往来物豆知識(柱)


 往来物に関する諸知識をテーマ別に解説します。当面は学位論文から「散らし書き」のあらましを次のような順でご紹介します(実際の論文よりも平易な文章に改めています)。引用文は字下げせずに紫色で示してありますが、おどり(繰り返し文字)やJIS外字、漢文の訓点など正確に再現できていない箇所もあります。

  第1回 散らし書きの諸様式
  第2回 散らし書きの作法
  第3回 女筆手本類の散らし書き
  第4回 かしこ



1、散らし書きの諸様式


 本章では女筆手本に特有の「散らし書き」や書簡用語について考えてみましょう。
 まずは「散らし書き」の定義ですが、例えば、既存の辞典では次のように説明されています。
 〈1〉和歌や仮名消息などの書法の一種。紙面構成の一法として、文字を散らして布置するわが国独自の書き方。(『日本大百科全書(1)』)
 〈2〉和歌や手紙などの仮名文字を書く場合に、各行に高低の変化をつけ、文字を散らして布置する書き方。(『日本書道辞典(2)』)
 〈3〉行の高さ、長さ及び行間の幅にいろいろな変化のある書き方、散らし書きは仮名の独得の書き方である。(『古筆大辞典(3)』)
 そしてこれらによれば、康保3年(966)頃筆の『虚空蔵菩薩念誦次第紙背仮名消息』(滋賀県・石山寺蔵)や、藤原公任自筆『北山抄』紙背の長徳・長保(995〜1003)頃筆「仮名消息」(京都国立博物館蔵 *国宝)、11世紀初頭筆と推定される『三宝感応要録紙背仮名消息』(京都・鳩居堂蔵)などが、現存最古の散らし書き消息の例とされています。
 『源氏物語』ではこのような書法を「乱れ書き」と呼んでおり、各行の上下を揃えた書き方(4)よりも「今めかしうをかしげ」、則ち当世風の魅力があるとの記述が見えますから(5)、「散らし書き」は平安中期頃には貴族社会に広がり始めていたものと推定されます。平安時代には漢字の秀句を散らし書きにした例も見られますが(補注1)、仮名のように自由で変化に富んだ表現がしにくいため、漢字の散らし書きは定着せず、散らし書きは仮名独自の書法となっていきました。また、平安時代の散らし書きが多彩で優れたものが多いのに対し、平安末期以後は変化に乏しく定式化していきました(6)
女初学文章
■万治3年刊「女初学文章」
本文上欄(頭書)に簡単な語注を付すが、頭書入りの女子用往来として最古の例である。「用の事ありて文をつかはす事」と題した例文で、「さいつ比(頃)あからさまに申入候つる御事、たのみ申たく候。さ候はゝ、につかはしく候はんを御はからひ候て御見せ候はゝ、まんそく申候べく候。おとりまさりのけぢめ、こなたはいざしらぬどちにて候へは、御はからひにはすぎ申ましく候。くはしき御事は御げんさうにて、申うけたまはり候べく候。めでたくかしく」と記す。以前にかりそめに頼んであった件を正式にお願いしたい、こちらには目利きがいないのであなたに吟味してほしいとの手紙である。


