女筆手本解題へもどる

序にかえて


――近世女筆手本類概説――
  昭和六二年四月から往来物の蒐集と研究を始めて一〇数年になるが、近年特に強い関心と問題意識を抱いてきたのが「女筆手本」である。女筆手本は、一般の往来物に比べると出版点数は極めて少なく、古書市場に出てくることもめったにない。いわゆる長谷川妙躰らに代表される女筆手本の伝本は稀少で、それらを比較的多く所蔵する機関でも一〇点未満がほとんどである。
  そして何より、従来の研究者はこの女筆手本をさほど問題にせず、取り上げてもその一部を示すのみで、女筆手本の全体像が明らかにされることはなかった。私自身も、当初は女筆手本に強い関心を払うことはなかったが、近世資料の複刻を主とする仕事柄、一つ二つと女筆手本を見るにつれ、それが往来物の一ジャンルとして無視できない存在であると認識し、この数年間は精力的に資料収集し、女筆手本の研究に没頭してきた。
  初めて女筆手本を手にした者は、独特のくずし字や同一文中での「かしく」の重複的使用、また、散らし書きの前後関係等で戸惑うことも多いであろう。私も同様であったが、女筆手本についての解説書や論考は予想外に乏しく、結局、数々の疑問を抱きながら、手当たり次第に女筆手本を読み進めていったわけである。
  女筆手本には、文字の大小やくずし方の度合い、連綿体と墨継ぎの箇所、また、数段に折り返す散らし書きなど、翻刻では表現できない要素が極めて多い。これらは、相手(宛名人)の地位・身分に応じた書札礼、あるいはいかなる相手に対しても守らねばならない書簡作法が反映される要所であって、翻字によって文面のあらましを知ることができても、書簡作法上の微妙なニュアンスはほとんど理解できなくなるのである。従って、女筆手本を真に理解するためには、原本あるいは影印版を見なくてはならない。本書において可能な限り多くの図版を掲載したのは、より的確な理解の一助になればと願ってのことである。
  ところで、そもそも「女筆手本」とは一体何を指すのであろうか。これは明快なようで、その実、ことのほか曖昧にされ続けてきた問題なのである。古書肆の言う「女筆手本」は、長谷川妙躰に代表される散らし書き手本を指す場合が多いようだが、それは女性書家による女性のための手本という点で「女筆手本」の名に最もふさわしい。しかし、従来の数少ない研究では、論者によって「女筆手本」の範囲もまちまちであった。
  まず筆者の性別である。女筆手本の範囲を「女性筆(女筆)」のみに限る研究家もいれば、「男性筆(男筆)」をも含める研究家もいるが、両者のいずれをとるかによって、近世における出版点数や出版動向は全く異なったものになる。近世初頭に生まれた「女筆」という言葉は、少なくとも書名の上では、早くから「女性筆」と「女性用」の両方の意味で用いられてきた。例えば、万治頃刊『女筆往来』は男筆の可能性が極めて高いし、元禄六年刊『女筆四季文章』などは完全に男筆であるから、ここでの「女筆」とは「女性用」の意でなくてはならない。その曖昧さは、近世各期の書籍目録や書籍広告を見ても一層明白となる。
  次に、文章形態と書法である。中には、女筆手本を散らし書きの女子消息文に限定する学者もいる。しかし、現存する女筆手本をつぶさに調べれば、それが極論にすぎないことを悟るであろう。また、消息文が多くを占めるものの、女筆手本の文章形態には、一般的な「消息」のほかに、見かけは消息文体だが実質的には特定の知識・心得の学習に重点が置かれた「特殊消息」、また全く書簡体をなしていない「非消息文」の三つが存在するのであり、これらには、主に雁行形式に散らして書く「散らし書き」と、文字の行頭・行末を揃えて書く「並べ書き(延べ書き)」のいずれの書法もほぼ伯仲して見られるからである。ついでに言えば、女筆手本における散らし書きは、一面において書道の習熟レベルを示すが、現実にやり取りされる手紙の散らし書きは同性・異性の間で特別な感情を示す書法であり、特定の状況下で用いられるべきものであった。
  さて、「女筆手本」を考えるうえで、忘れてならないのが「女用文章」の存在である。「用文章」は実用的な消息例文集である。多くの場合、豊富な例文と検索用の目次や見出しが用意され、時には手紙のバリエーションを増すための「替え言葉」「替え文章」、あるいは書簡作法その他の知識を盛り込んだものであって、編集意図や用途からいっても「書道手本」と一線を画すが、「女用文章」の隆盛は「女筆手本」の消長と深い関わりがあると考えられる。
  そこで、一つの試みに「女筆手本」を女性筆の手本に限定し、さらにその類書として「女筆用文章」「女筆往来物」「男筆女用手本」「男筆女用文章」の四つを加えて考察し、これらの総称を「女筆手本類」と呼ぶことにした。これは女筆・男筆、また、書道手本・用文章・その他の往来物(非手本・非消息)の区別を意識した筆者独自の分類だが、この分類に基づいて近世の出版動向を探っていくと、興味深い事実が浮き彫りになる。すなわち、江戸中期の宝暦期を境に、一つは女筆から男筆への移行、もう一つは手本から用文章への推移で、この変化は実用性の重視や出版物の庶民化の傾向と連動するものと考えられる。
