フュージョンとウェザーリポート





    目次

    ■フュージョンってなんだろう
    ■70年代フュージョンはいつはじまったか?
     (『Bitches Brew』はフュージョンの原点ではない?)
    ■では、『Bitches Brew』とは何だったのか?
    ■72年以後のフュージョンの変化
    ■では、ショーターは?
    ■フュージョンにとってウェザーリポートとは
    ■マイルス・バンドとウェザーリポートの差
    ■フュージョンの主流とウェザーリポート
    ■ウェザーリポートとプログレッシブ・ロック





■フュージョンってなんだろう

 フュージョンというのも、なかなか定義しにくい言葉だと思う。いろんな人が複数の意味で使っているのがその理由ではないかと思う。
 例えば、本来の意味としてのフュージョンと、実際に流行した音楽としてのフュージョンというのがだいぶ違い、結果、ウェザーリポートに対しても、「ウェザーリポートはフュージョン最大のグループである」という意見と「ウェザーリポートはフュージョンではなく、ジャズである」という意見が両方あり、それぞれに意味があったりする。
 ちょっと整理して考えてみよう。

 「Fusion」という言葉の意味は「融合する」とか「混ぜ合わさる」といった意味で、もともとフュージョンとはジャズとロック、ファンクなどの音楽を融合させた、それぞれのいい部分を組み合わせた音楽という意味だと思う。
 そもそも他のポピュラー音楽に対するジャズの独自性とは、演奏者の即興演奏による真剣勝負の音楽という所にある。一発かぎりのやり直しのきかない状況で、各演奏者が力の限りインプロヴィゼーションを展開するという所にジャズの醍醐味がある。
 とはいえ、即興演奏性ばかりを重視して編曲性を極小まで抑えていくと、各曲のサウンドが単調になりやすい。また、あまりに各演奏者の演奏の質が高いと、聴くほうにも真剣勝負が強いられ、気軽に聴けなくなってくるという難点もある。
 そこでジャズに他のポピュラー音楽の要素を導入して、これを克服しようというのが、フュージョンというジャンルの基本的な考え方だと思われる。
 つまり楽器はジャズで使ってきた楽器と、ロック・ファンクで使われている電気楽器の両方を使い、ジャズの即興演奏の真剣勝負の緊張感と、ロックやファンクのノリのいいビート、編曲性などを融合させて、ロックやファンクのノリをもち、色彩豊かに編曲され、しかもジャズのいい部分は失っていない音楽を作り出そうとするのが、いわばジャズの側から見たときのフュージョンという音楽の理想であったのではないかと思う。これが普通に考えると、本来の意味としてのフュージョンが目指した音楽だと思う。
 しかし理想と現実というのはなかなか一致しないというのが世の常で、結果として70年代後半にブームを迎えたフュージョンという音楽の主流は、そのような考えとは別のところから流れてきたタイプの音楽だったのではないかと思う。
 では、それはどこから来たどのような音楽なのか。その起源から見てみる。



■70年代フュージョンはいつはじまったか?
 (『Bitches Brew』はフュージョンの原点ではない?)

 フュージョンはいつはじまったか。
 まず指摘しておきたいことは、現在でもまだ一部のジャズ評論家がそう主張しているようだが、マイルス・デイヴィスの『Bitches Brew』(69) はそう単純にフュージョンの原点とは決していえないことだ。確かにフュージョンの一部には『Bitches Brew』の影響を受けた流れはあると思う。が、それは決して主流ではなく、72年頃には雲散霧消してしまい、さほど成功しなかった流れといえる。もし『Bitches Brew』に意義があるとしたら、それはむしろフュージョンの主流からは外れた作品であるという点にあると思う。
 これは別に新しい説ではない。中山康樹氏の『マイルスを聴け!』でだってそう指摘されているし、普通にフュージョンと『Bitches Brew』を聴き比べればそう思うほうが自然なはずであり、むしろ一部のジャズ評論家が無理矢理『Bitches Brew』をフュージョンの原点だという誤った説を強弁し続けてきたというべきだろう。

