○世紀に入る頃からであって、国語・国文学者の松井簡治が、往来物中最も流布した『庭訓往来』の注釈として『庭訓往来諸抄大成』を編集・刊行したのは同三六年(一九○三)のことであった。次いで、上田萬年・橋本進吉等により、往来物は日本語史・日本文学史の資料として研究対象に採り上げられた。これらとほぼ同一線上にある戦前・戦後期の研究として、川瀬一馬氏等の書誌学的観点からの業績も逸せられない。
  他方、明治中期以降、往来物は日本史専攻の識者にも注目されるようになった。この分野では、白石正邦・平泉澄らによって往来物の資料的価値が見出され、以後、文化史・経済史・風俗史・民俗史など広範な分野における歴史的資料として活用される途が開かれたのである。
  もっとも、往来物は手本という本来の性格から何よりも教育史の資料でなければならないが、この分野での研究・調査は少し遅れて、大正期の半ばの一九二○年代より、乙竹岩造・高橋俊乗・石川謙などの研究者によって手が染められた。日本教育史における往来物研究がいったん創始されると、進展はめざましく、中でも石川は、広範な蒐集に努めるとともに、中古・中世のいわゆる古往来の研究に着手し、第二次世界大戦中も息むことなく継続し、戦後の昭和二四年(一九四九)に『古往来についての研究』の公刊に漕ぎ着け、翌年、日本学士院より学士院賞を授与された。
  こうした研究の進展と雁行するように、往来物を日本の大切な文化遺産・教育遺産と考え、散逸を防いで収蔵する個人ないし機関が数多く現れた。個人では、乙竹岩造(現・筑波大学附属図書館乙竹文庫)、岡村金太郎(現・東京大学総合図書館岡村文庫)、平井右平(現・三次市立図書館平井文庫)、山本半蔵(現・日本大学総合学術情報センター)、石川謙(現・謙堂文庫)等、機関等では、玉川大学図書館、東京府立青山師範学校(現・東京学芸大学附属図書館望月文庫)、東京市立日比谷図書館(現・東京都立中央図書館特別文庫室)、東京書籍株式会社(東書文庫)、逓信総合博物館などで、いずれも、今日有数の規模を誇る往来物コレクションである。
 第二次世界大戦ののち、民主主義社会の建営にともなう民衆教育・庶民教育の重視により往来物への関心は高まった。とりわけ地方志向の台頭や地方史・地方教育史重視の動向は、これまで寺院・旧家などに収蔵された豊富な資料の公開を促し、結果として往来物についても多大な発見が見られた。当時、前近代の日本教育史の研究者は決して多数とはいえないが、丹念な資料調査と斬新な視角による分析によって、戦前では予想もできなかった研究成果を挙げ、学界での報告も相次いだ。
  このように、二○世紀初頭よりちょうど一世紀をかけて行われてきた往来物の蒐集・調査と研究成果を踏まえながら、本辞典が編集・刊行される運びとなったのである。独立項目に掲げた往来物が実に三七七〇種に達する事実のみでも、本書が前近代の教科書・教材を扱ったものとして、世界に類例を見ない辞典といって過言ではないし、そのように自負する。
最後に、本辞典の刊行に対して多大なご理解とご協力を頂いた県立宮城図書館・国立国会図書館・玉川大学・筑波大学・逓信総合博物館・東京学芸大学・東京大学・東京国立博物館・東京都立中央図書館・東書文庫・成田山仏教図書館・日本大学・ノートルダム清心女子大学・三次市立図書館・山形県立博物館教育資料館・早稲田大学等、また、原本所蔵者であり一部執筆にもご協力頂いた吉海直人氏・母利司朗氏を始めとする執筆協力者の皆様にも御礼申し上げたい。
  また、本辞典公刊のため、多大の時日と資金の提供を惜しまれなかった大空社・相川仁童氏に深謝申し上げたい。とりわけ、大空社編集部時代から長年にわたって編集の労を執られた小泉吉永氏は、自身で多数にのぼる未発見の往来物を蒐集・調査され、本辞典の項目の過半を執筆された。小泉氏なくして本辞典の完成はあり得なかったといえよう。特記して感謝の意を表したい。

