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3、女筆手本類の散らし書き |
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近世の女筆手本類は様々な形態や内容を含んでいることを見てきました。また、その基本的書法である散らし書きについて若干の考察をしました。女筆手本類は散らし書きが多いうえに、独特なくずし字も少なくありません。特に、頻繁に糸を引く妙躰流の連綿体は、初心者だと圧倒されてしまうかもしれません。また、文字と文字が重なり合うことが多く、慣れないうちは読むのも一苦労でしょう。しかし、散らし書きには一定の規則があり、それを踏まえて読めばそれほど困難ではありません。とにかく、実際に原本を読んでみないことには、散らし書きも女筆手本の雰囲気も十分理解できません。 そこで筆者の手元にある女筆手本類のうち、長谷川妙躰筆『見寿乃雪(美須の雪)』、窪田やす筆『女初学文章』、筆者不明(ただし女性)の『女筆子日松』の三点から散らし方の異なる例文をあげてみましょう。 まず『見寿乃雪』です。本書に見られる妙躰独特のくずし字は派手ですが、散らし書きとしては最もシンプルな部類で、単純に斜めに読んでいけばよいでしょう。ただし、女筆手本類に特有の連綿体やくずし字は見られます。例文は同書下巻中の一通で、初めて会った人に対する礼とともに「近日中にまたお会いしましょう」と誘う手紙です。 一日ははしめて御けんもしに入、馴々しき御物語ともいたし、いつわするへしともおもはす候。またまたちかきほとに御めもしとまつ御事に候。かしく 「またまた」のように踊り字(繰返し符号)のくずしが大きく、行末から次の行頭へと続く「はね」が所々途切れずに繋がるのが特徴です。なお、女筆手本類に最も頻出するくずし字「かしく」の用法については注意すべき点が多いので、後ほど整理して紹介します。 次に窪田やすの『女初学文章』です。下巻第一〇項(18)の往状「わつらふ人ありてくすしをよひにやる文」とその返状の双方を掲げてみましょう。 先ほどが一段であったのに対し、本状は中央の大字から読み始め、大字末尾で折り返していったん大字冒頭部の右下の字句を読んでから、上段の小字に移り、上段文末から再び折り返して下段冒頭へ続けるというように、三段(19)になっています。複数段の散らし書きはこの読み方が基本になります。 (往状)夜ふけ候て申かね候へとも、にはかにおもくなやみ(20)候人候て、せんすべ(21)なみだにむせぶばかりにて候。あくる間またぬならひは人のいのちにて候まゝ、法げんさま御いて候て、くすり御あたへ給候やうにたのみまいらせ候。めてたくかしく(22) (返状)いたう(23)わつらふ人のむくつけう(24)なやみ候よし、まことにおとろかせ給ひ候べく候と、をしはかり候てさへ、むねはしり(25)候。法げん御いてあるへきよしにて候まゝ、たゆみなく(26)御あつかひ候べく候。めてたくかしく 本書は実用例文を主とする女筆用文章で、この例文も夜中に急病人が出たため医者を呼ぶという用件の手紙です。「せんすべなみだにむせぶばかり」とは、生死に関わる程の状況を指すものと理解できますが、それにもかかわらず、病家当事者の往状にもそれに同情する知人の返状にも「めでたくかしく」が使われているのは私たちには理解しにくいものです。 三番目の『女筆子日松』は、序文によれば御所奉公の経験を持つと思われる女性が二〇年間集めてきた女筆の模範例文集です。本書は他に所蔵がなく、家蔵本は、上巻に「女筆子日松」、下巻に「相生のまつ」の題簽を付すように各巻で書名が異なっています(中巻は題簽が剥落して不明(27))。その中巻第一六状を例に掲げてみましょう。わずかながら片仮名(宛名のみ平仮名)のルビを施した箇所があり、散らし方も先の例に比べてさらに細かく五段になっています。一見複雑ですが、先の三段散らしと同様に文字の大・中・小の順に読んでいけば良いでしょう。ただしここでは、小字は下段・中段・上段の順に読むように書かれています。 初雪のふりしきたる庭の面いかゝ御覧し候や。木ごとに花のさく(かしく(28))心地して、雲のあなたは春にやあるらんとなかめまいらせ候(29)。常盤にみゆる松の木すゑに白木綿かけたるやうにて、神の御まへにいつか来にけんとおぼえまいらせ候。いつみ式部の歌に「まつ人のいまもきたらはいかゝせん ふまゝくおしき庭の雪かな」と詠せられしも、かやうのおりにふれたる御事にて候はんと思ひまいらせ候。此まゝにては見過しかたく候まゝ、御むもし様たちいさなはせられ、御出まち入まいらせ候。其ため文にて申あけまいらせ候。めてたくかしく 御早良様 参る申給へ 前二者に比較して大分優雅な文章です。「初雪に心はずませて古歌などに思いをめぐらすうちに、あなたとお会いしたくなりました。この美しい風景を一緒に眺めて和歌でも詠み合いましょう。せっかくですから御むもじ様(娘の意か)もご一緒にお越し下さい」といったところでしょう。 この例文では、雅語が随所に鏤められていますが、それ以上に古歌が趣を醸し出すのに役立っています。具体的には『詞花和歌集』に載る和泉式部の歌、すなわち「待っている人が今にもやってきたらどうしようか、せっかくのこの庭の雪を踏み乱してしまうかもしれない(30)」という意味の和歌を引いて、その和泉式部の心境が推し量られるような雪景色だと述べているのです。 