 ではフュージョンの原点とはどこか。
 たぶん大きく二つの源流があると思う。一つはウェス・モンゴメリーの『A Day in My Life』に代表とされる一連の作品だろう。これらはプロデューサーのクリード・テイラーが中心となって、ジャズ系のソロ奏者と、白人にも受け入れられやすい編曲とを融合させたタイプの音楽で、イージー・リスニングなどとも呼ばれる。
 もう一つは60年代から広まっていったソウル・ジャズというジャンルだろう。ソウル・R&B色、ポップ色を強めたタイプのジャズで、電気楽器やロックの8ビート、ファンキーなリズムも積極的にジャズへ導入していった。こちらは黒人ミュージシャンの間から自然に発生してきた、主に黒人の聴衆を対象とした音楽である。
 ともにジャズをより耳ざわりがよい、あるいはノリのいい、ポップな音楽へと変えていこうとする流れだが、方や白人の聴衆を想定し、方や黒人の聴衆を想定していたところに差があった。
 ところで50年代からソウル・シンガーのサム・クックは黒人音楽を白人にも抵抗なく受け入れられるように試みを始めており、そのサム・クック自身は64年に射殺によって夭折してしまうが、60年代後半には彼の試みは実を結び、モータウンからオーティス・レディングまで、つまり泥くさい南部のソウル・ミュージックまでが白人の聴衆に自然に受け入れられるような時代になっていく。そもそも50年代末から急速に広まっていくロックも、あきらかに黒人音楽の要素が強い音楽である。
 このあたりでクリード・テイラーとソウル・ジャズの目指しているものが融合していったと見るべきだろう。つまり、白人が黒人の音楽を聴く時代になったために、白人向けのポップ路線のジャズと黒人向けのポップ路線のジャズが、同じようなものを目指すようになっていったのだ。
 そして70年代に入るとスタジオの録音技術の進歩を背景に、ソウルが洗練されていく傾向を見せる。スティーヴィー・ワンダー、マーヴィン・ゲイ、カーティス・メイフィールド、ボビー・ウォーマックといった自分でプロデュースもこなすソウル・シンガーがこの時代を代表し、さらになめらかに洗練されたフィリー・ソウルのブームへとつながっていく。
 このような時代を背景として、なめらかに洗練されて耳ざわりのよくなったソウル・ジャズ、時代の嗜好の変化に対応して黒人音楽の要素をより強くとりいれたイージー・リスニングの後身が、おそらく70年代後半にブームを迎えるフュージョンの主流だろう。
 典型的なミュージシャンとしては例えばジョージ・ベンソンが上げられる。彼はもともとソウル・ジャズの代表というべきオルガン奏者、ブラザー・ジャック・マクダフのバンドで名を上げたコテコテのソウル・ジャズの人だが、ウェス・モンゴメリーが若くして亡くなると、その後任としてクリード・テイラーにピックアップされてアルバム作りを行うようになり、特に『Breezin'』(76) が大ヒットし、フュージョンの名盤と呼ばれる。
 このあたり、ソウル・ジャズ、フュージョン、クリード・テイラーのイージー・リスニング・ジャズはシームレスにつながっているのが感じられる。が、『Bitches Brew』はこの流れからは外れるだろう。
 では、『Bitches Brew』とは何だったのかを次に見ていこう。



■では、『Bitches Brew』とは何だったのか?