 さらに鎌倉時代に入ると、散らし書きは一定の形式を整えるようになり、特に「女房奉書(7)」の書法として行われたこともあって、公家や武家の女性たちへと一層普及していきました。
 14世紀中葉の筆道書『麒麟抄(8)』第八によれば、当時、和歌や艶書の散らし書きとして次のような数種類の型が存在していたことが分かります。
〈1〉立石様…和歌の上の句を九・七・一字(または八・八・一字)の三行、下の句を七・六・一字の三行に書く方法で、「四行木立」とも。
  ほのとあかしの
     うらのあさきり
            に
     しまかくれゆく
    ふねをしそおも
            ふ
〈2〉藤花様…上の句と下の句を一行ずつ頭揃えで書く(イ)「二本木立」という方法と、五七五七七の五行を段々に並べる(ロ)「五行木立の藤花」という方法があります。
(イ)ほのとあかしの浦のあさきりに
     しまかくれゆくふねをしそ思ふ
(ロ)からころも
    きつゝなれにし
     つましあれは
      はるきぬる
       たひをしそおもふ
〈3〉木立様…「立石」と同様ですが、七・七・三・七・五・二の六行を下揃えで書く方法です。
  やをかゆくはま
  のまさことわか
       こひは
  いつれまされり
     をきつしま
         もり
〈4〉立藤様…上の句九・八、下の句七・七の四行を下揃えで書く方法です。
  かすかのゝわかむら
     さきのすりころも
     しのふのみたれ
    かきりもしられす
〈5〉分秀様…和歌の上・下の句切りに関係なく一二・八・七・二・二字の順に下揃えで並べる方法です。
  かすかのにわかなつみつゝ
        きみか代をいはふ
         こゝろはかみそ
                しる
                らん
 以上は和歌の散らし書きの例ですが、艶書の場合、表を「立石様」、裏を「木立様」にすること、また、用紙二枚のうち一枚目を「木立、其間飛鳥落花ノ様トテ散々ニ書散」らし、二枚目を「木立ノ乱レタル様ニ乱シテ書散」らすとも説明しています。
 このように、鎌倉時代の散らし書きには一定の型が生まれましたが、それとともに平安朝の散らし書きに見られた自由奔放さも失われていきました。
 なお、『貞丈雑記』九「書札」中の「女房のちらし書」項には、上記の「立石様」「藤花様」のほかに、二行揃えて書く「小筋書」と行頭を段々に下げて行く「雁行様」の二つを掲げています(9)。このうち、「雁行様」は〈2〉の「五行木立の藤花」に相当しますが、これは女筆手本の散らし書きの基本型となったものです。
 なお和歌の散らし書きは、近世に入り一層多彩になったようです。例えば、前田図南の筆道書、宝永6年(1709)刊『本朝字府秘伝』巻之四(家蔵)には「三十六人歌仙」の散らし書きを図解して次のように述べています。
本朝字府秘伝
■本朝字府秘伝

○右三十六人歌仙色紙チラシ書ノ法ハ、冷泉殿流ナリ。亦タ二条家アリトイヘトモ、悉ク少ヅヽ違アレバ、事繁多ナル故ニ略レ之。凡ソ歌仙類ヒ、板刻ニ出ル所、或ヒハ古代、中古、近代アリ。或ヒハ釈門、女歌仙アリ。各チラシヤウ異ナリ。尚ヲ神前拝殿ノチラシ書ヤウ其ノ法アリ。口伝。


 そして、図のように「名所水辺のちらし」「三行三字のちらし」「四行ちらし」「上中下の返し」「上中下四方返し」「上下下一上三縁」「四行下二字縁」など実に20種に及ぶ散らし書きを載せています。また、上記の引用文では、家々の流儀によって、また時代や身分・性別などによって事細かなきまりがあったことを彷彿とさせます。
 しかし、散らし書きに関する繁雑なきまりは、有職故実家などには必要とされても、当時の一般女性にはほとんど無縁のものでした。近世の女性書札礼は女子用往来物や女筆手本類によって普及しましたが、これらには以上のような「○○様」といった記載は全く見出すことができません。
 ただし、『安斎随筆』「女文散し書」(補注2)の記述によれば、散らし書きの散らしの度合いが徐々に派手になっていたことを伝えています。