実はこのほかにも「木ごとに花のさく」は『古今和歌集』の紀友則「雪ふれば木毎に花ぞ咲きにける いづれを梅とわきて折らまし」を、また「雲のあなたは春にやあるらん」は『古今和歌集』の清原深養父「冬ながら空より花の散り来るは 雲のあなたは春にやあらむ」を下敷きにしており、いわゆる引歌(31)の技法により一層情緒的、印象的な文面になっているのが分かります。このように『女筆子日松』には古歌そのものを引いたり、古歌中の表現を用いた例文が多いのが特徴です。 さて、この例文では宛名に続いて書かれた脇付「参る申給へ」が重要です。これにも敬意の差や尊卑上下によって種々の表現があります。本来はこの脇付は極めて高貴な人や最も敬意を払うべき人に限って使われた書簡用語でしたが、近世では完全に敬意の程度が薄れ、上輩だけでなく同輩・下輩への手紙にも広く使われるようになり、語句を変えたりくずし方を変えるなどして格式の上下を表すようになりました。ちなみに書札礼に見る女文の脇付の変化は下記の通りです。いずれも大体敬意の強い順に並べていますが、これらによって「参る申給へ」は中級程度の敬意と分かるでしょう。 このように近世に入ってからは、貴賤上下の別なく脇付を用いるようになったほか、(7)、(9)、(10)に見られるように返状の脇付語(返事脇付)も使い分けるようになったのです。 ■女文脇付の変化 (補注4) (1)永正頃(一五〇四〜二一)『大舘常興書札抄』 「参る人々申給へ」「たれにても申給へ」「人々申給へ」「参る申給へ」「申給へ」「参る参り候べく候」「参るまいらせ候」「参る」「まいらせ候」 (2)大永八年(一五二八)『宗五大艸紙』 「参る申給へ」「参るへし」「参る」 (3)天文二年(一五三三)『伊勢加賀守貞満筆記』 「○○殿御局まいる申給へ」「たれにてもまいる申給へ」「まいる申給へ」「まいるへし」「まいる」「まいらせ候」 (4)室町末期〜江戸初期『女房筆法』 「まゐる人々申給へ」「人々申給へ」「まゐる申給へ」「まゐるまいらせ給へし」「まゐるへし」「まゐる」「まゐらせ候」 (5)正保四年(一六四七)以降『和簡礼経』 「いつれの御局御中」「いつれの御かたへ」「参る人々申給へ」「たれにても 申給へ」「人々申給へ」「参る申給へ」「参るへし」「参る」「参り候」 (6)寛文六年(一六六六)『簡礼集』 「参る人々申給へ」「人々申給へ」「申給へ」「参る」「参らせ候」 (7)貞享五年(一六八八)『女文章鑑』 「○○との 御ひろう」「参る人々申給へ」「人々申給へ」「申給へ」「参る人々申候べく候」 「参る御返事人々御中」「参る御返事申給へ」「御返事申給へ」「参る返事」「御返事」 (8)元禄三年(一六九〇)『女書翰初学抄』 「参る人々御申給へ」「誰にても申給へ」「人々申給へ」 (9)寛延四年(一七五一)『女諸礼綾錦』 「参る人々申給へ」「人々申給へ」「申給へ」「参る人々」「申候べく候」 「参る御返事人々御中」「参る御返事申給へ」「御返事申給へ」「参る御返事」「御返事」 (10)天保一二年(一八四一)『新増 女諸礼綾錦』 「参る人々申給へ」「参る人々御中」「人々申給へ」「参る」 「参る御返し人々御中」「参る御返し申給へ」「御返し申給へ」「参る御かへし」「御かへし」 |
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4、かしこ |
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○「かしこ」の変遷 女筆手本類に必ず出てくる「かしこ」は最も重要な書簡用語の一つです。書止語の「かしこ(かしく(32))」は、いつごろから使われ始め、いかなる変遷を辿って今日に及んだのか(33)、また、書簡作法上の位置づけや意味合いはどのようなものであったか、本節ではその辺を探ってみることにしましょう。 「かしこ」の語源には二つあり(34)、年代からいって古い方は鎌倉時代の辞書『名語記』の「アナタカシコシ」の意とする説だが、しばしば引き合いに出されるのは室町時代の辞書『下学集』下巻(言辞門第一七)に載る説で、女子用往来では後者によったものが多いようです。 例えば、元禄二年(一六八九)刊『やしなひ草(婦人養草)』巻第五「廿三、女の文にかしくの字かく事」には、 「かしく」の文字、女性の文のとまりに書事、その故有。穴賢と云儀なり。しかるを、となへあしければ五音相通して「かしく」と文字をやつして書也。「あなかしく」の略と意得て可なり。又云、『下学集』にいにしへ和漢両朝いまだ人の家居をもしらざるとき、恙虫人を螫ころす、土ネのことく穴をほりて閉塞て毒虫をのぞくといへり。されば、「あなかしこく無事也」と悦て文のおくに祝しいふに、女筆はよわdとしてしかも筆画たゝしく書がよき也。… とあり、同様に元禄三年刊『女書翰初学抄』上巻頭書にも めてたくかしく。女文のおくに不吉ならぬ事はいつにてもかくのことし。昔は「あなかしこ」と書ける也。中比よりかやうに書事也。 昔恙と云虫、人をさしてなやます間、或人此虫を穴へをひ入、穴を閉ふさぎて殺ゆへに、虫たえてなくなりぬ。人みな悦、「穴賢無レ恙なりぬ」と云心也。此故に、文のをくに「あなかしこ」と書留ること也。又、何事もなき事を「つゝかなし」と云も此義也。『下学集』にみゆ。 と同様に説明しています。 準漢文体の「穴賢」は、平安後期撰『明衡往来』の「穴賢々々。謹言」や鎌倉初期撰『十二月往来』の「穴賢々々。敬白」などの使用例が確認できますが、いずれも「謹言」や「敬白」と併用するものであり、また、極めて稀なケースであることから、「穴賢」は書止として十分な地位を与えられていなかったことを思わせます。 