 マイルスの『Bitches Brew』以後の音楽は、どのようなものだったのだろうか。
 まずわかることは、マイルスの他の時代のスタイルと同様、これは必ずしも独創的ではなく、既にあったいくつかの要素をもってきて総合し、調和を図ったサウンドであるという点である。この点ではマイルスのいつものやり方と変わらない。
 ではマイルスがここで持ってきた要素とは何だったのか。まず、ファンクやロックの要素、電気楽器やビートという点がいえるだろう。そして編曲・構成的要素。これは主にザヴィヌルが担ったと思われる。
 さて、ここまでならフュージョンの他の源流とさほど変わりはない。ファンクやロックの要素はソウル・ジャズ系のミュージシャンによって既に導入されていたし、編曲・構成的要素はクリード・テイラーがこれまでにも導入してきたものだった。電気楽器も同様である。
 しかし『Bitches Brew』が他と違っていたのは、ここにフリージャズからの影響も導入した点だと思う。
 例えばリズム。『Bitches Brew』のリズムは多くの人が指摘するように、ジェイムズ・ブラウンやスライ・ストーンのファンクから多くの影響を受けている。が、単にノリのいいファンクにはなってなく、ポリリズムの要素が見られる。そしてこれ以前に積極的にポリリズムを取り入れていたのは、当然オーネット・コールマンということになるだろう。
 そしてマイルスは『Bitches Brew』の頃から(とくにライヴで)トランペットの演奏法を大きく変え、メロディを歌うというよりは、音そのものをぶつけていくような絶叫的な演奏をするようになる。そしてソロ自体が長くなり、曲そのものもどんどん長くなっていく。
 このような非音楽的な絶叫的な演奏で、ソロも曲も長くなっていくという傾向は、あきらかにジョン・コルトレーンの晩年のフリー時代の演奏を連想させる。
 もちろんマイルスが導入したのはフリージャズそのものではなく、いわばフリージャズがこれまで開発してきたうちのある要素だけだが、このフリージャズ的要素と電気楽器というのが、フュージョンに対しての『Bitches Brew』の特性だといっていいだろう。

 では、このフリージャズ的要素と電気楽器、ロック・ファンクのビートという組み合わせは、『Bitches Brew』独自の特性だったのだろうか。
 どうもそうでもなかったような気がする。例えばこの時代にはロックの分野からのフリージャズへのアプローチがあったことは上げるべきだろうし、その中にはフリージャズ的なものを指向した試みもあった。ちょっと思いつくかぎりではソフトマシーンとキングクリムゾンがある。
 例えばその内ソフトマシーンを見てみると、LP2枚組で各面が一曲づつという『Third』が70年の1月に録音されている。『Bitches Brew』が録音が69年、リリースが70年であることを考えれば(何月のリリースだったかはわからないが)、このアルバムが『Bitches Brew』の影響だとは考えにくい。
 このようなタイプの音楽は、当時の「時代の音」だったような気がする。しかしマイルス・バンドほど大規模に、豪華なミュージシャンを多数使って行った例は他にないように思う。やはり『Bitches Brew』で特筆すべきはマイルスの統合力であり、試み自体の新しさというよりは、その試みを多くの有能なミュージシャンを使って大規模になしとげる力のような気がする。

 さて、このようなサウンドが一世を風靡した時代は、70年前後に確かにあったように思うが、このようなサウンドはそれほど長いあいだ時代の音であったわけでもないとも思う。70年代も初頭を過ぎると、フリージャズとか過激な表現とかいったものが急速に時代遅れになってくる。
 その一応の区切りとして、72年という年が規定できるだろう。つまりチック・コリアの『Return to Forever』がリリースされた年だ。私観では『Return to Forever』は『Bitches Brew』の次の時代の感覚を代表する作品だと思う。つまり『Return to Forever』の登場によって『Bitches Brew』的なものは時代遅れになってしまったといえる。