   平成一三年一月八日
          

謙堂文庫館長  石 川 松太郎


    編集を終えて

  振り返ってみると、『往来物解題辞典』の構想を持ったのは、およそ一〇年前のことだったと思う。
  当時、大空社に勤務していた私は、『往来物大系』全一〇〇巻の編集作業に入っていたが、そんな折に「往来物がそんなに沢山あるのなら、解題辞典のようなものがあると便利ね」と大空社の西田和子さんから言われたのが端緒だったと記憶している。
  確かに、それは私自身が望んでいたものであった。往来物の研究を始めて年月の浅かった私は、『国書総目録』や『日本教科書大系・往来編』などをたよりに蒐集した往来物を調べていたが、往来物には同名の異本が多いうえに、これらの文献に出てこない場合が決して少なくなかった。その後、徐々に往来物の概要を知るにつれ、今度は、本来区別すべき往来物を混同していたり、成立年や作者の記述に疑義を抱かざるを得ないような論考が目に付くようになった。
  事実、刊本に限ってみても往来物が一体どれほど存在したかはいまだに明らかになっていないし、全国津々浦々の手習師匠が綴った写本の数々を含めたら、それこそ数万種に及ぶことは確実である。ちなみに、日本最大の往来物コレクションである謙堂文庫、すなわち石川松太郎先生ご所蔵の約五五〇〇冊と家蔵の約三五〇〇冊に、本辞典の執筆・編集協力者の蔵書を加えただけで一万冊を超すのである。最も板種が多い『実語教・童子教』のみで五五〇種に達する事実も、往来物の膨大さを如実に示している。
 いずれにせよ、昭和六二年四月、一冊の『庭訓往来』との出会いから始まった私の往来物研究においても、『往来物解題辞典』と『往来物総目録』の二つは大きな目標として胸中に描いてきたものであり、その一つを成し遂げる機会を職務として与えられたことは非常に大きな意味があり、願ってもないことであった。
  ちょうどその頃、自らの研究のために時折図書館に通って、『国書総目録』や『古典籍総合目録』から往来物類をノートに書き写す作業を進めていたが、数年後の『往来物解題辞典』という目標も手伝って一層拍車がかかった。それは月に二、三回、休日での作業のため、結局、平成三年一二月から平成五年二月まで一年三カ月を要したが、往来物の把握には非常に有益だった。表紙に『往来物目録』と記された大学ノート七冊は、私のかけがえのない財産であり、今も研究や蒐集の基礎になっている。
  大空社に勤務していた七年余の間は、近世史料の影印やデジタル化などが私の職務の中心となり、往来物などの近世史料にまみれた毎日だった。知己の古書店主人の言葉を借りれば「水を得た魚」のように、『往来物大系』(平成四〜六年)、『江戸時代 女性生活絵図大事典』(平成五〜六年)、『絵図集成 近世子どもの世界』(平成六〜七年)、『江戸時代女性文庫』(平成六〜一〇年)、『女子用往来刊本総目録』(平成八年)、『稀覯往来物集成』(平成八〜一〇年)、『CD-ROM版・群書類従』(平成九年)など、往来物や近世史料等の文献を次々と手掛けていった。
  『往来物解題辞典』の編集はこれらと同時並行的に進められたが、調査・編集や自らの往来物蒐集の過程で、未知の往来物が次々と発見されるとともに、往来物についての知見も「日々新た」という状況であった。すなわち、『解題辞典』の所載項目が増える一方で、執筆協力者を含めて原稿執筆が思うように進まず、私自身も片手間の執筆では『解題辞典』の完成は覚束無かった。
 そこで、平成九年頃からは私の編集業務の過半を本辞典に集中させ、本格的に取り組むことを許して頂いた。大学図書館など各機関に何度も足を運び、時には書庫に一日籠もって調査・執筆する日々が続いた。執筆状況を毎月記録しながら計画的に進めたが、それによると、平成九年一月で執筆済みの項目は一一三〇点であったが、翌年一月には二三一五点と約二倍に膨れ上がり、その翌年の平成一一年一月時点では三四〇〇項目を超えていた。最終的に本辞典には三七六九項目を収録し得たが、その大半の三三六八項目を自ら執筆することになろうとは予想もしていなかった。
  このように本辞典は、着想から約一〇年の歳月を経てようやく出版に漕ぎ着けたのであり、その間、多くの方々のご協力や激励を頂いた。特に、吉海直人氏や母利司朗氏など研究者からの情報は、本辞典の立項その他において重要な示唆となった。私信の紹介で恐縮だが、例えば母利氏からは次のような電子メールを何度となく頂いた。