また、天保一〇年(一八三九)刊『女筆花鳥文素』(滝沢馬琴撰)巻頭の「文のをわりにかしくと書事」には、次のように『蜻蛉日記』下巻に見える例や『年山紀聞』の説を引用しています。 女子のふみのをはりに「かしく」と書事は、ふるくより也。『かけろふ日記』に、「八月まつほどに、そこにびゝしうもてなし給ふとか世にいふめる。それはしも、うめき(も)きこえてん。かしく」と有。これも、道綱の母のふみ也。年山子の説に、「『日本紀』に「恐懼」の字を「かしこ」と点じたるも、同じこゝろ也。「あなかしこ」といふ「あな」は、『古事記』に「甚切なることばなり」とあれば、「誠惶謹言」などいはむがごとし。字をかりて「穴賢」と書たるにつきて俗説あり。もちうべからず」といへり。「かしこ」も「かしく」も、「かきくけこ」と通じて、おなじこと也。男子の手がみに「謹言」、女子のふみに「かしく」、其心みなひとつ也。これに「めで度」と書そえしは、はるか後の人のわざなるへし。 ここでいう「年山子の説」とは、元禄一〇年(一六九七)安藤為章作、文化元年(一八〇四)刊『年山紀聞』「一、かしく(35)」にある次の一文を指しています。 女の文にかしくと書事、古くよりなり。日本紀に恐懼の字を、かしこしと点したるに同じ意なり。阿那恐といふあなは、古事記の自註に、甚切なる時の詞とあれば、誠恐などいはむが如し。字を仮りて穴賢と書たるに付て俗説あり。用べからず。 いずれにしても、馬琴の指摘のように『下学集』のはるか以前の平安中期(一〇世紀中葉)には「穴賢」の略転「かしく」の例が見られるのです。それにしても、『女筆花鳥文素』を読んだ江戸後期の少女たちがそのことを知っていたことからも、近世の女性文化は決して侮れないのではないでしょうか。 とにかく、「穴賢」から「かしこ(かしく)」へと転じたわけですが、古態は「あなかしこ」であって「めでたくかしく」ではありませんでした。「あなかしこ」は「ああおそれ多い」「ああもったいない」の意で、強い詠嘆の「あな」に引かれて「かしこむ」意が強くなり、「ああおそれ多い(ああもったいない)、だから十分つつしもう」というような自粛自戒の気持ちが込められ、その結果、「謹言」のように書簡の書止にも用いられるようになったものと推測されます(36)。 真下三郎氏によれば、書簡における「穴賢」は鎌倉時代を経て室町時代になるとはなはだ多くなり、やがて「あなかしこ」の「あな」が省略されて「かしこ」だけの使用も一般化し、「かしこ」は国語であって和文体書簡に似つかわしいことから、和文体書簡の書止として定着したものです。和文体書簡が女性の手紙または男性から女性宛の手紙に限られるようになると、男性一般の準漢文体書簡には「謹言」等が使われるようになり、男女の書止の区別が一層進みました。ただし、漢字が多い書簡には「謹言」、逆に仮名の多い書簡には「かしこ」を使った伊達政宗の書簡の例もあります(補注5)。 「めでたく」が「かしく」に結び付いたのは、『下学集』よりもさらに一〇〇年以上後のことでしょう。伊勢貞丈は、江戸中期(宝暦一三年以降)作『貞丈雑記』九「書札(37)」に 一、「目出度かしく」と女の文留様の事、京都将軍の頃までの古書、古案等に見えす。とめは「あなかしこ」と書なり。『条々聞書』に云。女房文のとめやう、とめ所は「御心得候て申給へ」とも、又「御心得候て申入られ候へし」共候て、「あなかしこ」と留へし。又、『武雑書札篇』に云。留所は「御心得候て申給へ」とも、又「御心得候て申入られ候へく候」とも候て、「あなかしこ」ともとめ侍へし。又、『室町殿日記』云。「色紙三十六枚、絵様はれうかた(38)御いそかせ有へく候。いさゝかゆだんあるましく候。かしく」と云々。古書に「女のとめは「あなかしこ」ととめし也。「めて度かしく」と留る事、世の風俗になりしは、御当代の事とおもはるゝ也。かへつて男の状には「目出候之状如件」なとあり(男の文に目出とあるは、喜悦と云意なるへし)。 と述べて、「めでたくかしく」の成立時期を近世と見ていますが、『古事類苑』文学部(39)では貞丈の説を修正して天正年間(一五七三〜九二)以前に遡らせています。 ○按ズルニ、女文ニ、めでたくかしくト留ムルハ、古風ニ非ラザルコト貞丈ノ説ノ如シ、サレド徳川氏以来ノ事ナリトイヘルハ誤レリ、太閤記ヲ按ズルニ、天正年間、既ニ之ヲ用ヰタレバナリ、抑々織田氏戦乱ヲ戡定スルニ当リ、大勢一変シタレバ、書体モ亦一新シテ、女文ノ留様モ、亦織田氏ノ頃ヨリ一変セシモノナルベシ、 これに近い実例を示せば、文禄二年(一五九三)八月に豊臣秀吉が北政所に宛てた書簡に「めでたくかしく」が使われていますから(40)、上記の説は妥当でしょう。 また山崎美成は、天保一一年(一八四〇)刊『三養雑記』巻三に「めでたくかしく」の一項(41)を設けて、 今、女文にはかならず終に「めでたくかしく」とかけること、定まれることなり。いつの頃よりしか書けることにか。されど、「めでたく」といふ詞を消息にいへることは、『源氏物語』總巻の巻などにも見えたればふるきことなり。「かしく」といふは、むかしの仮名文に「あなかしこ」といへる「かしこ」と同語にて、俗文の恐ながらなどいふがごとく、男の手紙に「恐惶」とかけるに同じ意なり。「めでたくかしく」といふ詞は、『一休ばなし』に親月とて、都の町に松立わたし、注連縄かざりして祝ふをりから、され頭いだきありきたまへるを、或人の見て「こはいかに」と申ければ、返しごとに、 にくげなきこのされ頭あなかしこめでたくかしここれよりはなし とあり。この歌正しく一休和尚の詠ならば、この詞のふるき証とすべし。 と述べている。ただし、『一休噺』を根拠にするのは信頼性に欠けるでしょう。 