■72年以後のフュージョンの変化

 1972年のチック・コリアの『Return to Forever』を起点として、エレクトリック・ジャズの世界は大きく様変わりしていく。耳ざわりのいいリズムとメロディ、心地よさを求めた音楽、70年代半ばから後半へ続く本格的なフュージョン時代の始まりだ。ジャズが軟弱化したとして、この変化自体を批判する向きもあるようだが、この変化は当時の社会全体の気分の変化とも対応していて、好むと好まざるとにかかわらず必然的なものだったのだと思う。
 クリード・テイラー、ソウル・ジャズの融合から生まれたフュージョンの主流が台頭してくるのも、この時代の空気の中だろう。
 いっぽう60年代、あるいはそれ以前からジャズをやってきたミュージシャンはどうだったか。この変化に適応した者とできなかった者とがいると思う。
 たとえばチック・コリアやハンコック、フレディ・ハバードらは適応した。しかしマイルスは適応できず、70年前後にやっていたスタイルの音楽を結局75年の一時引退まで続けることになる。
 一方、フリージャズに目を向ければ、アーチー・シェップやファラオ・サンダースら、コルトレーンの周辺にいたミュージシャンたちは適応したとは思えない。が、オーネット・コールマンは『Dancing in Your Head』(75) で、むしろ生き生きと波に乗ってくるし、チャーリー・ヘイデンやドン・チェリーなどオーネット周辺から出てきた人たちも、方向性に迷った印象がない。
 この違いはどこからきたのだろうか。

 72年までとそれ以後との差とは、思いきり単純化していってしまえば、音楽に過剰な「意味」を求める姿勢が時代遅れになり、音楽に「心地よさ」や「気持ちよさ」を求めるようになったという変化だろう。
 例えば60年代に一世を風靡した後期コルトレーンの音楽の特徴は、ある種の宗教的情熱のようなものに駆り立てられて、ある意味禁欲的に、精神性の高みを目指して、無理をしてでも突き進んでいく姿勢にあった。このような姿勢が典型的な「意味」を求める姿勢であり、こういったものが72年以後時代遅れになっていったのだと思う。(もちろんこれは単に時代に合わなくなったというだけのことで、内容的に劣っているといっているわけではない)
 コルトレーンがコードの枠組みを破ってモードに、そしてついにはフリーへと突入していったのは、あらゆる枠組みを破って前進を続けなければならないという宗教的観念ゆえである。しかしオーネット・コールマンがフリージャズを始めたのは、西洋音楽に基づく調性というのがオーネットにとっては気持ちが悪いもので、それを無視したフリーが気持ち良かったからである。コルトレーンがオーネットの『Free Jazz』(60) の影響を受けて『Ascension』(65) を作ったのは、さらに前進を続けようとするがための実験だったが、オーネットはといえば『Free Jazz』のような演奏スタイルが好きだったからそうしたのだ。過激で前衛的と呼ばれたフリージャズだが、オーネット本人はとくに過激であろうとしているとは思えない。どんなに他のミュージシャンがオーネットのスタイルに「意味」を見たとしても、オーネット自身は好きな音楽を追求した結果がああなったというだけだろう。
 そのような自分の好きな音楽を追求していく精神は、当然72年以後の「心地よさ」や「気持ちよさ」を求める時代風潮とも適応する。だからこそオーネットは72年以後の音楽的風土にも適応できるのだ。
 マイルスについても同じことがいえるだろう。マイルスが『ビッチェズ・ブリュー』でファンクやポリリズムを取り入れたのはそれが最新のリズムだったからであり、『ビッチェズ・ブリュー』は新しい楽器や新しいリズムを導入して新しい音楽を切り開く実験であり、マイルスは多少無視をしてでも時代の新しい感性を切り開いていこうと前進していたのだ。
 しかし、ハンコックがファンクを取り入れたのは、ファンクのリズムが気持ちよくて仕方がなかったからだろうし、オーネットがポリリズムをずっと続けているのは、それが気持ちいいからだ。しかしマイルスはそう単純にはファンクやポリリズムを楽しめてはいない。
 結局音楽に意味を求めたマイルスは時代遅れになり、ハンコックは新時代に適応するわけだ。



■では、ショーターは?

