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1.はじめに駅や歴史などの紹介
_立川市の情報をホームページに書き始めたころには、立川の記述が少なかったのですが、最近、立川市の多くの皆様がホームページを開いて情報を書いていますので、このページも皆様の発進する情報と、出来るだけ重複しないように書き直しました。
_始めは、立川駅から紹介します。立川駅は明治22年(1889)に開業し、昭和57年(1982)に駅ビルが出来ました。立川駅前には、高島屋、伊勢丹、丸井など、デパートが8店もありますが、この駅ビルは、全国で一番盛況な駅ビルで、立川駅は大都会の駅の様相になり、朝早くから夜遅くまでにぎわっています。
_また、立川の駅が昔の駅の頃、若山牧水先生が立ち寄って和歌を残していますが、その歌碑の写真を紹介しました。
_そして、立川の新しい再開発地区の様子を紹介するためには、ファーレ立川の記述を外すわけにはいきませんが、別に詳しいホームページがありますので、写真は2枚にしました。作品は、「名もない花」と「山」です。
_別に立川市の略史のページを作りました。また、略史とは別に、立川が東京都に編入されるまでの経緯について、ページを作りました。立川市は昔は、韮山県に入っていたとか武蔵県構想があったとか、面白い経緯なので紹介しました。
2.立川の旧跡などの紹介
_この農家は、江戸時代後期に裕福であった農家の状態を保存するもので、大きな土間があり、その回りに6部屋を持つ作りで、このあたりの暮らしが豊かであったことを示す貴重なものです。
_東京の西部には、信州の諏訪大社から勧請された諏訪神社が沢山あります。立川駅の南側にある立派な諏訪大社は、建御名方命をお祭りする神社で、弘仁2年(811)からの長い歴史があり、1670年に火災にあって再建されるまでは、現在の位置から100mほど北にありました。例大祭は8月で伝統のある獅子舞が奉納されます。写真は、最近の火災で再建中の諏訪大社の写真です。
_諏訪神社の新しい本殿は、まもなく再建されます。
_諏訪神社のすぐ南に、文化財として保存されてある中島家の門があります。
_この中島家の門は、もと代官の家にあった門を、柴崎村の名主であった中島家で譲り受けたもので、中島家15代の当主であった中島舜司先生は、立川市長を長く勤めた方です。
_八幡神社は、誉田別命をお祭りした神社で、中世以降武士が守り神として厚く信仰しました。この八幡神社も鎌倉時代の1252年に立川氏が創建されたと思われる神社で、創建された場所はこの大欅から北へ30mほどの所と言われています。
_欅そのものは、野火や落雷により被災し、現在は中間部より下しかありません。
_八幡宮は、天保12年(1841)に再建され、明治40年諏訪神社の中の現在地に移築されています。
_普済寺は、最近火災で焼失した臨済宗の格式の高いお寺で、焼失前には国宝の六面石憧、重要文化財の物外和尚座像などがあった有名なお寺です。現在再建が進んでいます。
_また、この境内には中世の豪族であった立川氏の砦の一部と思われる土塁があり、保存されています。立川氏は北条方でしたので、1590年豊臣秀吉によって八王子城と共に滅んだと言われています。普済寺は立川氏の菩提寺でもあります。
_立川市富士見町にある立川市歴史民族資料館は、立川市に井上家から寄贈された土地に昭和60年に建設されたもので、立川市の歴史や、自然などについての展示が行なわれています。
_普済寺にある国宝の六面石憧のレプリカはここで見ることができます。
_またここには、400年にわたって井上家の土地であったところの土蔵が保存されており、庭も整備されて草木があり、季節の良い時期には散歩に良い場所となっています。現在は年に数回は特別展示会が開催されています。
_立川の南側から北側、五日市街道の北側の川越道緑地に、新しく小林家住宅が保存されました。この住宅は立川市指定の有形文化財で、旧砂川9番(現在は幸町4丁目)にあった、江戸時代末期に当たる1852年に建築された小林家住宅を保存するものです。
_砂川の開発は、1609年から始まりましたが、当初水が少なく、地味の悪いこの地区の開発は非常に困難な事業で、その後玉川上水が完成して明暦3年(1657)に分水が許可されてから、砂川の町が広がりました。阿豆佐味神社は、砂川の開発が始まった 1629年に今の瑞穂町から分けられた神社で、少彦名命をお祭りした天神様