なお、「かしこ」が「かしく」に転じた時期については、嘉永四年(一八五一)刊『女中用文玉手箱』頭書「めてたくかしくの事」に次のようにあります。 「めで」とは艸木も春に逢て芽の出るによそへ度はねがふ心なり。又、可愛とて、ほめる心もあり。『源氏』をはじめ物語の古き書にあまたみえたり。『古今集』の歌に「残りなくちるぞめでたき桜花」、『いせ物がたり』に「ちればこそいとゞめでたきさくら花」などよめり。文にいふは慶賀なり。「かしく」は、「かしこ」といふべきを、かきくけこの通音ゆゑ「かしく」といふ也。「かしこ」とは、「惶」又「恐」の字也。「かしこ」を「かしく」とかくは、筆のあまれるを、それがならひとなりたるは、四百年前あまりまへよりの世の風也。「めてたくかしく」は、男の書札の「恐惶謹言」とおなじ事也。 嘉永四年から四〇〇年前というと、応仁の乱で有名な応仁元年(一四六七)より二〇年程前、先の『下学集』の約一〇年後ということになります。 以上のように、「かしこ」は「あなかしこ」から始まり、やがて単独の「かしこ」、そして江戸初期には「めでたくかしく」「めでかしく」が使われるようになりました。準漢文体における「かしく」の例は後述するように近世中期まではかなり行われたようで、江戸初期には「恐惶かしく」「恐惶かしく」などの例も見られました。また、近世には同一文中に「かしく」を多用する例も多く、最初を「かしく」とし、二回目を「又々かしく」とする場合もありました。さらに明治期には手紙の内容によって、用件の概略を述べた手紙では「あらあらかしこ」、差し迫った文面では「早々かしこ」を使う例も見られます(42)。 ところで中世の書札礼書を見ると、鎌倉初期の『消息耳底秘抄』では仮名文の書止は概ね「穴賢々々」とすることが記され、さらに鎌倉〜室町時代の『玉章秘伝抄』で「穴賢」は準漢文体書簡の「恐々謹言」と同礼であることが定められたようです。 しかし、その後「穴賢」は準漢文体書簡にも使用される例が増えていったようで、室町初期の『書札作法抄』には次のような記述が見えます。 (1)漢字の手紙文に「アナカシク(穴賢)」は必ずしも不相応ではない。 (2)児の手紙は仮名文が本意だが、稽古のためには漢字でも差し支えない。時と場合によるのであって、一様に考えるべきものではない。 (3)主人から家人への手紙には「穴賢」または「謹言」と書く。 つまり、本来和文体の書止であった「穴賢」が室町時代には準漢文体書簡の書止としても使われるようになったのであり、以後少数派ながら準漢文体の「かしく」は江戸中期あたりまで続いたのです。 なお明治期になると、近世で定着した「かしく」を再び「かしこ」に戻そうとする動きが表れ、今日に至っています。二例ほど紹介しておきましょう。まず、明治一一年(一八七八)刊『女児私用文例』初編「大かたの人の誤やすき事とも」です。 「かしく」は、「あなかしこや」にて、「かしこ」とは、「恐入」といふ事なれは、男文の「恐惶謹言」に当る。昔の文には「穴かしこや、穴かしこや」、其次なるは「あなかしこや」、又心安きには「かしこ」とはかりも書たり。いつれも「かしこ」にて、「かしく」にはあらす。故に、必す「かしこ」と書へし。「く」にならぬやう、余りしやれて書へからす。 次に、明治一三年刊『消息文範』上巻頭書「消息文範の略」です。 ○あなかしこ 俗語に「あゝ恐れ多や」と参る意。文のとぢめに書たる。昔の例を考ふるに、うるはしく物したる文にのみ書りとおもはる。「槙柱(『源氏物語』第三一巻)」まて、(玉かつら君の文のとぢめに)「あなかしこ」とありて、ゐやdしく書なし給へり。我より上なる人に、うるはしう書なしてまゐらする文には、「あなかしこ」、又「あなかしこd」と重ねても書べく、ひとし並の人にも「あなかしこ」とゝぢめてよけん。また、すこし軽くいひてよからんには、「かしこ」とのみものすべきなり。友たちなど常に書かはす文には、此詞書かでもよかるべし。 いずれも、「めでたくかしく」ではなく「あなかしこ」になっている。まさに、近世を飛び越えた中世への復古でした。 さて、種々の女筆手本類を見てくると、こんな疑問が起こるかもしれません。同一消息文中における「かしこ」の重複的使用です。既出の例文にもその例が見られましたが、女筆手本類には一つの消息文中に「かしこ」が二回以上出てくるケースが少なくありません。特殊な例ですが、万治頃刊『女手本』下巻には、次のように「かしこ」が三回も出てくる例文も見られます(図版参照)。 今ほと通天之紅葉盛のよし承候まゝ、二、三日中に御見物に御出(かしく)なされましく候や、うけ給たく存候。わか身ひまにてゐ申候まゝ、御出候はゝ御供申度候。めてたくかしく。いつもdうれしさ、めてたくかしく この例文は、一度初段冒頭の右下に「返書」をした後で、その上段の細字へ続くというシンプルな二段散らしです。本書の例文は文字の大きさにも減り張りがあって読みやすいですが、大字部分(第一段)の末尾の折り返し点にまず「かしく」を置き、返書(第二段)の末尾に再び「めてたくかしく」と書き、さらに相手に親しみの余韻を残す「いつもdうれしさ」という語句を追伸文風に付け加えたうえでもう一度「めてたくかしく」の書止語を置いて締めくくっています。 また既に紹介した『女初学文章』の例文でも「かしく」が二回出てきますが、そこでは二回目を「又々かしこ」としています。 中世の女性書札礼に「かしこ」の重複的使用について触れたものがないのは、そのような用例がなかったためと思われますが、近世においてもそのような記述はあまり見られない。種々文献にあたっているうちにようやく次のような例を見出しました。