 では、ショーターという人はどうなのだろうか。音楽に意味を求める人なのだろうか、それとも自分が好きな、気持ちがいい音楽を追求している人なのか。
 結果をいえば、ショーターはコルトレーンやマイルスのすぐそばにいながら彼らとは逆に、これはもう典型的な好きな音楽だけを追求してきた人だといえる。
 そのコルトレーンが『至高の愛』を求めて突き進んでいた64年にショーターが作り上げたのは『Night Dreamer』や『Speak No Evil』であり、つまり「世界最終戦争」やら「魔女狩り」やら「黒ナイル」「大洪水」「翡翠の家」といった曲だ。これはショーターの趣味の世界であり、シューターが好きな世界を築き上げていたのだ。
 この時期のショーターとコルトレーンは音楽スタイル的には互いに影響しあっているし、リズム・セクションを共有するなど様々な共通的があるが、音楽を生み出す精神の部分ではかなり違う。つまりショーターの創作態度ははじめから自分の好きな音楽を作るという点で一貫している。
 これは『Bitches Brew』と『Super Nova』の関係でもいえる。
 『Bitches Brew』が60年代末の青臭い、過激・混沌・前衛指向に「意味」を求めた音楽であるのに対し、『Super Nova』は(例え当時これを聴いた人間がどんな感想をもったにせよ、ショーターとしては)あくまで自分が好きな音楽、居心地がいい世界を目指した音楽だ。『Bitches Brew』を聴いた場合、たぶん「スゴい」と思うのが正しい反応だろう。『Bitches Brew』や『Agharta』『Pangaea』等はマイルスが凄いと思わせようと創り出したサウンドである。
 しかし『Super Nova』は「スゴい」と思わせようとして作った音楽ではない。心地良い、この世界に浸っていたい……と思うようでなければ『Super Nova』を味わったことにはならない音楽だ。
 また、『Super Nova』の世界の中心になっているのは、SF的なイメージによるスペース・ミュージック、そしてブラジル音楽……という2つの要素だが、この2要素とも70年代半ば以後に流行していく点も見逃せない。
 『Super Nova』は70年代的感性のある部分を先取りしていた面のある作品といえそうだ。

 ショーターのこのような創作態度が70年代のフュージョン時代にも適応できた理由だと思う。
 しかし一方、適応はできるが主流にはならない人……ということもできそうだ。
 つまり、ショーターはソウル・ジャズ的な流れから出てきた人ではなく、そのような指向をもっていない。また、イージー・リスニング・ジャズの指向も持ち合わせていない。つまり、70年代フュージョンの主流とは違う指向性をもつミュージシャンだといえるだろう。
 


■フュージョンにとってウェザーリポートとは

 さて、ウェザーリポートとはどういうグループだったか、ここでもういちど見てみよう。

 いままで見てきたように、ショーターという人は70年代のシーンに適応できる資質をもったミュージシャンだったが、70年代フュージョンの主流からは外れた指向性を持つミュージシャンだった。
 ではザヴィヌルはどうか?
 ザヴィヌルという人は、おそらくこれ以上ないほどに70年代フュージョンの主流に適応した人である。つまり、ザヴィヌルはもともとオーストリア生まれの白人であり、幼少期よりクラシック系の音楽教育を受けて育ち、編曲者としての腕も持つ。つまり、クリード・テイラーがやったような白人にも受ける編曲性の強いジャズは、やろうとおもえばいつでもできる人である。と同時に、アメリカに渡ってきてからのザヴィヌルは、ダイナ・ワシントンのバンドや、キャノンボール・アダレイのバンドなど、R&B性の強い、ソウル・ジャズの流れの中で活躍してきた人である。もともとジャズ指向というよりは、もっと広い意味での黒人音楽指向の強い人である。
 つまり、ウェザーリポートというグループは、72年以後のフュージョンの主流そのものの感性を持つザヴィヌルと、72年以後のシーンに適応する資質は持ちながらも、主流とはちょっとズレた位置にいるショーターとが中心になっていたグループだったといえる。