女の文のちらし書は、歌をちらして書くより出でし事也。歌のちらし様に法もなし。されば、文のちらし様とて定りたる法もなし。たゞ文字のふときと細きとにて見わくる様に書く事なり。近き頃は、三べん返し、五へんかへし、七へん返し、九へんかへしなどゝて、その手本をかき、朱にてよみ様の次第のしるしに、一、二、三の文字を付けたるあり。是れは世に拵へ出したる物にて、取るにたらざる物なり、故実に非ず。昔は男も女もふみかくに、さのみ長々しき文書くものはなかりしなり。長くいひたき事は文もちて行く使の者に申しふくめてつかはしたるなり。もし長き事は二へんはかへして書く事も有るべし。三べんより已上、七へん、九へんなどかへしては、一、二、三のしるしなくてはよめ兼ねて用事もたらず、よみたがへなどして、事の心わかりがたし。されば、三べん以上くりかへし散らしかく事はなき事なり。近き頃は物ごとむづかしき事をかまへ出だして、秘伝・口訣など云ひて人におくゆかしがらせ、人にほこるともがら世に多くなれり。古き世には、物ごとにむつかしき事なく安らかなり。

 また、『貞丈雑記』「九、書札」中の「女房のちらし書」項(10)にも

ちらし書に文をかく事、歌をちらしかくより出たり。一へんちらして書へし。もし一へんにあまらは二へんも書へし。今世「三へんかへし」「五へんかへし」などゝいふはなき事なり。さやうにいくへんも返してはよめがたく、用事もたらぬなり。用事のことはちらさず書へし。

とあります。本来手紙は簡潔を旨とし、詳細は口頭で伝えるべきものでしたが、いつの頃よりか主文で書ききれない文面を折り返して数段で書くようになりました。この二段目以降を「返書(かえしがき)」といい、貞丈は二段までの返書はよいが、三段以上は無用だと批判するのです。実際に江戸中期以降の女筆手本類には、五段〜九段のように細々と散らした例も見られますから、近世では派手な散らし書きを好む女性たちも少なくなかったのでしょう。しかしながら、正式な女性書札礼では、貞丈の主張のように無闇な散らし書きを禁止するのが常でした。



2、散らし書きの作法

 これまで述べたことを整理すると、「散らし書き」は次のように説明することができます。

平安時代中葉に貴族社会において始まった和歌や手紙の書法の一つ。各行の行頭または行末、またはその両方を揃えずに、さらに各行の文字の大きさや行の長さ・高さを変えながら散らして書く方法。その淵源は和歌または懸想文とされ、古代においては自由な表現方法であったが、中世に入ると女房奉書の書式として用いられ、やがて定式化した。以後、公武の女性間に浸透し、近世以降は和歌とは別に女文独特の書法として種々の作法が生まれるに至った。


 しかし、散らし書きに関しては検討すべき点がまだ残されています。例えば、最初から女性専用であったのか、また、どのような状況で用いたかなどです。
 まずは、中世以来の書札礼を見てみましょう。今日われわれが目にすることができる数々の書札礼書で、散らし書きに最も詳しいのは室町初期作の『今川了俊書札礼(11)』です。

一散しかきの事。女房の文ノ外ハあるへからす候。公家様の上らうの家より下紙もとへ内し等にかゝれ候事も候也。夫は以外無礼にて候。散し書ハ。けさやう文より事おこり候と云々。其三二一ヽヽヽと文字をくはりてかき候なり。尋常の女房の文を散してかくにハ。三二一とまてハ不書候。たとへは、

         まいりとふらひて
    御いふせ   そのゝちなに事か
      さも     おハしまし
     申うけわたらせ   さふらふ
       ゆかしく
        こそおほえ
    たまハりさせおハして候へ
     さふらふ
      へく候
       あなかしこd
如此面はかりに書常の事也。又おほく書ちらす時ハ。うらへ返ても書也。それハ。只ひた散しに書候て行也。
(中略)
一、女房のふミをしたゝめ候事。…又同程の人にて候へは。女房の許へ男のつかハし候ふミ敬て書候。能々散し書候事に候。又たゝ引そろへて書候事も候。何もくるしからす候。尤父か申散し書候ハ。けさう文に候てわろく候よし申候へ共。公家のやうを見候へは。多分散し書にて候。詞けさうふミにて書事悪く候へは。文字ハ散し書も無子細候。詞をは男のふミに直々と男の詞にて可書候。…