幕末刊行の『女用文袖珠』頭書「文したゝむる心得」です。 ○竪文三段、五段、或は七段がへしなどには、初段の書どめに「目出たくかしく」をかき、又をはりにも「かしく」を書ことならひ也。 このように江戸後期には、二段以上の散らし書きの場合には第一段末尾に「めでたくかしく」を置くことが一般化していました。いずれにしても、これは「めでたくかしこ(く)」とともに近世に始まったものと考えられます。 同様の例は他の文献にも見られますが、実際に手紙を読む者にとって「かしこ」は、単に手紙文の左端あるいは文末の区切りを示す一種の記号と化していたことを物語っています。「かしこ」の連発は、手紙を書く本人にも、それを受け取った相手にも「かしこ」本来の意味をほとんど認識させなくなると思われるからです。『女初学文章』の病家への見舞状に「めでたくかしこ」を使うという理解しがたい例文も、このような事情によるのではないでしょうか。 ○弔状の「かしこ」 さらに、「かしこ」の用例を検討するために、「弔状」に焦点をあててみましょう。 一般に、相手に不快を与える文言を手紙の文面に書かないのがマナーであることは古今東西を問いませんが、近世の女性たちも様々な心遣いをしていました。例えば、居初津奈の『女文章鑑』には、祝儀状に使う「祝ひ」という言葉を仮名で綴る場合に、本来は「いはひ」ですが、これは「ゐはい(位牌)」を連想させるため、あえて誤りの表記である「いわゐ」を使うことや、人を見舞う場合の「とふらう(訪)」も、他人の不幸を「とふらう(弔)」と紛れやすいので十分注意すべきことを説いています。同様に『女書翰初学抄』には「息災」の「災」の字をあえて小さく脇へ寄せて書く習慣について触れています。 このような気遣いが最も求められた例が弔状でした。 例えば、近世最初の女筆手本類の一つ『女初学文章』中巻には「人のしにたる所へとふらひにやる文」と題した弔状を載せるが、それは次のようなものである(図版参照)。 ひさしく御わつらひ、つゐにかくれ給ひ候事、御ちからおとし、申へきやうもなく候。あなかしこ 冒頭の挨拶語を書かずに直接弔意を示すのは弔状の一般的作法ですが、ここでは死者の名前も記さず簡潔に哀悼の意を述べています。本書の頭書に「しゝたる家はけがらひあるにより、文のかへり事なし」と付記するように、弔状にすぐに返事を書くことはタブーであり、弔状の礼状は忌み明け後に書くのが基本でした。従って、本書を始め大半の女用文章には弔状の返状を載せないのであり、本書もここまではごく常識的なものです。 しかし、『女初学文章』の弔状には極めて特異な点があります。それは、散らし書きで綴られていることです。散らし方はさほどでなく並べ書きに近いものですが、各行の行頭が揃っていない以上、この例文は散らし書きです。近世一般の作法では、祝儀状には散らし書きが好まれて使われたのに対して、弔状には散らし書きは禁物で、必ず並べ書きでなくてはなりませんでした。 そこで、江戸時代各期の女筆手本類から弔状を抽出すれば、江戸前期〜後期における弔状の文面や作法の変化が分かると思われます。以下に、元禄から明治初年までの約二〇〇年間の刊本から一〇例を列挙してみます。 (1)元禄三年(一六九〇)『女書翰初学抄』 誰様御事、御煩、終にうるはしき御気色なふ御終のよし、兼てよりつねざまにはひきかえ、かろからぬ御事とは存候へ共、今更のやうに袖しほるばかりに候。分てかた様御事をしはかり、御いとおしく存候。去ながら、常なきは三界のならひ、逢別離苦のくるしみは火宅のおきてにて候まゝ、とかく御愁傷をとゞめられ、一蓮詫(托)生の御追善こそ本意にておはしまし候。 (2)宝永六年(一七〇九)『女節用集文字袋家宝大成』*元禄二年頃作 誰様御事御いたはり、つゐによろしからす御過のよし、兼々よりつねにかはり、をもき御事と存候へとも、今さらのやうに袖をしほりまいらせ候。殊にかた様の御うへおしはかり、御いとをしく存候。去なから、うき世の中の習にて候まゝ、只御なけきをとゝめられ候て、御追善こそかんようにておはしまし候。 *かねてより病状も知らなかったり、急死の場合として次の例文も掲げる。 たれ様御かくれなされ候よし承り、おとろきいりまいらせ候。さそやd御ちからをとし、おしはかりまいらせ候。されとも、一たひはあらでかなはぬ御事と御さとりましd、とかく御くやみをとゝめられ、御きやうやうこそ第一にておはしまし候。 (3)享保一三年(一七二八)『女万葉稽古さうし』*上中下別。 (貴人)誰様御不例の御事、終に御本復なく御隠遊ばさせられ、いか計驚存まいらせ候。御悔のため、羊羹一折十棹差上まいらせ候。かしく (同輩)誰様御事、兼ての御悩一かたならずも、御養生遊ばし候に、本復の御事もなく過させられ候よし、一家打驚まいらせ候。そもじ様御悲しみの御程いか計と察しまいらせ候。寔に生者必滅の習、誰のかるべくもなき道におはしまし候へは、せめては御心もじの程御明らめおはしまし候へて、偏に御追善こそ肝要に存まいらせ候。かしく (下々)秘蔵の愛御かへり候よし、今程聞候て肝を消しまいらせ候。嘸とや二方の御嘆申さん様もなく存まいらせ候。此一折、常しも好の菓子にておはし候まゝ、御盛物に備へ給り候べく候。かしく (4)延享元年(一七四四)『女文台綾嚢』*忌明礼状も付す(省略) 誰様御事御病気、終に御本服なく御過なされ候よし承り、皆々打驚まいらせ候。わきてそもし様、御悲の程いか計とさつしまいらせ候。御悔の為かくのごとくに候べく候。かしく (5)宝暦九年(一七五九)『女千載和訓文』*忌明礼状も付すが省略。また「かしく」は全ての例文に省かれている。 