 では、ウェザーリポートというグループが目指した音楽とはどんな音楽だったのだろうか。
 まず、集団即興というコンセプト、そして即興演奏と編曲性の融合を目指したという点もあげられる。
 この2つを目指したということは重要なことだと思う。
 そもそもモダンジャズの演奏の基本形とは、まずテーマ提示部があり、つぎにそのテーマのコード進行にもとづいて、各演奏者がインプロビゼーションをそれぞれ定められた小節数だけ行い(その間、他の演奏者はそのコード進行にもとづいて伴奏、もしくは演奏せずに立っている)、最後にテーマを再提示して終わる……という形である。編曲されるのはテーマ部分のみ(ヘッドアレンジ)というのが、とりあえず基本形だろう。
 それはそれで完成された形なのだが、そればかりだとだんだん飽きてもくる。そこでされに前進させようという者も出てくる。
 それを変えていく方向としては、主に2つの方向性があると思う。1つはそういった約束ごとをやめてしまおうとする方向だ。つまり「コード(和音)」なんていう白人の西洋音楽から出てきた方法をやめてしまおう……とか、定められた小節数だけ順番にインプロビゼーションを行うことをやめてしまって、約束を決めずに、全員で対話するようにインプロビゼーションを行っていこう……などといった方法で、主にオーネット・コールマンをはじめとするフリージャズがこの方向ですすんでいった。
 もう一つの方向性としては、もっと複雑で多様な編曲を行って変化をつけていこう、単純だった約束ごとをもっと複雑にしていこうとする考え方だ。編曲ジャズから後のフュージョンの一部に展開していくのがこの方向性で、クリード・テイラーのように耳なじみのいい音楽にしようとする者もいれば、編曲によって独自の複雑な音楽世界を描き出していこうとした者もいる。
 一見すればわかる通り、ウェザーリポートはその両方の方向性においてジャズ・フュージョンを前進させようと試み、実現したグループであったことがわかる。しかも70年代を通して実現し続けたという意味では、ほぼ唯一のグループだったのではないだろうか。「ウェザーリポートはフュージョン最大のグループである」という意見が出る理由はここにある。



■マイルス・バンドとウェザーリポートの差

 また、一部の文章に70年代のマイルス・バンドの音楽をわかりやすくしたのがウェザーリポートであると書いているものがある。もちろん間違いである。
 では、ここでよく引き合いに出される70年代のマイルス・バンドとの音楽の差を見比べることで、ウェザーリポートの特徴を見てみよう。