  最盛期の「女筆手本」には、題簽題に「女筆」の二字を含むものが圧倒的に多いが、これは「女筆」の記載がそれなりに意味を持つ時代であったことを物語っている。言い換えれば、従来一般的でなかった女性による女性のための書道手本ということを強調した結果である(それを念頭におけば、題簽に「女筆」と記さない筆者無記載本は大方男性筆と見るべきであろう)。女性が著作に堂々と自署をするようになったのは、女筆手本において最も顕著であったと思われるが、現存最古の女筆手本類の一つ、万治三年刊『女初学文章』には筆者・窪田やすの署名があるし、貞享〜享保頃に多くの手本を残した、居初津奈・沢田吉・長谷川妙躰らの作品にもほとんど署名がある。
  ただ、窪田やすの跋文は「都にはよろしき女筆あまたおはしますへけれは、其憚おほかれと…」とやや控えめだが、妙躰の作品にしばしば見られる「世に長谷川氏女筆と名付あらはせるもの数多ありといへとも、筆海子の号なきものは真筆にあらさる者也」の断り書きには、やすのような遠慮は微塵もない。それどころか、かえって類書を排斥する強い姿勢が前面に出ている。もっとも、これは板元の販売戦略であった可能性もある。商才にたけた大坂書肆・柏原屋ならやりかねない。
  具体的な年代で言えば、万治頃から享保期のピークを経て宝暦期までの約一〇〇年間が「女筆の時代」である。この間に、女筆の誉れ高き女性が次々に書肆の求めに応じて女筆手本を書いた。ある意味で「女筆手本」は男性社会への女性進出の象徴であった。妙躰流は元禄から享保にかけて一世を風靡し、前後に例を見ないほど隆盛した。「生字」という言葉に集約される妙躰の書は、まさに現実世界で躍動する女性の姿そのものであった。
  女筆手本の黄金時代は妙躰によって築かれたが、また、妙躰の死によって終焉を迎えたといっても過言ではなかった。それは、妙躰に続く程の女流書家が出なかったこと、あるいは女筆と男筆を区別する意識が薄れて男性書家に入門する女性が増えていったことなどに起因するのであろう。どちらにしても約半世紀の「妙躰流」のブームにも関わらず、その後の庶民女性が女筆手本へ大きく傾斜しなかったのは事実である。実際の出版動向を見ても、妙躰以後の女筆手本類は、確実に女筆から男筆へ、また手本から用文章へと比重を変えていったのであり、それとともに「女筆○○」の書名も消滅していった。
  具体的な言及は控えるが、女筆手本類をめぐる他の論点(例えば女流書家、散らし書き、女性書札礼等の問題)からしても、近世の女性文化を考える場合に女筆手本に示唆される問題は決して小さくない。
  享保九年(一七二四)刊『女筆いろみどり』が刊行された時、筆者の春名須磨はわずか一一歳であった。それは『享保一四年書目』に「須磨一一歳」と特筆されるほどのセンセーションであったが、彼女はなんと農家出身の娘であった。
  しかし、江戸後期の人名録をみると、一一歳はおろか五歳、七歳といった天才少年・少女が一流の書道家とともに名を連ねるようになっていたのである。また、最盛期の女筆手本類の序文からも、これらの筆者の多くが、先輩の女流書家に憧れ、自己の書筆に磨きをかけ、やがて次世代への女筆手本を遺していった様子を垣間見ることができる。享保元年(一七一六)初刊と言われる『女手ならひ教訓の書(女手習状)』の末尾には、手習いの徳を「現世来世の宝」、すなわち永遠のものと讃え、「物かくゆへに身をたて仕合よき女性も世に多し。ならひ給へや、習ふへし」と女性の手習いを奨励したが、その模範たる女性は庶民の眼前に存在したのであった。近世文化はわれわれが想像する以上に広く深く庶民女性へ浸透していたといえよう。
  本書は、上記のような女筆手本とその類書を総覧した初めての目録であり、解題であり、年表である。一部未見のものを除き現存刊本のほとんどを網羅するが、未発見の女筆手本類もかなり多い。今後も資料の発掘とともに女筆手本類の究明に努めたいと考えている。筆者の未知や未見資料については、大方のご批判・ご教示を乞うと同時に、本書が各方面の研究にいささかでもお役に立てば本望である。
  最後に、私の往来物研究に並々ならぬ学恩を蒙ってきた石川松太郎先生、江森一郎先生、また、本稿の執筆にあたり種々の資料を提供して頂いた吉海直人氏、母利司朗氏、その他各機関の関係者の方々に御礼申し上げたい。また、拙著を「日本書誌学大系」の一冊に加えて頂くことを誇りに思うとともに、今回の出版を奨めてくれた青裳堂書店・後藤憲二氏に深謝申し上げる次第である。

 平成一〇年八月
小泉吉永