誰様御痛はり御へいゆふなく御過遊し候よし、驚入まいらせ候。わけてそもじさま御なけき押計り、御いとおしく存まいらせ候。去なから世のならひにて御ざ候へは、御なげきを御やめ成れ候て、よくd御とむらひ遊され候べく候。 (6)文化一二年(一八一五)『女当用文章』 誰様御事ひさeの御びやうき御養生御手をつくされ候へども、つゐに御かくれ遊ばし候との御事、さぞかし御ちからおとし申べきやうもなく候。かしく (7)天保五年(一八三四)『女用筆の枝折』 御悔申度一筆申入まいらせ候。左様候へば、御隠居様御事ひさe御病気にておはしまし候処、終に御よろしからず、御過遊はし候よし、扨々、驚入まいらせ候。御歎きのほと申つくしがたく存上まいらせ候。こなたにても申出し御残多く存まいらせ候。何にても相応の御用候はゞ御遠慮なく御申下され候べく候。まづは、御悔申あげたく御一統様へ宜敷御伝へまし頼上まいらせ候。かしく (8)天保一二年(一八四一)『新増 女諸礼綾錦』*「死去悔みの文」「同返し」の二通を載せる。 (死去悔みの文)御病人さま事折角御介抱なされ候へども、御養生かなひなく終に御すぎなされ候よし、おどろき申候。みなd様嘸かし御いたみのほど察し入まいらせ候。扨は、殊のふ麁末に候へども、にしめ一重さし上まいらせ候。まつは、御悔まで人して申上まいらせ候。かしく (同返し)御念もじの御文拝しまいらせ候。仰のごとく隠居事、過し七日おもひがけなく死去いたされ、みなd当惑いたし候。さ候はゝ御心にかけられ、御香奠金百疋送り下され、忝直さま手向まいらせ候。其内御めもじに入、御礼申上候べく候。かしく (9)江戸後期『女用文袖珠』*「不幸知らせの文」「同悔みの文」「同かへし」の三通を載せる。 (不幸知らせの文)一筆申上まいらせ候。私方母事久々病気に御座まし候所、養生かなひ申さず、昨夜身まかり申候。此よし態々御しらせ申上まいらせ候。かしく (同悔みの文)御隠居様御事御病気におはしまし候所、御養生御叶ひあそばされず、今朝ほど御死去のよし、驚入まいらせ候。折角御介抱の御詮もなう嘸々御歎かはしさ察し申上候。麁まつながら、金子二百ぴき御香料として送りまいらせ候。御仏前へ御そなへ下さるべく候。何もよの中のならひ、この上は深う御なげきなく、跡御念もじに御弔ひ肝要と存上まいらせ候。先は御悔み申上たさ、此よしのみ。かしく (同かへし)御念もじの御文いたゞき、あり難く拝しまいらせ候。誠にぞんじがけなき不幸にて、愁ひにのみしづみまいらせ候処、御しめしにてやうd思ひ直し、跡のいとなみに取かゝりまいらせ候。御気もじにかけられ、結構なる御香でんにあづかり、恐入候。いづれ中陰(43)もあき候はゞ、御めもし致し御礼申上まいらせ候べく候。かしく (10)明治一一年(一八七八)『女児私用文例』*初編。「忌明状」も付す。 (悔状)誰様御事昨夜御死去之由、先比より少々御不快とは承候へ共、格別之事もあらせられずとのみ存居候処、誠におどろき入まいらせ候。御存命中今一度御窺不申、扨々残念限なく存上まいらせ候。どなた様も嘸々御愁傷御察し申上まいらせ候。御香奠として重一掛献上致まいらせ候。御生前毎度御越被下候て、花壇の御世話被下候御陰により、此節うるはしく咲出候纏枝牡丹、菊花并に風蘭一鉢御霊前へ御供へ被下へく候。かしこ (忌明状)不幸之節は、御心切に皆々様御こし被下御苦労に預り、御香儀万事御叮寧に遊被下、喪中にも毎々御心入し早々御手むけ被下、浅からぬ御志之程、厚くd御礼申上まいらせ候。先々、滞なう相いとなみ、今日忌明致候に付、とりあへず御礼迄。猶尽せぬ御礼とも御めもし様に申上候べく候。以上 まず、以上一〇点の全てが鉄則通り並べ書きですから、先の『女初学文章』の散らし書きは例外中の例外といえそうです。他の女用文章をひもといても、散らし書きの弔状はほとんど見出すことはできません。 次に、多くが弔状の返状を載せないのも書簡作法に則っています。弔状に対する礼は使者に口上で伝えるだけで手紙にはしたためず、その礼状は忌み明け後に改めて送るものでした。しかし上記のうち、(8)(9)は弔状から比較的短期間に書かれる文面になっています。(8)の「過し七日おもひがけなく死去」の報告と「其内御めもじに入、御礼申上候べく候」というのは死去後間もないと見るのが自然です。また、(9)は死亡通知の手紙(不幸知らせの文)を載せる点でも異色ですが、三通目の返状は中陰、すなわち「四十九日」後に改めて礼を述べるべきとしていますから、これも同様に死去後比較的短期間の文章です。ここに、弔状の作法の変化の一例を確認できるでしょう。 また、江戸後期から明治期にかけて字音や漢字の使用が目立つのが分かろう。 文面では、(1)の文章が比較的長文で個性的です。また、江戸前・中期の例文は弔意を示すことに重点が置かれているのに対し、江戸後期の(7)は実務的・実際的な雰囲気を漂わせていますし、何より(8)〜(10)は悔やみのしるしとしての「香奠(44)」が文面に出ているのが特徴的です。江戸前・中期の例文に香奠の記載がないのは、当時、香奠の習慣がなかったことを意味するものでないことは明らかです。とすると、祝儀のしるしに物を贈答するということを含め、これは「心」と「物」の価値観に変化が生じたことを示唆するものではないでしょうか。 これに関して興味深い主張があります。北尾辰宣編、寛延四年(一七五一)刊『女諸礼綾錦』巻之六「文したゝめやうの事」中の一文です。 惣じて、酒肴くはし類、重の内など送る時の文躰、「先何々の御しうぎ御よろこび申上候はんため、文を進じまいらせ候」よしを書て、次に「是々のものを進し候」由をかくべし。