 別項で70年代のマイルス・バンドにはフリージャズの影響が見られると書いたが、それはコルトレーンのような長々とつづく絶叫的演奏やオーネットのようなポリリズムといったものを表面的に真似ているだけである。そのため70年代マイルス・バンドのサウンドは一聴すると強烈なインパクトを与えるものではあるが、構造的な部分では60年代にやっていたことをさほど踏み出していない。相変わらずソロ・インプロヴァイザーが順番に演奏する後ろで他の演奏者は伴奏する(もしくは演奏せずに立っている)という形で演奏しているし、その編曲部分にもウェザーリポートのような「音楽的冒険物語」的な展開があるわけではなく、インパクトのあるサウンドの創造にとどまっている。一見複雑に見えるのはメドレーで演奏された曲をテーマ部分をカットして再編集してあるためであり、混沌として見えるのはわざとそのように見せかけているからだ。
 ではなぜ70年代のマイルスはわざと音楽を複雑で混沌としているように見せかけたのだろうか。
 それはマイルスの青年的な気質にあると思う。
 若い青年の文章を読んでいると、必要以上に晦渋に内容がわかりにくく書いているものがよくある。自分がよく咀嚼していないような学術的タームを並べてみたり、難解で有名な著述家の文章を引用してみたり……。つまり晦渋で難解にすることによって自分を実質以上に大きく見せかけ、文章の内容を高尚に見せかけようとしているのだ。
 マイルスの70年代の音楽にもこのような面があると思う。つまりマイルスという人は死ぬまで青年的な過剰な自己顕示欲を持ちつづけた人だ。これはマイルスのステージ衣装を見るとよくわかる(『Live Around the World』(88-91) のジャケットのマイルスを見てみよう)。つまり、表面的な飾り気を捨てた大人の男のカッコ良さとは無縁であり、最後まで自分を若々しく飾り立てようとしていた。このような青年的気質を持ちつづけたことがある意味マイルスの魅力でもあるわけだが。
 つまり70年代のマイルスは音楽をわざと混沌として複雑な大曲に見せることによって、そのインパクトによって聴衆を圧倒し、自分の音楽をより高尚なアートにみせかけようとしたのだ。
 しかしその実質は先述したとおり、即興演奏の方法、編曲性においてそれほど野心的な試みをしていたわけではなく、基本的に『Bitches Brew』で到達した地点から本質的な前進はできていない。たぶん『Bitches Brew』はマイルスにとって手法的には到達点だったのだろう。それ以後『Agharta』『Pangaea』へ至る道は前進ではなく、『Bitches Brew』の方法を極めていった道すじといえそうだ。そのため構造的な部分では『Bitches Brew』を超える何かは提示されていなく、表面的なインパクトに比べて、底はけっこう浅いのが実状だ。
 一方このような、これみよがしな青くささとは無縁なのがウェザーリポートだったといえる。
 しかしマイルスがそこから前進できなかった『Bitches Brew』はショーターにとってもザヴィヌルにとっても出発点だっただろう。そして集団即興や物語的な編曲性の導入といった試みによって前進し、マイルス・バンドの先へ行ったが、大事なことはウェザーリポートはそれを難解に見せようとはせず、できるだけわかりやすい形で提示しようとしたことだ。とくに70年代半ば以後はわかりやすくする方向性が強くなり、『Heavy Weather』に至ってはわかりやすさばかりで内容が衰えた気さえするが。
 しかし、ポップでわかりやすいものを低く見て、難解で晦渋なものを高尚なアートだと思いこむのは、それこそ青年期特有の青臭い価値観である。
 もちろん、それでも70年代マイルス・バンドだって充分優れたバンドだったと思うし、おそらくマイルスの到達点というべき演奏だったとは思う。しかしそのマイルスの到達点はウェザーリポートにとっては出発点に過ぎず、ウェザーリポートはもっと先を目指して走っていたのである。

  