 以上から知り得る重要な点は、
 @散らし書きは女性宛てに限って使うこと、
 A散らし書きは同程度(またはそれ以下)の女性に対して用いるべきもので、目上には使わないこと、
 B男が書く手紙は、散らし書きにしても、男言葉で書くべきこと、
 C通常の女性宛ての場合は、「懸想文」ほど散らして書かないこと、
 D散らし書きは「懸想文」に由来すること、
などです。いずれにしても、中世においては、男性が同輩以下の女性に対して散らし書きの手紙を書く場合があったわけです。ただし、文面は女言葉ではなく、男言葉で書くのが普通でした。

■女文章教訓鑑(女消息華文庫)


 これに対して近世の女性書札礼ではどうなっていたのでしょうか。その一例として、元文六年(一七四一)刊『女消息華文庫』頭書「女文章教訓鑑」を見てみましょう
(補注3)。これは、江戸中期の女性書札礼としてよくまとまったもので、全一六カ条中に散らし書きに関する心得を多く含んでいます(12)

一、惣じて文はよめやすくして、字性を正しく書べし。時粧は、文のさまいろdに書ちらし葉手にかくゆへ、よめかね、肝要の用事とゝのはず。文の用は山川万里をへだつといへども、互に言葉をかはして用事をとゝのゆるに同じき徳ある故に重宝とす。然るに、海山をへだてたる方へなどの文せつかく書つかはすとも、よめずして肝要の用事とゝのはず、不礼なる事なり。よくよめる様に書べし。是第一の肝要なり。(第一条)

一、ちらし書もしほらしき物なり。たとひ散し書とも約やかに書べし。遊女の文つらのごとく無性に前後のわかちなく書ちらせば、文のつゞきしれずしてあしゝ。(第三条)
一、幼なき方への文は、なる程文字正しくよく読やすきやうに書べし。みだりにもようよく書んとて、わけもなく書たるは幼なき身にては得よみわかぬものなり。随分かなにて、よくよめやすきやうにつぶdと書遣すべし。(第四条)
一、一家一門、又は他国にても男の方へ遣す文、ちらし書は無用にすべし。文躰はきつと、ざつと書べし。細にはいらぬ事なり。…(第一二条)
一、祝言の文は紙一重に書べし。立文・横文いづれもちらし書なるべし。…(第一三条)

 このように、「女文章教訓鑑」は多方面での注意が行き届いており、例えば先の@に相当する第一二条にはさらに男性宛ての文面の心得にも言及していますし、「女文章教訓鑑」の第一・三・四条は「散らし過ぎ」への警告という点で先のCと共通しますが、相手への用件伝達を第一義的に強調しており、説明も丁寧です。さらに『今川了俊書札礼』と「女文章教訓鑑」との違いは、前者では散らし書きを同輩以下に限定するのに対して後者では限定せず、また、後者では祝言の手紙は散らし書きにすべきことを説く点です。もちろん両者の時代差は極めて大きいですから単純な比較は禁物ですが、少なくとも「女文章教訓鑑」は用件重視の傾向が濃厚であり、女性書札礼の庶民化がかなり進んだ江戸中期の特色をよく示しています。

 他の女性書札礼も含めて考えると、近世では「散らし書き」は一般に女性同士、しかも特に親近感のある相手への手紙や祝儀状などに用いられた書法と言うことができます。遊女以外の一般女性から男性宛ての手紙に散らし書きを用いてはならないとされ、当然ながら男子の散らし書きも不適当とされました。また、女児宛ては言うまでもなく、たとえ婦人宛ての手紙であっても、行き過ぎた散らし書きは認められませんでした。
 当時の女性書札礼にしばしば「散らし過ぎ」への注意が含まれているのは、世間には派手な散らし書きを好む女性が少なくなかったからでしょう。そんな風潮を助長したと思われる長谷川妙躰の書札礼(13)に、