或は「御見廻のため何々を進上いたし候」などゝ書事、当時通用に書事なれども本義にあらず。文を遣す事を専一と心得へし。「何々のため文を遣し候ゆへ、とりあへず肴、菓子など送りまいらせ候」よしをいひ遣すと心得べし。又、返事にも「何々の御祝ひと仰られしめしあつかり、ことに珍敷重の内おくり給り」など有べし。惣て祝儀などの時、自身行て祝ひをいふべき事うやまひなり。みつからまいられさるとき、自筆に文をしたゝめ、使をもつてよろこびをのぶるなり。酒肴など送る事、自身参りても、又は文遣し候ても、其品に送るといふもの也。酒肴にて祝儀をいはふにはあらず。よくわきまふべし。 あくまでも手紙にしたためる心情こそが大切なのであって贈答する品物はその代用であるとの主張、また、本来は自ら出向いて祝意を伝えるべきところを自筆の手紙に代えるのであるという意見は、今日なお学ぶべき価値があると思います。江戸後期にいたって弔状に香奠の品目が明記されるようになったのは、祝儀状の作法が弔状にも影響したものとも考えられますが、いずれにしても弔意とともに香奠の内容が重視されるようになったことを意味するものでしょう。辰宣の警鐘にもかかわらず、手紙における「心」と「物」の意味合いは近世から近代にかけて確実に変化していったのです。 なお、弔状における「かしこ」の作法について整理しておきましょう。宝永六年(一七〇九)刊『女節用集文字袋家宝大成』は弔状に「なをなを書、かしくも、たれよりのよりといふ字も書へからず」と述べ、弔状に「かしこ(く)」そのものを禁じていますし、宝暦九年(一七五九)刊『女千載和訓文』頭書「文のかきやう指南」にも「とむらひくやみの文は、尚々がき、参る、かしく、参人々申給へなど、みなかゝぬものなり」と「かしこ(く)」の使用を禁じています。 しかし、江戸後期では次のように不幸の手紙には「あらあらかしく」、その他の手紙全般に「めでたくかしく」を用いるのが一般的になったようです。(イ)は文化一五年(一八一八)『女文通宝箱』頭書「文こと葉つかひ」、(ロ)は天保一二年(一八四一)『女用手習鏡』頭書「文言葉つかひ」です。 (イ)「めてたくかしく」は祝儀文にかぎらす、すべてのふみにかくべし。「かしく」は「穴賢」を略したるもの也。但し幸ならざること、又悔状などは遠慮すへし。只「あらdかしく」にてとめてよし。 (ロ)「めでたくかしく」とは、祝儀ふみにかぎらず、すべての文にかくべし。「かしく」とは「穴賢」といふことの略したるなり。但し、悔状などは「めで度かしく」とかくべからず。「あらdかしく」とかくべし。 少なくとも(イ)では、死去以外の不幸、従って、病気を見舞う場合も「めでたくかしく」を使わないのがマナーであり、この点江戸後期の作法はわれわれの常識に近いでしょう。江戸前期には弔状だけが特別扱いされていたのでしょうか、先の『女初学文章』の例では、同じ不幸でも弔状と病気見舞状とに一線を画す意識が明確に読みとれます。 なお、蔀関牛は天保一二年(一八四一)の「女諸通用文章」頭書「女書札式(45)」で、幸・不幸を問わずあらゆる手紙に「かしく」を用いてよいと述べています。 「かしく」は或説に「可祝」の意なるゆへ弔の文には書べからずとあれど、関牛按ずるに、「かしく」は「かしこむ」の下略にて「惶」の字なり。すなはち、男文に用ゆる「恐惶謹言」と同じ意なれば、すへての文の留に通じて用ゆべし。 「かしく」そのものを弔い状にタブーとする説がある一方で、関牛のような意見もあったわけです。いずれにしても近世では、弔状の「かしく」の使用について、次の考え方が並立的に存在していたようです。 (1)弔状の書止は「めでたくかしく」も「かしく」も使ってはならない。 (2)弔状の書止は「めでたくかしく」とせずに「あなかしこ」とする。 (3)弔状の書止は「めでたくかしく」とせずに「あらあらかしく」とする。 (4)弔状の書止は「めでたくかしく」とせずに単に「かしく」とする。 ○準漢文体書簡の「かしこ」 さて、「かしこ」をめぐるもう一つの問題点について考えておかなければなりません。 それは、仮名文以外の消息文、すなわち準漢文体の消息文に「恐惶謹言」や「謹言」を使わずに「かしこ」を使う場合です。和文体には「かしこ」、準漢文体には「謹言」を使うのが基本とされましたが、例外的なケースも江戸前期にはしばしば見られました。 つまり、準漢文体書簡における「かしく」の使用の例で、これは準漢文体と和文対の作法の混用とも考えられますが、正式な作法では認められなかったものです。準漢文体の「かしく」は、江戸中期(宝暦頃)以前の用文章には時々見られるが、それ以後は極めて例外的になります。 具体例を見ながら検討してみましょう。準漢文体の消息文ということになれば、近世初頭より種々出版されている一版の用文章に当たらねばなりませんが、ここに「かしこ」の使用の変化を示す恰好の資料があります。 それが明暦二年(一六五六)作・明暦三年刊の『〈江戸〉新用文章』、一般には『新板用文章(障)』と呼ばれるものです。本書は江戸前期から中期にかけて普及した最古の用文章の一つで、書名を異にする異板や異本、また改題本などが多数存在しますが、本文のみの純粋な手本である明暦板系統と、頭書に絵抄・注釈を加えた寛文板系統の二種に大別されます(それぞれ下巻第二状「借用申銀子之事」の末尾に「明暦二年」「寛文二年」とあります)(46)。 両系統とも二巻二冊本で、明暦板系統は、上巻に「正月初て状を遣事」から「年の暮に祝を得たる時礼状之事」までの一九通(大半が用件中心)を載せ、下巻には「家売券状之書様之事」以下四例の証文類文例と、「諸道具字づくしの事」「着類字づくしの事」「編并冠字づくしの事」の語彙集に加えて「義経含状(47)」を収録しています。 