■フュージョンの主流とウェザーリポート

 さて、ウェザーリポートは即興演奏と編曲性の融合を70年代を通じて実現し、それが「ウェザーリポートはフュージョン最大のグループである」という意見が出る理由であると先述した。
 しかし、そうであるがために、70年代のフュージョンの主流からは外れた位置にポツンといたグループであったともいえる。「ウェザーリポートはフュージョンではない」という意見が出る理由はここにある。
 つまり、70年代のとくに後半、フュージョンの主流はともすれば耳ざわりがよくノリがいい音楽を追求するあまり、ジャズ的な即興演奏の緊張感というものを忘れていく傾向にあった。爽やかで心地よい、極端にいえば歌のないポップソングみたいな方向に流れていった。しかも70年代末になるとリード・ボーカルを入れるのも流行りだし、こうなってくるとジャンルそのもののアイデンティティさえ怪しくなってくる傾向もあった。
 ジャズ好きな人がフュージョンという言葉を軽蔑的に使ったりするのはこのためである。即興演奏の真剣勝負による音楽を聴きたいファンから見れば、ポップ指向で即興演奏性の薄いフュージョンは大衆受け狙いの軟弱な音楽に聴こえるからだ。
 そしてウェザーリポートはフュージョンの主流のそのような傾向に抗して、あくまでジャズ的な緊張感を失わなかったし、さらには『Mr.Gone』など「爽やかで心地よい」音楽が好まれた当時の傾向からはあきらかに反するアルバムを作り出したりしていた。
 これはあきらかにショーターの功績である。
 もしザヴィヌル一人でやっていたとしたら、あるいはザヴィヌルがほんとうにウェザーリポートの実質的リーダーだったとしたら、ウェザーリポートは一般的なフュージョン・バンドの一つという存在にしかならなかった筈である。
 それはほんとうにザヴィヌルがウェザーリポートのリーダーになった、ウェザーリポート末期のアルバム、また、ザヴィヌル・シンジケートのアルバムを聴けばわかる。これはあきらかにフュージョン(主流)である。
 もちろんザヴィヌル一人でもそれなりの商業的成功は得られただろうが、ウェザーリポートのように当時のフュージョン・シーンにあって唯一の特別なグループになることはなかったろう。当時流行ったフュージョン・バンドの一つに埋もれていたかもしれない。
 では、ショーターが当時一人で活動していたらどうだろうか。『Native Dancer』を見ればわかるように、優れた作品は次々に発表していただろう。しかしウェザーリポートのように時代の波に乗って、商業的な成功は得ることはできなかったのではないかと思う。
 やはりショーターとザヴィヌルが組んだところに、ウェザーリポートの内容的充実と商業的成功が両立したのだと思う。
 (ウェザーリポート内の役割分担については別項でくわしく考察する)



■ウェザーリポートとプログレッシブ・ロック

 そしてもう一つ、ウェザーリポートには同時代の音楽として、プログレッシヴ・ロックとも妙に同調性のあるバンドだったと思う。
 フュージョンには爽やかで明るく健康的、ノリのいいポップな音楽が多く、ウェザーリポートにも『Heavy Weather』などいかにもフュージョン的な傾向の作品もあるのだが、一方でたっぷりと毒を含んだダークな雰囲気のアルバムや、物語的なイメージをもったコンセプト性のあるアルバム作り、音響効果なども駆使した視覚的なサウンド作りをしている点が特徴としてあると思う。
 この、ダークな雰囲気や物語的なイメージをもったコンセプトアルバム、音響効果の駆使等といった傾向は、同じ70年代の音楽でもフュージョンよりは、むしろプログレッシヴ・ロックとの共通性をもつカラーだと思う。
 実は個人的に、十代の頃はロックばかり聴いていて、ジャズ、フュージョンは後から聴き始めた人間なのだが、ウェザーリポートのアルバム・ジャケットを眺めて最初に感じたのも、なんとなくプログレっぽい……という印象だった。
 これはあきらかにウェザーリポートの特徴というよりも、ショーターの特徴といってしまったほうがいいだろう。ショーターは60年代のまだプログレが登場する前からこのようなダークな雰囲気のコンセプトアルバムを作っていたのであり、それにプログレのほうが追いついてきた感が強い。
 しかし面白いのはプログレというのはイギリスが本場であり、もう少し広げてもヨーロッパが中心のサブ・ジャンルである。もちろんアメリカにもカンサスやスティックスなどプログレ系と呼ばれるバンドはあるが、聴いてみるとシンフォニックなハード・ロックといった雰囲気で、ダークで危なかしい雰囲気はなく、ショーター=ウェザーリポートとの共通点は見つからない。ショーター=ウェザーリポートと共通する雰囲気をもつのはあくまでヨーロッパのプログレだ。
 そもそも新主流派というのもどこか非アメリカ的でヨーロッパのジャズと通じる感覚があるのだが、ショーターの音楽にはどこか非アメリカ的な部分があるような気がする。そのへんもショーター=ウェザーリポートのユニークな点かもしれない。



03.12.26


『ウェイン・ショーターの部屋』

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