  おかわりございませんか。往来物解題辞典の方、進捗状況はいかがでしょうか。来年を楽しみにしています。(中略)ここ一ヶ月ほどの間の情報をお知らせします。
(一)以前お知らせしていた安永七年須原屋版の『〈異本〉消息往来』について、来年三月頃発行の研究室の雑誌に全文の写真を載せ紹介することになりました。書名も『御家消息字苑』というものであろうという見当もつきました。(中略)
(二)『南都祭礼往来』と名付けられた薄い写本を入手しました。巻末に元禄五年とありますが、文中に、郡山の大名を本多家(貞享二年から享保九年まで)としていることから、成立年と思われます。春日神社の祭礼次第を、単語集団を作りながら連ねたものです。
(三)東大の『女教訓書』とほぼ同内容の元禄一四年写巻子本を入手しました。大きな違いは、東大本に欠けている第四条後半が有ることぐらいです。「唐崎松の記」と併せて写されています。(以下省略)
  二については、また別便で後日コピーを送ります。お気づきの点があればご教示下さい。良いお年をお迎え下さい。


──『南都祭礼往来』については編集最終段階での調整がつかず、残念ながら本辞典に盛り込むことは出来なかったが、母利氏に限らず貴重な往来物の発見は今も続いているのである。本辞典は従来の論考に登場する往来物のほとんどを網羅しており、研究者に大いに裨益あるものと自負するが、むしろ本辞典を一つの契機として新たな往来物を次々と掘り起こして頂くことが本望である。パンフレットにもあるように「二一世紀の往来物研究はここから始まる」のであり、時々刻々と新たな発見を期待したい。
  私のライフワークの柱の一つが本辞典によって実現した。しかし、真に目指すべきは全ての往来物の究明にあると考えている。次の大きな柱『往来物総目録』を始め、『未刊往来物集成』『女子用往来分類目録』『用文章解題』等々、手掛けたいテーマが山積しているが、相手が膨大なだけに今後も多くの研究者のご協力を得ながら、往来物の全容解明の布石となればと願うばかりである。
  本辞典が長年にわたる多数のご支援の集積の結果であり、このような相互協力が今後の往来物研究にも不可欠なことを改めて感じると同時に、往来物が庶民に根ざした日本文化の素晴らしい財産であり、日本人の思考や営為の「不易流行」を探る好史料であることを強調しておきたい。「日本人」再発見の可能性を秘めた往来物の世界に、読者もぜひ足を踏み入れて欲しいものである。
  最後に、私の往来物研究をご指導・ご支援下さった石川松太郎先生、江森一郎先生、若杉哲男先生、編集・執筆にご協力下さった先生方や各機関関係者、また、人生の節目や転機にご指導下さった樹所良昌先生、森田芳雄先生、「何事も日本一を目標に」と教えて下さった故・佐久間安三郎先生、私を古典の世界に導いて下さった故・皆河洋先生、そのほかお世話になった大勢の諸先輩や友人、さらに紆余曲折を経て本辞典を刊行して頂いた大空社・相川仁童社長を始め関係者の皆様に心から感謝申し上げたい。
  そして、これまで私を支えてくれた両親と妻に、丹誠込めたこの辞典を捧げたいと思う。

   平成一三年二月九日
 
小 泉 吉 永