この明暦板系統と寛文板系統とでは頭書の有無のほか、収録書状数や配列、また語句の相違など種々の変更が認められます。特に、明暦板系統の例文に見られた「かしく」や「恐惶かしく」といった書止を「謹言」「恐々」に改めるなど、「かしく」の使用を意図的に排除した形跡が窺われますので、なおさらのこと無視できません。 この変化が見られる例文として二例あげておきましょう。 ○上巻第七状「田舎などへ遣文躰之事」 (明暦板)幸便御座候条、一筆令二啓上一候。仍其許皆々様御堅固被レ成二御座一候哉。旦暮御床敷存候。爰元公私無事罷在候之間、一入御心易可レ被二思召候。皆々様以二別紙一可申候へ共、従二貴公様一能様御心得頼入候。猶追而可二申達候。かしく (寛文板)幸便御座候条、一筆令二啓上一候。仍其許皆々様御堅固被レ成二御座一候哉。旦暮御床敷候。爰元公私無事罷有候之間、一入御心易可レ被二思召候。皆々様へ以二別紙一可申候へ共、従二貴公様一能様御心得頼入候。猶追而可申達候。謹言 ○上巻第一〇状「留守の間に人来りて、あはすして後にやる状之事」 (明暦板)疇昔者、邂逅之預二御来訪一候得共、折節令二他行一残念之仕合候。何等之御用等御座候哉。従二貴報一可レ令二伺公一候。恐惶かしく 孟春日 (寛文板)疇昔者、邂逅之預二御来訪一候得共、境節令二他行一残念之仕合候。何等之御用等御座候哉。依二貴報一可レ令二伺公一候。恐々 市之丞様 仁左衛門 文面上わずかに字句が異なり、寛文板では左訓が増補されるなどの異同が見られ、また、後者では日付の一行に代えて差出人名と宛名を挿入した点も特徴です。しかし最も大きな変化は、前者で書止の「かしく」を「謹言」に、後者で「恐惶かしく」を「恐々」に改めたことです。とりわけ「恐惶かしく」は、和文体と準漢文体の書止を合成したような書止で、近世の用文章では極めて稀です(48)。 しかし、明暦板系統の「かしく」は一〇年足らずのうちにほとんど改められたようです。『新板用文章』に見られる「かしく」消滅の傾向は何を意味するのでしょうか。あるいは上方と江戸での習慣の違いか、または準漢文体書簡における「かしく」の使用が一般的でなくなったためでしょうか、いずれにしても、当時の実情を反映した意図的な改編であったことは間違いありません。 さて、『新板用文章』の明暦板から寛文板への改編で生じた大きな違いは、後者において施注されるなど一層便利で実用的になったことでしょう。例えば、証文文例では寛文板では「売主誰」「請人誰」といった署名についても注意を喚起しており、実用面での前進が見られます。この間に『新板用文章』は板元を変えながら何度も上梓されたことが推定され、寛文板では頭書に語注を付したものや、語注のほかに挿絵も加えたものも登場しました。従って、ある時期には江戸板・上方板を合わせて少なくとも一〇種近くの『新板用文章』が市場に出回っていたはずです。この当時は版権の意識も薄く、本屋仲間といった公権力を基盤とした板元の組織化もほとんどできておらず、重板・類板といった不正な出版も野放しにされていました。このような自由競争下で、複数の板元がこぞって『新板用文章』を出版したからこそ、数多くの異板が生まれ、頭書のアレンジなども試みられたのだと思います。 以上のように、準漢文体書簡に「かしく」が使われるケースは江戸前期までは確実に存在したものの、徐々に消滅していきました。また、準漢文体の「かしく」は正式の作法ではないため、おのずと使用状況や使用範囲が限られていたようです。この点に関して、宝永三年(一七〇六)刊『諸礼筆記』巻之二「書礼」は次のように記しています。 「かしく」と書事は、女中の状にかぎるやうに覚たるは非なり。男子の文にも書事也。されども同輩以上へは、用べからず。かしくと書は、大かた也。今、とめる格に古礼用ひしなり。 準漢文体での「かしく」は正格でない以上、上輩には禁じられた用法であり、一般に目下への手紙に用いるものとされたのです。 ところで、『往来物分類目録』等で知られる岡村金太郎の旧蔵本(現東京大学総合図書館蔵)中に、小森松洞作『拾玉用文宝箱』という用文章があります。岡村本は安永三年(一七七四)、大阪・京都三書肆による求板本だが、初板は享保一七年(一七三二)、大阪二書肆刊です(49)。その岡村本の刊記部分に次のような書き込みがされています。 此作者大馬鹿也。文字之相違、文体之ベラボウ可笑云々。 かなり辛辣な批判です。「文字之相違」はともかく、ここの「文体之ベラボウ」とは何を意味するのでしょうか。 本書は「新年状」から「家継誕生祝い」までの四二通の消息文例を収録した用文章で、文体上際だった特色は「かしく」または「穴賢」を含む例文が九通も含まれる点です。とりわけ、次の「穴賢(50)」は、準漢文体の「かしく」よりもさらに少ないケースで、近世後期の人々には古風というよりも異様に感じられたでしょう。 累日之雨、徒然之至候。庭前苔生問人弥希候。山居之心地不レ異候。此節預二御来駕一者、猶以可レ有レ興候也。穴賢 この書き込みをした者は、恐らくこのような準漢文体書簡における「かしく」や「穴賢」の使用を批判しているものと思われます。特に、求板本から見れば初刊は四〇年も前のことですから、この間に書簡作法や書簡用語が実態にそぐわなくなっていたことは十分考えられます。どちらにしてもこの事実は、江戸中期後半以降には「かしく」は和文体に限定されようになり、準漢文体の「かしく」が一般的でなくなったことを示す傍証といえましょう。 |