おさなきかたへのふみはなるほど文字まつたくよくよみわくるやうにかくべし。みだりにもやうよくかゝんとて、わけもなくちらし字まじりにかけらせて書たるは、おさなき身にてはえよみわけぬ也。ずいぶんかなにてよみやすきやうにつぶdとかくべし。


とあるのは意外ですが、散らし書きは相手の身分や年齢などを考慮して適切に用いることが求められたのです。


■女筆続指南集の散らし書き(左)と女筆指南集の並べ書き(四行で一丁分)

 妙躰の手本といえば、何でも散らし書きのように思われるかもしれませんが、実はそうではありません。例えば、『女筆指南集』『女筆続指南集』『女筆続後指南集』という一連の作品があり、これらは書籍広告
(14)

女筆指南集 全部三冊 女中幼年手習始より。文章品々。

同続指南集 全部三冊 中年より以上。文章品々。
同続後指南集 全部三冊 近日出来(15)。中年より以上。三段ちらし書。

紹介されています。『指南集』は完本が現存しないため中巻は未見ですが、上・下巻について言えば、ほとんどが半丁に大字二〜五行の並べ書きになっており、文字通り幼年向きの手本です。また、中年以上を対象とする『女筆続指南集』は、上・中巻の全部と下巻の大半が一段散らしで、下巻中二通が三段散らしになっています。さらに、『女筆続後指南集』は現存しない(あるいは未刊か)ので、この広告文から推すと、そのほとんどが三段散らしであったと思われます。この例からしても、妙躰は幼児や初心者には並べ書きを、中級以上は散らし書きを使い、さらに上級者には複雑な散らし書きを学ばせるという理念を持っていたことが分かります。複雑な散らし書きを美しく書くためにはそれなりの修練が必要であり、逆に言えば、散らし書きは書道の習熟レベルを示す目安と考えてよいでしょう。
 なお、女筆手本の基本的要件に「散らし書き」をあげる考え方もありますが(16)、全面的にこれを支持するわけにはいかないと思います。実際に女筆手本の多くは「散らし書き」で書かれていますが、女筆手本には「散らし書き」と「並べ書き」の双方を含むものもありますし、逆に「並べ書き」だけで綴られたものも存在するからです。つまり、「散らし書き」は女筆手本類に多く見られる書法であって、女筆手本類の絶対条件ではないのです。
 ところで、高尾一彦氏は「女筆手本をめぐる諸問題」でこれら女筆手本の芸術性について触れ、その民衆文化史的意義として次の三点を指摘しています(17)
 @いわば版本の「書」である女筆手本の大量生産による一般民衆の文化的享受の可能性の増大
 A庶民女性の「書」の美的世界への接近、また美的情緒の理解の深まり
 B芸術的な「書」の創造への契機
 そして、これらの点から氏は「女筆は十分に女性文化向上の重要な指標のひとつ」と説明しています。
 確かに、散らし書きは、文字と空間の織りなす芸術性を重視した書法です。散らし書きの女文は、言葉遣いなど文面の美しさはもとより、文字そのもの美しさや字配りといった空間的・視覚的な美しさを伴うものです。言い換えれば、女筆手本は単に手跡稽古、また語句や表現の習得のためばかりでなく、芸術性を養うための手本でした。
 また、どちらかといえば「並べ書き」が用件中心で味気ないのに対して、「散らし書き」は特別な感情を伴うものだったことが指摘できましょう。強い親近感や心からの祝意を示す場合には「散らし書き」が用いられたのに対して、距離を置くべき相手への用件本意の手紙には「並べ書き」が用いられたようです。一般に女性が男性宛ての手紙に「散らし書き」を使うべきでないとされた理由もこの辺にあったと考えられます。