日の丸と福岡


今日、日本の国旗「日の丸」は、幕末の1854年「日本総船印」という限定つきの形からはじまった。
幕末には、多くの欧米各国の船舶が日本にやってきたし、わが国でも洋式船を保有することになったので外国船との区別をはっきりするために国旗の制定がせまられていたのである。
 稲作中心に生活し太陽の恵みに感謝してきた日本人は、古来より皇室の元旦・朝賀の際にも「太陽を形どった旗」を掲げてきた。
 ところで「日の丸」を「日本総船印」として用いるように幕府に強く建議したのは薩摩藩主・島津斉彬で、幕政の実力者であった水戸藩主・徳川斉昭もこれに賛意を示したのである。
  ところで「日の丸」を染める「赤」を染めるための染料と技術をみつけるのが容易ではなかった。
 第8代薩摩藩主・島津重豪は、彼の九男であり福岡52万石の養子となっていた福岡藩・藩主・黒田長溥に相談したところ、福岡藩内で現在の筑穂町に古くから伝わる筑前茜染めを知った。 そこで福岡藩、穂波郡山口村茜屋に家臣をつかわして古くから伝わる茜染めの技術を修得させ「日の丸」を染めさせた。そして福岡藩で染められた「日の丸」が第11代薩摩藩主・島津斉彬を通じて老中阿部正弘に提出され、「日の丸」国旗制定の基となったのである。
そして、日本で最初の洋式軍艦「昇平丸」のマストに、わが国最初の国旗・「日の丸」の旗がひるがえったのである。
 筑前茜染は、野や山に自生する多年生ツル草の、茜草の根を染料とする染め技法で、江戸時代初期、筑穂町茜屋地区の染物師が偶然発見し黒田藩の秘宝として幕末まで守り伝えてきたものであった。
  福岡県・大宰府から筑豊に抜ける米の山峠を車で20分程のぼると「筑前茜染めの碑」がたっている。それは江戸末期、国旗制定の基となった日の丸の旗を我が国ではじめて染め上げた筑前茜染めの偉業を讃えて建立されたものである。 そこには鮮やかな日の丸を染め上げた17代松尾正九郎の墓と、当時、茜染めに使った「さらし石」、それにこの記念碑とを結ぶ遊歩道が整備してあった。
  こうして染められた幕末の国旗制定は、わが国の船がまぎれぬための総船印といういわば消極的なものであったが、明治になって西洋文明との接触がはじまると積極的な意味での国旗が必要になってきた。
そこで1870年太政官布告で新政府は「日の丸」を国旗として正式に認め、日本の近代国家としての出発と帝国主義的傾向が強まり日清・日露戦争へと突入する過程の中で「日の丸」は常に国民統合のシンボルとして国民の前に翻ってきたのである。
 1945年の太平洋戦争の敗戦とともに、「日の丸」がアジアや太平洋への日本軍の侵攻地に翻えったという歴史的事実をふまえ、「日の丸」を軍国主義の象徴であるという観念が広まった。こうした観念の広がりの直接的な契機は、日本の軍国主義解体を至上命令とする連合軍が占領期間中に「日の丸」の掲揚を禁止したからであるが、占領軍が被占領国にむかって国旗の掲揚、使用を禁止制限するのは国際慣例にすぎないのである。
あえて国旗を掲げる行為は、自国の自主独立を主張し、奪われた国家主権への変わらざる忠誠を表明することを意味し、これはとりも直さず占領政策に反抗するものとうけとられるからである。
しかし1946年に制定の新憲法・日本国憲法では、「日の丸」が国旗であるということは、明記されておらず「日の丸」には法的な根拠がないという主張がなされ、社会党を中心とした野党は、「日の丸」掲揚を日本の軍国主義の復活とみなし政府を攻撃した。
 戦後の様々な式典などで、「日の丸」への敬意があたかも政治的立場の踏み絵であるかのごとく様相を呈し、学校教育の中での扱いは混乱を呈した。ところが1994年、「日の丸」反対の中心的な役割を果たしてきた社会党が保守勢力の自民党と連立政権を担うや従来の基本政策を放棄し、その結果1999年の国会で国旗・国歌法が制定され、国旗としての「日の丸」に法的な根拠が与えられたのである。
  ところで江戸末期に国旗制定の基となった福岡県筑穂町の「筑前茜染め」の技術は失われてしまったが、最近の新聞よるとに福岡県・飯塚市の茜色商工会青年部や婦人部らが中心となってこの技術を復活させようと挑戦し、見事に茜染めの伝統技術を復活させることに成功した。長い間すたれていた技法の復活によって、町では「茜染め保存会」を中心に、茜染めのハンカチ、ネクタイなどの特産品の開発に取り組んでいるという。