往来物豆知識(柱)

*本項は、主に石川松太郎著「往来物の成立と展開」(雄松堂)に拠ってまとめました。

白石正邦(?〜1943) 
 東京帝国大学で史学を学び、学習院教授より東京府立第五高等女学校長を務める。日本教育史研究の草分けの一人で、往来物と石門心学に顕著な業績を遺した。雑誌「教育学術界」11巻6号所収の論文「中世期以降本邦に於て最も広く採用せられたる教材」で、早くも8種の古往来を紹介。また、大正7年刊「教育大辞書」の「往来物」項で、往来物を「中世期以後、本邦に於て最も広く行はれたる教材の名称なり」と規定し、主に近世の往来物を念頭に置いて、「表題に必ず往来の二字を有し、児童教育の目的を以て、作為せしもの」を狭義の往来物、また、これに「表題に往来の二字を有せざるも、著作者が殊に児童教育の目的を以て述作せる者」を加えたものを広義の往来物としたが、このような考え方は後続の岡村金太郎らに受け継がれた。また、同項において、成立(刊行)年代別に往来物を概観し、その普及状況の把握に努めたり、「手簡属」以下6分類の往来物類型化を試みるなど、往来物の基本的視座を提供した。白石氏の旧蔵書は散逸したか(未詳)。

岡村金太郎
(1867〜1935) 
 帝国大学理科大学植物学科を卒業(専門は海藻学)後、同大学院において研鑽を重ね、まもなく水産伝習所教師、第四高等中学校(後の旧制四高)教授となり、さらに理学博士の学位を授与された後、水産講習所講師・同所長・同名誉教授を経て、日本水産学会長となったが、その直後に病死した(享年69)。岡村は往来物を手紙模範文・模型文やその類書に限定することなく、「千字文」「三字経」「実語教」、さらに明治期の「小学読本」「単語篇」等に至るまでを往来物と位置付けた。明治期の小学校用教科書の全てを含める点は不適当だが、初歩教材・教科書を広義に考え、これらの往来物の特徴を編集方法や内容から「理学的」に究明しようとした試みは評価されねばならない。その成果が大正11年に「往来物分類目録」に集約され(大正14年補訂再版)、大正12年の「徳川時代庶民教育の教科書たる往来物に就きて」(啓明会第9回講演集)では往来物発展の系譜と教育史上の意義が詳述されている。なお、岡村の旧蔵書は現在、東京大学総合図書館に保管されており、その全てがマイクロフィルム化されている(マイクロフィルム用の小冊子の目録のほかに、さらに石川松太郎氏の詳細な解説を加えた「往来物の成立と展開」も刊行されている)。

平泉 澄(1895〜1984) 
 若くして東京帝国大学国文学部国史学科教授となり、大正15年「中世に於ける社寺と社会との関係」の中で、古往来が中世教育史上に果たした役割・意義について述べた。明治期に白石が8種の古往来を、さらに大正期に上田万年・橋本進吉が「古本節用集の研究」で17種の古往来を紹介しているのに対し、平泉は同著において29種もの古往来を学会に報告し、諸本の作者・成立年代・内容等に関して綿密な考証をした。平泉の旧蔵書は、一部、国立国会図書館に架蔵されている模様だが、多くは散逸したと思われる(未詳)。

乙竹岩造(1875〜1953) 
 新種の往来物の発見や考証では著しい業績を遺していないが、数多くの往来物を検討することにより、古代から中世・近世を経て近代初頭に至る往来物発展の究明に努めた。昭和4年刊の大著「日本庶民教育史」および昭和11・12年刊「日本教育史の研究」にその成果が収められている。なお、乙竹の旧蔵書は戦災で多くが失われたらしいが、その後蒐集した往来物やペン書き写本を含め、現在、筑波大学図書館に保管されており、その全容は「乙竹文庫目録」によって窺い知ることができる(ただし、図書番号の変更や往来物分類上の問題も少なくなく、より精度の高い目録が求められる)。

高橋俊乗(1892〜1948) 
 特に古代・中世史の実証的研究に優れ、「明衡往来」「庭訓往来」等の古往来の作者・撰作年代・編集方法・内容等について大きな業績を遺した。その研究成果は昭和8年刊「日本教育文化史」や昭和18年刊「近世学校教育の源流」に収録されている。なお、高橋の旧蔵書は大半が散逸したが、「春秋往来」「年中往来」など稀覯書のいくつかが謙堂文庫に収められている。

石川 謙(1891〜1969) 
 大正末期より往来物蒐集を始めたが、本格的な取り組みは昭和10年代後半からであった。空襲の最中で研究活動が続けられ、戦後、昭和24年に「古往来についての研究」を発表。本書において、石川が新たに発見した10数種を含む合計40種の古往来について吟味し、教育史的視点から古往来の類型史的発展の系譜を明らかにした。往来物研究の成果は昭和43年〜52年の「日本教科書大系・往来編」17巻に凝縮されており、特にその後発見されたものを含め50種に及ぶ古往来が紹介されている。石川謙の往来物蒐集は、さらに石川松太郎氏に受け継がれ、親子二代、75年にわたって続けられており、日本最高のコレクションとなっている。その蔵書は全て謙堂文庫(石川松太郎氏宅の私設図書館)に収められており、貴重書のほとんどが「往来物大系」「稀覯往来物集成」「江戸時代女性文庫」等に影印収録されているほか、女子用往来の多くがマイクロフィルム化されている。また、石川松太郎氏の、詳細な解題を付した「往来物分類目録並に解題」(現在、第1・2集「古往来」、第3集「教訓科(実語教型)」まで刊行)も続刊中である(非売品)。
 
 以上の先人の研究業績を踏まえて、この数年間で、往来物に関する数多くの研究がなされてきています。しかしながら、往来物分類や発達史というマクロ的分析も、往来物諸本のミクロ的分析においても、究明すべき課題は山積しています。往来物という山全体を覆う霧が払いのけられて、幽かに稜線が見えてきたに過ぎません。その意味でも、一刻も早く「往来物解題」と「往来物総目録」完成させなくてはならないと考えています。